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第111話 現場に置いて帰るもの、部屋へ持って帰るもの

 撮影初日の翌日、しらいさんはプリンを買わなかった。


 昨日の帰り道、松岡遥に言われて買ったコンビニのカスタードプリンは、思っていた以上に効いた。


 甘くて、冷たくて、少し安っぽくて、役の痛みとは何の関係もない味。


 それがよかった。


 岸谷紗季は、きっとあんなふうにプリンを食べない。

 食べたとしても、味をちゃんと感じないかもしれない。


 だから、食べた瞬間に少し戻れた。


 白瀬アカリでも、岸谷紗季でもなく、ただ疲れて甘いものを食べているしらいさんへ。


 でも、毎日プリンを買えばいいという話でもない。


 それも分かっていた。


 合図にも休みが必要。

 褒め言葉にも休みが必要。

 戻る儀式にも、きっと休みが必要。


 毎日プリンを買ったら、プリンは仕事になる。


 だから今日は、買わなかった。


 そのかわり、撮影現場を出る前に、少しだけ立ち止まった。


 職場セットの隅。

 岸谷紗季のデスクの近く。


 今日の撮影は、昨日の続きだった。


 紗季が同僚の仕事を引き受けたあと、一人で残業する場面。

 大きな台詞はない。

 パソコンの画面を見て、資料を直し、誰かのミスを黙って補う。


 撮影中、白瀬アカリは何度も思った。


 これは、誰にも見えない疲れだ。


 怒ってもいい。

 断ってもいい。

 疲れたと言ってもいい。


 でも紗季は言わない。


 言わないまま、静かに今日を終わらせる。


 カットがかかったあとも、その静けさが少しだけ手元に残っていた。


 白瀬アカリは、自分の手を見た。


 岸谷紗季として、誰かの資料を直していた手。

 でも、これは自分の手だ。


 白瀬アカリの手。

 しらいさんの手。


 岸谷紗季の手ではない。


 そう確認してから、彼女はデスクの上に置かれていた小道具のペンを見た。


 もちろん、勝手に触らない。

 それは紗季のものだから。


 でも、心の中でだけ、そこへ少し置いていく。


 今日の残業の疲れ。

 言わなかった「疲れた」。

 誰にも気づかれないまま補った仕事。


 全部を持って帰らない。


 ここに少し置いて帰る。


 松岡遥が昨日言っていた。


 現場に置いて帰るものを決めている、と。


 それが少し分かった気がした。


    ◇


 帰り支度をしていると、松岡遥が声をかけてきた。


「白瀬さん、今日はプリンじゃないんですか」


 急に言われて、しらいさんは少し笑ってしまった。


「今日は買わない予定です」


「お、えらい」


「えらいんですか」


「戻り方を一つに固定しないのは、えらいです」


 松岡はいつものように軽く言った。


 でも、その軽さの中にちゃんと経験がある。


「昨日、プリンが効いたので、毎日買いたくなりました」


「分かります」


「でも、それだとプリンが仕事になりそうで」


「ものすごく分かります」


 松岡は紙コップの水を飲み、少しだけ笑った。


「私も一時期、重い撮影のあと必ずラーメン食べてたんですけど」


「毎回ですか」


「毎回です。そしたら途中から、ラーメンを食べないと戻れない気がしてきて」


「それは」


「危ないですよね」


 しらいさんは頷いた。


「なので、戻る方法は何個か持っておくほうがいいです」


「何個か」


「はい。プリンの日。ラーメンの日。何も買わずに帰る日。現場に置いて帰る日。誰かに一言だけ送る日」


 松岡はそこで、少しだけ声を柔らかくした。


「戻る方法が一つだけだと、その一つが使えない日に怖くなるので」


 それは、春日くんたちと作ってきた合図にも似ていた。


 蜂蜜の日。

 スプーン右。

 ことんの音。

 青灰色のノート。

 短い「ただいま」。

 音なしの「ただいま」。


 それぞれに役割がある。


 でも、どれか一つだけが帰り道ではない。


「今日、少し現場に置いて帰れた気がします」


 しらいさんが言うと、松岡は嬉しそうに笑った。


「いいですね」


「でも、少しだけ持って帰っている感じもあります」


「それでいいんじゃないですか」


「いいんですか」


「全部置いてきたら、それはそれで何も感じてないみたいで寂しいですし」


 松岡は、紙コップを軽く持ち上げた。


「少し持って帰る。少し置いて帰る。残りは寝る。だいたいそのくらいで」


「だいたい」


「だいたいです。きっちりやろうとすると、それもまた仕事になるので」


 その言葉に、しらいさんは少しだけ肩の力が抜けた。


 だいたいでいい。


 これもまた、今の自分に必要な言葉だった。


    ◇


 春日悠真は、昼休みに三崎の話を聞いていた。


 三崎は今日は白瀬アカリの記事ではなく、なぜかコンビニスイーツのランキングを見ていた。


「何をしてるんだ」


「戻るスイーツを探してる」


「何だそれは」


「白瀬アカリが重い役をやったあと、何を食べたら戻れるかを勝手に考えてる」


「お前は本当に何をしてるんだ」


「外側の番人の業務範囲が広がった」


「広げるな」


 三崎は真顔で画面を見せてきた。


「プリンは強いと思う」


「急に具体的だな」


「プリンって、深刻さを受け止めないだろ」


 悠真は少し黙った。


「……どういう意味だ」


「たとえば、役でめちゃくちゃ重いことを考えていたとしても、プリンはプリンじゃん」


「まあ」


「食べたら甘い。それ以上でも以下でもない。そういう単純さって、戻るには大事そう」


 昨日のしらいさんの「戻るためのプリン」を知っている悠真としては、あまりにも近い話だった。


「三崎」


「何」


「今日はプリン一個分くらい鋭い」


「唐揚げからプリンになった」


「なったな」


「じゃあプリン買ってくれ」


「なぜ俺が」


「評価報酬」


「出ない」


「ブラック外側番人制度」


 三崎は不満そうに言いながらも、楽しそうにカフェラテを飲んだ。


 それから、少しだけ真面目な顔になる。


「でもさ、白瀬アカリが重い役をやるとして」


「ああ」


「役から戻る方法って、ちゃんと複数あったほうがよさそうだよな」


 悠真は箸を止めた。


「複数?」


「一個だけだと、それができない日につらいだろ。毎回誰かに電話しないと戻れないとか、毎回何か食べないと戻れないとか」


「……」


「だから、現場で少し置いて帰るとか、帰り道で少し戻るとか、家で戻るとか、いろいろあったほうがいい気がする」


 何も知らないのに、またそこへ来る。


 悠真は、もう驚くよりも感心してしまった。


「お前、本当に外側の番人が板についてきたな」


「板についたなら給料を」


「出ない」


「やっぱりブラック」


 三崎は唐揚げを口に入れた。


「でもまあ、ファンとしてはさ」


「うん」


「重い芝居を見たい。でも、芝居の外でちゃんと普通のもの食べて、普通に帰って、普通に寝てほしい」


 悠真は、その言葉をゆっくり受け取った。


 持って帰る言葉が、今日もまたできた。


    ◇


 夕方、しらいさんから写真が届いた。


 青灰色のノートではない。


 コンビニの袋でもない。

 プリンでもない。


 撮影現場の廊下の端に置かれた、白い紙コップだった。


 そこに、短いメッセージ。


『今日は、現場に少し置いて帰った』


 続けて、


『プリンは買わない日』


 悠真は、少し笑った。


『戻れていますか』


 既読。


『七割』


『現場に置いてきたぶん、軽い』


『でも、少し持ってる』


『そのくらいでいいと思います』


 既読。


『松岡さんにも、だいたいでいいって言われた』


『戻り方も一つに固定しないほうがいいって』


 悠真は、三崎の言葉を思い出す。


『三崎も同じようなことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『戻る方法は複数あったほうがいい』


『現場で少し置いて帰る、帰り道で少し戻る、家で戻るなど』


『一つだけだと、それができない日に怖いだろうと』


 既読。


 少し間。


『三崎さん、今日も見えてる』


『はい』


『プリンの話もしていました』


『え』


『プリンは深刻さを受け止めない。食べたら甘い。それ以上でも以下でもない。だから戻るには大事そうだと』


 既読。


 今度は、返事が少し早かった。


『心の中でプリンあげたい』


『本人は実物を要求すると思います』


『やっぱり』


 しらいさんの文面が少し軽い。


 七割から、少し戻っているのが分かる。


『今日は部屋には行かない』


 次に届いた一文に、悠真は少しだけ寂しさを覚えた。


 でも、すぐに返信した。


『分かりました』


『自分の場所へ帰る練習ですね』


 既読。


『うん』


『少し寂しい?』


 悠真は、嘘をつかないことにした。


『少し』


 既読。


 少し間。


『私も少し』


 その一文で、寂しさが少しだけ柔らかくなる。


『でも今日は、現場から自分の部屋へ帰ってみる』


『はい』


『帰れたら、おかえりって言って』


『もちろんです』


    ◇


 しらいさんは、まっすぐ自宅へ帰った。


 途中でコンビニへ寄らなかった。

 プリンも買わなかった。

 甘いものを買えば楽になる気がしたけれど、今日はあえて買わない日だった。


 部屋の明かりをつける。


 自分の部屋。


 岸谷紗季の部屋ではない。


 そう分かっているのに、少しだけ足が止まった。


 撮影で使った職場セット。

 紗季のデスク。

 残業の静けさ。


 それがまだ、指先に少し残っている。


 しらいさんは靴を脱いだ。


 岸谷紗季の靴ではない。

 今日は撮影後に履き替えた自分の靴だ。


 玄関で、小さく言った。


「ただいま」


 返事はない。


 でも、それでいい。


 自分の部屋に、自分でただいまを言う練習。


 春日くんの部屋ほどの安心はない。

 ことんの音もない。

 ミルクティーもまだない。


 でも、ここも自分が帰る場所にしていかなければならない。


 そう思った。


 湯を沸かし、温かいお茶を淹れる。


 蜂蜜は入れない。


 今日は、合図を増やさない日。


 青灰色のノートを開く。


 書きたいことはある。


 現場に置いて帰るもの。

 プリンを買わない日。

 だいたいでいいという松岡さんの言葉。

 三崎さんの外側の言葉。

 春日くんが寂しいと言ってくれたこと。


 でも、全部は書かない。


 一文だけ。


『今日は、現場に少し置いて、自分の部屋に少し帰った。』


 書いてから、少し迷った。


 少し帰った。


 その言い方が、今の自分に合っている気がした。


 完全ではない。

 でも、ゼロではない。


 しらいさんは、そのページの写真を撮って、春日くんへ送った。


    ◇


 悠真はローテーブルの前で写真を受け取った。


 青灰色のノートに書かれた一文。


『今日は、現場に少し置いて、自分の部屋に少し帰った。』


 悠真は、しばらくそれを見つめた。


 少し寂しい。


 彼女は今日、自分の部屋へ帰った。

 春日悠真の部屋ではなく、自分の場所へ。


 でも、それはとても大事なことだった。


 しらいさんが、春日くんの部屋に来なければ戻れない人ではなくなっていく。

 自分の部屋にも、少しずつ帰れるようになっていく。


 それは喜ぶべきことだ。


 寂しさごと。


『読みました』


 悠真は送った。


『すごくいい一文です』


『おかえりなさい』


 既読。


 少しして、


『ただいま』


 と返ってきた。


 続けて、


『少しだけ』


 悠真は笑った。


『少しだけでも、ただいまです』


 既読。


『春日くん』


『はい』


『今日はことんなしで大丈夫』


『分かりました』


『でも、おかえりはほしかった』


『何度でも言います』


『知ってる』


 そのあと、短い通話がつながった。


    ◇


「もしもし」


「春日くん」


「おつかれさまです」


「春日くんも」


「今日は自分の部屋へ帰れましたね」


「少し」


「はい」


「まだ、春日くんの部屋ほどではない」


「当然です」


「当然?」


「ここも少しずつでいいと思います」


「うん」


 しらいさんの声は、昨日ほど疲れていなかった。


 撮影はした。

 揺れた。

 でも、現場に少し置いて帰れた。


 それが声に出ている。


「松岡さんに、だいたいでいいって言われた」


「はい」


「戻る方法も一つにしないほうがいいって」


「はい」


「それ、すごく安心した」


「はい」


「春日くんの部屋に行く日もある」


「はい」


「行かない日もある」


「はい」


「プリンの日もある」


「はい」


「プリンじゃない日もある」


「はい」


「現場に置いて帰る日もある」


「はい」


「自分の部屋に少し帰る日もある」


「はい」


「春日くん、寂しい?」


 悠真は正直に言った。


「少し」


「うん」


「でも、嬉しいです」


「本当?」


「はい」


「無理してない?」


「少しはしています」


「してるんだ」


「はい。でも、無理というより慣れている途中です」


 しらいさんは黙った。


 それから、少しだけ笑った。


「春日くんも、戻る練習してる?」


「そうかもしれません」


「私が自分で帰ることに?」


「はい」


「そっか」


「はい」


「じゃあ、お互い練習」


「そうですね」


 その言葉で、少し空気が柔らかくなる。


「今日は、部屋に行かなかったけど」


「はい」


「帰れなかったわけじゃない」


「はい」


「それ、忘れないようにする」


「はい」


「春日くんも」


「はい」


「私が行かない日は、帰れなかった日じゃない」


 悠真は、その言葉を胸の奥で受け止めた。


「分かりました」


「寂しい日は、寂しいって言っていい」


「はい」


「でも、帰れてるって信じて」


「はい」


「私も、そうする」


 しらいさんの声は、少し強くなった。


「今日は、少し自分の部屋に帰った」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 その「ただいま」は、少し照れたようで、でも確かに彼女自身のものだった。


    ◇


 通話を切ったあと、悠真は静かな部屋を見回した。


 今日は、しらいさんは来なかった。


 マグカップも使っていない。

 ことんの音も鳴らしていない。

 ミルクティーの匂いもない。


 でも、寂しいだけの夜ではなかった。


 彼女は現場に少し置いて帰った。

 プリンを買わずに帰った。

 自分の部屋で「ただいま」と言った。

 ノートに一文だけ書いた。


 それを、こちらへ見せてくれた。


 春日の部屋は、今日の帰り道ではなかった。

 でも、帰れたことを報告する場所ではあった。


 それも、たぶん大事な役割なのだろう。


 悠真は棚のマグカップを見た。


 出番はない。

 けれど、ここにある。


 必要な日に使えばいい。


 必要ではない日には、静かに棚の中で待っていればいい。


 待つことにも、種類がある。


 今日の悠真は、それを少しだけ覚えた。

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