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第112話 三崎、白瀬アカリの「普通の疲れ」を見抜く

 白瀬アカリの撮影現場レポートが、公式から短く出た。


 写真は三枚。


 一枚目は、職場セットの端で監督の話を聞いている白瀬アカリ。

 二枚目は、衣装のまま台本を持っている横顔。

 三枚目は、共演者たちと並んで軽く笑っている集合写真。


 春日悠真は、朝の電車の中でその写真を見た。


 淡いグレーのブラウス。

 黒いパンプス。

 低い位置でまとめた髪。

 華やかすぎず、地味すぎない、けれどどこか輪郭の薄い雰囲気。


 岸谷紗季だ、と思った。


 そう思った瞬間、少しだけ胸がざわついた。


 もちろん、写真に写っているのは白瀬アカリだ。

 そして、その奥にいるのは、しらいさんだ。


 けれど衣装と現場の光をまとった彼女は、もう少しずつ岸谷紗季の輪郭を帯び始めていた。


 それは誇らしい。


 でも、少し怖い。


 昨夜、彼女は春日の部屋には来なかった。

 現場に少し置いて帰り、自分の部屋に少し帰った。


 青灰色のノートには、こう書かれていた。


『今日は、現場に少し置いて、自分の部屋に少し帰った。』


 それを見たとき、悠真は「おかえりなさい」と送った。

 彼女は「ただいま」と返した。


 少しだけ、と添えて。


 その「少しだけ」が、今朝の写真の白瀬アカリにも重なって見えた。


 完全に戻ったわけではない。

 完全に役の中へいるわけでもない。


 仕事をして、疲れて、少し戻ってきている人。


 悠真には、そう見えた。


    ◇


 昼休みになると、三崎は案の定その写真を見ていた。


 唐揚げ弁当の蓋を開けたまま、箸を持たずにスマホを眺めている。


「唐揚げが冷めるぞ」


 悠真が言うと、三崎は画面から目を離さずに答えた。


「今、唐揚げより白瀬アカリ」


「唐揚げに失礼だ」


「あとで謝る」


「謝る相手が多いな」


 三崎はようやくスマホをこちらへ向けた。


「見たか、これ」


「公式の現場レポートだろ」


「そう。白瀬アカリ、ちょっと疲れてるな」


 悠真は箸を止めた。


「疲れてる?」


「うん」


 三崎は写真を拡大する。


 白瀬アカリは笑っている。


 特に顔色が悪いわけではない。

 目元も崩れていない。

 いつも通り、きちんとした仕事用の表情に見える。


「そんなに分かるか?」


 悠真が聞くと、三崎は少し考えた。


「顔色とかじゃないんだよ」


「じゃあ何だ」


「笑い方」


「笑い方」


「うん。仕事終わりっぽい」


 悠真は、画面の中の白瀬アカリを見た。


 確かに、ぱっと見れば柔らかく笑っている。

 でも、よく見ると、笑顔の奥に少しだけ力が残っているようにも見える。


 役を終えたばかりの顔。

 現場で気を張ったあとの顔。


 しらいさんの声を知っている悠真には、そう見えた。


 三崎は、何も知らないままそこを見ている。


「悪い疲れに見えるか?」


 悠真が聞くと、三崎は首を横に振った。


「いや、悪い疲れじゃないと思う」


「そうなのか」


「うん。ちゃんと仕事して、ちゃんと消耗してる人の疲れ」


 その言葉は、思ったより深く刺さった。


 ちゃんと仕事して、ちゃんと消耗している人の疲れ。


 三崎は続ける。


「ほら、無理して笑ってる疲れってあるじゃん」


「ああ」


「これはそれとは少し違う気がする。疲れてるのを隠してるというより、仕事を終えたあとに少しだけ戻ってきた途中みたいな顔」


 悠真は、思わずスマホの画面から三崎の顔へ視線を移した。


「お前」


「何」


「今日はかなり外側の番人だな」


「いつもだろ」


「自分で言うようになったな」


「もう受け入れた」


 三崎はようやく唐揚げを一つ口に入れた。


「でもさ」


「うん」


「疲れてるって、悪いことじゃないんだよな」


「……」


「いい仕事したら疲れるだろ。普通に」


「そうだな」


「ファンって、推しにはずっと元気でいてほしいけど、疲れが見えること全部を失敗みたいに見るのも違うと思うんだよ」


 悠真は黙った。


 三崎はいつもの軽さを少し残したまま、でも真面目な顔で言った。


「ちゃんと疲れて、ちゃんと休んで、また出てきてくれたらいい」


 悠真は、その言葉を心の中でゆっくり受け取った。


 これは、持って帰る。


 今日のしらいさんに、たぶん必要な言葉だった。


「三崎」


「何」


「今日の感想、かなりいい」


「唐揚げ一個?」


「やらない」


「出ないな、報酬」


「無給の外側の番人だからな」


「労基に行くぞ」


「どこの労基だ」


 三崎は笑った。


 その笑いのおかげで、言葉が重くなりすぎずに残った。


    ◇


 午後、悠真は仕事の合間にしらいさんへメッセージを送った。


『公式の現場レポート、見ました』


 少しして既読がつく。


『見られた』


 その短い返事に、少しだけ照れが混じっている気がした。


『写真、どうでした?』


 悠真は正直に答えるか少し迷った。


 疲れて見えた、と言っていいのか。

 本人が気にするかもしれない。


 でも、三崎の言葉は悪い意味ではなかった。


『三崎が見ていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『何て?』


『少し疲れているように見える、と』


 既読。


 返事が止まった。


 悠真は続ける。


『でも、悪い疲れではなく』


『ちゃんと仕事して、ちゃんと消耗している人の疲れに見える、と言っていました』


 既読。


 長い沈黙。


 しらいさんがその言葉をどう受け取るか、悠真は少しだけ不安になった。


 疲れていると見られることは、女優として怖いことかもしれない。

 白瀬アカリとして、整えきれていなかったと感じるかもしれない。


 でも、やがて返ってきた言葉は静かだった。


『疲れてるって見えるの、少し怖い』


 悠真はすぐに返す。


『はい』


 既読。


『でも、悪い疲れじゃないって言われたのは』


『少し嬉しい』


 悠真はほっと息を吐いた。


『三崎は、疲れて見えること全部を失敗みたいに見るのは違う、とも言っていました』


『ちゃんと疲れて、ちゃんと休んで、また出てきてくれたらいいと』


 既読。


 また少し間。


『三崎さん』


『はい』


『今日、唐揚げ二個』


 悠真は小さく笑った。


『本人は要求すると思います』


『知ってる』


『でも、心の中で』


『それが安全です』


 少しだけ軽さが戻る。


 続けて、しらいさんから届いた。


『疲れてることが、失敗じゃない日もあるのかな』


 悠真は、その一文を見つめた。


『あると思います』


『少なくとも、昨日のしらいさんはそうだったと思います』


 既読。


『今日、ノートに書く』


    ◇


 しらいさんは控室で青灰色のノートを開いた。


 撮影はまだ続く。

 今は衣装確認と短い取材コメントの合間だった。


 テーブルには紙コップの水。

 台本。

 ペン。


 白瀬アカリとしては、午後ももう少し働く。

 岸谷紗季としても、夕方に短い撮影がある。


 でも、その前に一文だけ置きたかった。


 疲れていることが、失敗じゃない日もある。


 それは簡単な言葉なのに、なぜか少し書くのに勇気がいった。


 今まで、疲れを見せることは良くないことだと思っていた。


 もちろん、仕事として最低限の体調管理は必要だ。

 現場に迷惑をかけてはいけない。

 無理をしすぎて倒れることは、決して美談ではない。


 でも、ちゃんと仕事をして疲れることまで、失敗にしなくてもいいのかもしれない。


 しらいさんはペンを持ち、書いた。


『疲れていることが、失敗じゃない日もある。』


 短い一文。


 書いた瞬間、肩が少しだけ下がった。


 昨日、撮影初日だった。

 一度目に痛がりすぎた。

 二度目で少し近づけた。

 現場に置いて帰ることを覚えた。

 自分の部屋に少し帰った。


 疲れないわけがない。


 疲れたことを、責めなくてもいい。


 しらいさんはそのページの写真を撮り、春日くんへ送った。


    ◇


 写真を受け取った悠真は、ローテーブルのない会社のデスクで、しばらく画面を見た。


『疲れていることが、失敗じゃない日もある。』


 その一文は、今のしらいさんに必要なものだった。


 同時に、悠真自身にも少し必要な言葉だった。


 しらいさんが疲れていると、心配になる。

 できれば疲れずにいてほしい。

 でも、それは現実的ではない。


 いい仕事をして、ちゃんと消耗する。

 そのあと、ちゃんと戻ってくる。


 それを支えることも、たぶん「おかえり」と言う側の役目なのだ。


『読みました』


『今日のしらいさんに、とても必要な一文だと思います』


 送る。


 既読。


『春日くんにも?』


 少し意外な問いだった。


 悠真は少し考え、正直に送る。


『はい』


『疲れているしらいさんを見ると、俺は少し心配しすぎます』


『でも、疲れていることを全部悪いことにしてしまうと』


『しらいさんの仕事そのものを否定してしまう気がしました』


 既読。


 長めの沈黙。


 やがて、


『春日くん』


『はい』


『仕事中にそれはだめ』


 悠真は笑った。


『すみません』


『謝るところではある』


『でも、ありがとう』


 続けて、


『今日は部屋に行けるか微妙』


『でも、行けなくても帰る練習する』


『分かりました』


『おかえりは言います』


 既読。


『知ってる』


    ◇


 その日の夕方、しらいさんは短い撮影を終えた。


 岸谷紗季として、廊下を歩く場面。


 ただ歩くだけ。

 台詞はない。


 黒いパンプスの音が、床に小さく響く。


 歩いているだけなのに、紗季はどこにも向かっていないように見えなければならない。

 職場の廊下を歩いている。

 でも、心は行き先を持っていない。


 それが難しかった。


 一度目、少し重くなりすぎた。


 二度目、軽すぎた。


 三度目で、監督が頷いた。


「今の、いいです。歩いているのに、行き先が少し分からない感じ」


 また、嬉しくて怖い言葉だった。


 撮影後、しらいさんは靴を脱ぐとき、少しだけ足元を見た。


 岸谷紗季の靴。


 でも、歩いたのは自分の足。


 昨日より、その感覚が少し分かる。


 衣装を戻し、自分の靴に履き替える。


 その瞬間、少しだけ自分へ戻った。


 今日はプリンを買おうか迷った。


 でも、買わなかった。


 代わりに、駅の自販機で温かいお茶を買った。


 甘くない。

 特別でもない。


 それでよかった。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へは来なかった。


 仕事が遅くなったこともある。

 理沙さんから「今日は直帰」と言われたこともある。


 けれど、それだけではない。


 今日は、自分の部屋へ帰る練習をもう一度したかった。


 玄関を開ける。


 靴を脱ぐ。


 小さく言う。


「ただいま」


 昨日より少しだけ声が出た。


 返事はない。


 でも、部屋の明かりをつけ、鞄を置き、お茶を温め直す。


 それだけで、少しずつ自分へ戻っていく。


 スマホを開くと、春日くんからメッセージが届いていた。


『帰れましたか』


 しらいさんは、少しだけ笑った。


『今、七割』


 既読。


『十分です』


『今日は疲れてる』


『はい』


『でも、失敗ではありません』


 既読。


 その言葉を見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。


『それ、今日必要』


 送る。


『疲れてるから、ことんの音ほしい気もする』


『でも、今日は自分の部屋で戻りたい気もする』


 既読。


『では、音なしでおかえりを言います』


 少しして、音声メッセージが届いた。


 春日くんの声。


「おかえりなさい」


 ただそれだけ。


 ことんの音はない。


 でも、声があった。


 しらいさんは、スマホを持ったまま目を閉じた。


 音なしの、おかえり。


 これはこれで、帰り道だ。


『ただいま』


 返す。


 少し考えて、もう一文。


『疲れてるけど、帰った』


 既読。


『おかえりなさい』


 もう一度、文字で届いた。


    ◇


 短い通話は、寝る前につながった。


「もしもし」


「春日くん」


「おつかれさまでした」


「うん」


「今日は本当に疲れていそうですね」


「疲れてる」


「はい」


「でも、失敗じゃない」


「はい」


「ちゃんと仕事して、ちゃんと消耗した」


「はい」


「三崎さんの言葉、効くね」


「そうですね」


「唐揚げ二個」


「三個でもいいかもしれません」


「増えた」


 しらいさんは少し笑った。


 笑えるくらいには戻っている。


「今日は、廊下を歩くだけの撮影があった」


「はい」


「歩いてるのに、行き先が分からない感じって言われた」


「難しそうですね」


「難しかった」


「はい」


「でも、三回目でできた」


「すごいです」


「本当?」


「本当です」


「出た」


「出ます」


 いつものやり取り。


 少し間があったあと、しらいさんはぽつりと言った。


「春日くん」


「はい」


「疲れてる私でも、おかえりって言ってくれる?」


 悠真は、すぐに答えた。


「もちろんです」


「ちゃんとしてない日でも?」


「もちろんです」


「七割しか戻ってなくても?」


「七割戻れたなら、十分です」


「六割の日は?」


「六割でも」


「五割は?」


「その日は、五割のまま休みましょう」


 電話の向こうで、しらいさんが小さく笑った。


「春日くん」


「はい」


「今日、優しい理沙さんみたい」


「それは褒めていますか」


「かなり」


「なら受け取ります」


「うん」


 しらいさんの声は、だんだん眠そうになっていた。


「今日は、ノートにもう書いたから、これ以上書かない」


「はい」


「プリンもなし」


「はい」


「ことんもなし」


「はい」


「おかえりの声だけ」


「はい」


「それで、八割五分」


「かなり戻りましたね」


「うん」


「残りは寝ましょう」


「理沙さん側」


「彼氏側もです」


「強い」


 いつもの言葉が、少し眠気の中に溶けた。


「おやすみ、春日くん」


「おやすみなさい」


「明日も行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 電話が切れた。


    ◇


 悠真はローテーブルの前で、しばらくスマホを見ていた。


 今日は、声だけのおかえりだった。


 マグカップの音はない。

 彼女も部屋には来ていない。

 プリンも買っていない。


 それでも、戻れた。


 疲れていることが、失敗じゃない日もある。


 その一文は、しらいさんだけではなく、悠真にも残った。


 好きな人が疲れている。

 それを見て心配するのは自然だ。


 でも、その疲れをすぐに消そうとしなくてもいい。

 疲れたまま帰ってきてもいい。

 疲れたまま、おかえりと言っていい。


 悠真は、棚のマグカップを見た。


 今日は使わなかった。


 けれど、そこにある。


 疲れた日にも。

 疲れていない日にも。


 必要になったら、いつでも。

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