表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
112/173

第113話 岸谷紗季の部屋セットには、ただいまがなかった

 その部屋は、思っていたより綺麗だった。


 白いカーテン。

 小さなテーブル。

 一人分の椅子。

 きちんと畳まれた薄手のブランケット。

 台所には、洗われたマグカップが一つ。

 冷蔵庫の上には、未開封の水のペットボトルが二本。


 生活感はある。


 けれど、誰かの温度は薄かった。


 白瀬アカリは、セットの入口で足を止めた。


「ここが、紗季の部屋です」


 美術スタッフがそう説明してくれる。


 声は明るい。

 仕事の確認として、当たり前のように。


 けれど、しらいさんの胸の奥では、何かがゆっくり沈んだ。


 岸谷紗季の部屋。


 帰る場所を失った女性が、毎晩戻る部屋。


 戻っているのに、帰れていない部屋。


 しらいさんは、黒いパンプスのまま一歩入った。


 床はきれいだった。

 ほこりっぽさはない。

 乱れた服もない。

 泣き崩れた跡もない。


 むしろ、ちゃんとしている。


 ちゃんとしているから、余計に苦しい。


「紗季は、片づけができない人ではないんです」


 監督が後ろから静かに言った。


 しらいさんは振り返る。


 監督は部屋全体を見ながら続けた。


「生活は整えられる。仕事にも行ける。洗濯もするし、ゴミも捨てる。たぶん、周りから見れば普通に暮らしている人です」


「はい」


「でも、この部屋は受け止めてくれない」


 その言葉に、胸の奥が小さく鳴った。


 受け止めてくれない部屋。


 春日くんの部屋とは違う。


 あの部屋には、青灰色のコースターがある。

 白いマグカップがある。

 蜂蜜の瓶がある。

 ことん、という音がある。

 おかえりなさい、と言ってくれる人がいる。


 でも、この部屋にはない。


 物はある。

 生活もある。

 なのに、ただいまがない。


「今日は、帰宅して明かりをつける場面から撮ります」


 監督が言う。


「台詞はありません。玄関を開けて、部屋に入って、明かりをつける。ただそれだけです」


「はい」


「ただし、“帰ってきた”にはしないでください」


 しらいさんは小さく頷いた。


「家に入っただけ」


「そうです。夜になったから、体がここへ戻ってきた。でも心はまだ廊下にも、職場にも、どこにもない」


「はい」


 分かる。


 分かってしまう。


 その怖さが、今日はかなり近かった。


    ◇


 準備の間、しらいさんは部屋セットの隅に立っていた。


 小さなテーブルの上には、紗季のマグカップが置かれている。


 白ではない。

 少しグレーがかった、無地のマグカップ。


 美術スタッフが言っていた。


「紗季は、たぶん好きなものを強く主張しない人なので。無難で、でも安すぎない感じにしました」


 その説明を聞いたとき、しらいさんは少しだけ苦しくなった。


 無難。

 安すぎない。

 主張しない。


 岸谷紗季の部屋にあるものは、どれもそうだった。


 誰かに見られても恥ずかしくない。

 でも、本人の好きなものが見えにくい。


 それが、紗季の暮らしなのだろう。


 しらいさんは、グレーのマグカップを見た。


 春日くんの部屋のマグカップを思い出す。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 置くと、ことん、と鳴る音。


 この部屋のマグカップは、どんな音がするのだろう。


 そう思った瞬間、少し怖くなった。


 もしこのマグカップが、似たような音を出したら。


 自分は、ちゃんと戻ってこられるだろうか。


「白瀬さん」


 理沙さんの声がした。


 しらいさんは振り返る。


 理沙さんは、部屋セットの入口に立っていた。


「近いわね」


「……はい」


「今日は、近くなる日だと思っていたけれど」


「はい」


「今、どのくらい?」


 しらいさんは少し考えた。


「六割くらい、紗季さんの部屋にいます」


「多いわね」


「はい」


「でも、自覚できているならまだ大丈夫」


「はい」


 理沙さんは部屋を見回した。


「このセットはよくできているわ」


「はい」


「だから、引っ張られる」


「はい」


「撮影後は、すぐに一度外へ出ること。廊下でもいい。部屋に残らない」


「分かりました」


「台詞がない場面ほど、あとに残ることがある」


「はい」


「言わなかった言葉が、体の中に残るから」


 しらいさんは喉に手を当てそうになり、途中でやめた。


 沈黙も喉を使う。


 この前、理沙さんが言った言葉を思い出す。


 今日は、たぶん沈黙が喉に残る日だ。


「春日さんの部屋へ行ける?」


 理沙さんが聞いた。


「時間的には、たぶん」


「今日は行きなさい」


 即答だった。


 しらいさんは少しだけ驚く。


「いいんですか」


「今日は必要な日よ」


「……はい」


「ただし、全部持っていかないこと」


「はい」


「今日のセットの痛みを、全部あの部屋へ流し込まない。持っていくのは、あなたが戻るために必要な分だけ」


「はい」


「言える?」


 しらいさんは、少しだけ考えてから答えた。


「紗季さんの部屋には、ただいまがなかった」


 理沙さんは静かに頷いた。


「それくらいなら、持っていっていいわ」


    ◇


 撮影は、驚くほど静かに始まった。


 玄関の外に立つ。

 黒いパンプス。

 仕事帰りの鞄。

 少し疲れた肩。


 台詞はない。


 音声スタッフが静かに合図する。

 監督の声が落ちる。


「本番。よーい、スタート」


 鍵を差し込む。


 少しだけ手が止まる。


 その手の止まり方を、どうするか。


 疲れているから止まるのか。

 入りたくないから止まるのか。

 何も考えていないから止まるのか。


 一度目、しらいさんは少しだけ入りたくなさを出しすぎた。


 カットがかかる。


 監督はモニターを見ながら言った。


「今のは、部屋へ入りたくない人に見えました」


「はい」


「紗季は、そこまで自覚していないと思います」


「はい」


「入りたくない、ではなく、入っても何も変わらない、くらいで」


 入っても何も変わらない。


 その言葉が痛かった。


 二度目。


 鍵を開ける。

 ドアを開ける。

 入る。


 明かりをつける。


 部屋が白く照らされる。


 普通の部屋。


 普通の夜。


 帰宅の動作。


 けれど、口は動かない。


 ただいま、を言わない。


 いや、言えない。


 言う相手がいないからではない。

 言った自分を受け止める場所が、この部屋にないから。


 しらいさんは、唇がほんの少し動きそうになるのを止めた。


 その瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなる。


 カット。


 現場が数秒、静かだった。


 監督がモニターを見ている。


 しらいさんは、その場に立ったまま動かなかった。


 まだ紗季の部屋にいる。


 まずい、と思った。


 戻る。


 白瀬アカリ。

 しらいさん。

 岸谷紗季ではない。


 でも、紗季さんに会いに来ている。


「白瀬さん」


 監督が顔を上げた。


「今の、いいです」


「ありがとうございます」


「ただいまを言いそうになって、言わなかったように見えました」


 胸の奥が、静かに沈む。


 見えていた。


 言いそうになったことも。

 止めたことも。


「もう一度、少しだけ動きを抑えて撮ります。感情は今くらいで」


「はい」


 三度目。


 しらいさんは、さらに小さく動いた。


 鍵を開ける。

 入る。

 明かりをつける。


 唇は、ほとんど動かない。


 でも、喉の奥で何かが止まる。


 言わない「ただいま」。


 部屋は明るくなる。


 でも、紗季は帰っていない。


 カット。


 監督が短く言った。


「今のでいきましょう」


    ◇


 撮影後、しらいさんはすぐにセットの外へ出た。


 理沙さんに言われた通りだった。


 廊下に出て、深呼吸をする。


 衣装のブラウスの首元が、少しだけ苦しい気がした。


 実際にはきつくない。

 苦しいのは、言わなかった「ただいま」が喉に残っているからだ。


 理沙さんが水を渡してくれる。


「飲んで」


「はい」


 水を飲む。


 冷たい。


 現実の味がした。


「今、どのくらい?」


 理沙さんが聞く。


「七割、紗季さんの部屋にいました」


「少し高いわね」


「はい」


「でも、出てきた」


「はい」


「今日は春日さんの部屋へ行きなさい」


「はい」


「青灰色のノートは?」


「一文だけ」


「それでいいわ」


 しらいさんは、控室に戻って青灰色のノートを開いた。


 手は少し震えていた。


 でも、書けた。


『紗季さんの部屋には、ただいまがなかった。』


 それだけ。


 本当はもっと書きたかった。


 綺麗なのに帰れない。

 明るいのに寒い。

 マグカップがあるのに音がない。

 声が喉に残った。


 でも、今日は一文だけ。


 ノートを閉じる。


 閉じて、戻る。


    ◇


 春日悠真がその一文を受け取ったのは、仕事を終えた直後だった。


 スマホの画面に、青灰色のノートが写っている。


『紗季さんの部屋には、ただいまがなかった。』


 悠真は、しばらく動けなかった。


 短い。

 でも、強い。


 今日の撮影がどれほど彼女を揺らしたか、その一文だけで分かった。


『読みました』


 送る。


『今日は、来られますか』


 既読。


 少しして、


『行く』


 と返ってきた。


『理沙さんにも行きなさいって言われた』


『分かりました』


『ミルクティー、蜂蜜少し多めで』


『用意します』


 既読。


 続けて、もう一文。


『ことんの音が必要』


 悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。


『待っています』


    ◇


 しらいさんが来たのは、いつもより少し遅い時間だった。


 玄関を開けた瞬間、彼女は小さく息を吐いた。


 黒いキャップ。

 薄いマスク。

 ベージュのコート。


 でも、目元が少し疲れている。


 岸谷紗季の部屋から、まだ完全には出てきていない顔だった。


「来た」


「おかえりなさい」


 悠真はいつも通り言った。


 しらいさんは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「ただいま」


 声は出た。


 でも、小さい。


 部屋に入ると、彼女はローテーブルの前に座った。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 スプーンは右側ではなく、少し離れた場所。


 そして、青灰色のノートを置くための空白。


 悠真はミルクティーを作った。


 蜂蜜は少し多め。


 戻るための甘さが必要な日だと思った。


 カップを渡すと、しらいさんは両手で受け取った。


 そして、青灰色のコースターへ置く。


 ことん。


 その音がした瞬間、彼女の目元が揺れた。


「……あった」


 小さく言う。


「はい」


「この音、あった」


「はい」


「紗季さんの部屋には、なかった」


 悠真は、何も言わずに頷いた。


 しらいさんは、マグカップを見つめたまま続ける。


「マグカップはあった」


「はい」


「テーブルもあった」


「はい」


「部屋も綺麗だった」


「はい」


「明かりもついた」


「はい」


「でも、この音がなかった」


 ことん。


 彼女はもう一度、マグカップを少しだけ持ち上げ、置いた。


 小さな音が鳴る。


「これがなかった」


 その声が震えた。


 悠真は静かに聞いた。


「ただいまも、なかったんですね」


 しらいさんは頷いた。


「言いそうになった」


「はい」


「紗季さんの部屋で」


「はい」


「私が、言いそうになった」


「はい」


「でも、言ったら違うから止めた」


「はい」


「止めたら、喉に残った」


 彼女は、自分の喉元にそっと手を当てた。


「今も少し残ってる」


「はい」


「だから、ここで言っていい?」


「もちろんです」


 しらいさんは、少しだけ深呼吸した。


 そして、マグカップを両手で包んだまま言った。


「ただいま」


 悠真は、まっすぐ受け取った。


「おかえりなさい」


 しらいさんの目に涙が浮かんだ。


 でも、泣き崩れるほどではなかった。


 少しだけ、戻るための涙だった。


    ◇


 しばらく、二人は黙っていた。


 しらいさんはミルクティーを飲む。


 置く。


 ことん。


 また飲む。


 置く。


 ことん。


 今日は、音が必要な日だった。


 悠真は止めなかった。


 しばらくして、しらいさんが青灰色のノートを取り出した。


「一文、もう書いたんだよね」


「はい」


「でも、もう一つ書きたい」


「今日は、必要なら」


「理沙さんに怒られるかな」


「怒られるかもしれません」


「うん」


「でも、明日見せるときに、必要だったと言えばいいと思います」


「春日くん、今日は少し甘い」


「彼氏側なので」


「便利」


 しらいさんは少しだけ笑った。


 そして、ペンを取った。


 書いた。


『紗季さんの部屋には、この音がなかった。』


 それを見た悠真は、静かに頷いた。


「読みました」


「うん」


「これは、今日ここで書く言葉ですね」


「うん」


「ノートに置いていい言葉だと思います」


「よかった」


 しらいさんはノートを閉じた。


「今日は、全部持ってきてない」


「はい」


「現場にも置いてきた」


「はい」


「でも、この音がなかったってことだけは、持ってきたかった」


「はい」


「持ってきてよかった?」


「はい」


 悠真は、ゆっくり答えた。


「ここに置くために持ってきたなら、よかったと思います」


 しらいさんは、目元を赤くしたまま小さく笑った。


「春日くん」


「はい」


「今日、かなり春日くん側」


「理沙さん側ではなく?」


「理沙さん側も少し」


「少し」


「でも、春日くん側が多い」


「そうですか」


「うん」


「なら、よかったです」


「出た」


「出ます」


 いつもの言葉が、ようやく戻ってきた。


    ◇


 少し落ち着いてから、しらいさんは撮影の話をした。


 部屋セットがあまりにもよくできていたこと。

 明かりをつけるだけの芝居が難しかったこと。

 「帰ってきた」にしないでください、と監督に言われたこと。

 ただいまを言いそうになったこと。


 そして、言わなかったこと。


「言わないって、疲れるね」


「はい」


「大丈夫ですより、今日のほうが疲れた」


「台詞がないのに」


「うん。台詞がないからかも」


 しらいさんはミルクティーを飲んだ。


「紗季さんの部屋、綺麗だった」


「はい」


「でも、寒かった」


「はい」


「春日くんの部屋は、綺麗すぎない」


「……それは褒めていますか」


「褒めてる」


「そうですか」


「物が多いわけじゃないけど、ちゃんと誰かがいる感じがする」


「はい」


「ミルクティーの匂いとか、蜂蜜とか、コースターの位置とか」


「はい」


「あと、春日くんの面倒くさい顔」


「そこもですか」


「そこも」


 少しだけ笑いが出た。


 それだけで、部屋の温度が戻る。


「紗季さんの部屋には、面倒くさい顔の人がいなかった」


「それは、いいことなのか悪いことなのか」


「今日は、いいこと」


「なら受け取ります」


「うん」


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は長居しない。


 理沙さんからも、撮影後は休むようにと言われている。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


 彼女は、その音をしっかり聞いた。


「戻った?」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。


「九割」


「かなり戻りましたね」


「うん」


「残り一割は?」


「寝る」


「それがいいと思います」


「理沙さん側」


「彼氏側もです」


「強い」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「今日は、紗季さんの部屋から帰ってきた」


「はい」


「でも、私のただいまはここに言えた」


「はい」


「それで、少し大丈夫になった」


「はい」


「おかえりって言ってくれてありがとう」


「何度でも言います」


「知ってる」


 彼女は少しだけ笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「うん」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 ローテーブルには、青灰色のコースターと、少しだけ残ったミルクティーの甘い匂い。


 今日、しらいさんは岸谷紗季の部屋に入った。


 綺麗なのに、帰れない部屋。

 明かりはつくのに、ただいまがない部屋。


 そこから戻るために、この部屋へ来た。


 ことんの音を聞き、ただいまを言い直し、自分の言葉をノートに置いた。


 悠真は棚の中のマグカップを見た。


 紗季さんの部屋には、この音がなかった。


 その一文が、静かに胸に残っている。


 この部屋の音は、特別なのだと思った。


 だからこそ、必要な日にだけ鳴らす。


 鳴らせる場所として、ここに置いておく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ