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第114話 言わない「ただいま」と、言っていい「ただいま」

 翌朝になっても、しらいさんの喉には少しだけ何かが残っていた。


 痛いわけではない。

 声が枯れているわけでもない。


 ただ、言わなかった言葉が、喉の奥で薄く膜になっているような感覚があった。


 岸谷紗季の部屋セット。


 綺麗に整った小さな部屋。

 白いカーテン。

 一人分の椅子。

 グレーがかったマグカップ。

 畳まれたブランケット。

 明かりをつければ、ちゃんと生活の形になる部屋。


 でも、そこには「ただいま」がなかった。


 しらいさんは、昨日の撮影中、ほんの一瞬だけ言いそうになった。


 ただいま。


 口に出せば楽だったのかもしれない。

 けれど、岸谷紗季は言わない。

 言えない。


 だから止めた。


 その止めた言葉が、まだ少し喉に残っている。


 朝の支度をしながら、しらいさんは自分の部屋で小さく言ってみた。


「ただいま」


 もう朝なのに。


 昨日の夜、帰ったときにも言ったのに。


 それでも、言ってみた。


 声は出る。


 自分の声だ。


 岸谷紗季の声ではない。


 それを確認して、少しだけ息を吐く。


 今日は午後から撮影。

 午前中は事務所で打ち合わせと確認がある。


 台本を鞄に入れる。

 青灰色のノートも入れる。


 そして、昨日書いた一文を思い出した。


『紗季さんの部屋には、ただいまがなかった。』


『紗季さんの部屋には、この音がなかった。』


 その二つは、まだ胸の中に残っている。


 でも今日は、そこから一歩進まなければならない気がしていた。


    ◇


 事務所で理沙さんに会うと、第一声はいつも通りだった。


「喉は?」


「九割です」


「私の評価では八割九分」


「下がりましたね」


「昨日、沈黙を使ったからでしょう」


「沈黙を使った」


「ええ。台詞より沈黙のほうが喉に残る日があるわ」


 理沙さんは当然のように言った。


 しらいさんは、小さく頷く。


「少し残っています」


「ただいま?」


 その言葉に、しらいさんは顔を上げた。


 理沙さんはタブレットから目を離さず、続ける。


「昨日の撮影のこと。言わなかった言葉が残っているのでしょう」


「……はい」


「今日は、そこを整理してから現場へ行くこと」


「整理」


「ええ。紗季が言わない『ただいま』と、あなたが言っていい『ただいま』を混ぜない」


 その言葉は、胸にまっすぐ入ってきた。


 紗季が言わないただいま。

 自分が言っていいただいま。


 昨日の夜、春日くんの部屋で「ただいま」と言った。

 春日くんは「おかえりなさい」と言ってくれた。


 それで戻れた。


 でも、どこかでまだ、紗季さんのぶんまで自分が言ったような気もしていた。


「私、昨日……」


「ええ」


「紗季さんの代わりに、言いたかったのかもしれません」


「でしょうね」


「言ってあげたかったというか」


「危ないわね」


 理沙さんの声は厳しかった。


 でも、それは責める声ではない。


「役の人の代わりに、あなたが救済しようとしないこと」


「はい」


「紗季は紗季。あなたはあなた」


「はい」


「あなたが『ただいま』と言える場所を持つことは大事。でも、それを紗季に勝手に貸しすぎない」


 しらいさんは、膝の上で指を組んだ。


「難しいです」


「難しいわよ」


「でも、分けないと危ないんですね」


「ええ」


 理沙さんは、ようやくタブレットから目を上げた。


「春日さんの部屋へ、今日も行ける?」


「夜なら、少し」


「行っていいわ」


「昨日も行きました」


「昨日行ったから今日行かない、という決め方をしないこと。必要なら行く。必要でないなら行かない」


「はい」


「今日は、昨日持ち帰ったものを整理する日よ」


「はい」


「春日さんにも、同じことを言われると思うけれど」


「何をですか」


「紗季のただいまを、あなたが代わりに言わなくていい」


 しらいさんは、少しだけ目を伏せた。


 たぶん、言われる。


 いや、言ってほしいのかもしれない。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は今日は珍しく、唐揚げ弁当ではなくおにぎりを二つ並べていた。


「唐揚げじゃないのか」


「昨日食べすぎた」


「外側の番人の報酬が出ないから自腹で?」


「うるさい」


 三崎は梅おにぎりを開けながら、スマホを伏せた。


「春日」


「何だ」


「白瀬アカリってさ、言わない台詞がうまそうだよな」


 悠真は箸を止めた。


 今日もまた、何も知らずに近い。


「言わない台詞?」


「うん。実際に口に出す台詞じゃなくて、本当は言いたいけど言わない言葉」


「……」


「そういうの、画面越しに伝わるタイプだと思う」


 悠真は、昨日しらいさんが言っていた「ただいま」を思い出した。


 紗季さんの部屋には、ただいまがなかった。


 この音がなかった。


「たとえば?」


 悠真が聞くと、三崎は少し考えた。


「助けて、とか。帰りたい、とか。ただいま、とか」


 心臓に悪い。


 本当にこの男は、外側の番人として有能すぎる。


「何でただいまが出てくるんだ」


「いや、白瀬アカリの最近の流れって、戻る場所とか帰る場所とかだろ」


「ああ」


「だから逆に、ただいまって言えない役をやったら強そうだなって」


 悠真は、何も言えなかった。


 三崎は続ける。


「でも、その役が言えないからって、白瀬アカリ本人が代わりに言おうとすると違うんだろうな」


「……どういう意味だ」


「役の救済を、役者が勝手にしすぎると違う気がする」


 悠真は、思わず三崎を見た。


「何だよ」


「いや」


「変なこと言ったか?」


「いや。かなり大事なことを言った」


「また褒めた」


「今日は本当に」


 三崎は少し照れたように、おにぎりをかじった。


「まあ、演技のことなんて分からないけどな」


「分からないのにそこまで言うのか」


「外側だから言えるんだろ。中の人はもっと大変なんだろうけど」


 三崎は麦茶を飲んだ。


「ファンとしてはさ、救われる役も見たい。でも、救われない途中の人をちゃんとそのまま見せるのも、たぶん大事なんだろうなって」


 悠真は、その言葉を胸の中へしまった。


 また、持って帰る言葉が増えた。


    ◇


 午後の撮影は、昨日の続きではなかった。


 岸谷紗季が友人と短い会話をする場面。

 昨日の部屋セットほど重い場面ではない。


 けれど、しらいさんの中には、まだ昨日の「ただいま」が残っていた。


 撮影中、彼女は意識して呼吸を整えた。


 紗季の言わない言葉を、自分が勝手に言わない。


 紗季の沈黙を、自分の寂しさで埋めすぎない。


 役名を呼ぶ前に、自分の名前を確かめる。


 白瀬アカリ。

 しらいさん。

 岸谷紗季ではない。


 でも、会いに行く。


 撮影そのものは大きな問題なく終わった。


 監督からは、「昨日の部屋の感じが、今日の会話に少し残っていてよかったです」と言われた。


 それは嬉しかった。


 でも、持ち帰りすぎない。


 しらいさんは、撮影後に青灰色のノートを開いた。


 今日の一文は、すぐに出てきた。


『紗季さんのただいまを、私が勝手に言わない。』


 書いてから、しばらく見つめる。


 これだけでは少し硬い気がした。


 でも、今日はこれでいい。


 ペンを閉じる。


 ノートを閉じる。


 そして、春日くんへ写真を送った。


    ◇


 悠真は、仕事終わりの駅のホームでその写真を受け取った。


『紗季さんのただいまを、私が勝手に言わない。』


 短い一文。


 でも、今日必要な一文だとすぐに分かった。


『読みました』


『とても大事だと思います』


 既読。


 すぐ返る。


『理沙さんにも言われた』


『春日くんにも言われそうだと思った』


 悠真は、少し笑った。


『言おうと思っていました』


 既読。


『やっぱり』


『三崎も似たことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『役が言えない言葉を、役者が代わりに言いすぎると違う気がすると』


 既読。


 長い沈黙。


 駅のホームに電車が入ってくる。

 悠真は乗り込み、ドアの横に立った。


 スマホが震える。


『三崎さん』


 いつもの一文。


 それから、


『今日は唐揚げ三個』


 悠真は思わず笑った。


『今日はおにぎりでした』


 既読。


『では、おにぎり三個』


『多いですね』


『それくらい』


 少しだけ軽くなったあと、しらいさんから続いた。


『今日、部屋行っていい?』


『もちろんです』


『昨日の続き、整理したい』


『待っています』


 既読。


『知ってる』


    ◇


 しらいさんが来たのは、夜九時過ぎだった。


 玄関を開けると、彼女は昨日ほど沈んではいなかった。


 でも、どこか慎重な顔をしていた。


 何かを壊さないように、抱えてきたような顔。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は昨日よりしっかりしている。


 それだけで、悠真は少し安心した。


 部屋に入ると、彼女はローテーブルの前に座った。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 スプーンは少し離れた場所。

 ノートを置く空白。


 今日は、その空白に青灰色のノートがすぐ置かれた。


 悠真はミルクティーを作った。

 蜂蜜は普通。


 昨日のように多めではない。


 しらいさんはカップを受け取り、コースターへ置いた。


 ことん。


 昨日ほど強く求める音ではない。

 でも、必要な音だった。


「今日は、少し戻ってから来ました」


「はい」


「でも、整理したくて来た」


「はい」


 彼女はノートを開き、今日書いた一文を見せた。


『紗季さんのただいまを、私が勝手に言わない。』


 悠真は頷いた。


「いい一文です」


「うん」


「でも、少し硬いですね」


「やっぱり?」


「はい」


「だから、ここで続きを考えたい」


「分かりました」


 しらいさんはミルクティーを一口飲んだ。


「昨日、紗季さんの部屋でただいまを言いそうになった」


「はい」


「言わなかった」


「はい」


「でも、ここで言った」


「はい」


「そのとき、少しだけ、私が紗季さんのぶんも言った気がした」


「はい」


「それで戻れたけど、少し引っかかった」


「はい」


「理沙さんに、混ぜないって言われた」


「はい」


「春日くんは?」


 来た。


 悠真は少しだけ息を吸った。


「俺も、混ぜないほうがいいと思います」


「うん」


「しらいさんがただいまを言えることは、とても大事です」


「はい」


「でも、それは紗季さんを代わりに救うためではなく、しらいさんが戻るための言葉だと思います」


 しらいさんは、黙って聞いていた。


「紗季さんが言えないただいまを、しらいさんが勝手に言わなくていい」


「うん」


「しらいさんは、しらいさんのただいまを言ってください」


 言葉にした瞬間、彼女の目元が揺れた。


「春日くん」


「はい」


「それ、言われると思ってた」


「はい」


「でも、聞きたかった」


「言えてよかったです」


「出た」


「出ます」


 いつものやり取りが、少し涙の近くで揺れた。


    ◇


 しらいさんは、マグカップを両手で包んだまま俯いた。


「私、紗季さんを救いたいのかな」


「はい」


「たぶん、そう思ってる」


「はい」


「ただいまって言えたら楽になるよって」


「はい」


「でも、それは私が知ってる楽になり方で」


「はい」


「紗季さんの楽になり方ではないのかもしれない」


 悠真は静かに頷いた。


「役の人には、役の時間があるのだと思います」


「うん」


「しらいさんが先に救い方を決めなくていいのかもしれません」


「うん」


「ただ、隣を歩く」


「隣」


「はい。演じる間だけ」


 しらいさんは、その言葉を小さく繰り返した。


「隣を歩く」


「はい」


「代わりに言わない」


「はい」


「勝手に救わない」


「はい」


「でも、見捨てない」


「はい」


 彼女は、少しだけ深く息を吐いた。


「それ、ノートに書いていい?」


「もちろんです」


 しらいさんはペンを取った。


 今日の一文の下に、少し小さく書く。


『代わりに言わない。勝手に救わない。でも、見捨てない。』


 書き終えた瞬間、彼女は目元を押さえた。


「泣いてもいいですよ」


 悠真が言うと、しらいさんは首を横に振った。


「少しだけ」


「はい」


「正式予約じゃない」


「分かりました」


「ちょっとだけ」


 涙は少しだけだった。


 大きく崩れる涙ではない。

 整理できたことに、体が少し追いついたような涙。


 悠真はティッシュを差し出した。


 しらいさんは受け取って、小さく笑った。


「準備がいい」


「必要そうだったので」


「出た」


「出ます」


    ◇


 しばらくして、しらいさんは改めてマグカップを持った。


「私のただいま、言っていい?」


「もちろんです」


「紗季さんの代わりじゃなくて」


「はい」


「私の」


「はい」


 彼女は、青灰色のコースターの上にマグカップを置いた。


 ことん。


 その音のあと、小さく言った。


「ただいま」


 悠真は、まっすぐ返した。


「おかえりなさい」


 しらいさんは目を閉じた。


 昨日より、少しだけ楽そうだった。


「言えた」


「はい」


「私のただいま」


「はい」


「紗季さんのじゃない」


「はい」


「でも、紗季さんを置いてきたわけじゃない」


「はい」


「隣を歩く」


「はい」


「難しい」


「難しいですね」


「でも、少し分かった」


「よかったです」


「出た」


 いつもの言葉に、今度は少し笑えた。


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚に戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音は、昨日より少し軽かった。


「戻れましたか」


 悠真が聞くと、しらいさんは考える。


「九割二分」


「細かいですね」


「理沙さん方式」


「残り八分は?」


「寝る」


「それがいいですね」


「うん」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「今日は、言っていいただいまを言えた」


「はい」


「紗季さんのただいまは、まだ言わない」


「はい」


「でも、いつか紗季さんが言える日が来るかもしれない」


「はい」


「そのときは、私が勝手に言うんじゃなくて」


「はい」


「紗季さんの声で、言えるようにする」


 悠真は、静かに頷いた。


「その日まで、隣を歩いてください」


「うん」


「でも、帰ってくるのはしらいさんです」


「うん」


「待っています」


「知ってる」


 彼女は少しだけ笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「うん」


 ドアが閉まった。


    ◇


 部屋に静けさが戻る。


 ローテーブルには、青灰色のコースターと、少しだけ残ったミルクティーの香り。


 今日、しらいさんは一つ分けた。


 紗季さんの言わないただいま。

 自分が言っていいただいま。


 代わりに言わない。

 勝手に救わない。

 でも、見捨てない。


 それは、役との距離だけではないのかもしれない。


 人と人の距離にも、似ている。


 悠真は、棚に戻されたマグカップを見た。


 彼女の代わりに何かを言うのではなく。

 勝手に救ったつもりになるのでもなく。

 でも、見捨てない。


 おかえりなさい。


 その言葉も、たぶんそういう距離の言葉なのだと思った。

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