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第115話 松岡遥は、帰れない役のあとにラーメンを食べる

 松岡遥がその話をしたのは、撮影の合間だった。


 場所は、スタジオの隅に置かれた簡易休憩スペース。


 白い長机。

 紙コップ。

 ペットボトルの水。

 個包装の飴。

 誰かが差し入れた焼き菓子。


 その日の撮影は、朝から少し重かった。


 岸谷紗季が、友人に誘われても「また今度」と笑って断る場面。

 そのあと一人で帰り道を歩く場面。

 そして、自分の部屋の前で一度だけ足を止める場面。


 台詞は少ない。


 でも、言わないことが多い。


 しらいさんは最近、台詞が少ない日のほうが疲れることを知り始めていた。


 言葉を出す芝居は、もちろん難しい。

 けれど、言葉を出さずに止める芝居は、喉の奥や胸の内側に静かに残る。


 言えなかった「ただいま」。

 言わなかった「疲れた」。

 隠した「助けて」。


 それらが、声にならないまま体の中を少し重くする。


 撮影が一段落し、しらいさんは紙コップの水を両手で持っていた。


 水は冷たかった。


 現実の味がする。


 そう思いながら飲んでいると、隣に松岡遥がやってきた。


「白瀬さん、今日は何で戻る予定ですか」


 最初から、それだった。


 しらいさんは少し目を瞬かせる。


「何で、ですか」


「はい。プリンですか。お茶ですか。春日さんのところですか」


「松岡さん」


「すみません。春日さんのところは余計でした」


 松岡は悪びれずに笑った。


 この人は、踏み込むところと引くところが不思議にうまい。

 明るく言うから重くなりすぎない。

 でも、軽く流しているわけでもない。


「今日は、まだ決めていません」


 しらいさんは正直に答えた。


「決めてない日もありますよね」


「はい」


「そういう日は、だいたい帰り道で迷います」


「迷うんですか」


「迷います。私は」


 松岡は紙コップの温かいお茶を持って、椅子に座った。


「重い役のあとって、気持ちだけじゃなくて体も変な場所にいるんですよね」


「分かります」


「役から完全に抜けたわけじゃない。でも現場にはもういない。家にもまだ着いていない」


「はい」


「その中間地点が、私はけっこう苦手で」


 しらいさんは頷いた。


 それは分かる。


 現場を出たあと。

 衣装を脱ぎ、自分の服に戻り、メイクも直して、スタッフに挨拶をして外へ出る。


 でも、まだ役の欠片が体に残っている。


 電車に乗っていても、タクシーの窓から街を見ていても、さっき言わなかった言葉がどこかについてくる。


 春日くんの部屋に行ける日はいい。


 青灰色のノートに書ける日もいい。


 でも、毎回そうできるわけではない。


 だから、中間地点の戻り方が必要になる。


「松岡さんは、どうしているんですか」


 しらいさんが聞くと、松岡は真顔で言った。


「ラーメンです」


「……ラーメン」


「はい」


「ラーメン、ですか」


「ラーメンです」


 あまりにまっすぐ言うので、しらいさんは少し笑ってしまった。


 松岡も笑う。


「意外ですか」


「少し」


「よく言われます。もっとこう、アロマとか、ヨガとか、長風呂とか言いそうに見えるらしいです」


「それも似合いそうです」


「やりますよ。でも、本当に戻りたいときはラーメンです」


「なぜラーメンなんですか」


 松岡は少しだけ考えた。


「役のままでは、ラーメン食べられないからです」


 その言葉は、妙に説得力があった。


「重い役をやったあとって、頭の中ではまだ役の人が呼吸しているんです。悲しい人、孤独な人、怒っている人、何かを失った人」


「はい」


「でも、ラーメン屋に入ると、食券買わなきゃいけないんです」


「食券」


「はい。醤油か味噌か塩か、麺硬めにするか、煮卵をつけるか」


 松岡は指を折るように言った。


「役のままでいるには、情報が生活すぎるんです」


 しらいさんは、思わず笑った。


「生活すぎる」


「そうです。しかも、ラーメンが来たら熱い。湯気が出る。伸びる。早く食べないといけない」


「はい」


「そうすると、だんだん戻ってくるんです。あ、私は今、役じゃなくて、熱いものを食べてる人間だって」


 松岡は自分で言って、少し照れたように笑った。


「もちろん毎回ではないですけどね。毎回やると、ラーメンが仕事になりますから」


「プリンと同じですね」


「そうです。プリンもラーメンも、仕事にしてはいけません」


 しらいさんは紙コップの水を見た。


 戻る方法は、綺麗でなくてもいい。


 春日くんの部屋。

 青灰色のノート。

 ことんの音。


 それらは大事だ。


 でも、それだけが戻る方法ではない。


 プリンでもいい。

 ラーメンでもいい。

 温かいお茶でもいい。

 駅のホームで深呼吸することでもいい。


 もっと生活に近い、少し雑で、少し間の抜けたものでもいいのだ。


「白瀬さんは、綺麗に戻ろうとしすぎるかもしれませんね」


 松岡がふいに言った。


 しらいさんは顔を上げる。


「綺麗に」


「はい。役に丁寧に入り、丁寧に出て、丁寧に言葉にする」


「……」


「それはすごく大事です。でも、毎回それだと疲れます」


 松岡は、軽い口調のまま続けた。


「たまには、コンビニで変な味のポテトチップス買って、なんでこれ買ったんだろうって思いながら食べるくらいでいいです」


 しらいさんは、また笑ってしまった。


「変な味のポテトチップス」


「かなり効きます。役の人は、だいたいそんなもの食べません」


「たしかに」


「だから戻れます」


 松岡は、紙コップを置いた。


「戻る方法は、綺麗じゃなくてもいいんです」


 その言葉が、今日の一文になる気がした。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎とコンビニの袋を見比べていた。


 三崎が買ってきたのは、なぜかカップ麺だった。


「弁当じゃないのか」


「今日はラーメン気分」


「珍しいな」


「白瀬アカリが重い役をやるなら、戻る食べ物は何かを考えていたら、ラーメンになった」


「またそれか」


「いや、真面目な話だぞ」


 三崎は割り箸を取り出しながら、カップ麺の蓋を半分開けた。


「重い役のあとに、洒落たもの食べるのもいいけどさ」


「ああ」


「ラーメンみたいな、完全に生活側のものって強いと思うんだよ」


 悠真は少しだけ眉を上げた。


 昨日はプリン。

 今日はラーメン。


 外側の番人は、また何も知らずに近いところへ来ている。


「どうしてそう思う」


「湯気」


「湯気?」


「熱いから、食べてる間はその場に戻るだろ。役の余韻とか、作品の世界とかより、麺が伸びる現実が強い」


 悠真は、思わず笑った。


「麺が伸びる現実」


「大事だぞ。現実は麺が伸びる」


「名言みたいに言うな」


「戻るって、たぶんそういうことだろ。格好よく帰還するんじゃなくて、伸びる前に食べる」


 悠真は笑いながらも、その言葉を心にしまった。


 今日も持って帰る言葉ができた。


「三崎」


「何」


「今日も外側の番人としていい仕事をしている」


「ラーメン代出る?」


「出ない」


「ブラックすぎる」


 三崎は不満げに言いながら、湯を注いだカップ麺を眺めた。


「でもさ」


「うん」


「白瀬アカリには、綺麗じゃない戻り方も覚えてほしいな」


 悠真は、箸を持つ手を止めた。


 三崎は蓋の上に割り箸を置きながら続ける。


「本人、ちゃんとしすぎてる感じがあるだろ」


「……そうだな」


「だから、戻る方法までちゃんとしてたら、疲れそう」


「うん」


「役から戻るのに、毎回感動的じゃなくていいじゃん。ラーメン食べて、熱っ、ってなって戻る日もあっていい」


 悠真は頷いた。


 本当に、その通りだと思った。


    ◇


 その日の撮影は、夕方前に終わった。


 大きな山場はなかった。


 でも、静かな疲れが残った。


 岸谷紗季として笑う。

 大丈夫だと言う。

 断らない。

 帰り道を歩く。


 ひとつひとつは小さいのに、積もる。


 撮影後、しらいさんは衣装を脱ぎ、自分の服に戻った。


 黒いパンプスから、自分の靴へ履き替える。


 それだけで少し戻る。


 鏡の中には、白瀬アカリがいた。

 でも、完全に戻ったわけではない。


 七割くらい。


 青灰色のノートを開こうとして、今日はやめた。


 まだ言葉にしなくてもいい。


 代わりに、松岡さんの言葉を思い出す。


 戻る方法は、綺麗じゃなくてもいい。


 しらいさんは、スマホを開いた。


『今日、松岡さんにラーメンの話をされた』


 春日くんへ送る。


 すぐ既読がついた。


『ラーメンですか』


『重い役のあと、松岡さんはラーメンを食べるらしい』


『役のままではラーメン食べられないからって』


 既読。


 少し間。


『三崎も今日、ラーメンの話をしていました』


 しらいさんは思わず声を出しそうになった。


『外側の番人?』


『はい』


『ラーメンは生活側のものだから強い』


『役の余韻より、麺が伸びる現実が強いと』


 既読。


 しらいさんは廊下の隅で口元を押さえた。


 笑いそうになったからだ。


『三崎さん、今日もすごい』


『本人はラーメン代を要求していました』


『でしょうね』


『あと、綺麗じゃない戻り方も覚えたほうがいいと』


 既読をつけたまま、しらいさんはしばらく返信できなかった。


 松岡さんと三崎さんが、違う場所から同じことを言っている。


 戻る方法は、綺麗じゃなくていい。


 ラーメンでもいい。

 プリンでもいい。

 変な味のポテトチップスでもいい。


 それは、今の自分にとても必要な許可だった。


『今日、何か食べて帰ろうかな』


 送る。


 既読。


『いいと思います』


『ラーメンですか』


『さすがに一人ラーメンはまだ勇気がいる』


『では、何か生活側のものを』


 しらいさんは少し考えた。


 生活側のもの。


 駅前のコンビニ。

 おにぎり。

 カップスープ。

 ホットスナック。

 ヨーグルト。

 プリン。


 プリンは昨日使った。


 今日は違うものがいい。


『肉まんにする』


 送る。


 既読。


『いいですね』


『役のままでは肉まんも食べにくそうです』


『うん』


『熱いし』


『現実ですね』


『現実』


 少しだけ笑えた。


    ◇


 駅前のコンビニで、しらいさんは肉まんを買った。


 撮影後の女優としては、あまり格好よくないかもしれない。


 でも、それでよかった。


 白い紙袋が温かい。


 手のひらに、現実の温度がある。


 岸谷紗季は、帰り道に肉まんを買うだろうか。


 分からない。


 でも、今これを食べるのは岸谷紗季ではない。


 白瀬アカリでも少し違う。


 ただ、撮影が終わってお腹が空いたしらいさんだ。


 近くの人気のないベンチに座り、マスクを少し外して一口食べる。


「熱っ」


 思わず小さく声が出た。


 それだけで、かなり戻った。


 湯気。

 肉の匂い。

 少し甘い皮。

 口の中の熱さ。


 役の沈黙より、肉まんの熱さのほうが強い。


 しらいさんは、少し笑ってしまった。


 松岡さんの言うことは正しかった。


 そして、三崎さんも正しかった。


 現実は、麺だけでなく肉まんも熱い。


 写真を撮る。


 紙袋に入った肉まん。


『戻るための肉まん』


 春日くんへ送った。


    ◇


 悠真はその写真を見て、会社帰りの電車の中で小さく笑った。


『効きましたか』


 送る。


 既読。


『かなり』


『熱かった』


『現実ですね』


『現実だった』


 そのやり取りだけで、しらいさんがかなり戻っているのが分かった。


『今日は部屋へ行けない』


『分かりました』


『肉まんで八割戻った』


『すごいです』


『出た』


『出ます』


 いつものやり取り。


 悠真はスマホを見ながら、ほっとした。


 今日はことんの音ではなく、肉まんだった。


 それで戻れたなら、とてもいい。


 少し寂しい。

 でも、嬉しい。


 この気持ちにも、少しずつ慣れてきた。


    ◇


 夜、短い通話がつながった。


「もしもし」


「春日くん」


「肉まん、おいしかったですか」


「おいしかった」


「よかったです」


「熱かった」


「現実ですね」


「現実」


 しらいさんは少し笑った。


 その声は、かなり軽い。


「今日、松岡さんに言われた」


「はい」


「戻る方法は、綺麗じゃなくてもいいって」


「はい」


「春日くんの部屋とか、青灰色のノートとか、ことんの音とか」


「はい」


「そういうのは大事」


「はい」


「でも、肉まんでも戻れる」


「はい」


「それが、今日すごくよかった」


「よかったです」


「出た」


「出ます」


 いつもの言葉。


 そのあと、しらいさんは少しだけ静かになった。


「私、戻ることまで綺麗にしようとしてたかも」


「はい」


「役に丁寧に入って、丁寧に出て、丁寧にノートに書いて、丁寧にただいまって言う」


「はい」


「でも、毎日それだと疲れる」


「はい」


「今日は、肉まん熱い、で戻った」


「それも立派な帰り道です」


「立派かな」


「かなり」


「春日くん、甘い」


「彼氏側なので」


「便利」


 しらいさんは笑った。


「三崎さんにも、心の中で肉まんあげたい」


「彼はラーメン代を要求していました」


「じゃあ心の中でラーメン」


「豪華ですね」


「外側の番人だから」


「無給ですが」


「ひどい」


 二人で少し笑った。


    ◇


「今日、ノートに書く?」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。


「書こうと思ったけど、今日は書かない」


「そうですか」


「言葉にすると、少し綺麗になりそうだから」


「はい」


「今日は、肉まん熱かった、だけでいい」


「それもいいと思います」


「でも、一文だけ覚えておく」


「何ですか」


「役から戻る方法は、綺麗じゃなくてもいい」


「いい言葉ですね」


「うん。でも今日は書かない」


「書かない練習ですね」


「うん」


「できています」


「出た」


「出ます」


 しらいさんは、少し眠そうに息を吐いた。


「今日は、ことんもいらない」


「はい」


「おかえりだけ」


「おかえりなさい」


 悠真はすぐに言った。


 電話の向こうで、しらいさんが小さく笑う。


「ただいま」


「今日は何割ですか」


「九割」


「かなり戻りましたね」


「肉まん強い」


「強いですね」


「でも、春日くんの声で九割五分」


「それは光栄です」


「硬い」


「すみません」


「謝らないで」


 いつものやり取りが、今日もちゃんとあった。


「明日も撮影ですか」


「うん」


「行ってらっしゃい」


「まだ夜」


「先に」


「ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


 しらいさんは少し笑ってから言った。


「行ってきます」


「帰ってきたら、おかえりって言います」


「知ってる」


    ◇


 通話を切ったあと、悠真はローテーブルの前に座っていた。


 今日はマグカップも、ことんの音も出番がなかった。


 青灰色のノートも開かれなかった。


 代わりに、肉まんがあった。


 熱い肉まん。


 戻るための肉まん。


 少し笑ってしまう。


 でも、その少し笑える感じがよかった。


 役から戻る方法は、綺麗じゃなくてもいい。


 その言葉は、しらいさんだけでなく、悠真にも必要だった。


 自分もまた、彼女の帰り方をどこかで綺麗に考えすぎていたのかもしれない。


 ミルクティー。

 青灰色のコースター。

 ことんの音。

 おかえりなさい。


 それらは大事だ。


 でも、帰り道はもっと生活に近くていい。


 熱い肉まんで戻る日があっていい。


 そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。


 悠真は棚のマグカップを見た。


 今日は静かに休んでいる。


 出番がないことも、悪いことではない。


 必要な日に、また鳴ればいい。

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