第116話 春日、少しだけ自分の役割を見失う
肉まんで戻った。
その一文は、思っていたより長く春日悠真の中に残った。
もちろん、悪い意味ではない。
むしろ、いいことだ。
とてもいいことだと思う。
しらいさんは、重い撮影のあと、春日の部屋へ来なくても戻れた。
青灰色のノートを開かなくても戻れた。
ことんの音を聞かなくても戻れた。
コンビニの肉まんを食べて、熱いと感じて、現実へ帰ってきた。
それは、彼女が前へ進んでいる証拠だった。
帰り道が増えている。
春日も、それを喜んでいた。
……喜んでいるはずだった。
朝、ローテーブルの上を整えながら、悠真は棚の中のマグカップを見た。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜の瓶。
右側には置かれていないスプーン。
最近、このマグカップの出番は少し減っている。
以前なら、撮影で揺れた夜、取材で言葉を飲み込んだ夜、部屋へ来られない夜にも、ことんの音が必要だった。
でも今は違う。
プリンで戻る日がある。
肉まんで戻る日がある。
自分の部屋で「ただいま」と言う日がある。
現場に少し置いて帰る日がある。
松岡遥から戻り方を教わる日がある。
理沙さんが的確に線を引いてくれる日がある。
いいことだ。
何度もそう思う。
それでも、胸の奥に小さな寂しさが残る。
自分の役割は、小さくなっているのではないか。
そう思ってしまった自分に、悠真は少しだけ苦笑した。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
しらいさんが強くなっているのに、自分だけが取り残されたような顔をしている。
それは違う。
分かっている。
分かっているのに、朝の部屋に一人でいると、ふとそういう考えが浮かんでくる。
悠真はマグカップを写真に撮った。
今日は、いつも通り送るか迷った。
送れば、少し重いだろうか。
必要ない日にまで、ここを思い出させてしまうのではないか。
そんなことを考えて、結局、写真だけを撮って送らなかった。
スマホの画面には、送信前の画像だけが残る。
青灰色のコースターの上にある、白いマグカップ。
今日もあります。
その言葉を打ちかけて、消した。
◇
昼休み、三崎はいつもの席でカップ麺を食べていた。
昨日からラーメン気分が続いているらしい。
「お前、二日続けて麺か」
悠真が言うと、三崎は箸で麺を持ち上げながら答えた。
「現実は麺が伸びるからな」
「その名言、まだ続いてたのか」
「気に入った」
「自分でか」
「自分で」
三崎はふうふう息を吹きかけて、熱そうに麺をすすった。
「熱っ」
「現実だな」
「現実だ」
そんなくだらないやり取りをしているのに、悠真の笑い方は少しだけ遅れた。
三崎はそれを見逃さなかった。
「春日」
「何だ」
「今日、顔が肉まんに負けた男みたいになってる」
「何だその顔は」
「知らん。今作った」
「作るな」
「でも、近いだろ」
悠真は箸を止めた。
三崎は、何も知らない顔でカップ麺をかき混ぜている。
「推しが、ラーメンとか肉まんとかで元気になってくれるのは嬉しいけど、自分の感想の出番がなくなった気がして寂しいファンの顔」
「……」
「当たった?」
悠真は黙った。
三崎は少しだけ目を丸くした。
「え、当たったのか」
「当たってはいない」
「今の間は当たった人の間だぞ」
「うるさい」
三崎はしばらく悠真の顔を見ていたが、やがて少しだけ声を落とした。
「いや、まあ、分からなくはないけどな」
「何が」
「白瀬アカリがさ、遠くでちゃんと立ってるとするじゃん」
「うん」
「ファンとしては嬉しい。でも、遠くでちゃんと立てるようになるほど、こっちの応援なんていらないんじゃないかって感じる瞬間もある」
悠真は、返事をしなかった。
三崎は何も知らない。
春日悠真が白瀬アカリ本人とつながっていることも知らない。
しらいさんが部屋へ来ることも、青灰色のノートのことも、マグカップの音のことも知らない。
なのに、今の自分に近いところを言う。
「でもさ」
三崎は続けた。
「帰れる場所が一個しかない人より、いくつもある人のほうが安心じゃないか」
その言葉が、まっすぐ胸に入ってきた。
「……」
「一個しかないと、その場所が使えない日につらいだろ」
「そうだな」
「白瀬アカリみたいに仕事が不規則なら、なおさら。毎回同じ方法で戻れないほうが普通だし」
「うん」
「だから、いろんな戻り方を持ってるなら、そのほうがいい」
三崎はカップ麺の容器を見つめながら、少し笑った。
「ラーメンでも、プリンでも、肉まんでも、誰かの言葉でも、帰り道は多いほうがいい」
「……」
「で、それでも特別な場所は別に消えないんじゃないか」
悠真は、三崎を見た。
「消えない?」
「うん」
三崎は少し照れたように目を逸らす。
「たとえばさ。実家に帰る人が、一人暮らしの部屋も好きになったからって、実家が消えるわけじゃないだろ」
「……たとえが急に普通だな」
「普通で悪いか」
「いや」
「帰る場所が増えるって、前の場所が負けることじゃないと思う」
悠真は、その言葉をゆっくり噛みしめた。
帰る場所が増えることは、前の場所が負けることではない。
それは、今日いちばん必要な言葉だった。
「三崎」
「何」
「今日、外側の番人としてかなりいい仕事をした」
「給料は?」
「出ない」
「知ってた」
三崎は肩をすくめる。
けれど、悠真は少しだけ笑えた。
さっきより自然に。
◇
午後、しらいさんからメッセージが届いた。
『今日、撮影早めに終わった』
悠真はデスクで画面を見る。
『おつかれさまです』
既読。
『今日は、現場でけっこう戻れた』
『松岡さんと話して、少し笑った』
『肉まんなしでも?』
『うん』
『今日は自販機の温かいお茶』
悠真は少し笑った。
また一つ増えた。
戻るための温かいお茶。
『いいですね』
送る。
既読。
『春日くん』
『はい』
『今日、朝の写真なかった』
悠真は固まった。
気づかれていた。
いや、当然かもしれない。
ずっと続いていた小さな習慣が、今日はなかったのだから。
『すみません』
送る。
すぐ既読。
『謝るところ?』
悠真は少し迷った。
ここで誤魔化せば、たぶんしらいさんは気づく。
彼女は、最近かなりこちらの面倒くさい顔を読むようになっている。
『迷いました』
送る。
『必要ない日に送ると、重いかと思って』
既読。
少し長い沈黙。
仕事の画面に戻ろうとしても、意識はスマホへ向いてしまう。
やがて返事が来た。
『春日くん』
『はい』
『今、かなり面倒くさい顔してる?』
悠真は、会社のデスクで思わず目を閉じた。
見えている。
完全に見えている。
『たぶん』
正直に返す。
『肉まんに負けた?』
悠真は思わず小さく笑ってしまった。
『三崎にも同じようなことを言われました』
既読。
『外側の番人、今日も?』
『はい』
『何て?』
悠真は、三崎の言葉を送った。
『帰れる場所が一個しかない人より、いくつもある人のほうが安心だと』
『帰る場所が増えることは、前の場所が負けることではないとも』
既読。
長い沈黙。
しらいさんが、その言葉を受け取っている。
それが画面越しにも分かった。
『三崎さん』
いつもの一文。
続けて、
『今日はラーメン十杯』
悠真は吹き出しそうになった。
『多すぎます』
『それくらい』
『本人は喜びます』
『でも心の中で』
『安全ですね』
少しだけ軽さが戻る。
それから、しらいさんは言った。
『今日、部屋行っていい?』
『もちろんです』
『朝の写真の話、したい』
悠真は胸の奥が少し鳴った。
『待っています』
既読。
『知ってる』
◇
その夜、しらいさんはいつもより少し早く来た。
玄関を開けると、彼女は黒いキャップを外しかけたところだった。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
声は安定していた。
撮影の疲れはある。
けれど、岸谷紗季に大きく引っ張られている感じは薄い。
今日は、春日のほうが少し揺れている。
部屋に入ると、しらいさんはローテーブルを見た。
マグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
スプーンは少し離れた場所。
そして、朝送られなかった写真の現物。
「ある」
彼女が言う。
「はい」
「朝も、あった?」
「ありました」
「写真も撮った?」
「撮りました」
「送らなかった?」
「はい」
しらいさんは、コートを脱いで座った。
「どうして?」
責める声ではなかった。
ただ、知りたい声だった。
悠真はミルクティーを作りながら答えた。
「最近、しらいさんの帰り道が増えているので」
「うん」
「それはいいことです」
「うん」
「でも、俺が毎朝ここを見せることで、ここへ帰らなければいけないような気持ちにさせたら嫌だなと思いました」
「うん」
「それと」
少し言葉に詰まる。
しらいさんは待っていた。
急かさずに。
「俺の役割が、小さくなっているように感じたのかもしれません」
言ってしまうと、少しだけ恥ずかしかった。
「肉まんや、プリンや、松岡さんや、理沙さんや、現場で戻れるようになっていくのは嬉しいです」
「うん」
「でも、少し寂しい」
「うん」
「それで、朝の写真を送るのが、少し怖くなりました」
ミルクティーを持って戻る。
しらいさんは、黙って聞いていた。
カップを受け取り、青灰色のコースターへ置く。
ことん。
その音が、今日は春日の胸にも落ちた。
「春日くん」
「はい」
「それ、言ってくれてよかった」
「そうですか」
「うん」
「面倒くさくないですか」
「面倒くさい」
「……」
「でも、近い人の面倒くささ」
しらいさんは少しだけ笑った。
「嫌じゃない」
「はい」
「ただ、隠されると困る」
「すみません」
「謝るところではある」
「はい」
「でも、ありがとう」
彼女はミルクティーを一口飲んだ。
「私、肉まんで戻れる日が増えた」
「はい」
「現場で少し置いて帰れる日も増えた」
「はい」
「自分の部屋に少し帰れる日もある」
「はい」
「松岡さんに戻り方を教えてもらうこともある」
「はい」
「理沙さんに止めてもらうこともある」
「はい」
「三崎さんの言葉で救われることもある」
「はい」
「でも、ここはここ」
その言葉が、部屋に静かに落ちた。
ここはここ。
しらいさんは、マグカップを両手で包んだまま続ける。
「他の帰り道が増えても、この部屋の道が消えたわけじゃない」
「はい」
「春日くんの役割が小さくなったんじゃない」
「はい」
「私が、いろんな場所から帰ってこられるようになっただけ」
「……はい」
「でも、ここにしかないものもある」
悠真は彼女を見た。
「ことんの音?」
「それも」
「はい」
「ミルクティーも」
「はい」
「青灰色のコースターも」
「はい」
「あと、春日くんの面倒くさい顔」
「またそこですか」
「そこも大事」
しらいさんは少し笑った。
「松岡さんは戻り方を教えてくれる」
「はい」
「理沙さんは線を引いてくれる」
「はい」
「三崎さんは外側から見てくれる」
「はい」
「春日くんは、ここで面倒くさい顔で待ってる」
「……それでいいんですか」
「それがいい」
胸の奥が、少しだけほどけた。
◇
しばらく、二人は何も言わなかった。
しらいさんはミルクティーを飲む。
カップを置く。
ことん。
今日は、その音が彼女のためだけではなく、春日のためにも鳴っている気がした。
「朝の写真」
しらいさんが言った。
「はい」
「毎日じゃなくていい」
「はい」
「送らない日があってもいい」
「はい」
「でも、重いからやめるんじゃなくて、今日は送らなくても大丈夫って思ってやめて」
悠真は、少しだけ息を止めた。
「はい」
「送ってほしい日は、私から言う」
「はい」
「春日くんが送りたい日は、送って」
「はい」
「でも、義務にしない」
「合図にも休みが必要」
「うん」
「写真にも休みが必要ですね」
「そう」
しらいさんは頷いた。
「でも、今日みたいに送らなかった理由が面倒くさいときは、言って」
「はい」
「隠すと、私が勝手に考える」
「それはよくないですね」
「うん」
「気をつけます」
「私も」
しらいさんは青灰色のノートを取り出した。
「今日、書く」
「はい」
「読んでいいやつ」
彼女はページを開き、少し考えてから書いた。
『帰り道は増えた。でも、この部屋の道は消えない。』
悠真は、その一文を見た。
胸の奥が、静かに温かくなる。
「読みました」
「うん」
「今日、かなり必要な一文です」
「春日くんに?」
「はい」
「私にも」
「はい」
「じゃあ、二人分」
「そうですね」
しらいさんはペンを閉じた。
「今日は、これで止める」
「はい」
「書き足したいけど、止める」
「えらいです」
「えらい?」
「はい」
「春日くん、急に先生」
「すみません」
「謝らないで」
いつものやり取りが戻る。
それだけで、かなり楽になった。
◇
帰る時間は、いつもより早めだった。
明日も撮影がある。
無理はできない。
しらいさんはマグカップを洗い、棚に戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
彼女はその音を聞いて、少しだけ目を細めた。
「これは、ここだけの音」
ぽつりと言った。
悠真はその言葉に顔を上げる。
「はい」
「肉まんには肉まんの戻り方がある」
「はい」
「プリンにはプリンの戻り方がある」
「はい」
「松岡さんには松岡さんの言葉がある」
「はい」
「理沙さんには理沙さんの線がある」
「はい」
「三崎さんには唐揚げとラーメンがある」
「そこもですか」
「そこも」
しらいさんは少し笑った。
「でも、この音はここだけ」
「はい」
「だから、消えない」
悠真は、胸の奥でその言葉を受け取った。
消えない。
それだけで、十分だった。
玄関で、しらいさんは振り返る。
「春日くん」
「はい」
「今日は、春日くんも少し戻った?」
悠真は少し考えた。
「はい」
「何割?」
「八割くらい」
「残り二割は?」
「寝ます」
「私の真似」
「はい」
しらいさんは笑った。
「じゃあ、寝て戻って」
「分かりました」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
悠真はローテーブルの前に座ったまま、しばらく動かなかった。
帰り道は増えた。
でも、この部屋の道は消えない。
その一文が、胸の中に残っている。
自分の役割は小さくなったのではない。
しらいさんが、いろんな場所から帰ってこられるようになっただけ。
そして、この部屋にはこの部屋にしかない音がある。
ことん。
必要な日に鳴ればいい。
毎日鳴らなくても、消えたわけではない。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
少しだけ笑う。
今日は、自分も戻る練習をした日だったのかもしれない。




