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第117話 ここはここ、という言葉が部屋に残った

 翌朝、春日悠真はいつもより少し早く目が覚めた。


 目覚ましより前だった。


 カーテンの隙間から入る光はまだ薄く、部屋の中は静かだった。

 ローテーブルの上には、昨夜のまま青灰色のコースターがある。

 マグカップは棚の中。

 蜂蜜の瓶は、いつもの位置。


 何も変わっていない。


 けれど、部屋の中に残っている言葉があった。


 ここはここ。


 しらいさんが、昨夜言った言葉。


 肉まんには肉まんの戻り方がある。

 プリンにはプリンの戻り方がある。

 松岡さんには松岡さんの言葉がある。

 理沙さんには理沙さんの線がある。

 三崎には唐揚げとラーメンがある。


 でも、この音はここだけ。


 そう言って、マグカップを棚へ置いた音。


 ことん。


 その音まで、まだ部屋のどこかに残っている気がした。


 悠真は、棚からマグカップを出した。


 今日は写真を送るかどうか迷わなかった。


 昨日、しらいさんと話した。


 毎日でなくていい。

 送らない日があってもいい。

 でも、重いからやめるのではなく、今日は送らなくても大丈夫と思ってやめる。


 送りたい日は、送っていい。


 今日は、送りたい日だった。


 ローテーブルにマグカップを置く。

 青灰色のコースター。

 スプーンは右側ではなく、少し離した場所。

 蜂蜜の瓶は端に少しだけ入るように。


 写真を撮る。


 少し考えて、文章を打った。


『今日もあります』


 それだけではなく、もう一文。


『ここはここです』


 送信する。


 すぐに既読がついた。


 少しして、返信。


『見た』


『ここはここ』


 さらに少し間があって、


『朝から効く』


 悠真は、思わず笑った。


『すみません』


『謝るところではない』


『でも、少しずるい』


『なら、少しだけ謝ります』


『少しだけなら許す』


 いつものやり取り。


 朝の空気が、少し柔らかくなった。


    ◇


 その日の撮影は午後からだったらしい。


 午前中、しらいさんは台本を読む時間を短めに区切り、岸谷紗季の場面を二つだけ確認したという。


 その連絡が昼前に来た。


『今日は、紗季さんに近づきすぎてない』


 悠真は会社のデスクでその文字を読んだ。


『いい距離ですね』


 既読。


『たぶん』


『でも、春日くんの写真で少し戻った』


『朝から戻る必要があったんですか』


『少しだけ』


『昨日の続きが残ってた』


『ここはここ、の続き?』


『うん』


 悠真は、少しだけ画面を見つめた。


 ここはここ。


 それは彼女の言葉でもあり、悠真に向けられた言葉でもあった。


 帰り道が増えても、この部屋の道は消えない。


 その確認が、まだ二人の間に必要なのだろう。


『今日、部屋行けるかも』


 次に届いた。


『撮影が長引かなければ』


『分かりました』


『無理はしないでください』


 既読。


『でも、行きたい』


『ここはここ、をもう少し話したい』


 悠真の胸が、静かに鳴った。


『待っています』


 既読。


『知ってる』


    ◇


 昼休み、三崎は今日は唐揚げ弁当に戻っていた。


「ラーメン期間は終わったのか」


 悠真が言うと、三崎は胸を張った。


「唐揚げに帰ってきた」


「帰ってきたのか」


「ここはここだからな」


 悠真は箸を止めた。


「……今、何て言った?」


「唐揚げは唐揚げ?」


「その前」


「ここはここ?」


 三崎は不思議そうに首を傾げた。


「何だよ」


「いや」


「何か刺さった顔したぞ」


「刺さってない」


「絶対刺さった」


 三崎はにやにやしながら唐揚げを一つ口に入れる。


「まあ、ラーメンもいい。肉まんもいい。プリンもいい。でも俺の昼飯は唐揚げに戻るわけだ」


「急に深いようで浅いな」


「浅くていいんだよ、昼飯は」


 悠真は少し笑った。


 しかし、三崎はそこでふと真面目な顔になった。


「でもさ、白瀬アカリもそうなんじゃないか」


「何が」


「戻る方法が増えても、元から大事だったものは消えないっていうか」


 悠真は、黙って三崎を見た。


 今日も、外側の番人は来る。


「ファンとしてはさ、推しが変わると少し寂しいわけだよ」


 三崎は唐揚げを箸で軽くつついた。


「昔から好きだった部分がなくなるんじゃないかって思う」


「うん」


「でも、変わるって、前のものを捨てることだけじゃないだろ」


「……」


「新しい芝居を覚えても、昔の透明感が全部なくなるわけじゃない。重い役をやっても、温かい飲み物の感じが消えるわけじゃない」


 悠真は、その言葉を胸の中へしまった。


「三崎」


「何」


「今日もかなり外側の番人だ」


「唐揚げに帰ってきた外側の番人」


「肩書きが増えたな」


「給料は?」


「出ない」


「いつも通りブラック」


 三崎は笑った。


 けれど、悠真はその言葉に救われていた。


 変わることは、前のものを捨てることではない。


 しらいさんにも、たぶん自分にも必要な言葉だった。


    ◇


 夜、しらいさんは少し遅れて来た。


 撮影が押したらしい。


 玄関を開けると、彼女はいつものように立っていた。


 黒いキャップ。

 薄いマスク。

 ベージュのコート。

 少し疲れた目元。


 けれど、沈んではいない。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は、しっかりしていた。


 部屋に入ると、彼女はすぐにローテーブルを見た。


 青灰色のコースター。

 白いマグカップ。

 蜂蜜。

 スプーンは少し離れた場所。


「朝の写真と同じ」


「はい」


「ここはここ」


「はい」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「今日は、これを見に来た」


「ミルクティーも作ります」


「うん。蜂蜜は普通」


「分かりました」


 悠真はキッチンへ行き、ミルクティーを作った。


 蜂蜜は普通。

 甘すぎず、薄すぎず。


 今日は、何かを強く戻す日ではなく、確かめる日だと思った。


 カップを渡すと、しらいさんは両手で受け取り、コースターへ置いた。


 ことん。


 その音に、彼女は目を伏せる。


「やっぱり、ここだけの音」


「はい」


「今日は、紗季さんの撮影はそこまで重くなかった」


「はい」


「戻りも八割くらいで来た」


「高いですね」


「うん」


「では、今日は何を置きに?」


 しらいさんは、マグカップを見つめたまま言った。


「ここはここ、って言葉」


 悠真は静かに座った。


 彼女は続ける。


「昨日、春日くんが少し寂しいって言ってくれた」


「はい」


「それ、嫌じゃなかった」


「はい」


「むしろ、少し嬉しかった」


「そうですか」


「うん。でも、春日くんがここを重荷にしそうなのは嫌だった」


 悠真は、少しだけ俯いた。


「はい」


「ここに帰ってこなきゃって思うのも違う」


「はい」


「でも、ここがもう必要ないって思われるのも違う」


「はい」


「難しい」


「難しいですね」


「うん」


 しらいさんはミルクティーを一口飲んだ。


「だから、ここはここ」


「はい」


「唯一じゃなくても、特別は消えない」


 悠真は、その言葉に目を上げた。


 しらいさんは、少し照れたようにマグカップを両手で包んでいた。


「昨日から、そう思ってた」


「……はい」


「春日くん」


「はい」


「唯一じゃなくなったら、特別じゃなくなるって思った?」


 悠真は、正直に考えた。


 そして、正直に答えた。


「少し、思いました」


「うん」


「自分でも、子どもっぽいと思います」


「うん」


「でも、思いました」


「言ってくれてよかった」


「はい」


「私も、逆なら思う」


 しらいさんは、小さく息を吐いた。


「春日くんが、私以外の誰かの言葉で安心できるようになって」


「はい」


「私の言葉が必要じゃない日が増えたら」


「はい」


「よかったって思う」


「はい」


「でも、少し寂しい」


「はい」


「だから、お互い面倒くさい」


 悠真は、少し笑った。


「お互いですか」


「お互い」


「なら、少し安心しました」


「安心するところ?」


「はい」


 しらいさんも笑った。


    ◇


 しばらく、二人は黙ってミルクティーを飲んだ。


 いつもの部屋。


 特別なことは何も起きていない。


 でも、こういう夜こそ、きっと大事なのだろう。


 大きく揺れた日に戻るための部屋だけではない。

 九割崩れた日に救う場所だけでもない。


 普通に疲れて、普通に帰ってきて、ただ「ここはここ」と確かめる夜。


 そのための場所でもある。


「三崎が今日、言っていました」


 悠真が言うと、しらいさんはすぐに顔を上げた。


「外側の番人?」


「はい」


「今日は何を?」


「変わることは、前のものを捨てることではない、と」


 しらいさんは、静かにその言葉を受け取った。


「白瀬アカリの話?」


「はい。新しい芝居を覚えても、昔の透明感が全部なくなるわけではない。重い役をやっても、温かい飲み物の感じが消えるわけではないと」


「三崎さん」


「はい」


「今日は唐揚げ?」


「唐揚げでした」


「心の中で唐揚げ五個」


「増えていますね」


「かなり」


 しらいさんは少し笑った。


 それから、ゆっくり言った。


「変わることは、前のものを捨てることじゃない」


「はい」


「それ、今の私にも必要」


「そう思いました」


「春日くんにも?」


「かなり」


「じゃあ、二人分」


「はい」


 しらいさんは青灰色のノートを取り出した。


「書いていい?」


「もちろんです」


「今日は、読ませたい」


「はい」


 彼女はペンを持ち、少しだけ考えてから書いた。


『唯一じゃなくても、特別は消えない。ここはここ。』


 書き終えると、少し照れた顔でノートをこちらへ向けた。


「読みました」


「うん」


「かなり効きます」


「春日くんに?」


「はい」


「私にも」


「はい」


「じゃあ、これも二人分」


 しらいさんはノートを閉じた。


「これ、ちょっと恋愛っぽいね」


「そうですね」


「恥ずかしい」


「でも、いいと思います」


「出た」


「出ます」


 いつもの言葉に、二人で少し笑った。


    ◇


 その後、しらいさんは今日の撮影の話を少しだけした。


 重い場面ではなかったこと。

 松岡さんがまたラーメンの話をしたこと。

 理沙さんに「今日は戻り方が安定している」と言われたこと。


「安定してるって言われると、少し怖い」


「なぜですか」


「安定しなきゃって思うから」


「はい」


「でも、理沙さんに、安定している日は安定しているでいい。明日崩れたら、そのとき戻ればいいって言われた」


「理沙さんらしいですね」


「うん」


「では、今日は安定している日です」


「うん」


「崩れていない日に来てもいいです」


 しらいさんは、少しだけ目を丸くした。


「それ」


「はい」


「今日、聞きたかったかも」


「そうですか」


「うん」


「この部屋は、崩れたときだけの場所ではないので」


 言ってから、悠真自身もその言葉に少し救われた。


 しらいさんが崩れたときだけ必要な場所。

 もしそう思っていたなら、自分で自分の役割を狭めていたのかもしれない。


 ここはここ。


 崩れた日も。

 普通の日も。

 少し疲れただけの日も。

 ただ会いたい日も。


 来ていい場所。


「春日くん」


「はい」


「今の、ノートに書きたい」


「今日はもう一文書きました」


「あ」


「でも、心に置いておきましょう」


「書かない練習」


「はい」


「崩れたときだけの場所じゃない」


「はい」


「覚えておく」


「俺も覚えておきます」


 しらいさんは、少しだけ頷いた。


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音は、重すぎず、軽すぎなかった。


 ただ、そこにあった。


「春日くん」


「はい」


「今日は、崩れてないけど来た」


「はい」


「それでも、おかえりって言ってくれた」


「もちろんです」


「ここは、崩れたときだけの場所じゃない」


「はい」


「唯一じゃなくても、特別は消えない」


「はい」


「ちょっと恥ずかしい」


「かなり」


「春日くんも?」


「かなり」


 二人で少し笑った。


 玄関で、しらいさんは靴を履きながら言った。


「明日も行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「明日は、肉まんかもしれない」


「はい」


「ラーメンかもしれない」


「はい」


「現場に置いて帰るかもしれない」


「はい」


「でも、ここにも帰ってくる」


「はい」


「毎日じゃなくても」


「はい」


「必要な日だけじゃなくても」


「はい」


「来たい日にも」


 悠真は頷いた。


「来てください」


 しらいさんは少しだけ目元を赤くした。


「うん」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 悠真はローテーブルの前に戻り、青灰色のコースターを見た。


 唯一じゃなくても、特別は消えない。

 ここはここ。


 その一文が、部屋に残っている。


 今日は、しらいさんが大きく崩れた日ではなかった。

 役に強く飲まれた日でもなかった。

 ことんの音がなければ戻れない夜でもなかった。


 それでも、来た。


 そして、帰っていった。


 それだけで、この部屋の意味が少し変わった気がした。


 救急避難所ではなく。

 ただの習慣でもなく。

 恋人の部屋として。

 帰り道の一つとして。

 特別な場所として。


 ここはここ。


 悠真は棚の中のマグカップを見た。


 明日、写真を送るかどうかは分からない。


 でも、送ってもいい。

 送らなくてもいい。


 義務ではなく、合図。


 そして合図ではない日にも、この部屋は消えない。

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