第118話 初めての長い撮影日、君は八割だけ帰ってきた
その日は、朝から空気が少し違っていた。
白瀬アカリが現場に入ったのは、まだ外の光がやわらかい時間だった。
スタジオの入口にはスタッフが何人もいて、機材車の扉が開き、ケーブルが運ばれ、誰かがコーヒーの紙カップを片手に小走りで廊下を抜けていく。
長い一日になる。
それは、予定表を見た時点で分かっていた。
午前中は職場の場面。
昼過ぎから岸谷紗季の部屋セット。
夕方以降は、夜道を歩く場面。
さらに、細かい差し込みの撮影がいくつか。
台詞の量は多くない。
でも、岸谷紗季としている時間が長い。
それが少し怖かった。
白瀬アカリは控室で衣装に着替え、黒いパンプスを履いた。
足元が変わる。
姿勢が少し変わる。
鏡の中の自分に、岸谷紗季の輪郭が薄く重なる。
でも、今日は慌てなかった。
心の中で、いつものように確かめる。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、会いに行く。
理沙さんが控室に入ってきた。
「喉は?」
「九割一分です」
「私の評価では九割」
「少し下がりましたね」
「今日は長いから、最初から慎重に見ているだけよ」
「はい」
理沙さんはタブレットを確認しながら、短く言った。
「今日は、全部を持ち帰らないこと」
「はい」
「長い撮影日は、終わったあとに“全部戻そう”としない」
「全部戻そうとしない」
「ええ。八割でもいい。七割でもいい。帰れた分だけ帰る」
しらいさんは、その言葉を胸の中で繰り返した。
八割でもいい。
それは、今日の自分に必要になりそうな言葉だった。
「春日さんの部屋には?」
「今日は、たぶん行けません」
「でしょうね。時間的にも体力的にも、直帰がいいわ」
「はい」
「電話は短く。ノートは一文まで」
「はい」
「肉まんでもプリンでもラーメンでも、必要なら使いなさい」
「理沙さんがラーメンって言いました」
「松岡さんの影響でしょう」
「はい」
「戻る方法は綺麗じゃなくてもいい。でも、戻る努力は雑にしないこと」
理沙さんはそう言って、しらいさんを見た。
「今日の目標は、完璧に戻ることじゃない。壊れずに終えること」
「はい」
「そして、八割でも帰ってきたら、自分でそれを認めること」
しらいさんは、静かに頷いた。
◇
午前中の撮影は、思ったより順調だった。
職場セットでの場面。
岸谷紗季が頼まれた仕事を黙って片づける。
誰かに「助かった」と言われて、小さく笑う。
そのあと、誰にも見られていない場所で、ほんの少しだけ肩を落とす。
監督は何度か細かい指示を出した。
「今の笑顔、少しだけ安心させに行きすぎですね」
「はい」
「紗季は、相手を安心させたいというより、面倒を起こしたくない人かもしれません」
「はい」
その違いは小さい。
でも、演じるとかなり違った。
相手を安心させる笑顔。
面倒を起こさないための笑顔。
似ているようで、根っこが違う。
二度目、白瀬アカリは笑い方を少し変えた。
口元だけで、軽く。
自分の内側を見せないように。
監督が頷いた。
「今のです」
嬉しい。
でも、少し削れる。
岸谷紗季に近づくたび、胸の奥のどこかが薄く擦れるような感じがする。
しらいさんは、カットのあとに一度だけ足元を見た。
黒いパンプス。
紗季の靴。
でも、立っているのは自分の足。
大丈夫。
まだ戻れる。
◇
昼休憩は短かった。
弁当を食べる時間はあったが、ゆっくりするほどではない。
松岡遥が隣に座り、味噌汁のカップを手にしていた。
「白瀬さん、今日は長いですね」
「はい」
「長い日は、途中で戻る練習したほうがいいですよ」
「途中で?」
「全部終わってから戻ろうとすると、量が多すぎるので」
松岡は味噌汁を一口飲んだ。
「私は、長い日は場面ごとに小さく区切ります」
「どういうふうにですか」
「今の場面はここで終わり、って心の中で言うだけです。ちゃんとできる日もあれば、全然できない日もありますけど」
「それだけでも違いますか」
「違います。全部つながると、帰りが遠くなるので」
しらいさんは頷いた。
全部つながると、帰りが遠くなる。
それもまた、今日の一文にしたいような言葉だった。
でも、今日はまだ書かない。
書くのは最後でいい。
「今日は何で戻る予定ですか」
松岡が聞く。
しらいさんは少し考えた。
「まだ決めていません」
「じゃあ、とりあえず味噌汁です」
「味噌汁」
「はい。味噌汁は現実です」
「松岡さん、現実を食べ物で分類しますよね」
「食べ物は強いですから」
松岡は真面目な顔でそう言った。
しらいさんは少し笑った。
笑えた。
それだけで、午前中の岸谷紗季から少し離れられた気がした。
◇
午後は、部屋セットだった。
昨日も入った、岸谷紗季の部屋。
綺麗なのに帰れない部屋。
明かりがついても、ただいまがない部屋。
今日はそこで、紗季が一人で食事をする場面を撮る。
コンビニで買ったサラダと、小さな惣菜。
電子レンジで温めたご飯。
マグカップには水。
食べている。
けれど、満たされていない。
それを、出しすぎずに演じなければならない。
一度目は、少し寂しさが見えすぎた。
監督が言う。
「白瀬さん、今のは“寂しい食事”に見えます」
「はい」
「紗季は、寂しいと自覚して食べているわけではないと思います。今日もこういうものだ、くらいで」
「はい」
今日もこういうものだ。
その言葉が、ひどく痛かった。
二度目。
白瀬アカリは、ただ普通に食べた。
スマホを見る。
通知を確認する。
箸を置く。
水を飲む。
少しだけテレビのリモコンを見るが、つけない。
何も起きない。
でも、何も起きないことが痛い。
カットがかかる。
監督が頷く。
「今のでいきましょう」
しらいさんは小さく頭を下げた。
嬉しい。
怖い。
でも、午前中より少し疲れている。
岸谷紗季の部屋にいる時間が長い。
セットの外へ出ると、理沙さんがすぐに水を渡してくれた。
「今、どのくらい?」
「六割、紗季さん側です」
「多いわね」
「はい」
「一度、廊下を歩いてきなさい。靴も履き替える?」
「いえ、次もこのままなので」
「なら、せめて水を飲んで。名前を確認」
「はい」
しらいさんは水を飲んだ。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、今日はまだ会いに行く。
◇
夕方の外ロケは、思ったより寒かった。
季節は春へ向かっているはずなのに、夜の空気はまだ冷える。
紗季が仕事帰りに一人で歩く場面。
台詞はない。
ただ歩く。
けれど、これがまた難しい。
帰る道なのに、帰っているように見えてはいけない。
逃げているわけでもない。
急いでいるわけでもない。
ただ、今日が終わったから歩いている。
黒いパンプスの音が、アスファルトに小さく触れる。
カメラが回る。
白瀬アカリは歩く。
岸谷紗季として。
でも、しらいさんの足で。
一度目。
少し疲れが出すぎた。
二度目。
少し何もなさすぎた。
三度目。
歩く。
ただ歩く。
視線は少し前。
肩は落としすぎない。
鞄を持つ手に力を入れすぎない。
帰りたいわけではない。
でも、行く場所はそこしかない。
「カット」
監督が言った。
モニター確認のあと、少しだけ沈黙があった。
「今のでいきます」
現場の空気が少しほどける。
拍手はない。
大げさな反応もない。
でも、スタッフの何人かが静かに頷いているのが見えた。
白瀬アカリは、頭を下げた。
その瞬間、疲れが足元から上がってきた。
長い一日だった。
本当に長かった。
◇
撮影がすべて終わったころには、夜はかなり深くなっていた。
控室に戻り、衣装を脱ぎ、自分の服に着替える。
黒いパンプスを脱いだ瞬間、足が少し軽くなる。
でも、体全体は重い。
岸谷紗季の残りが、まだ肩や喉や指先にいる。
理沙さんが入ってきた。
「おつかれさま」
「おつかれさまです」
「今日は直帰」
「はい」
「春日さんの部屋はなし」
「はい」
「電話は五分まで」
「はい」
「ノートは?」
しらいさんは、少し迷った。
「一文だけ書きたいです」
「書きなさい」
「はい」
「ただし、全部戻ろうとしないこと」
理沙さんは、今日の最初に言った言葉をもう一度繰り返した。
「八割でもいい」
「はい」
「今日は、八割帰れたら十分」
しらいさんは、青灰色のノートを開いた。
手が少し疲れている。
文字も少しだけ揺れた。
『八割で帰っても、ただいまは言っていい。』
書いた瞬間、少しだけ泣きそうになった。
全部戻れなくても。
岸谷紗季が二割残っていても。
疲れが消えなくても。
ただいまを言っていい。
その許可が、今日の自分には必要だった。
◇
春日悠真は、その写真を家で受け取った。
ローテーブルの前に座っていた。
マグカップは棚の中。
今日は、最初から音を鳴らすつもりはなかった。
きっと、彼女はかなり疲れている。
必要なのは、音ではなく、受け止めすぎない言葉かもしれない。
スマホに届いた写真。
青灰色のノート。
『八割で帰っても、ただいまは言っていい。』
悠真は、しばらく画面を見つめた。
胸が痛くなった。
今日の彼女は、どれだけ長く岸谷紗季としていたのだろう。
どれだけ言わない言葉を喉に残したのだろう。
どれだけ疲れて、それでも現場で立っていたのだろう。
『読みました』
悠真は送った。
『もちろんです』
『八割でも、六割でも、ただいまは言っていいです』
既読。
長い沈黙。
やがて返ってきた。
『今、八割くらい』
『かなり帰れています』
既読。
『でも、二割まだ紗季さん』
『その二割は、今日無理に剥がさなくていいと思います』
既読。
『春日くん』
『はい』
『電話していい?』
『もちろんです』
◇
電話がつながると、しらいさんの声はいつもより低かった。
疲れた声。
でも、壊れた声ではない。
「もしもし」
「おつかれさまでした」
「うん」
「長かったですね」
「長かった」
「今、八割ですか」
「うん」
「八割帰れたなら十分です」
電話の向こうで、しらいさんが少し息を吐いた。
「それ、今日すごく必要」
「はい」
「十割戻らなきゃって思ってた」
「はい」
「春日くんに電話する前に、ちゃんと戻ってからじゃないとだめかなって」
「だめではありません」
「うん」
「途中でも、疲れていても、八割でも、ただいまを言っていいです」
「うん」
「五割でも」
「五割でも?」
「はい」
「三割は?」
「三割なら、たぶん寝る準備をしながら言いましょう」
しらいさんが、小さく笑った。
その笑いは弱かったけれど、ちゃんと彼女のものだった。
「春日くん」
「はい」
「今日、優しい理沙さん側」
「彼氏側もです」
「強い」
いつもの言葉が出た。
少し安心する。
「今日はね」
「はい」
「職場の場面も、部屋も、夜道もあった」
「はい」
「ずっと紗季さんだった」
「はい」
「途中で、何回か戻った」
「はい」
「でも、全部戻る前に次の場面に行った」
「はい」
「それが積もった」
「はい」
「終わったら、体の中に紗季さんが二割くらい残ってた」
「はい」
「でも、今日、その二割を無理に消さなくてもいい?」
「いいと思います」
「本当に?」
「はい」
「明日も撮影なのに?」
「だからこそ、寝たほうがいいです」
「理沙さん側」
「今日はかなりそうです」
「彼氏側は?」
「心配しています」
「うん」
「でも、帰ってきてくれて嬉しいです」
しらいさんは黙った。
数秒後、鼻をすするような小さな音がした。
「泣いてもいいですよ」
「今日は泣かない」
「はい」
「泣く体力がない」
「それは寝たほうがいいですね」
「うん」
少しだけ笑いが戻った。
◇
「春日くん」
「はい」
「ただいま、言っていい?」
「もちろんです」
「八割だけど」
「八割で」
「二割、紗季さんだけど」
「そのままで」
電話の向こうで、少しだけ沈黙があった。
それから、小さな声。
「ただいま」
悠真は、すぐに返した。
「おかえりなさい」
いつもより、少しゆっくり言った。
疲れている彼女が、ちゃんと受け取れるように。
「おかえり、効く」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
「今日は、ことんなしでいい」
「はい」
「声だけでいい」
「はい」
「マグカップ、出してる?」
「今日は出していません」
「そうなんだ」
「今日は、音を鳴らすより、静かにしておく日かなと思いました」
「春日くん」
「はい」
「そういうところ」
「すみません」
「謝らないで」
彼女の声は、少しずつ眠気を含んでいく。
「今日は、八割で寝る」
「はい」
「寝たら、九割くらいになるかも」
「なると思います」
「十割じゃなくてもいい?」
「いいです」
「明日の朝、九割で行ってもいい?」
「もちろんです」
「そっか」
しらいさんは、小さく息を吐いた。
「八割で帰っても、ただいまは言っていい」
「はい」
「春日くんも、覚えてて」
「覚えています」
「私が忘れたら?」
「言います」
「何度でも?」
「何度でも」
「知ってる」
その声は、もうかなり眠そうだった。
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
「明日も行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「帰ってくる」
「八割でも、おかえりって言います」
「うん」
電話が切れた。
◇
悠真はしばらくスマホを見つめていた。
今日は、ことんの音を鳴らさなかった。
マグカップも出さなかった。
ミルクティーも作らなかった。
彼女は八割だけ帰ってきた。
それでも、ただいまを言った。
そして、悠真はおかえりを言った。
それでよかった。
十割戻ってからでないと帰ってきたと言えないなら、彼女はきっと苦しくなる。
疲れた日。
長い撮影の日。
岸谷紗季が体に少し残る日。
そんな日にも、帰ってきていい。
完全でなくても。
整っていなくても。
明るくなくても。
八割のただいま。
それを受け取る場所でいたいと思った。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
今日は静かにしている。
必要な日に鳴ればいい。
必要ではない日は、彼女の眠りを邪魔しないように、静かにそこにあればいい。




