第119話 岸谷紗季の沈黙が、白瀬アカリの喉に残る
翌朝、しらいさんは声を出す前に、自分の喉へ手を当てた。
痛いわけではない。
腫れている感じもない。
風邪の前触れのような熱っぽさもない。
けれど、何かが残っていた。
昨日の長い撮影。
職場のセット。
岸谷紗季の部屋。
夜道。
何度も言わなかった言葉。
助けて。
疲れた。
帰りたい。
ただいま。
実際には、どれも台詞として口に出していない。
なのに、喉の奥に薄く積もっている。
しらいさんは、ベッドの上で小さく息を吐いた。
「……おはよう」
自分の声を確かめるために言ってみる。
声は出た。
白瀬アカリの声でも、岸谷紗季の声でもなく、朝起きたばかりのしらいさんの声。
けれど、少しだけ重い。
昨夜、春日くんには「八割で帰っても、ただいまは言っていい」と言われた。
その言葉のおかげで眠れた。
十割戻らなくてもいい。
二割くらい岸谷紗季が残っていても、ただいまを言っていい。
でも、その残った二割が、今朝は喉にいる気がした。
しらいさんは、枕元のスマホを手に取った。
春日くんから、朝の写真が届いていた。
青灰色のコースター。
白いマグカップ。
蜂蜜の瓶。
スプーンは少し離れた場所。
『今日もあります』
その下に、
『八割で帰った翌朝も、あります』
とあった。
しらいさんは、画面を見ながら少しだけ笑った。
昨日の続きが、ちゃんと今朝に繋がっている。
『見た』
送る。
『喉に少し残ってる』
すぐ既読がついた。
『痛みですか』
『痛みじゃない』
『声が重い』
『沈黙が残ってる感じ』
送ってから、自分でも少し変な表現だと思った。
けれど、春日くんはすぐ否定しなかった。
『今日は理沙さんに必ず言ってください』
既読のまま少し笑ってしまう。
『理沙さん側』
送る。
『彼氏側もです』
いつもの返事。
その一文で、朝の空気が少しだけほどけた。
◇
事務所に着くと、理沙さんはしらいさんの顔を見るより先に喉を見た。
いや、実際に喉を診たわけではない。
ただ、最初の挨拶の声で何かを拾ったのだと思う。
「おはようございます」
そう言った瞬間、理沙さんの眉が少しだけ動いた。
「喉は?」
「八割八分……くらいです」
「私の評価では八割六分」
「低いですね」
「声帯そのものより、喉の奥に力が残っている」
しらいさんは、少しだけ驚いた。
「分かるんですか」
「分かるわよ。昨日、長かったもの」
「はい」
「台詞は多くなかったけれど、沈黙が多かった」
理沙さんは、タブレットを置いて言った。
「沈黙も喉を使うのよ」
その言葉は、すっと胸の中に落ちた。
沈黙も喉を使う。
あまりにも当たり前のように言われたのに、初めて名前をつけてもらった気がした。
「声を出していないのに、喉が疲れるのは変だと思っていました」
「変ではないわ」
「はい」
「言わない言葉を止めていたのでしょう」
しらいさんは、思わず喉に手を当てた。
昨日の撮影。
ただいまを言わない。
疲れたと言わない。
大丈夫ではないのに、大丈夫の形で立つ。
帰りたいのに、帰っているように見えないよう歩く。
全部、声にしていない。
でも、喉の奥で止めていた。
「今日は無理に声を軽くしようとしないこと」
理沙さんが言った。
「はい」
「取材コメントは短め。発声練習も強くやらない。喉を開くより、休ませる」
「はい」
「岸谷紗季の沈黙を、白瀬アカリの喉に残したまま働かない」
「……はい」
少し刺さった。
昨日は八割で帰った。
でも、残った二割をそのまま今日へ持ってきてしまったのかもしれない。
「春日さんの部屋へは?」
「今日は、行けるかもしれません」
「なら、行ってもいいわ」
「いいんですか」
「今日は、声を出すためではなく、言わなかった声を休ませる日よ」
理沙さんは、少しだけ目を細めた。
「長く話し込まないこと。温かいものを飲んで、早く帰る」
「はい」
「青灰色のノートは一文だけ」
「はい」
「一文は?」
しらいさんは、少し考えてから言った。
「沈黙も喉を使う」
「よろしい」
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合って弁当を食べていた。
三崎は今日はまた唐揚げ弁当だった。
「最近、戻ってきたな」
悠真が言うと、三崎は唐揚げを箸で持ち上げた。
「ここはここだからな」
「その言葉、気に入ってるだろ」
「気に入った。便利だ」
三崎は唐揚げを食べながら、スマホを少しだけ見た。
「白瀬アカリの現場レポート、また出てたな」
「ああ」
「昨日の長い撮影っぽいやつ」
悠真は箸を止める。
「どう見えた?」
三崎は画面を伏せて、少し考えた。
「疲れてる」
「それは前も言ってたな」
「うん。でも、今日は喉が疲れてそう」
悠真は、思わず顔を上げた。
「喉?」
「いや、写真だから分からないけど」
「写真で喉が分かるのか」
「分からない。でも、分かる気がする」
三崎は少し困ったように笑った。
「白瀬アカリ、台詞をたくさん言って疲れてる顔じゃなくて、言わない言葉を止めて疲れてる顔してる」
悠真は、完全に箸を止めた。
まただ。
また外側の番人が、何も知らないまま近い場所にいる。
「三崎」
「何」
「今日も怖いくらい外側の番人だな」
「怖いはやめろ」
「いや、本当に」
「何か当たったのか?」
「外側の番人としてかなりいい」
「誤魔化した」
三崎は唐揚げを一つ口に入れたあと、少しだけ真面目な顔になった。
「沈黙の演技って、声出さないから楽ってわけじゃないんだろうな」
「たぶん」
「むしろ、言わないぶん喉に残りそう」
悠真は、その言葉を胸の中にしまった。
今日も持って帰る言葉ができた。
「お前、俳優でも演出家でもないのに、なんでそんなこと言うんだ」
「白瀬アカリの面倒くさいファンだから」
「認めたな」
「認める。面倒くさいファンは、沈黙の喉まで心配する」
「かなり面倒くさいな」
「お前に言われたくない」
その返しに、悠真は少しだけ笑った。
◇
午後、しらいさんから青灰色のノートの写真が届いた。
そこには一文だけ。
『沈黙も喉を使う。』
悠真は、その文字をしばらく見た。
強い一文だった。
短いのに、昨日から今日にかけての彼女の状態が、そこに全部入っている気がした。
『読みました』
『理沙さんの言葉ですか』
既読。
『うん』
『言われて、すごく納得した』
『声を出してないのに喉が重い理由が分かった』
悠真は返信する。
『三崎も今日、かなり近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『白瀬アカリは、台詞をたくさん言って疲れているのではなく』
『言わない言葉を止めて疲れている顔に見える、と』
既読。
長い沈黙。
しらいさんが、それを受け止めているのが分かった。
『三崎さん』
いつもの一文。
それから、
『今日は唐揚げ十個』
と届いた。
『本人は本当に食べられそうです』
『たぶん』
『でも心の中で』
少しだけ軽さが戻る。
続けて、しらいさんが送ってきた。
『今日、部屋行っていい?』
『喉を休ませたい』
悠真はすぐに返した。
『もちろんです』
『今日はミルクティーを作ります』
『でも、声を出すためではなく』
少し考えて、続けた。
『言わなかった声を休ませるミルクティーですね』
既読。
しばらく返事がなかった。
やがて、
『春日くん』
『はい』
『今日かなり詩人』
悠真は少し笑った。
『すみません』
『謝らないで』
『でも、それほしかった』
◇
その夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関を開けると、彼女はいつもより少し声を抑えていた。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
声は小さかった。
けれど、ちゃんと出ている。
部屋に入ると、彼女はすぐにローテーブルの前へ座った。
今日は、あまり話さないほうがいい日だと悠真にも分かった。
マグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
スプーンは少し離れた場所。
青灰色のノート。
悠真はキッチンでミルクティーを作った。
蜂蜜は少し多め。
でも、甘すぎないように。
喉を甘やかすというより、喉の奥で止まっていたものを温めてほどくような感じを意識した。
もちろん、そんな技術があるわけではない。
ただ、そういう気持ちで作った。
カップを渡すと、しらいさんは両手で受け取った。
青灰色のコースターへ置く。
ことん。
音が部屋に落ちた。
しらいさんはその音を聞いて、少しだけ目を閉じた。
「今日は、喉に効く音」
小さく言う。
「はい」
「声じゃないのに」
「はい」
「効く」
悠真は向かいに座った。
「今日は、あまり話さなくても大丈夫です」
「うん」
「ミルクティーを飲んで、喉を休ませてください」
「うん」
「言わなかった声も」
しらいさんは、カップを包む手に少しだけ力を入れた。
「それ、今日だめ」
「すみません」
「謝るところではある」
「はい」
「でも、ありがとう」
少しだけ笑った。
その笑いは弱いけれど、しらいさんのものだった。
◇
しばらく、二人はほとんど話さなかった。
しらいさんはミルクティーを飲む。
置く。
ことん。
また飲む。
置く。
ことん。
昨日ほど何度もではない。
けれど、今日は音というより、温かさが必要な日だった。
沈黙が、部屋にある。
でも、それは岸谷紗季の沈黙ではなかった。
しらいさんが喉を休ませるための沈黙。
それは、同じ黙っている時間でも、まったく違うものだった。
しばらくして、しらいさんが青灰色のノートを開いた。
「今日、もう書いたけど」
「はい」
「ここで、もう一つ書きたい」
「必要なら」
「短く」
彼女はペンを持ち、ゆっくり書いた。
『言わなかった声を休ませる。』
それだけ。
悠真は静かに読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「今日は、ここに置く言葉ですね」
「うん」
「理沙さんには怒られるかな」
「二文目ですから、少し怒られるかもしれません」
「でも、必要だったって言う」
「はい」
「春日くんも共犯」
「そうですね」
「共犯なのに顔が真面目」
「真面目な共犯です」
しらいさんは少し笑った。
声を出しすぎないように、笑いも小さかった。
けれど、その小さな笑いだけで十分だった。
◇
「昨日ね」
しらいさんがぽつりと言った。
「はい」
「八割で帰った」
「はい」
「二割残った」
「はい」
「その二割が、喉にいた」
「はい」
「朝になったら消えてると思ったのに」
「はい」
「残ってた」
悠真は、静かに聞いた。
「残っていたら、だめだと思いましたか」
「少し」
「はい」
「でも、理沙さんに沈黙も喉を使うって言われて」
「はい」
「だめじゃないんだって思った」
「はい」
「使ったから疲れた」
「はい」
「使ったなら、休ませればいい」
「はい」
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
「春日くんのミルクティー、今日は声を出すためじゃない」
「はい」
「言わなかった声を休ませるため」
「はい」
「それ、少し好き」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
いつものやり取りが、静かに戻ってくる。
「でも、明日はまた撮影」
「はい」
「また沈黙が残るかも」
「はい」
「そのたびに、休ませればいい?」
「はい」
「全部すぐ消さなくても?」
「はい」
「喉に残ったら、また温めればいい?」
「はい」
しらいさんは小さく頷いた。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、少し怖くない」
その言葉に、悠真は少しだけ安心した。
◇
帰る時間は早かった。
理沙さんから、長居は禁止されている。
しらいさんもそれを守るつもりだった。
マグカップを洗うとき、今日はいつもより水の音が静かだった。
カップを拭く。
棚に戻す。
ことん。
最後の音。
しらいさんは、その音を聞いて喉へ手を当てた。
「少し軽くなった」
「よかったです」
「今日は、九割まで戻った」
「はい」
「喉は八割八分くらい」
「細かいですね」
「理沙さん方式」
「明日は?」
「明日は、朝にもう少し戻ってるといい」
「戻っていますよ」
「本当?」
「はい」
「春日くん、甘い」
「彼氏側なので」
「便利」
いつもの言葉を交わせるくらいには戻っている。
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「沈黙も喉を使う」
「はい」
「だから、沈黙した日は休ませる」
「はい」
「喋れない日も、ただいまは言っていい?」
「もちろんです」
「小さい声でも?」
「もちろん」
「声じゃなくて、メッセージでも?」
「はい」
「写真でも?」
「はい」
「何もなくても?」
悠真は少しだけ考えた。
「その日は、次に言える日にただいまをください」
しらいさんは、ゆっくり頷いた。
「うん」
「でも、今日は言えますか」
「言える」
彼女は、小さな声で言った。
「ただいま」
悠真は、同じくらい静かに返す。
「おかえりなさい」
しらいさんは少し笑った。
「声、小さかった」
「届きました」
「ならよし」
「はい」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まった。
◇
部屋に静けさが戻る。
今日は、静けさが少しだけ違って聞こえた。
岸谷紗季の沈黙ではない。
言わなかった声を休ませたあとの沈黙。
悠真はローテーブルの上の青灰色のコースターを見た。
沈黙も喉を使う。
言わなかった声を休ませる。
その二つの一文が、今日の部屋に残っている。
声を出さないことは、何もしていないことではない。
言わないために使った力がある。
止めるために疲れた喉がある。
なら、休ませる時間も必要だ。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
今日のミルクティーは、声を出すためのものではなかった。
言わなかった声を、少しだけ休ませるためのものだった。




