第120話 三崎、白瀬アカリの沈黙を“余白”ではなく“我慢”と読む
その日の昼休み、三崎は珍しく唐揚げ弁当を開けなかった。
代わりに、スマホを机に立てかけるようにして、画面をじっと見ている。
春日悠真は、自分の弁当の蓋を開けながら眉を寄せた。
「食べないのか」
「食べる」
「なら開けろ」
「今、白瀬アカリの沈黙を見てる」
「昼飯前に何を見てるんだ」
「沈黙」
「だから何だ、それは」
三崎はようやく顔を上げた。
画面には、白瀬アカリの過去作の短い告知映像と、昨日出たばかりのドラマ現場レポートの写真が並んでいる。
白瀬アカリは、どちらの画面でも黙っていた。
ただし、同じ黙り方ではなかった。
「前の白瀬アカリの沈黙ってさ」
三崎が言う。
「余白っぽかったんだよ」
「余白」
「うん。何かを言わないことで、見る側が想像できる感じ。きれいな沈黙というか」
「……」
「でも、最近の現場写真とかコメントを見ると、沈黙が少し違う」
悠真は箸を止めた。
嫌な予感ではない。
けれど、今日も三崎は何かに近づいている。
「どう違うんだ」
「余白じゃなくて、我慢に見えるときがある」
悠真は、すぐに返事ができなかった。
我慢。
昨日、しらいさんは「沈黙も喉を使う」とノートに書いた。
言わなかった言葉を休ませるためのミルクティーを飲んだ。
その沈黙を、三崎は外側から「我慢」と読んだ。
何も知らないのに。
「我慢って、悪い意味か?」
悠真が聞くと、三崎は首を横に振った。
「悪いっていうか、役の人が何かを言わないようにしてる感じ」
「……」
「白瀬アカリ本人が無理してるとかじゃなくて、役の人が喉のところで何か止めてる感じがする」
悠真は、弁当の中の卵焼きを見たまま黙った。
昨日、しらいさんは喉に残る沈黙の話をしていた。
ただいま。
疲れた。
大丈夫じゃない。
助けてほしい。
言わなかった声。
それを三崎は、画面の外側から拾っている。
「三崎」
「何」
「今日、かなり外側の番人だな」
「最近、それ言われると普通に嬉しくなってきたのが悔しい」
「慣れてきたな」
「慣れた。でも慣れないで」
「それはこっちの台詞じゃない」
三崎は少し笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「でもさ、我慢の沈黙って難しそうだよな」
「そうだな」
「ただ黙るだけなら誰でもできるけど、言いたいことがあるのに言わない沈黙って、たぶん顔に出る」
「うん」
「出すぎても違うし、なさすぎても分からない」
悠真は、撮影初日の「大丈夫です」の話を思い出した。
一度目は痛がりすぎた。
二度目は普通なのに痛かった。
同じことなのかもしれない。
我慢も、見せすぎると我慢にならない。
でも、何もなければただの空白になる。
「白瀬アカリなら、そこをやれそうってことか」
悠真が言うと、三崎は少しだけ頷いた。
「やれそう。というか、もう少し見えてきてる気がする」
「……」
「白瀬アカリの沈黙って、前は“何を考えてるんだろう”だった。でも今は、“何を言わないようにしてるんだろう”って感じがする」
悠真は、その言葉を胸の中へしまった。
これは持って帰らなければならない。
たぶん、今日のしらいさんに必要な言葉だ。
「三崎」
「何」
「今日の報酬は唐揚げ何個分だと思う」
「ついに支給されるのか?」
「心の中で」
「出ないのかよ」
「出ない」
「じゃあ自分で食べる」
三崎はそこで、ようやく唐揚げ弁当を開けた。
◇
午後の撮影は、短い場面がいくつか続いた。
岸谷紗季が職場の廊下で呼び止められる場面。
友人からのメッセージに返信する場面。
一人で資料を整理する場面。
どれも大きな事件は起きない。
でも、紗季はいつも何かを少しだけ飲み込んでいる。
「本当は嫌です」
そう言わない。
「疲れました」
そう言わない。
「私ばかりですか」
そう言わない。
「助けてください」
もちろん、そう言わない。
白瀬アカリは、そのたびに喉の奥へ少しずつ力を入れた。
力を入れすぎると、我慢していることが見えすぎる。
力を抜きすぎると、何もない人に見えてしまう。
その中間を探る。
監督は一度、こう言った。
「白瀬さん、今の沈黙、少しきれいでした」
「きれい、ですか」
「ええ。余白としては美しいんですが、紗季の場合はもう少し不器用かもしれません」
「はい」
「言わないことに慣れているけれど、言わないことが平気なわけではない」
その言葉に、しらいさんは胸の奥を押された気がした。
言わないことに慣れている。
でも、平気ではない。
岸谷紗季は、そういう人なのだ。
二度目。
白瀬アカリは、台詞の前の沈黙を少し変えた。
きれいに黙らない。
相手を見る。
ほんの少しだけ息を吸う。
言葉が出そうになる。
でも、出さない。
そのまま、いつものように微笑む。
「大丈夫です」
台詞は短い。
でも、その前に止めたものがある。
カットがかかったあと、監督はモニターを見ながら頷いた。
「今のほうがいいです。紗季の沈黙は、空白じゃなくて、何かを止めている感じがある」
しらいさんは、静かに頭を下げた。
嬉しい。
怖い。
けれど今日は、その怖さに名前がつきそうだった。
余白ではなく、我慢。
その言葉を、まだ誰にも聞いていないのに、胸の奥で思った。
◇
撮影後、理沙さんは控室でしらいさんの顔を見た。
「今日は少し掴んだ顔ね」
「はい」
「沈黙?」
「はい」
しらいさんは水を一口飲んだ。
今日は、喉に痛みはない。
けれど、昨日ほどではないにせよ、言わなかった声の疲れは残っている。
「監督に言われました。紗季の沈黙は、空白じゃなくて、何かを止めている感じがあるって」
理沙さんは小さく頷いた。
「いい方向ね」
「はい」
「ただし、止める芝居をやりすぎると、実際に喉に残る」
「はい」
「今日は温かいもの。蜂蜜は少し。ノートは一文まで」
「分かっています」
「本当に?」
「……二文書きたくなる気はしています」
「正直でよろしい」
理沙さんは少しだけ口元を緩めた。
「でも、今日は一文にしなさい」
「はい」
「強い言葉が出る日ほど、書きすぎると引っ張られる」
「はい」
しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文は、意外なほどすぐ出てきた。
『紗季さんの沈黙は、空白じゃない。我慢している声だ。』
書いてから、しばらくその文字を見た。
空白じゃない。
我慢している声。
これだ、と思った。
岸谷紗季は、ただ黙っている人ではない。
言いたいことがない人でもない。
言いたいことがある。
でも言わない。
言わないことに慣れてしまった。
だから、沈黙に声がある。
その声を、白瀬アカリが演じる。
でも、持ち帰りすぎない。
ノートを閉じる。
閉じて、戻る。
◇
春日悠真にその写真が届いたのは、仕事終わりの電車を待っているときだった。
青灰色のノート。
『紗季さんの沈黙は、空白じゃない。我慢している声だ。』
悠真は、ホームの端で立ち止まった。
三崎の言葉と、監督の言葉と、しらいさんの言葉が、一本の線でつながった気がした。
『読みました』
『今日、三崎も似たことを言っていました』
送ると、すぐ既読がついた。
『外側の番人?』
『はい』
『白瀬アカリの最近の沈黙は、余白ではなく我慢に見えるときがある、と』
既読。
少し間。
『三崎さん』
やはり、その一文が来た。
『今日は唐揚げ何個?』
悠真は返信する。
『本人は今日も唐揚げを食べていました』
『では唐揚げ六個』
『増えましたね』
『かなり』
少しだけ軽くなる。
それから、しらいさんは続けた。
『余白じゃなくて我慢』
『外側からも、そう見えるんだ』
『はい』
『怖い』
『はい』
『でも、少し安心した』
『どうしてですか』
既読がついたまま、少し時間が空く。
電車がホームへ入ってきた。
悠真は乗り込み、ドアの横に立つ。
スマホが震える。
『私が今日掴んだものが、外側にも伝わるかもしれないから』
悠真は、胸の奥が静かに熱くなった。
『伝わると思います』
『少なくとも、三崎にはもう少し見えています』
既読。
『外側の番人、すごい』
『本人は無給です』
『かわいそう』
悠真は少し笑った。
◇
その夜、しらいさんは春日くんの部屋へは来なかった。
撮影は早めに終わったが、理沙さんと相談して、自分の部屋で戻る日になった。
ただ、電話は少しだけ長めにしたいと言った。
今日は、言葉にしたいことがある。
でも、ノートにはもう一文書いた。
だから、ノートには書かない。
声で、少しだけ置く。
春日くんから通話が来た。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまでした」
「春日くんも」
「今日は自分の部屋で戻る日ですね」
「うん」
「今、何割ですか」
「八割九分」
「細かいですね」
「理沙さん方式」
「喉は?」
「八割七分」
「心より少し低い」
「うん。沈黙を使ったから」
「はい」
電話の向こうで、春日くんは静かに聞いてくれている。
急かさない。
言葉を待つ。
その待ち方が、今日はありがたかった。
「今日ね」
「はい」
「監督に、沈黙が少しきれいすぎるって言われた」
「はい」
「余白としては美しいけど、紗季さんはもう少し不器用かもしれないって」
「はい」
「それで、二回目は、言葉を止める感じにした」
「はい」
「そしたら、紗季さんの沈黙が少し分かった気がした」
「はい」
「空白じゃない」
「はい」
「我慢してる声」
春日くんは、少しだけ間を置いてから言った。
「すごく大事な理解ですね」
「うん」
「三崎の言葉とも重なります」
「うん」
「余白じゃなくて我慢」
「うん」
「でも、その我慢をしらいさんが全部持って帰らなくていいです」
しらいさんは、目を閉じた。
その言葉も、今日必要だった。
「分かってる」
「はい」
「でも、少し持ってる」
「はい」
「喉に」
「はい」
「今日はミルクティーじゃなくて、自分の部屋のお茶」
「はい」
「蜂蜜少し入れた」
「いいですね」
「ことんはない」
「はい」
「でも、カップ置いたら、ちょっと音した」
「どんな音ですか」
「かたん、くらい」
春日くんが少し笑ったのが分かった。
「かたん」
「うん。ことんじゃない」
「でも、今日の部屋の音ですね」
「うん」
「それも帰り道です」
「春日くん」
「はい」
「今日、いいこと言う」
「いつもは?」
「たまに」
「厳しいですね」
「理沙さん方式」
二人で少し笑った。
◇
「春日くん」
「はい」
「私、最初は白瀬アカリの沈黙って、余白だと思われたかったのかもしれない」
「はい」
「きれいに見えるから」
「はい」
「想像してもらえるから」
「はい」
「でも、紗季さんはそんなにきれいに黙ってない」
「はい」
「我慢してる」
「はい」
「言いたいことを、言わないことにしてる」
「はい」
「その人を、きれいな余白にしちゃだめだった」
「はい」
しらいさんは、温かいお茶を飲んだ。
蜂蜜の甘さが、少し喉を通る。
「でも、きれいじゃない沈黙って難しい」
「はい」
「見せすぎると違う」
「はい」
「何もないと違う」
「はい」
「本当に難しい」
「だから、今日掴めたことは大きいと思います」
「うん」
「でも、今日はもうそこに住まないでください」
「出た」
「出ます」
「理沙さん側」
「彼氏側もです」
「強い」
いつもの言葉。
それで少し戻る。
「今日は、春日くんの部屋に行かなくても平気」
「はい」
「でも、声は聞きたかった」
「はい」
「かたんの音もあった」
「はい」
「ことんじゃないけど」
「はい」
「ここはここ」
「はい」
「私の部屋は、私の部屋」
「はい」
「まだ春日くんの部屋ほどじゃないけど」
「少しずつでいいと思います」
「うん」
しらいさんは、ふっと息を吐いた。
「今日は、八割九分でただいま」
「おかえりなさい」
「早い」
「先に言いました」
「ずるい」
「すみません」
「謝らないで」
しらいさんは、少し笑った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
今度はちゃんと順番通りだった。
◇
通話を終えたあと、悠真はローテーブルの前に座っていた。
今日は、こちらの部屋ではマグカップを出していない。
ことんの音も鳴らしていない。
しらいさんの部屋で、かたん、という音が鳴った。
それで、彼女は少し戻れた。
ことんではない音。
でも、帰り道の音。
それもいいと思った。
紗季さんの沈黙は、空白じゃない。
我慢している声だ。
その一文は、重い。
でも、今日のしらいさんは、それを全部こちらへ持ってこなかった。
自分の部屋で、蜂蜜入りのお茶を飲み、かたんという音を聞き、八割九分でただいまを言った。
帰り方がまた一つ増えた。
悠真は棚のマグカップを見た。
ここはここ。
でも、彼女の部屋も、少しずつ彼女の場所になっている。
それが嬉しかった。
少しだけ寂しくて、でもやはり嬉しかった。




