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第121話 言えなかった「助けて」を、紗季さんは笑顔で隠した

 その日の撮影予定を見たとき、しらいさんは少しだけ指を止めた。


 場面名は、短かった。


 友人との帰り道。


 それだけ。


 台本上では大きな事件が起きる場面ではない。

 泣き叫ぶわけでも、誰かと決定的に喧嘩するわけでもない。


 岸谷紗季が、友人に声をかけられる。


「本当に平気?」


 そう聞かれる。


 紗季は、笑う。


「大丈夫」


 それだけの場面だった。


 それだけなのに、しらいさんは朝から少し喉の奥が重かった。


 昨日の「我慢している沈黙」が、まだ少し残っている。

 けれど今日は、その沈黙に、笑顔が乗る。


 言わないだけではない。

 隠す。


 しかも、相手に気づかれないように。


 それが難しい。


 それが怖い。


 控室で衣装に着替えながら、しらいさんは鏡を見た。


 淡いグレーのブラウス。

 黒いパンプス。

 控えめなメイク。

 目立たない腕時計。


 岸谷紗季の輪郭が、鏡の中にある。


 でも、その奥に白瀬アカリがいる。


 そして、そのさらに奥に、しらいさんがいる。


 いつものように、心の中で名前を確かめる。


 白瀬アカリ。

 しらいさん。

 岸谷紗季ではない。


 でも、会いに行く。


 理沙さんが入ってきた。


「喉は?」


「八割九分です」


「私の評価では八割八分」


「近いですね」


「昨日の沈黙が少し残っているわね」


「はい」


「今日の場面は?」


 理沙さんは分かっていて聞いた。


 しらいさんは、台本を閉じたまま答える。


「助けて、を言わない大丈夫です」


 理沙さんは、少しだけ目を細めた。


「そうね」


「重いです」


「重いわ」


「でも、台詞は短いです」


「短い台詞ほど残ることがある」


「はい」


 理沙さんは、いつものように水を置いた。


「今日の注意点」


「はい」


「紗季は、助けてほしいことを相手に気づかせないようにする」


 その言葉だけで、胸がきゅっとなった。


「はい」


「助けてほしい顔を見せすぎないこと」


「はい」


「でも、本当に何もない笑顔にしないこと」


「はい」


「矛盾しているようだけれど、そこが今日の場面よ」


 しらいさんは頷いた。


 助けてほしい。

 でも気づかれたくない。


 矛盾している。


 けれど、たぶん人はそういうことをする。


 助けてほしいのに、助けてと言えない。

 気づいてほしいのに、気づかれたら困る。

 大丈夫ではないのに、大丈夫だと笑う。


 それが岸谷紗季だ。


 そして、少し前の自分にも、たぶん似ていた。


「撮影後は?」


 理沙さんが聞く。


「一度セットから離れます」


「それから?」


「水を飲む。名前を確認する。ノートは一文まで」


「春日さんには?」


「必要なら連絡します」


「今日は必要になる可能性が高いわ」


 理沙さんは、あえて静かに言った。


「自分で分かっていますか」


「……はい」


「では、先に決めておきなさい。今日、部屋へ行ける?」


「時間的には、行けると思います」


「なら、行きなさい」


「はい」


「ただし、助けてと言わせに行くのではなく、言えなかったまま戻るために行くこと」


 しらいさんは、少しだけ顔を上げた。


 言えなかったまま戻る。


 それは今日の自分に必要な言葉だった。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は今日は唐揚げ弁当を食べながら、妙に真面目な顔をしている。


「どうした」


 悠真が聞くと、三崎は唐揚げを箸でつまんだまま言った。


「白瀬アカリの“大丈夫”って怖そうだなと思って」


 悠真は箸を止めた。


 まただ。


 今日は、よりにもよってそれか。


「何で急に」


「昨日、沈黙の話をしただろ」


「ああ」


「その続き」


「続きがあるのか」


「ある」


 三崎は唐揚げを口に入れ、少し考えてから続けた。


「助けてって言えない人が、大丈夫って言うときの大丈夫って、たぶん一番しんどい」


 悠真は、何も言えなかった。


「助けてほしい顔をして大丈夫って言うなら、まだ分かりやすいんだよ」


「うん」


「でも、本当に大丈夫そうに言われたら、周りは気づけない」


「……」


「白瀬アカリ、そういう“大丈夫”をやったら、かなり刺さりそう」


 悠真は、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。


 今日、しらいさんが撮る場面。


 まさに、それだった。


 助けてと言えない大丈夫。


「三崎」


「何」


「今日も相当近い」


「外側の番人だからな」


「本当に板についてきたな」


「給料は?」


「出ない」


「知ってた」


 三崎は軽く笑ったが、すぐに表情を戻した。


「でもさ」


「うん」


「役として見るなら、そういう大丈夫は見たい」


「ああ」


「でも現実で身近な人がそう言ってたら、気づける自信ない」


 その言葉が、悠真には刺さった。


 現実で身近な人が、大丈夫と笑っていたら。


 自分は気づけるのか。


 しらいさんが、白瀬アカリの顔で大丈夫と言ったら。

 いや、白瀬アカリではなく、しらいさんとして大丈夫と言ったとして。


 自分は、その奥の助けてに気づけるのか。


 三崎は続けた。


「だから、白瀬アカリがそれを演じるなら、見る側は痛いだろうな」


「……」


「大丈夫って言葉を、信じていいのか分からなくなる」


 悠真は、小さく息を吐いた。


「今日の三崎は、かなり唐揚げ何個分だろうな」


「十個?」


「心の中でなら」


「現物は?」


「ない」


「いつも通りブラック」


 三崎は不満そうに言った。


 けれど悠真は、今日の言葉をしっかり持って帰ることにした。


 たぶん、かなり必要になる。


    ◇


 撮影現場は、夕方の道を模したセットだった。


 実際にはスタジオ内だが、照明と美術で、仕事帰りの街角のように作られている。


 少し暗くなり始めた空。

 歩道。

 自販機。

 植え込み。

 駅へ向かう人の気配。


 その中で、岸谷紗季は友人に呼び止められる。


 友人役の女優は、明るくて自然な空気を持つ人だった。

 紗季のことを本気で心配している。

 でも、踏み込みすぎていいのか分からない。


 台本を読んだだけでも、その距離感は難しかった。


 友人が聞く。


「最近、無理してない? 本当に平気?」


 紗季は笑って答える。


「大丈夫」


 それだけ。


 でも、その一言で、彼女は助けてを隠す。


 最初の本番。


 白瀬アカリは、少しだけ助けてほしい気持ちを見せすぎた。


 友人の台詞を聞いた瞬間、目が揺れた。

 笑う前に、少しだけ表情がほどけた。

 そこに、助けてと言いたい人の顔が見えてしまった。


「大丈夫」


 声は柔らかかった。


 けれど、柔らかすぎた。


 カット。


 監督はモニターを見てから、静かに言った。


「白瀬さん、今のは助けてほしい気持ちが少し見えすぎました」


「はい」


「もちろん、その気持ちはあるんです。でも紗季は、相手に気づかせないようにします」


「はい」


「“気づいてほしい”ではなく、“気づかれたら困る”が先にある」


 胸に刺さった。


 気づいてほしい、ではない。


 気づかれたら困る。


 助けてほしいのに、知られたくない。


 それが紗季の「大丈夫」なのだ。


「もう一度、お願いします」


「はい」


 白瀬アカリは頭を下げた。


 深呼吸する。


 今の自分は、紗季さんより先に助けを求めてしまった。


 違う。


 紗季はまだ、その声を外へ出さない。


 白瀬アカリ。

 しらいさん。

 岸谷紗季ではない。


 でも、もう一度会いに行く。


    ◇


 二度目の本番。


 友人が歩み寄る。


「最近、無理してない? 本当に平気?」


 その声は、ちゃんと優しい。


 だからこそ、紗季は笑う。


 優しさに触れたから本音を出すのではない。


 優しい人を困らせたくないから、隠す。


 白瀬アカリは、ほんの少しだけ目を細めた。


 相手を安心させるためではなく。

 自分が崩れないためでもなく。

 この場を何事もなく通過させるために。


 普通に笑う。


「大丈夫」


 短い一言。


 明るくもない。

 暗くもない。

 強がりすぎてもいない。


 相手が「そっか」と受け取ってしまえる程度の、自然な大丈夫。


 でも、その奥に、ほんの少しだけ言えなかった声が残る。


 助けて。


 言わない。


 言えない。


 気づかせない。


 友人役の女優が、台詞を続ける。


「ならいいけど。何かあったら言ってね」


 紗季は頷く。


「うん。ありがとう」


 そこでも、助けてとは言わない。


 カット。


 現場が静かになった。


 監督はモニターを見ている。


 数秒。


 その沈黙が、いつもより長く感じた。


 やがて監督が言った。


「今の、いいです」


 白瀬アカリは、少しだけ息を吐いた。


「ありがとうございます」


「“大丈夫”で隠しましたね」


「はい」


「助けてほしいことを、相手に気づかせない大丈夫でした」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重く沈んだ。


 できた。


 嬉しい。


 でも、苦しい。


 助けてを隠せたことが評価される。


 それが演技なのだと分かっている。


 分かっているのに、体が少し遅れて痛がる。


    ◇


 撮影後、しらいさんは控室に戻る前に廊下で立ち止まった。


 足元が少し頼りない。


 黒いパンプスは履いていない。

 もう自分の靴に戻っている。


 それでも、岸谷紗季の「大丈夫」が、胸と喉のあたりに残っている。


 理沙さんがすぐに水を渡した。


「飲んで」


「はい」


 水を飲む。


 冷たい。


 けれど、今日は水だけでは足りない。


「今、どのくらい?」


 理沙さんが聞く。


「七割、紗季さんです」


「高いわね」


「はい」


「助けてを隠したからでしょう」


 しらいさんは頷いた。


「苦しいです」


「そうね」


「言えない大丈夫が、思ったより」


「ええ」


「喉と、胸に」


「今日は、春日さんの部屋へ行きなさい」


「はい」


「ただし」


 理沙さんは、少し強めに言った。


「彼に“助けて”を言わせに行かないこと」


 しらいさんは顔を上げた。


「はい」


「今日は、言えなかったまま戻る日」


「はい」


「言えないことを、すぐ言葉に変換しない」


「はい」


「でも、一人で抱え込まない」


「……難しいです」


「難しいわよ」


 理沙さんはいつものように言った。


「だから、行きなさい」


 その言葉に、少しだけ救われた。


    ◇


 控室で、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 書く前から、今日の一文は決まっていた。


『助けて、と言わない大丈夫が、一番苦しかった。』


 書いた瞬間、目の奥が熱くなった。


 でも、泣かない。


 まだ現場だ。


 今日は、泣くなら春日くんの部屋で少しだけにしたい。


 そう思ってしまう自分に、少しだけ苦笑する。


 でも、それでいいのかもしれない。


 泣く場所も、選べるようになってきた。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読がついた。


『読みました』


 少し間。


『今日の場面、かなり重かったんですね』


 しらいさんは短く返す。


『うん』


『助けてを隠した』


『大丈夫で』


 既読。


 少し長い沈黙。


 そして、春日くんから返ってきた。


『三崎が今日、似たことを言っていました』


 しらいさんは、少しだけ笑いそうになる。


 こんな日にまで。


『外側の番人?』


『はい』


『助けてと言えない人が、大丈夫と言うときの大丈夫が一番しんどい、と』


 既読をつけた瞬間、胸に何かが落ちた。


 三崎さん。


 本当に、外側から見ている。


『今日は唐揚げ何個?』


 送る。


『十個だそうです』


『本人が?』


『はい』


『今日は十個でいい』


 そのやり取りで、少しだけ呼吸が戻った。


『部屋、行っていい?』


 送る。


『もちろんです』


『今日は、助けてって言わないかもしれない』


 既読。


 少しして、


『言わなくても来てください』


 と返ってきた。


 その一文で、目元が少し熱くなった。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 玄関を開けると、彼女は立っていた。


 黒いキャップ。

 薄いマスク。

 ベージュのコート。


 けれど、声がすぐには出なかった。


 いつもなら「来た」と言う。


 でも今日は、少しだけ口元が動いて、止まった。


 春日悠真は、すぐに言った。


「おかえりなさい」


 先に。


 しらいさんは、目元を揺らした。


「……ただいま」


 小さい声だった。


 部屋に入る。


 ローテーブルの前に座る。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 スプーンは少し離れた場所。


 今日は、ミルクティーがすでに用意されていた。


 蜂蜜は少し多め。


 でも、いつもより少しだけ温度が低めだった。


「熱すぎると、今日は喉にきついかと思って」


 悠真が言う。


 しらいさんは少しだけ笑った。


「春日くん」


「はい」


「そういうところ」


「すみません」


「謝らないで」


 いつもの言葉は出た。


 でも、声は弱い。


 彼女はカップを両手で受け取り、コースターへ置いた。


 ことん。


 その音で、少しだけ肩が下がった。


 しばらく、何も話さなかった。


 ミルクティーを飲む。


 置く。


 ことん。


 また飲む。


 置く。


 ことん。


 悠真も何も聞かなかった。


 助けて、と言わせに行かない。


 それが今日の距離だと分かっていた。


    ◇


 どれくらい黙っていただろう。


 しらいさんが、ぽつりと言った。


「言えなかった」


「はい」


「助けて」


「はい」


「紗季さんは、言えなかった」


「はい」


「私は、言おうとしたら言える」


「はい」


「でも、今日は言いたくない」


「はい」


 悠真は、ただ聞いた。


「言ったら、紗季さんと混ざりそう」


「はい」


「私の助けてなのか、紗季さんの助けてなのか、分からなくなりそう」


「はい」


「だから、今日は言わない」


「はい」


「でも、ここにいていい?」


 悠真は、すぐに答えた。


「もちろんです」


 しらいさんは、マグカップを両手で包んだまま、目を伏せた。


「言えないままでも?」


「はい」


「大丈夫って言ったままでも?」


「はい」


「助けてって言わなくても?」


「はい」


 悠真は、ゆっくり言った。


「言えないままでも、ここにいていいです」


 その瞬間、しらいさんの目から涙が落ちた。


 大きく泣くわけではない。


 けれど、ぽろりと一粒。


 そのあと、もう一粒。


「正式予約じゃない」


 彼女が小さく言った。


「はい」


「少しだけ」


「はい」


 悠真はティッシュを差し出した。


 しらいさんは受け取り、目元を押さえた。


「春日くん」


「はい」


「今日、それがほしかった」


「言えてよかったです」


「出た」


 涙声で、少しだけ笑った。


    ◇


 青灰色のノートを開くまでに、少し時間がかかった。


 しらいさんは、書くかどうか迷っていた。


 すでに現場で一文書いている。


『助けて、と言わない大丈夫が、一番苦しかった。』


 それだけでも、今日の重さは十分だった。


 でも、今の言葉も置きたかった。


「書いてもいい?」


 しらいさんが聞く。


「必要なら」


「理沙さんに怒られるかな」


「怒られるかもしれません」


「でも、必要だったって言う」


「はい」


 彼女はペンを持った。


 ゆっくり書く。


『言えないままでも、帰っていい。』


 短い一文。


 書いたあと、しばらく見つめる。


「今日、これも必要だった」


「はい」


「助けてを言えなくても」


「はい」


「大丈夫って笑ったままでも」


「はい」


「ここに来ていい」


「はい」


「それ、紗季さんにもいつか届くかな」


「届くかもしれません」


「でも、勝手に言わない」


「はい」


「勝手に救わない」


「はい」


「でも、見捨てない」


「はい」


 前に書いた一文が、ここでまた戻ってきた。


 代わりに言わない。

 勝手に救わない。

 でも、見捨てない。


 今日は、その意味が少し深くなった。


    ◇


 その後も、しらいさんは多くを話さなかった。


 撮影の細かい話も、あまりしなかった。


 ただ、ミルクティーを飲み、マグカップを置き、ことんの音を聞いた。


 何度もではない。


 必要な回数だけ。


 悠真も、無理に聞き出さなかった。


 聞かないことが、今日は大事だった。


「春日くん」


 しばらくして、しらいさんが言った。


「はい」


「今日の私、何割?」


「俺が決めるんですか」


「うん」


「七割くらい帰っています」


「そんなに?」


「はい」


「まだ三割、紗季さん」


「はい」


「そのままでいい?」


「今日は、そのままでいいと思います」


「寝たら?」


「少し戻ると思います」


「明日は?」


「また少し会いに行くんだと思います」


「うん」


 しらいさんは、少しだけ目を閉じた。


「岸谷紗季、難しい」


「はい」


「大丈夫って言うのが、一番難しい」


「はい」


「春日くん」


「はい」


「私が本当に大丈夫じゃないとき、大丈夫って言ったら」


 そこで言葉が止まった。


 悠真は、すぐに答えなかった。


 軽く「気づきます」とは言えなかった。


 気づける自信が、いつでもあるわけではない。


 三崎の言葉が胸に残っている。


 現実で身近な人がそう言っていたら、気づける自信がない。


 だから、悠真は正直に言った。


「必ず気づけるとは、言えません」


 しらいさんは、静かにこちらを見た。


「はい」


「でも、気づこうとはします」


「うん」


「大丈夫と言われても、そのまま鵜呑みにしない日もあると思います」


「うん」


「でも、全部疑うのも違うと思います」


「うん」


「だから、分からなかったら聞きます」


「うん」


「本当に大丈夫ですか、と」


 しらいさんは、少しだけ目元を赤くしたまま頷いた。


「それでいい」


「はい」


「私も、本当にだめなときは、何か合図を出す」


「はい」


「助けてって言えなくても」


「はい」


「大丈夫じゃないかも、くらいは言えるようにする」


「はい」


「練習する」


「一緒に」


「うん」


 その約束は、とても静かだった。


 でも、大事だった。


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は長居しない。


 しらいさんはマグカップを洗おうとしたが、悠真が首を振った。


「今日は俺が洗います」


「昨日もそんなこと言った」


「今日もです」


「洗い物と助けて、関係ある?」


「あります」


「どう関係あるの」


「言えないままでも、少し楽をしていい日です」


 しらいさんは、少しだけ目を丸くした。


 それから、小さく笑った。


「春日くん、今日かなりずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


 悠真がカップを洗い、拭いて、棚へ置く。


 ことん。


 今日最後の音。


 しらいさんは、それを静かに聞いた。


「戻りましたか」


「八割」


「増えましたね」


「うん」


「残り二割は?」


「寝る」


「はい」


「明日の朝、少し戻ってるといいな」


「戻っています」


「断言」


「はい」


「ありがと」


 玄関で、しらいさんは靴を履いた。


 そして振り返る。


「春日くん」


「はい」


「今日は、助けてって言わなかった」


「はい」


「でも、帰ってきた」


「はい」


「言えないままでも、帰っていい」


「はい」


「覚えてて」


「覚えています」


「私が忘れたら?」


「言います」


「何度でも?」


「何度でも」


「知ってる」


 彼女は少しだけ笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「うん」


 ドアが閉まった。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 悠真は、棚に戻したマグカップを見た。


 助けて、と言わない大丈夫が、一番苦しかった。

 言えないままでも、帰っていい。


 その二つの一文が、部屋に残っている。


 今日、しらいさんは助けてと言わなかった。


 でも、それは何も求めていなかったという意味ではない。


 言えないまま、ここに来た。


 言えないまま、ミルクティーを飲んだ。

 言えないまま、ことんの音を聞いた。

 言えないまま、少し泣いた。


 それでも帰っていい。


 たぶん、それは岸谷紗季だけではなく、しらいさんにも、悠真にも必要な言葉だった。


 助けてと言えたら、もちろんいい。


 でも、言えない日もある。


 その日にも、おかえりを言える人でいたいと思った。

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