第122話 春日、初めて「助けて」と言わせようとしない
翌朝、春日悠真は、昨日の夜のことを何度も思い返していた。
助けて、と言わない大丈夫が、一番苦しかった。
言えないままでも、帰っていい。
青灰色のノートに置かれた二つの一文は、彼女だけのものではなく、悠真の中にも残っていた。
しらいさんは昨日、助けてとは言わなかった。
泣いた。
黙った。
ミルクティーを飲んだ。
ことんの音を聞いた。
それでも、助けてとは言わなかった。
それでいい、と悠真は言った。
言えないままでも、ここにいていい。
言葉としては言えた。
けれど、本当にそれができていたかと考えると、少し自信がなかった。
どこかで、言ってほしかったのだと思う。
助けて、と。
言ってくれれば、分かりやすい。
支えやすい。
手を伸ばしやすい。
でも、それは自分が安心するための言葉でもあった。
しらいさんが言えないものを、こちらが言わせようとしてしまったら。
それは、岸谷紗季に「ただいま」を勝手に言わせるのと、少し似ているのかもしれない。
悠真はローテーブルの上にマグカップを置いた。
青灰色のコースター。
白いマグカップ。
蜂蜜の瓶。
スプーンは少し離した場所。
今日は写真を撮った。
ただ、すぐには送らない。
しばらく画面を見てから、文章を添えた。
『今日もあります』
もう一文、少し迷ってから打つ。
『言葉にならない日も、あります』
送信する。
すぐに既読がついた。
返事は少し遅れた。
『見た』
それだけ。
けれど、そのあとにもう一文。
『今日は、まだ言葉が少ない』
悠真は、画面を見つめた。
『少ないままで大丈夫です』
送る。
既読。
『春日くん』
『はい』
『それ、今日必要』
その一文だけで、胸の奥が少し熱くなった。
◇
昼休み、三崎は今日はなぜかおにぎりを三つ並べていた。
唐揚げ弁当ではない。
ラーメンでもない。
肉まんでもない。
「今日はおにぎりか」
悠真が言うと、三崎は一つ目の包装を開けながら頷いた。
「言葉にしなくても食べられるからな」
「どういう理屈だ」
「いや、なんか今日はそういう気分」
「毎日、食べ物に哲学を背負わせるな」
「外側の番人は食べ物から考える」
「便利な役職だな」
三崎は梅おにぎりを一口食べた。
それから、ふと真面目な顔になる。
「昨日の白瀬アカリの現場写真、見た?」
「ああ」
「なんかさ、助けてって言わない人の顔してた」
悠真は箸を止めた。
今日も来た。
しかも、かなり近い。
「……写真だけでそこまで分かるのか」
「分かるっていうか、そう見えた」
三崎はおにぎりを持ったまま続ける。
「誰かに助けてって言える人の顔じゃなくて、助けてって言う前に“大丈夫です”って閉じちゃう人の顔」
「……」
「でもさ、そういう人に無理やり“助けてって言えよ”って言っても、たぶん言えないんだよな」
悠真は、何も言えなかった。
「言えないから、そうなってるわけで」
三崎は、少しだけ眉を寄せた。
「だから、言えるようになるまで待つしかないのかもな。いや、待つって言うと偉そうだけど」
「……偉そうではないと思う」
「そうか?」
「ああ」
「そっか」
三崎は少し照れたように目を逸らし、二つ目のおにぎりを開けた。
「でも、待つのって難しいよな」
「うん」
「何か言わせたくなるだろ。大丈夫じゃないなら大丈夫じゃないって言ってくれ、助けてほしいなら助けてって言ってくれ、って」
「……なるな」
「でも、それをこっちの都合で急かしたら、たぶん違う」
悠真は、胸の奥を静かに押された。
三崎は何も知らない。
でも、昨日の自分が迷っていたところを、そのまま言葉にしている。
「三崎」
「何」
「今日は、おにぎり三個分くらい外側の番人だ」
「現物は?」
「自分で買ってるだろ」
「報酬なし」
「いつも通りだ」
三崎は笑った。
けれど、悠真は笑いながらも、その言葉をしっかり持って帰ることにした。
言えるようになるまで待つ。
言わせたいのは、こちらの都合かもしれない。
それは、今日の自分に必要な言葉だった。
◇
その日の撮影は、昨日ほど重くはなかった。
それでも、岸谷紗季の「大丈夫」は少し残っていた。
白瀬アカリは、友人役との短い会話の続きや、職場での細かなカットを撮った。
大きな台詞はない。
でも、昨日の「助けてを隠す大丈夫」が、今日の紗季の立ち方にも影を落としていた。
監督は一度、こう言った。
「昨日の場面が、今日の紗季に少し残っていますね」
「はい」
「それでいいです。ただ、残しすぎないでください」
「はい」
「紗季は昨日の場面で大きく変わったわけではない。ああやって何度も大丈夫と言ってきた人です」
その言葉も、静かに痛かった。
一度だけではない。
岸谷紗季は、きっと何度も助けてを飲み込んできた。
何度も大丈夫で隠してきた。
だから、昨日の一回で崩れるわけではない。
今日も、普通に働く。
普通に笑う。
普通に帰る。
それが、紗季の怖さだ。
撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日は何を書くか迷った。
昨日の「助けて」がまだ残っている。
でも、今日分かったのは別のことだった。
言えなかったのは、一度ではない。
それでも、今日も生きている。
彼女はペンを持ち、短く書いた。
『助けてを言えない日が続いても、人は普通に笑ってしまう。』
書いてから、少しだけ胸が重くなった。
けれど、今日はこの一文で止めた。
止められた。
その写真を春日くんへ送る。
◇
悠真は会社帰りの電車の中で、その写真を受け取った。
『助けてを言えない日が続いても、人は普通に笑ってしまう。』
読んだ瞬間、息が少し浅くなった。
昨日の続きだ。
でも、昨日よりさらに静かに重い。
助けてを言えないのは、一回だけの劇的な出来事ではない。
言えないまま、普通に日々が続く。
それが岸谷紗季なのだ。
『読みました』
『今日も重いですね』
既読。
『昨日ほどじゃない』
『でも、残ってる』
『今日は、部屋に行きたい』
悠真はすぐに返した。
『待っています』
既読。
『今日は、助けてって言わないかもしれない』
昨日と似た言葉。
けれど、今日は少し違う響きだった。
昨日は、言えないままでも来ていいかを確かめる言葉だった。
今日は、言わない可能性を先に伝えてくれている。
それだけでも、少し前進している。
悠真は、三崎の言葉を思い出した。
言えるようになるまで待つしかない。
言わせたいのは、こちらの都合かもしれない。
『言わなくても来てください』
送る。
少し考えて、もう一文。
『言わせようとしません』
既読。
長い沈黙。
電車の窓に、自分の顔がぼんやり映る。
たぶん、かなり面倒くさい顔をしている。
やがて、返事が来た。
『それ、今日ほしかった』
悠真は、静かにスマホを握り直した。
◇
しらいさんが来たのは、夜八時を少し過ぎたころだった。
玄関を開けると、彼女はいつもより少しだけ小さく見えた。
疲れている。
でも、昨日のように崩れかけているわけではない。
ただ、言葉が少ない。
「来た」
小さく言った。
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入ると、しらいさんはローテーブルの前に座った。
マグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
スプーンは少し離れた場所。
今日は、ミルクティーはまだ作っていなかった。
「今から作ります」
悠真が言うと、しらいさんは小さく頷いた。
「蜂蜜、少しだけ」
「分かりました」
「今日は、甘すぎないほうがいい」
「はい」
悠真はキッチンでミルクティーを作る。
蜂蜜は少しだけ。
温度は熱すぎないように。
戻すためというより、隣に置くためのミルクティー。
そんな気がした。
カップを渡すと、しらいさんは両手で受け取った。
コースターへ置く。
ことん。
音は鳴った。
でも、今日はその音にすぐ頼るというより、ただ確認するような置き方だった。
しばらく、二人とも話さなかった。
しらいさんはミルクティーを飲む。
置く。
ことん。
また飲む。
悠真は何も聞かなかった。
助けて、と言わせない。
大丈夫じゃないでしょう、と迫らない。
ただ、そこにいる。
◇
沈黙が続いた。
けれど、嫌な沈黙ではなかった。
岸谷紗季の沈黙とは違う。
言葉を止めている沈黙というより、言葉が出るまで待っている沈黙。
それでも、悠真は少しだけ怖かった。
何か言ったほうがいいのではないか。
楽にさせる言葉を探したほうがいいのではないか。
でも、言わせようとしないと決めた。
今日は、自分が安心するために彼女の言葉を引き出してはいけない。
しらいさんは、マグカップを両手で包んだまま、ようやく口を開いた。
「春日くん」
「はい」
「今日、言えない日が続くって思った」
「はい」
「紗季さんは、一回だけ助けてって言えなかったんじゃない」
「はい」
「ずっと、言えてない」
「はい」
「でも普通に笑う」
「はい」
「普通に仕事に行く」
「はい」
「普通に帰る」
「はい」
「それが、すごく怖かった」
「はい」
悠真は、短く受け取った。
しらいさんは、少しだけ目を伏せる。
「私も、前はそうだった?」
その問いに、悠真はすぐには答えなかった。
軽く「そうですね」と言うには、少し重い。
でも、嘘をつくのも違う。
「少しは、そうだったのかもしれません」
悠真は言った。
「河川敷にいたころ」
「うん」
「本人じゃないって言っていたころ」
「うん」
「助けて、とは言っていませんでした」
「うん」
「でも、たぶん、誰かに見つけてほしかったのかもしれません」
しらいさんは、黙った。
そして、小さく頷いた。
「そうかも」
「はい」
「でも、見つけてくれた」
「はい」
「春日くんが」
悠真は少しだけ息を吸った。
「偶然です」
「偶然でも」
「はい」
「でも、紗季さんはまだ見つかってない」
「はい」
「だから、助けてって言わせたくなる」
「はい」
「でも、勝手に言わせちゃだめ」
「はい」
「昨日から、そればっかり考えてる」
「はい」
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
「春日くん」
「はい」
「今日は、助けてって言わなくてもいい?」
悠真は、すぐに答えた。
「言わなくていいです」
しらいさんの目が揺れた。
「言わせない?」
「言わせません」
「でも、心配?」
「心配です」
「うん」
「でも、心配だから言わせる、は今日はしません」
しらいさんは、静かに瞬きをした。
その瞬間、目元に少しだけ涙が浮かんだ。
「それ」
「はい」
「今日、ほしかった」
「はい」
「無理に助けてって言わなくていいって」
「はい」
「言えない日も、ここにいていいって」
悠真は、ゆっくり頷いた。
「言えない日も、ここにいていいです」
しらいさんは、涙をこぼした。
昨日より少しだけ多い涙だった。
けれど、崩れる涙ではない。
押し出された涙でもない。
言わなくていい、と言われて、ようやく少し緩んだ涙だった。
「正式予約じゃない」
「はい」
「でも、昨日より少し多い」
「はい」
「いい?」
「もちろんです」
悠真はティッシュを差し出した。
しらいさんは受け取ったが、すぐには拭かなかった。
ただ、少しだけ泣いた。
◇
しばらくして、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
「今日は、書く」
「はい」
「読ませる」
「はい」
彼女は少し震える手でペンを持った。
ゆっくり書く。
『無理に助けてと言わなくていい。言えない日も、ここにいていい。』
書き終えると、ノートをこちらへ向けた。
悠真は読んだ。
胸の奥が熱くなる。
「読みました」
「うん」
「今日の一文ですね」
「うん」
「俺にも必要な一文です」
しらいさんは顔を上げた。
「春日くんにも?」
「はい」
「どうして?」
「俺は、言ってほしいと思ってしまうので」
「うん」
「言ってくれれば支えられる、と考えてしまうので」
「うん」
「でも、言えない日にも隣にいることを覚えないといけない」
しらいさんは、涙の残った目でこちらを見た。
「春日くん」
「はい」
「成長してる」
「そうですか」
「うん」
「しらいさんほどではありません」
「比べない」
「はい」
「でも、してる」
「ありがとうございます」
「硬い」
「すみません」
「謝らないで」
いつもの言葉が戻る。
それだけで、部屋の空気が少し軽くなった。
◇
その後、二人はあまり話さなかった。
しらいさんはミルクティーを飲み、悠真はその隣に座っていた。
近すぎず、遠すぎず。
何かを聞き出すわけでもない。
黙っていることを許すように。
「今日は」
しらいさんがぽつりと言う。
「はい」
「何も解決してない」
「はい」
「紗季さんは助けてって言えないまま」
「はい」
「私は、助けてって言わなかった」
「はい」
「でも、少し楽になった」
「はい」
「変だね」
「変ではないと思います」
「どうして?」
「言わないままでも一人ではないと分かったからかもしれません」
しらいさんは、静かに息を止めた。
「春日くん」
「はい」
「今日、かなりいい」
「そうですか」
「うん」
「なら、よかったです」
「出た」
「出ます」
彼女は、少し笑った。
「言わないままでも一人じゃない」
「はい」
「それ、書きたい」
「今日はもう一文書きました」
「あ」
「でも、心に置いておきましょう」
「書かない練習」
「はい」
「難しい」
「でも、できています」
「うん」
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗おうとしたが、今日は自分で洗うと言った。
「今日は、洗える」
「はい」
「洗いたい」
「分かりました」
悠真は止めなかった。
しらいさんは台所でカップを洗い、布巾で拭いて、棚へ戻した。
ことん。
今日最後の音。
その音は、昨日より少しだけ落ち着いて聞こえた。
「戻りましたか」
悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。
「八割五分」
「増えましたね」
「うん」
「残り一割五分は?」
「寝る」
「はい」
「あと、少しは紗季さんと一緒に置いておく」
「はい」
「無理に全部戻さない」
「それでいいと思います」
玄関で、しらいさんは靴を履いた。
振り返る。
「春日くん」
「はい」
「今日、助けてって言わなかった」
「はい」
「でも、来てよかった」
「はい」
「言えない日も、ここにいていいって分かった」
「はい」
「覚えてて」
「覚えています」
「私も覚えてる」
「はい」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「助けてって言えなくても?」
「もちろん」
しらいさんは、小さく笑った。
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
悠真はローテーブルの前に座り、青灰色のコースターを見た。
無理に助けてと言わなくていい。
言えない日も、ここにいていい。
その一文は、しらいさんのためだけではなかった。
悠真のための一文でもあった。
助けてと言ってくれたら、きっと分かりやすい。
支えやすい。
でも、人はいつも、必要な言葉を必要な形で言えるわけではない。
言えないまま来る日がある。
大丈夫の顔で来る日がある。
何も言わずに、ただマグカップを置くだけの日がある。
その日にも、隣にいる。
それを、今日少しだけ覚えた。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
ことん。
今日の音は、言えないまま隣にいるための音だったのかもしれない。




