第123話 言えないまま隣にいる夜
その夜、しらいさんは何も持ってこなかった。
台本もない。
青灰色のノートも、すぐに取り出せる場所にはなさそうだった。
コンビニの袋もない。肉まんも、プリンも、温かいお茶もない。
ただ、いつもの鞄を肩にかけて、玄関の前に立っていた。
「来た」
声は小さかった。
「おかえりなさい」
春日悠真が言うと、しらいさんは少しだけ目を伏せた。
「ただいま」
その声は、昨日より弱くはなかった。
けれど、何かを説明する余力はなさそうだった。
悠真はそれ以上、何も聞かなかった。
今日は、そういう夜だと思った。
部屋に入ったしらいさんは、コートを脱いで、ローテーブルの前に座った。
青灰色のコースターがある。
白いマグカップがある。
蜂蜜の瓶は端に置いてある。
スプーンは右側ではなく、少し離れた場所。
いつもの位置。
いつもの部屋。
けれど、今日はその「いつもの」が、いつもより静かに見えた。
「ミルクティー、作ります」
悠真が言うと、しらいさんは小さく頷いた。
「うん」
「蜂蜜は?」
彼女は少し考えた。
「少し」
「分かりました」
「甘すぎないやつ」
「はい」
キッチンで湯を沸かす音がする。
しらいさんは、その音を聞いていた。
何かを話そうとはしない。
スマホも見ない。
ただ、膝の上で両手を重ねて、部屋の中に座っている。
まるで、ここに座ること自体が、今日の用事であるかのように。
悠真はミルクティーを作りながら、昨日のことを思い出していた。
無理に助けてと言わなくていい。
言えない日も、ここにいていい。
昨日、そう言った。
今日は、その言葉を本当に試されている気がした。
助けてと言わせない。
大丈夫かと何度も聞かない。
何があったのか、無理に説明させない。
ただ、ここにいていい。
それを、言葉ではなく態度で示す日だった。
◇
ミルクティーを渡すと、しらいさんは両手で受け取った。
コースターへ置く。
ことん。
小さな音が鳴る。
彼女はその音を聞いたあと、ほんの少しだけ肩を下げた。
昨日のように泣きはしない。
大きく息を吐くこともしない。
ただ、少しだけ力が抜けた。
それだけだった。
でも、それだけで十分な気がした。
しらいさんはミルクティーを一口飲んだ。
飲んで、カップを置く。
ことん。
また飲む。
置く。
ことん。
音は三回。
それ以上は鳴らさなかった。
必要なぶんだけ。
悠真は向かいに座っていたが、途中から少し席をずらした。
真正面ではなく、斜め向かい。
見つめすぎない位置。
でも、すぐ手を伸ばせる距離。
その距離を、しらいさんが少しだけ見て、何も言わずにまたカップへ視線を落とした。
たぶん、伝わった。
今日の彼女には、そのくらいの距離がいい。
部屋の中に、湯気と蜂蜜の匂いだけが静かに広がっていく。
◇
十分ほど、ほとんど会話がなかった。
外では車が一台通り過ぎた。
冷蔵庫が低く鳴った。
カップの中のミルクティーが少しずつ冷めていく。
しらいさんは、ときどき何かを言いかけるように唇を動かした。
でも、言わない。
悠真も、促さない。
言えないままでも、ここにいていい。
昨日の言葉を、部屋全体で守っているような時間だった。
やがて、しらいさんがぽつりと言った。
「今日」
「はい」
「撮影は、そんなに重くなかった」
「はい」
「台詞も少なかった」
「はい」
「でも、昨日の続きが残ってた」
「はい」
「助けてって言えないまま、次の日も普通にいる人って」
「はい」
「そういう人なんだって、今日また思った」
「はい」
しらいさんは、そこで少しだけ黙った。
悠真は待った。
「でも、今日はそれを話しに来たわけじゃない」
「はい」
「話したくないわけでもない」
「はい」
「ただ、話すほどまとまってない」
「はい」
彼女はカップを両手で包んだ。
「だから、来た」
「はい」
「何も言わないで、ここにいてみたかった」
悠真は、静かに頷いた。
「いてください」
「うん」
それだけで、また会話は途切れた。
でも、さっきより少しだけ空気が柔らかくなった。
◇
しらいさんは、今日は青灰色のノートを出さなかった。
何度か鞄へ視線を向けた。
けれど、結局、開かなかった。
悠真も聞かなかった。
書かない練習。
それもまた、必要な日がある。
言葉にすることで救われる日もある。
でも、言葉にすることで、余計にその場所へ戻ってしまう日もある。
今日は、たぶん書かない日だった。
「ノート」
しらいさんが自分から言った。
「はい」
「持ってきてる」
「はい」
「でも、今日は開かない」
「分かりました」
「開いたら、書けちゃう」
「はい」
「書いたら、今日のことが形になる」
「はい」
「今日は、形にしないで置いておきたい」
「はい」
「変?」
「変ではありません」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「春日くん、今日あまり質問しない」
「はい」
「どうして?」
「今日は、答えることより、ここにいることのほうが大事そうなので」
彼女は、しばらく黙った。
そして、目を伏せた。
「それ、かなり今日の正解」
「ならよかったです」
「出た」
「出ます」
いつもの言葉が、今日は小さく出た。
それでも出た。
それが嬉しかった。
◇
時間がゆっくり過ぎていく。
しらいさんは、途中でローテーブルに肘をつきかけて、やめた。
それから少し迷って、クッションを抱えるように持った。
悠真は、何も言わずにもう一つクッションを彼女の近くに置いた。
しらいさんはそれを見て、少しだけ目を細める。
「春日くん」
「はい」
「今の、助かった」
「よかったです」
「でも、助けてって言ってない」
「はい」
「言わなくても、クッション来た」
「はい」
「便利」
「便利ですか」
「うん」
「では、必要なときはまた出します」
「クッション係?」
「はい」
しらいさんは少し笑った。
小さな笑いだった。
でも、その笑いは岸谷紗季のものではなく、しらいさんのものだった。
悠真は、それだけで十分だと思った。
助けてと言わなくても、クッションを差し出せることがある。
大丈夫かと詰めなくても、隣に座れることがある。
言葉にならないまま、少しだけ楽になることがある。
たぶん、今日はそれを覚える日だった。
◇
しばらくして、しらいさんはカップを見つめたまま言った。
「今日、何も言わなくても帰れてる」
悠真は、ゆっくり頷いた。
「はい」
「助けてって言ってない」
「はい」
「大丈夫じゃないとも言ってない」
「はい」
「今日何があったかも、ほとんど言ってない」
「はい」
「ノートも開いてない」
「はい」
「でも、帰れてる」
「はい」
その言葉を言ったあと、しらいさんは少しだけ驚いたような顔をした。
自分で言って、自分で気づいたのだろう。
何も言わなくても帰れている。
それは、昨日の「言えないままでも、ここにいていい」から、さらに少し先へ進んだ言葉だった。
「春日くん」
「はい」
「私、今日、帰ってる?」
「帰っています」
「何割?」
悠真は少し考えた。
いつものように数字で答えるなら。
「八割八分くらいです」
「細かい」
「理沙さん方式です」
「移った」
「はい」
しらいさんは、ほんの少し笑った。
「八割八分」
「はい」
「何も言ってないのに」
「はい」
「じゃあ、言葉の量と帰れてる量は、同じじゃないんだ」
悠真は、その言葉に静かに頷いた。
「そうかもしれません」
「たくさん話したから帰れる日もある」
「はい」
「一文だけで帰れる日もある」
「はい」
「肉まんで帰れる日もある」
「はい」
「何も言わなくても、帰れる日もある」
「はい」
しらいさんは、マグカップをそっと置いた。
ことん。
今日最後に近い音だった。
「帰り道、増えすぎ」
「いいことです」
「うん」
「でも、迷いますか」
「少し」
「はい」
「でも、迷えるくらいあるのは、いいことかも」
「はい」
◇
帰る時間は、いつもより少し早かった。
しらいさんは立ち上がる前に、青灰色のノートを一度だけ鞄の上から触った。
けれど、開かなかった。
「今日は、書かないで帰る」
「はい」
「忘れそうで怖いけど」
「はい」
「でも、忘れてもいい気がする」
「そうですね」
「全部覚えてなくても、帰ったことは消えない?」
「消えません」
しらいさんは頷いた。
「じゃあ、書かない」
「はい」
彼女はマグカップを洗った。
水の音。
カップを拭く音。
棚に戻す音。
ことん。
今日最後の音。
しらいさんは、その音を聞いて少しだけ目を閉じた。
「今日は、ことんも少なかった」
「はい」
「でも足りた」
「はい」
「何も言わなくても、足りる日がある」
「はい」
「覚えた」
玄関で靴を履く前、彼女は振り返った。
「春日くん」
「はい」
「今日は、何も言わないまま帰ってきた」
「はい」
「でも、ただいまは言う」
「はい」
彼女は、小さく息を吸った。
「ただいま」
悠真は、静かに返した。
「おかえりなさい」
それだけだった。
でも、今日はそれだけでよかった。
しらいさんは少し笑って、扉に手をかけた。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まった。
◇
部屋に静けさが戻る。
ローテーブルには、青灰色のコースターが残っている。
ノートは開かれなかった。
大きな告白もなかった。
助けてという言葉もなかった。
それでも、彼女は帰ってきた。
何も言わなくても帰れている。
その言葉が、部屋に残っている。
悠真は、棚の中のマグカップを見た。
言葉がなくても。
ノートがなくても。
音が少なくても。
帰れる日がある。
それは、何も起きなかった夜ではない。
大事なことが、静かに一つ増えた夜だった。




