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第124話 現場に戻った白瀬アカリは、少しだけ岸谷紗季を許した

 翌日の現場入りは、いつもより少し静かだった。


 天気が悪かったわけではない。

 体調が悪かったわけでもない。

 撮影予定が特別に重かったわけでもない。


 ただ、しらいさんの中で、昨日の夜の静けさがまだ少し残っていた。


 何も言わなくても帰れている。


 春日くんの部屋で、そう言った。


 助けてと言わなかった。

 大丈夫じゃないとも言わなかった。

 青灰色のノートも開かなかった。

 ことんの音も少なかった。


 それでも帰れた。


 その感覚は、朝になっても消えていなかった。


 控室の鏡の前で、白瀬アカリは淡いグレーのブラウスに袖を通した。

 黒いパンプスを履き、腕時計をつける。


 岸谷紗季になる準備。


 けれど今日は、いつもより少しだけ怖くなかった。


 紗季さんに会いに行く。


 その言葉の響きが、昨日までとは少し違う。


 怖い役に近づく、というより。

 怒っている相手に向き合う、というより。


 帰り方を忘れた人の隣へ、少しだけ座りに行く。


 そんな感覚だった。


 理沙さんが控室に入ってきた。


「喉は?」


「九割一分です」


「私の評価では九割二分」


「今日は高いですね」


「昨日、あまり話さなかったのがよかったのかもしれないわね」


「はい」


「心は?」


 しらいさんは少し考えた。


「九割くらいです」


「十分」


「はい」


「昨日、春日さんのところでは?」


「ほとんど話しませんでした」


「そう」


「でも、帰れました」


 理沙さんは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「いい傾向ね」


「はい」


「言葉にすることで戻る日もある。言葉にしないことで戻る日もある」


「春日くんにも似たことを言われました」


「でしょうね」


「今日は、紗季さんに会うのが少しだけ怖くないです」


 理沙さんはその言葉を聞いて、タブレットから目を上げた。


「油断ではなく?」


「たぶん、違います」


「ならいいわ」


「はい」


「今日は、紗季を責めないこと」


 しらいさんは、少しだけ瞬きをした。


「責める?」


「ええ」


 理沙さんは淡々と言った。


「あなたは今まで、心のどこかで紗季を責めていたかもしれない」


「……」


「どうして助けてと言わないの。どうしてただいまと言えないの。どうして大丈夫で隠すの。どうして帰ろうとしないの」


 胸の奥に、小さく刺さるものがあった。


 言われて初めて気づく。


 確かに、自分の中には少しだけそういう気持ちがあった。


 帰れる場所を見つけた自分が、帰れない紗季を見て、どこかで焦れていたのかもしれない。


 言えばいいのに。

 帰ればいいのに。

 助けを求めればいいのに。


 それは優しさに見えて、少しだけ責めている。


「今日は、そこを少し手放してみなさい」


 理沙さんが言う。


「はい」


「紗季は帰りたくない人ではない。たぶん、帰り方を忘れた人」


 その言葉は、静かに胸へ落ちた。


 帰り方を忘れた人。


 しらいさんは、鏡の中の岸谷紗季を見た。


 淡いグレーのブラウス。

 控えめな髪。

 黒いパンプス。

 どこにでもいるようで、どこにも帰れない人。


 でも、帰りたくないわけではない。


 帰り方を忘れた人。


「分かりました」


「本当に?」


「たぶん」


「正直でよろしい」


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎といつもの席にいた。


 三崎は今日は唐揚げ弁当だった。

 完全に唐揚げへ帰ってきたらしい。


「最近、戻る食べ物が多すぎないか」


 悠真が言うと、三崎は唐揚げを持ち上げながら答えた。


「最終的に唐揚げに帰る」


「お前の帰る場所は唐揚げなのか」


「ここはここだからな」


「またそれを言う」


 三崎は笑いながらスマホを伏せた。


「白瀬アカリの現場レポート、また出てたな」


「ああ」


「なんか、顔が少し変わった気がする」


 悠真は箸を止めた。


「どう変わった」


「前より、役を責めてない感じ」


 今日も、近い。


 近すぎる。


「役を責める?」


「うん。前は、帰れない人を演じてますっていう緊張が見えたんだよ」


「……」


「今は、帰れない人を少し待ってる感じがする」


 悠真は、三崎を見た。


「それは、いい変化なのか」


「俺はいいと思う」


 三崎は唐揚げを口に入れてから、少しだけ考える。


「帰れない人ってさ、外から見ると、何で帰らないんだよって思うことあるだろ」


「ああ」


「でも、本人は帰りたくないわけじゃないかもしれない」


「……」


「帰り方が分からないだけかもしれない」


 悠真は、胸の奥が静かに鳴るのを感じた。


 理沙さんも、きっと似たことを言っている気がした。


 いや、しらいさん自身が今日その答えに近づいているのかもしれない。


「三崎」


「何」


「今日は唐揚げ十個分だな」


「ついに現物?」


「心の中で」


「夢がない」


「外側の番人だからな」


「外側の番人、もう少し福利厚生を求めたい」


 三崎はぼやきながらも、どこか楽しそうだった。


「でもさ」


「うん」


「白瀬アカリは、そういう役に対して優しくなれる人だと思う」


「優しく?」


「うん。甘やかすんじゃなくて、待つ感じ」


 悠真は、その言葉も持って帰ることにした。


 甘やかすのではなく、待つ。


 それは、岸谷紗季にも、しらいさんにも、もしかすると自分にも必要な言葉だった。


    ◇


 午後の撮影は、岸谷紗季が一人で職場に残る場面だった。


 前にも似た場面はあった。


 残業。

 誰かの資料を直す。

 頼まれた仕事を黙って片づける。


 けれど、今日撮るのは少し違った。


 紗季は、ただ我慢しているだけではない。

 ただ苦しいだけでもない。


 自分がそうすることしか知らない人として、そこにいる。


 白瀬アカリは、机の前に座った。


 パソコンの画面。

 書類。

 無難なペン。

 冷めた紙コップのコーヒー。


 監督が声をかける。


「白瀬さん、今日は紗季を責めないでください」


 しらいさんは、思わず顔を上げた。


 理沙さんと同じ言葉だった。


 監督はモニターの前で続ける。


「紗季は、断れない自分をどこかで分かっているかもしれない。でも、今はまだ変われない」


「はい」


「だから、演じる側が“また断れなかった人”として責めると、少し外から見ている感じになります」


「はい」


「今日は、もう少し中に入ってください。ただし、飲まれずに」


 難しい。


 けれど、今なら少し分かる気がした。


 紗季を責めない。


 帰れない人を、急かさない。


 助けてと言えないことを、責めない。


 ただ、その人がそうするしかなかった時間の中に立つ。


 本番が始まった。


 紗季は、誰もいないオフィスで資料を直している。

 自分の仕事ではない。

 本当なら、帰ってもいい。


 でも、帰らない。


 いや、帰れない。


 仕事が残っているから。

 頼まれたから。

 誰かの役に立てるから。

 そして、それ以外の帰り方を知らないから。


 白瀬アカリは、手元の資料を直した。


 ため息はつかない。

 苦しそうにもしない。

 怒りもしない。


 ただ、少しだけ疲れた手で、紙をそろえる。


 画面を見る。

 修正する。

 保存する。


 黙っている。


 その沈黙は、我慢している声だった。

 けれど、今日はそれだけではない。


 帰り方を忘れた人の手つき。


 紗季は、帰らない人ではない。


 帰る方法を思い出せない人だ。


「カット」


 監督の声がした。


 現場に、短い沈黙が落ちる。


 監督がモニターを確認する。


 白瀬アカリは、椅子に座ったまま動かなかった。


 けれど、いつものように強く引っ張られている感じはなかった。


 どこか、紗季の隣に座っていたような感覚だった。


 しばらくして、監督が言った。


「今の、いいです」


「ありがとうございます」


「紗季を責めなくなりましたね」


 その一言に、胸の奥が大きく揺れた。


 責めなくなった。


 その言葉で、自分がこれまで少し責めていたことを、はっきり認めざるをえなかった。


 どうして帰らないのか。

 どうして断らないのか。

 どうして助けてと言わないのか。


 そう思っていた。


 でも、違う。


 紗季は帰らない人ではない。


 帰り方を忘れた人だった。


    ◇


 撮影後、しらいさんは控室でしばらく黙っていた。


 理沙さんが水を差し出す。


「飲んで」


「はい」


 水を飲む。


 喉は昨日より楽だった。


 でも、胸の奥が少し熱い。


「監督に言われました」


 しらいさんが言うと、理沙さんは静かに頷いた。


「紗季を責めなくなった?」


「はい」


「でしょうね」


「分かっていたんですか」


「顔が違ったわ」


「顔」


「ええ。昨日までより、少し待てる顔をしていた」


 しらいさんは、紙コップを見つめた。


「私、責めてたんですね」


「少しね」


「助けてって言えばいいのにって」


「ええ」


「ただいまって言えばいいのにって」


「ええ」


「帰ればいいのにって」


「ええ」


「でも、紗季さんは」


 言葉が止まる。


 理沙さんは、待った。


「帰らない人じゃなかった」


「そうね」


「帰り方を忘れた人だった」


 その言葉を声に出した瞬間、胸の中で何かがほどけた。


 怖い役。

 痛い役。

 帰れない役。


 それだけではなかった。


 岸谷紗季は、帰りたいのに帰れない人だ。


 そして、帰り方を忘れた人。


 しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日は迷わなかった。


『紗季さんは帰らない人じゃない。帰り方を忘れた人だった。』


 書いたあと、指先でその文字の横を軽く触れた。


 今日の一文。


 これは、かなり大事な一文になる気がした。


    ◇


 夕方、春日悠真にその写真が届いた。


『紗季さんは帰らない人じゃない。帰り方を忘れた人だった。』


 悠真は、会社のデスクでその一文を読んだ。


 すぐに、三崎の言葉とつながった。


 帰れない人は、帰りたくないわけじゃないかもしれない。

 帰り方が分からないだけかもしれない。


『読みました』


『今日、とても大きな一文ですね』


 送る。


 既読。


『監督に、紗季を責めなくなりましたねって言われた』


 悠真は静かに息を吐いた。


『すごい言葉ですね』


 既読。


『刺さった』


『私、責めてた』


『はい』


 少し迷ったが、正直に返した。


『たぶん、俺も少し責めていました』


 既読。


 しばらく返事は来なかった。


 そして、


『春日くんも?』


『はい』


『どうして言わないのか、どうして帰らないのかと』


『思ってしまったことがあると思います』


 既読。


『うん』


『私も』


『でも、違った』


『はい』


『帰り方を忘れた人だった』


 悠真は、三崎の言葉を送ることにした。


『三崎が今日、似たことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『帰れない人は、帰りたくないわけではなく、帰り方が分からないだけかもしれないと』


 既読。


 長い沈黙。


 そして、いつもの一文。


『三崎さん』


 続けて、


『今日は唐揚げ十個分どころじゃない』


 悠真は少し笑った。


『本人は福利厚生を求めていました』


『心の中で社員食堂』


『規模が大きくなりましたね』


『それくらい』


 少しだけ軽くなる。


 それから、しらいさんは言った。


『今日、部屋行っていい?』


『もちろんです』


『泣く感じじゃない』


『でも、話したい』


『待っています』


 既読。


『知ってる』


    ◇


 その夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 玄関を開けると、彼女はいつもより少し落ち着いた顔をしていた。


 疲れている。

 撮影後の疲れはある。


 でも、沈んでいない。


 何かを抱えてはいるが、それに飲まれてはいない顔だった。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は、穏やかだった。


 部屋に入ると、しらいさんはローテーブルの前に座った。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 スプーンは少し離れた場所。


 悠真はミルクティーを作った。


 蜂蜜は普通。


 今日は、甘さで戻す日ではなく、話す日だと思った。


 しらいさんはカップを受け取り、コースターへ置いた。


 ことん。


 その音に、彼女は少しだけ目を細めた。


「今日は、戻るためというより」


「はい」


「話すために来た」


「はい」


「でも、音は必要」


「もちろんです」


 しらいさんはミルクティーを一口飲んだ。


「春日くん」


「はい」


「私、紗季さんを怖がってた」


「はい」


「それは、たぶん必要だった」


「はい」


「でも、少し責めてもいた」


「はい」


「どうして助けてって言わないのって」


「はい」


「どうしてただいまって言わないのって」


「はい」


「どうして帰らないのって」


「はい」


 悠真は静かに聞いていた。


 しらいさんは、マグカップを両手で包んだまま続ける。


「でも、今日思った」


「はい」


「紗季さんは、帰らない人じゃない」


「はい」


「帰りたいけど、帰り方を忘れた人」


「はい」


「それに気づいたら、少しだけ優しく見えた」


「はい」


「怖い役じゃなくなったわけじゃない」


「はい」


「でも、怖いだけじゃなくなった」


 その言葉を、悠真はゆっくり受け取った。


「しらいさん」


「うん」


「それは、とても大きいと思います」


「うん」


「役を許したんですね」


 彼女は少しだけ目を見開いた。


「許した?」


「はい。少しだけ」


 しらいさんは、考えるように視線を落とした。


「そうかも」


「はい」


「帰れないことを、責めなくなった」


「はい」


「助けてって言えないことも」


「はい」


「ただいまって言えないことも」


「はい」


「それでも、見捨てない」


「はい」


 前に書いた言葉が、また戻ってくる。


 代わりに言わない。

 勝手に救わない。

 でも、見捨てない。


 今日は、その中に「責めない」が加わった。


    ◇


 しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日書いた一文を見せる。


『紗季さんは帰らない人じゃない。帰り方を忘れた人だった。』


 悠真は頷いた。


「読みました」


「うん」


「今日のしらいさんにも、少し関係ある気がします」


「私に?」


「はい」


「どうして?」


「しらいさんも、帰り方を忘れていた時期があったのかもしれないので」


 彼女は、静かに目を伏せた。


「うん」


「でも、少しずつ思い出しました」


「うん」


「だから、紗季さんのことを少し許せたのかもしれません」


「……うん」


 しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。


 置く。


 ことん。


「春日くん」


「はい」


「私、自分のことも少し責めてたのかな」


「はい」


「帰れなかったころの私を」


「……少しは、そうかもしれません」


「助けてって言えばよかったのにって」


「はい」


「本人じゃないとか言ってないで、ちゃんと帰ればよかったのにって」


「はい」


「でも、帰り方を忘れてたんだね」


 悠真は、静かに頷いた。


「そうだと思います」


 しらいさんは、少しだけ息を吐いた。


「それなら、少し許せるかも」


「はい」


「昔の私も」


「はい」


「紗季さんも」


「はい」


「春日くん」


「はい」


「今日、泣く感じじゃないって言ったけど」


「はい」


「少しだけ来そう」


「正式予約ですか」


「ううん」


 彼女は首を横に振った。


「これは、痛い涙じゃない」


「はい」


「少し許せた涙」


「はい」


 涙は一粒だけだった。


 頬を伝う前に、しらいさんは指でそっと拭った。


 それで終わり。


 大きく崩れない。


 でも、その一粒には、昨日までとは違う温度があった。


    ◇


 しばらくして、しらいさんは少し笑った。


「今日は、肉まんじゃなかった」


「はい」


「プリンでもなかった」


「はい」


「ラーメンでもなかった」


「はい」


「許せた涙だった」


「新しい帰り道ですか」


「たぶん」


「帰り道は増えますね」


「増えすぎ」


「迷いますか」


「少し。でも、いい」


「はい」


 しらいさんは、青灰色のノートを閉じた。


「もう一文書きたいけど」


「今日は、心に置きますか」


「うん」


「何ですか」


「帰れなかった私も、少し許す」


 悠真は、何も言わなかった。


 その言葉は、ノートに書かれなくても、確かに部屋へ置かれた。


「いい言葉です」


「うん」


「いつか書いてもいいと思います」


「いつかね」


「はい」


 しらいさんはカップを持ち上げ、また置いた。


 ことん。


「今日は、この音も優しい」


「音にも日によって違いがありますか」


「ある」


「そうですか」


「うん。今日は、責めない音」


「それは、かなり難しい音ですね」


「春日くんの部屋の音だから」


「買いかぶりです」


「そうでもない」


 彼女は、少しだけ照れたように笑った。


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


 しらいさんは、その音を聞いて、小さく言った。


「帰り方を忘れた人にも、いつか音が聞こえるといいね」


「はい」


「でも、勝手に聞かせない」


「はい」


「隣を歩く」


「はい」


「責めない」


「はい」


「見捨てない」


「はい」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「今日は、紗季さんを少し許せた」


「はい」


「昔の私も、少しだけ」


「はい」


「それを持って、明日も行く」


「行ってらっしゃい」


「うん」


「帰ってきたら、おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 悠真はローテーブルの前に座り、青灰色のコースターを見た。


 紗季さんは帰らない人じゃない。

 帰り方を忘れた人だった。


 その一文が、今日の部屋に残っている。


 帰れない人を、責めないこと。

 帰れなかった自分を、少し許すこと。


 それは簡単なことではない。


 でも、しらいさんは今日、その一歩を踏んだ。


 悠真は棚の中のマグカップを見た。


 ことん。


 今日の音は、責めない音。


 彼女がそう言った。


 そんな音が本当にあるのかは分からない。


 でも、この部屋には今日、たしかに少しだけ優しい沈黙が残っていた。

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