第125話 帰り方を忘れた人へ、白瀬アカリは声を貸す
その日の撮影予定を見たとき、しらいさんはしばらく台本のページから目を離せなかった。
場面番号の横に、短く書かれている。
紗季、帰宅。
玄関で立ち止まる。
台詞なし。
それだけだった。
けれど、その「台詞なし」が、今の白瀬アカリには何より重かった。
岸谷紗季の部屋。
綺麗なのに帰れない部屋。
明かりはつくのに、ただいまがない部屋。
今日は、その玄関で立ち止まる。
言わない。
でも、ただ言わないだけではない。
言いたいかもしれない。
言えないかもしれない。
言う相手がいないのではなく、言った自分を受け止める場所がない。
それを、声にしないまま映像にする。
控室の鏡の前で、白瀬アカリは黒いパンプスを履いた。
足元が変わる。
岸谷紗季の靴。
けれど、歩くのは自分の足。
それは、もう何度も確かめてきた。
でも今日は、足だけでは足りない気がした。
喉。
声。
言わない声。
理沙さんが控室に入ってきた。
「喉は?」
「九割です」
「私の評価では九割」
「一致しました」
「でも今日は、喉を使うわね」
「台詞、ないですけど」
「だからよ」
理沙さんは、当然のように言った。
「今日は、言わない声を使う日」
しらいさんは小さく頷いた。
「はい」
「昨日、少し紗季を責めなくなった」
「はい」
「今日は、その先ね」
「その先」
「帰り方を忘れた人に、あなたが少しだけ声を貸す。でも、持って帰りすぎない」
声を貸す。
その言葉に、しらいさんの胸が少し鳴った。
代わりに言わない。
勝手に救わない。
でも、見捨てない。
そこから、もう一歩。
声を貸す。
ただし、自分の声を奪われない。
「難しいです」
「難しいわよ」
「理沙さん、最近そればっかりです」
「簡単な仕事なら、ここまであなたに来ていないわ」
理沙さんは少しだけ表情を緩めた。
「今日の注意点」
「はい」
「紗季に『ただいま』を言わせようとしない」
「はい」
「でも、言いたかったかもしれない気配は消さない」
「はい」
「あなた自身が言いたくなったら?」
「止めます」
「止めるだけではなく、戻る」
「はい」
「撮影後、春日さんの部屋へ行ける?」
「行けます」
「行きなさい」
今日は、理沙さんの判断が早かった。
「今日は、戻す場所が必要になる可能性が高いわ」
「はい」
「現場には置いて帰れるものと、置いて帰れないものがある」
「はい」
「あなたの『ただいま』は、現場に置いて帰らないこと」
しらいさんは、鏡の中の自分を見た。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、会いに行く。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は今日は唐揚げ弁当を食べながら、妙に静かだった。
「どうした」
悠真が聞くと、三崎はしばらく唐揚げを見つめてから言った。
「白瀬アカリの“ただいまを言わない芝居”って、すごそうだなって思って」
悠真は箸を止めた。
もう驚くべきなのか、慣れるべきなのか分からない。
「また急だな」
「いや、帰れない役をやるならさ」
「うん」
「たぶん、台詞で『帰れない』って言うより、家に入って何も言わないほうがきついと思うんだよ」
「……」
「ただいま、って言えばいいだけなのに言わない。でも、言わないってことは、何も感じてないんじゃなくて、言えない理由がある」
悠真は、台本の内容を知っているわけではない。
しらいさんから、話せる範囲で聞いているだけだ。
けれど、三崎の言葉はあまりにも近かった。
「お前、どこまで見えてるんだ」
「外側の番人だからな」
「便利だな、その肩書き」
「給料は出ないけどな」
三崎はそう言って、唐揚げを一つ食べた。
それから少し真面目な顔に戻る。
「でも、そういう芝居って、役者が代わりに言っちゃったら違うんだろうな」
「どういう意味だ」
「役の人が言えない“ただいま”を、役者が救ってあげる感じで言いそうになると違うというか」
「……」
「言えないまま、言いたかったかもしれないって見えるのが、一番痛いんじゃないか」
悠真は、静かに息を吐いた。
持って帰る言葉が、今日もできた。
「三崎」
「何」
「今日は唐揚げ何個分どころじゃないな」
「ついに弁当代か?」
「心の中で」
「心が満腹になっても腹は膨れないんだよ」
「現実だな」
「現実は唐揚げが減る」
「名言っぽく言うな」
三崎は少し笑った。
その軽さに、悠真は救われた。
今日のしらいさんは、たぶんかなり難しい場所へ行っている。
でも、自分が今できることは、待つことだ。
そして、帰ってきたら受け取ること。
◇
撮影は、岸谷紗季の部屋セットで行われた。
玄関の外。
白瀬アカリは、黒いパンプスで立っている。
鞄を持つ手は少し疲れている。
肩は落としすぎない。
顔は崩さない。
ただ、今日が終わって、ここへ戻ってきた人。
でも、帰ってきた人ではない。
監督がモニターの前で言った。
「今日は台詞がありません」
「はい」
「でも、声はあります」
その言葉に、しらいさんは顔を上げた。
「声」
「ええ。声に出さない声です」
理沙さんと同じことを言う。
監督は続けた。
「紗季は、この部屋に入るたびに何かを諦めているのかもしれません。でも、それを毎回は自覚していない」
「はい」
「今日は、ほんの一瞬だけ、自覚しかける場面です」
「はい」
「ただいま、と言うかもしれない。でも言わない。いや、言えない。そこを探しましょう」
探す。
決めるのではなく、探す。
白瀬アカリは頷いた。
「お願いします」
最初の本番。
鍵を開ける。
ドアを開ける。
部屋へ入る。
玄関で、少しだけ立ち止まる。
白瀬アカリは、一度目、言いたさを出しすぎた。
唇が動きすぎた。
喉がはっきり反応した。
見ている側に「ただいまと言いたかった」と分かりすぎる。
「カット」
監督の声は穏やかだった。
「白瀬さん、今のは少し“言いたい”が見えすぎました」
「はい」
「紗季は、まだそこまで自分で分かっていないかもしれません」
「はい」
「言いたい、と気づく直前くらい。言葉になる前の、もっと手前で」
しらいさんは小さく頷いた。
難しい。
言いたいと分かる前。
自分の中にある「ただいま」が、まだ名前を持つ前。
そこへ行かなければならない。
二度目。
今度は抑えすぎた。
鍵を開ける。
入る。
止まる。
けれど、何もなさすぎた。
ただ疲れている人になった。
「カット」
監督は少し考えながら言った。
「今度は、少し消えすぎましたね」
「はい」
「言葉にならないものはあります。でも、表に出る前に沈んでしまった」
「はい」
「もう一度、いきましょう」
白瀬アカリは深呼吸した。
役から離れすぎても違う。
近づきすぎても違う。
岸谷紗季に、声を貸す。
でも、自分の「ただいま」を奪わせない。
しらいさんは心の中で言った。
私のただいまは、ここでは言わない。
でも、紗季さんの喉の奥にあるかもしれないものを、少しだけ支える。
三度目。
鍵を開ける。
部屋へ入る。
明かりは、まだつけない。
玄関の薄い暗さの中で、一瞬だけ立ち止まる。
鞄を持つ手に、少しだけ力が入る。
唇は動かない。
けれど、喉の奥で、声になる前の気配が止まる。
ただいま。
言っていない。
口も動いていない。
でも、言わなかった声がそこにある。
白瀬アカリは、それを喉の奥で止めた。
止めたまま、靴を脱ぐ。
部屋へ上がる。
明かりをつける。
部屋は白く照らされる。
それでも、帰ってきた感じはしない。
「カット」
現場が静かになった。
誰もすぐには動かなかった。
監督がモニターを見ている。
白瀬アカリは、その場に立ったまま、少しだけ息を整えた。
戻る。
今、戻る。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、今は声を少し貸した。
数秒後、監督が静かに言った。
「今のでいきましょう」
その言葉で、現場の空気が少しだけほどけた。
スタッフが動き出す。
しらいさんは、頭を下げた。
「ありがとうございます」
喉の奥が熱かった。
痛いのではない。
声にしなかった声が、そこに残っている。
◇
撮影後、理沙さんがすぐに近づいてきた。
「水」
「はい」
しらいさんは水を飲んだ。
冷たさが喉を通る。
でも、完全には消えない。
「今、どのくらい?」
「七割、紗季さんの玄関にいます」
「高いわね」
「はい」
「でも、戻る意識はある」
「あります」
「よろしい」
理沙さんは、少しだけ表情を和らげた。
「今日は、かなり深かったわ」
「はい」
「できた?」
しらいさんは少し考えた。
「声を貸した感じがしました」
「ええ」
「でも、私のただいまは、まだ持っています」
「それが大事」
理沙さんははっきり言った。
「今日は春日さんの部屋へ」
「はい」
「ノートは?」
「一文、書きます」
「一文で足りる?」
しらいさんは、少しだけ迷った。
「たぶん、足りません」
「正直でよろしい」
「でも、今日は一文で止めます」
「そのほうがいいわ」
しらいさんは控室で青灰色のノートを開いた。
手が少し震えていた。
けれど、文字は書けた。
『帰り方を忘れた人へ、声を貸した。私のただいまは、ここに戻す。』
書いた瞬間、目の奥が熱くなった。
でも、泣かない。
まだ、戻す場所へ行っていない。
写真を撮って、春日くんへ送った。
◇
春日悠真は、帰宅してすぐその写真を受け取った。
青灰色のノート。
『帰り方を忘れた人へ、声を貸した。私のただいまは、ここに戻す。』
読んだ瞬間、胸の奥が静かに鳴った。
今日の撮影が、かなり大きな場所だったことが分かった。
声を貸した。
でも、自分のただいまは戻す。
それは、ずっと積み重ねてきたことの一つの答えのようだった。
『読みました』
『今日は、待っています』
既読。
少しして、
『行く』
と返ってきた。
続けて、
『ことんの音、必要』
『私のただいまを戻したい』
悠真は、すぐに返信した。
『用意します』
それから、三崎の言葉も送った。
『三崎が今日、言っていました』
『役の人が言えないただいまを、役者が救ってあげる感じで言いそうになると違う』
『言えないまま、言いたかったかもしれないと見えるのが一番痛いのでは、と』
既読。
しばらく返事は来なかった。
やがて、
『三崎さん』
いつもの一文。
さらに、
『今日は社員食堂どころじゃない』
と届いた。
悠真は少し笑った。
『何になりますか』
『会社ごとあげたい』
『それは大きすぎます』
『それくらい』
少しだけ軽さが戻った。
その軽さに、悠真も救われた。
◇
しらいさんが部屋へ来たのは、夜になってからだった。
玄関を開けると、彼女はしばらく何も言わなかった。
黒いキャップ。
薄いマスク。
ベージュのコート。
いつもの格好。
でも、今日は喉の奥に何かを抱えたまま立っているように見えた。
悠真は先に言った。
「おかえりなさい」
しらいさんは、少しだけ目元を揺らした。
「……ただいま」
声は小さい。
でも、確かに彼女の声だった。
部屋に入り、ローテーブルの前に座る。
今日は、ミルクティーがすでに置かれていた。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜は少し多め。
スプーンは離れた場所。
しらいさんは、カップを両手で持ち上げた。
まだ飲まない。
そのまま少し見つめて、コースターへ置いた。
ことん。
音が鳴った。
その瞬間、彼女の肩が小さく落ちる。
「戻す音」
「はい」
「今日は、戻す音」
「はい」
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
喉を通る温かさに、少しだけ目を閉じる。
「春日くん」
「はい」
「今日は、紗季さんに声を貸した」
「はい」
「ただいま、って言ってない」
「はい」
「でも、喉の奥で止めた」
「はい」
「紗季さんの声を、少しだけ支えた感じがした」
「はい」
「でも」
彼女は、カップを両手で包んだ。
「私のただいまは、ここに返しに来た」
悠真は、静かに頷いた。
「返してください」
しらいさんの目が少し潤んだ。
「言っていい?」
「もちろんです」
「紗季さんのじゃなくて」
「はい」
「私の」
「はい」
彼女は深呼吸した。
マグカップをそっと置く。
ことん。
そして、小さく言った。
「ただいま」
悠真は、ゆっくり返した。
「おかえりなさい」
その瞬間、しらいさんの目から涙が一粒だけ落ちた。
でも、泣き崩れない。
昨日までのように、痛みで押し出された涙ではない。
何かをちゃんと返せた涙だった。
「戻った」
「はい」
「今、戻った」
「おかえりなさい」
「うん」
◇
しばらく、二人は黙っていた。
しらいさんは、ミルクティーを飲む。
置く。
ことん。
今日は、その音が毎回少しずつ違って聞こえた。
戻す音。
確かめる音。
返す音。
青灰色のノートを開くと、今日の一文があった。
『帰り方を忘れた人へ、声を貸した。私のただいまは、ここに戻す。』
しらいさんはそのページを見つめた。
「今日、もう書かない」
「はい」
「これで足りる気がする」
「はい」
「でも、言葉では話したい」
「聞きます」
彼女は頷いた。
「一回目は、言いたいが見えすぎた」
「はい」
「二回目は、何もなさすぎた」
「はい」
「三回目で、声になる前のところに行けた気がした」
「はい」
「ただいまって言葉になる前」
「はい」
「喉の奥で、まだ形になる前」
「はい」
「そこを止めた」
「はい」
「でも、そのあと、私のただいまも一緒に止まりそうになった」
悠真は、少しだけ息を止めた。
「だから、ここへ来たんですね」
「うん」
「戻すために」
「うん」
「ここに戻してくれて、ありがとうございます」
しらいさんは、少しだけ驚いた顔をした。
「ありがとう?」
「はい」
「春日くんに?」
「はい」
「どうして」
「しらいさんのただいまを、ここに戻す場所として選んでくれたので」
しらいさんは、目元を赤くしたまま笑った。
「春日くん」
「はい」
「今日、それはかなりずるい」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「でも、選んだ」
「はい」
「ここに戻したかった」
「はい」
「ここはここだから」
「はい」
◇
少し落ち着いてから、しらいさんは言った。
「今日、紗季さんを少し待てた気がする」
「はい」
「ただいまを言わせなかった」
「はい」
「でも、言えなかったことを消さなかった」
「はい」
「それが、声を貸すってことなのかな」
「そうかもしれません」
「難しい」
「はい」
「でも、少しできた」
「はい」
「春日くん」
「はい」
「今日、百点?」
悠真は少し考えた。
「九十八点です」
「高い」
「はい」
「二点は?」
「今日はかなり疲れているので、早く寝る分です」
しらいさんは、ぽかんとしたあと、少し笑った。
「明日もあるから?」
「はい」
「理沙さん側」
「彼氏側もです」
「強い」
いつもの言葉が出た。
それだけで、部屋の空気が少し柔らかくなる。
「じゃあ、九十八点」
「はい」
「でも、今日は自分でも少し褒めたい」
「褒めていいと思います」
「うん」
しらいさんは、マグカップを見つめた。
「紗季さんに声を貸して、私の声を戻した」
「はい」
「それ、できた」
「できました」
「うん」
◇
帰る時間は早めにした。
今日の撮影は、心の奥をかなり使った。
無理に長く話すと、戻した声がまた揺れる気がした。
しらいさんはマグカップを洗おうとしたが、今日は悠真が止めた。
「俺が洗います」
「また?」
「今日は、戻した声を休ませる日でもあるので」
「洗い物と声、関係ある?」
「少しあります」
「また理屈が怪しい」
「彼氏側です」
「便利」
しらいさんは、今日は素直に任せた。
悠真がカップを洗い、拭いて、棚に戻す。
ことん。
今日最後の音。
しらいさんは、その音を静かに聞いた。
「戻りましたか」
「九割五分」
「かなり」
「うん」
「残り五分は?」
「寝る」
「それがいいです」
「九十八点の二点分?」
「はい」
「細かい」
しらいさんは少し笑った。
玄関で靴を履く前、彼女は振り返った。
「春日くん」
「はい」
「今日は、紗季さんに声を貸した」
「はい」
「でも、私のただいまはここに戻した」
「はい」
「それを忘れそうになったら、言って」
「言います」
「何度でも?」
「何度でも」
「知ってる」
彼女は少しだけ笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「うん」
ドアが閉まった。
◇
部屋に静けさが戻る。
ローテーブルには、青灰色のコースターと、少しだけ甘いミルクティーの匂いが残っている。
帰り方を忘れた人へ、声を貸した。
私のただいまは、ここに戻す。
その一文が、今日の部屋に残っている。
白瀬アカリは、岸谷紗季に声を貸した。
でも、しらいさんの声は、しらいさんのまま帰ってきた。
それは、とても大きなことだと思った。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
ことん。
今日の音は、返ってきた声を受け取る音だった。




