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第126話 声を返した夜、君は初めて少しだけ笑った

 翌朝、しらいさんは泣かなかったことに気づいて、少し驚いた。


 泣くだろうと思っていた。


 昨日の撮影は、それくらい深い場所に触れた。


 岸谷紗季が玄関で立ち止まる。

 「ただいま」とは言わない。

 けれど、言わなかった声が喉の奥にある。


 白瀬アカリは、その声に少しだけ触れた。


 帰り方を忘れた人へ、声を貸した。


 でも、自分のただいまは春日くんの部屋へ戻した。


 その夜、春日くんの部屋で、マグカップを置いた。


 ことん。


 そして、言った。


 ただいま。


 春日くんは、いつものように言ってくれた。


 おかえりなさい。


 そこで泣くと思っていた。


 少なくとも、もう少し崩れると思っていた。


 けれど実際には、涙は一粒だけだった。


 それも、痛みに押し出された涙ではなかった。


 返せた、と分かった涙だった。


 声を貸した。

 でも、声を持って帰りすぎなかった。

 自分の声は、自分の場所へ戻した。


 だから、泣き崩れなかったのかもしれない。


 朝の部屋で、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 昨日の一文がある。


『帰り方を忘れた人へ、声を貸した。私のただいまは、ここに戻す。』


 読み返しても、胸は痛む。


 けれど、沈みすぎない。


 そのことが不思議だった。


 スマホが震えた。


 春日くんからだった。


『おはようございます』


『昨日の声は、戻っていますか』


 しらいさんは、少しだけ笑った。


 昨日の声。


 岸谷紗季へ貸した声。

 春日くんの部屋へ戻した声。


 それを朝から聞いてくれる人がいる。


『戻ってる』


 そう送る。


 少し迷って、もう一文。


『泣くと思ってたけど、今ちょっと笑ってる』


 すぐ既読がついた。


『とてもいい朝ですね』


『春日くん』


『はい』


『朝からそれは少しずるい』


『すみません』


『謝るところではない』


 いつものやり取り。


 それができるくらいには、ちゃんと戻っている。


 しらいさんは、ノートを閉じた。


 今日は、昨日の余韻を全部言葉にしない。


 ただ、少し笑えたことだけ覚えておく。


    ◇


 事務所で理沙さんに会うと、いつもの確認があった。


「喉は?」


「九割三分です」


「私の評価では九割三分」


「一致しました」


「昨日の内容を考えると、悪くないわね」


「はい」


「心は?」


 しらいさんは少し考えた。


「九割二分くらいです」


「細かいわね」


「理沙さん方式です」


「責任を押しつけないで」


 理沙さんはそう言いながらも、少しだけ口元を緩めた。


「昨日、春日さんのところで戻せた?」


「はい」


「泣いた?」


「一粒だけ」


「一粒」


「はい」


「もっと崩れると思った?」


「思いました」


「でも崩れなかった」


「はい」


「理由は分かる?」


 しらいさんは、少しだけ視線を落とした。


「紗季さんの声を、持って帰りすぎなかったからだと思います」


 理沙さんは黙って聞いていた。


「声は貸しました。でも、私のただいまは春日くんの部屋に戻しました」


「ええ」


「だから、痛いけど、混ざりすぎなかった」


「よろしい」


 理沙さんは短く言った。


 その一言だけで、少し背筋が伸びる。


「昨日は、かなり危うい場面でもあったわ」


「はい」


「でも、戻り方がよかった」


「春日くんのおかげもあります」


「それはそうでしょうね」


「あと、ことんの音」


「それもでしょうね」


「でも、私も少しできました」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 前なら、そうは言わなかったかもしれない。


 誰かのおかげ。

 あの部屋のおかげ。

 理沙さんのおかげ。

 松岡さんのおかげ。

 三崎さんの言葉のおかげ。


 もちろん、それは全部本当だ。


 けれど、昨日は自分でも少し戻れた。


 声を貸して、声を戻した。


 その手順を、自分で選べた。


 理沙さんは、しらいさんの顔を見て、静かに頷いた。


「そう。あなたも少しできた」


「はい」


「そこを忘れないこと」


「はい」


「ただし、次に同じようにできるとは限らない」


「分かっています」


「毎回違う。だから、昨日できたことを今日の義務にしない」


「はい」


「でも、できたことは消さない」


 しらいさんは、その言葉を胸に置いた。


 できたことは消さない。


 でも、義務にはしない。


 それも、今の自分には大事だった。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は今日は唐揚げ弁当ではなく、なぜか卵サンドを食べていた。


「唐揚げじゃないのか」


「今日は軽め」


「どうした。外側の番人に何かあったのか」


「俺にも軽い日がある」


「そうか」


 三崎は卵サンドを一口食べてから、スマホを伏せた。


「春日」


「何だ」


「白瀬アカリって、重い芝居のあとに少し笑えたら強そうだな」


 悠真は、水筒の蓋を開ける手を止めた。


「どういうことだ」


「泣くより笑うほうが軽いって意味じゃなくてさ」


「うん」


「役を全部持って帰ったら、たぶん笑えないだろ」


 悠真は、黙って三崎を見た。


「でも、ちゃんと役に入って、ちゃんと置いて帰れたら、少し笑える気がする」


「……」


「白瀬アカリって、そういう笑い方ができるようになった気がするんだよな」


 何も知らない。


 もちろん、三崎は昨日の撮影内容も、しらいさんのノートも、春日の部屋での「ただいま」も知らない。


 それなのに、今日も外側から近いところへ来る。


「三崎」


「何」


「今日も外側の番人だな」


「最近、それを言われると安心する自分がいる」


「もう職業病だな」


「無給なのに」


 三崎は少し笑ったあと、珍しく真面目な顔で続けた。


「でも、役を持ち帰りすぎないって、冷たいことじゃないんだろうな」


「うん」


「ちゃんと演じたからこそ、ちゃんと置いて帰る。そういう感じ」


「……そうだな」


「白瀬アカリには、それができてほしい」


 悠真は、その言葉を胸にしまった。


 今日もまた、持って帰る言葉が増えた。


    ◇


 午後の撮影は、昨日ほど重くはなかった。


 岸谷紗季が職場で資料を受け取り、軽く会釈する場面。

 友人からのメッセージを見て、返信せずに画面を伏せる場面。

 部屋でマグカップに水を入れる場面。


 それぞれ短い。


 でも、昨日の玄関のシーンを経たあとだから、少し見え方が違った。


 紗季は、帰らない人ではない。

 帰り方を忘れた人。


 そして昨日、白瀬アカリはその人へ声を貸した。


 だから今日は、少しだけ紗季に対して優しく立てた。


 変に救おうとしない。

 急かさない。

 責めない。


 ただ、そこにいる。


 監督は、部屋でマグカップに水を入れる場面のあと、モニターを見ながら言った。


「昨日の余韻が、ちゃんと今日に残っていますね」


「はい」


「でも、引きずりすぎていない」


「ありがとうございます」


「白瀬さん、昨日の声を持って帰りすぎませんでした?」


 突然言われ、しらいさんは少しだけ驚いた。


 監督はモニターから目を離さずに続ける。


「今日の紗季が、昨日の場面に閉じ込められていないので」


 胸の奥が、静かに温かくなった。


 それは、自分が昨日ちゃんと戻れた証拠のように聞こえた。


「はい」


 白瀬アカリは静かに答えた。


「昨日は、声を少し貸しました。でも、持って帰りすぎないようにしました」


 監督がこちらを見た。


 少し驚いたあと、ゆっくり頷く。


「それは、とてもいい距離ですね」


 その言葉が、今日の白瀬アカリには何より嬉しかった。


    ◇


 撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開かなかった。


 書きたいことはある。


 昨日の声を、持って帰りすぎなかった。

 そのおかげで、今日の紗季が昨日に閉じ込められなかった。

 泣くと思っていたのに、少し笑えた。


 でも、今日は書かない。


 昨日の一文がまだ効いている。

 今日またノートに書くと、少し飾ってしまう気がした。


 その代わり、春日くんへメッセージを送った。


『今日、ノート書かない』


 すぐ既読。


『いいと思います』


『昨日の一文がまだあるから』


『はい』


『監督に、昨日の声を持って帰りすぎなかったか聞かれた』


『今日の紗季さんが昨日に閉じ込められていないって』


 既読。


 少しして、


『すごく大きな評価ですね』


 と返ってきた。


『嬉しかった』


『少し笑えた』


『はい』


『三崎が今日、似たことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『ちゃんと役に入って、ちゃんと置いて帰れたら、少し笑える気がすると』


『役を持ち帰りすぎないのは冷たいことではない、とも』


 既読。


 しらいさんは、控室の隅で目を閉じた。


 三崎さん。


 本当に、何も知らないところから必要な言葉をくれる。


『今日は卵サンド?』


 なぜかそう聞きたくなった。


 すぐ返事が来る。


『正解です』


 しらいさんは、思わず笑った。


『怖い』


『見えていましたか』


『今日は唐揚げじゃない気がした』


『外側の番人を逆に見ていますね』


『少し』


 軽いやり取りができる。


 それもまた、戻れている証拠だった。


『今日、部屋行っていい?』


『もちろんです』


『泣く感じじゃない』


『笑えた話をしたい』


『待っています』


 既読。


『知ってる』


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 玄関を開けると、彼女は昨日よりずっと穏やかな顔をしていた。


 もちろん、疲れていないわけではない。


 撮影の疲れはある。

 岸谷紗季の余韻もある。


 けれど、昨日のように喉の奥に声を抱えて立っている感じではなかった。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声が少し明るい。


 それに気づいて、悠真は少しだけ安心した。


 部屋に入ると、しらいさんはローテーブルの前に座った。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 スプーンは離れた場所。


 いつもの部屋。


 今日は、ミルクティーの蜂蜜は少しだけだった。


「今日は甘すぎなくていいです」


 悠真が言うと、しらいさんは頷いた。


「うん。今日はそれでいい」


 カップを受け取り、コースターへ置く。


 ことん。


 その音に、彼女は少しだけ笑った。


「昨日の音と違う」


「どう違いますか」


「昨日は、戻す音」


「はい」


「今日は、戻ってきた音」


 悠真は静かに頷いた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 そのやり取りを、もう一度した。


 しらいさんは、少し照れたようにミルクティーを飲んだ。


    ◇


「今日、泣くと思ってたんだけど」


 しらいさんが言った。


「昨日ですか」


「昨日も。今日の朝も」


「はい」


「でも、あんまり泣かなかった」


「はい」


「今日なんて、少し笑えた」


「いいことだと思います」


「春日くん」


「はい」


「泣けなかったんじゃなくて、泣かなくてもよかったんだと思う」


 その言葉に、悠真は少しだけ胸を打たれた。


「はい」


「昨日、紗季さんに声を貸した」


「はい」


「でも、私の声はここに戻した」


「はい」


「だから、紗季さんの声を今日まで持って帰りすぎなかった」


「はい」


「それで、笑えたのかも」


「そうだと思います」


 しらいさんは、マグカップを両手で包んだ。


「役を持ち帰らないって、少し冷たいことみたいに思ってた」


「はい」


「でも、違うんだね」


「はい」


「ちゃんと返すってことなんだね」


 悠真は頷いた。


「役を大事にするためにも、しらいさんが戻る必要があるのだと思います」


「うん」


「昨日の紗季さんを、今日の紗季さんに閉じ込めないためにも」


「それ、監督にも近いこと言われた」


「はい」


「今日の紗季さんが、昨日に閉じ込められてないって」


「すごいですね」


「うん。嬉しかった」


「はい」


「怖くなかった」


「今日は?」


「今日は、嬉しいが勝った」


 それは珍しい言葉だった。


 嬉しいけど怖い。

 怖いけど嬉しい。


 これまでは、そういう言い方が多かった。


 でも今日は、嬉しいが勝った。


 しらいさん自身も、それを分かっているようだった。


「成長でしょうか」


 悠真が言うと、しらいさんは少し笑った。


「春日くん、すぐ成長って言う」


「そうですか」


「うん」


「でも、成長だと思います」


「じゃあ、今日は何点?」


 昨日の続きのように、しらいさんが聞く。


 悠真は少し考えた。


「九十七点です」


「昨日より下がった」


「今日は、早く寝る分が三点です」


「増えた」


「明日も撮影があります」


「理沙さん側」


「彼氏側もです」


「強い」


 二人で少し笑った。


    ◇


 しらいさんは今日は青灰色のノートを開かなかった。


 鞄の中にあるのは分かっている。


 けれど、取り出さない。


「今日は書かない」


「はい」


「昨日の一文があるから」


「はい」


「今日書くと、少し飾っちゃいそう」


「分かる気がします」


「だから、話すだけ」


「はい」


「でも、忘れたくない」


「では、心に置きましょう」


「春日くん」


「はい」


「最近、心に置くって言い方よくする」


「便利なので」


「便利に使ってる」


「はい」


「でも、今日はそれがいい」


 しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。


 置く。


 ことん。


「昨日、声を貸した」


「はい」


「今日、少し笑えた」


「はい」


「それを心に置く」


「はい」


「ノートじゃなくて」


「はい」


「この部屋に」


 悠真は、少しだけ目を上げた。


「この部屋に置くんですか」


「うん」


「いいんですか」


「今日は、ここに置きたい」


「分かりました」


「重いものじゃないから」


「はい」


「少し笑えたこと」


「はい」


 それは、この部屋に置かれて嬉しいものだった。


 痛みだけではない。

 苦しさだけではない。

 泣きそうな夜だけではない。


 少し笑えたことも、ここに置いていける。


 悠真は、そのことがうれしかった。


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗った。


 今日は自分で洗った。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「戻りましたか」


 悠真が聞く。


 しらいさんは、少し考えた。


「九割六分」


「かなり細かいですね」


「昨日、九割五分だったから」


「一分増えた」


「うん」


「残り四分は?」


「寝る」


「いつものですね」


「うん」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「今日は、少し笑えた」


「はい」


「それを、ここに置いていく」


「はい」


「いい?」


「もちろんです」


「痛いものばかり置きに来る場所にしたくないから」


 その言葉に、悠真の胸が少し熱くなった。


「はい」


「笑えたことも、置きに来る」


「はい」


「ここはここだから」


「はい」


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 悠真はローテーブルの前に戻り、青灰色のコースターを見た。


 昨日、ここには返ってきた声があった。


 今日は、少し笑えたことが置かれた。


 それは、思っていた以上に大きなことだった。


 この部屋は、苦しい夜だけの場所ではない。

 崩れたときだけ戻る場所でもない。

 助けてと言えない夜だけの避難所でもない。


 笑えたことも置ける場所。


 それは、恋人の部屋として、とても自然で、でも少し照れくさい意味を持っている気がした。


 悠真は棚の中のマグカップを見た。


 ことん。


 今日の音は、少し笑えたことを置く音だった。

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