第127話 三崎、白瀬アカリの「沈黙の演技」に震える
公開されたのは、ほんの短い映像だった。
ドラマ公式アカウントに載った、十五秒ほどのメイキング。
撮影現場の空気を少しだけ切り取ったもの。
スタッフの声。
カメラの後ろで何かを確認する監督。
共演者と軽く会釈する松岡遥。
そして、白瀬アカリが岸谷紗季の衣装で、部屋セットの玄関に立っている姿。
台詞はない。
ただ、玄関で立ち止まっている。
ほんの二秒。
それだけだった。
けれど、その二秒を見た三崎は、昼休みの休憩スペースで固まった。
「春日」
「何だ」
「今の、見たか」
「公式のメイキングか?」
「そう」
三崎はスマホを持ったまま、何度も同じ箇所を巻き戻している。
「十五秒だぞ」
「十五秒だから見るんだよ」
「深みに入りすぎだろ」
「もう深海だ」
三崎は真顔で言った。
春日悠真は、自分の弁当の蓋を開けながら、画面を横目で見た。
映っている。
しらいさんが。
いや、白瀬アカリが。
岸谷紗季として、玄関に立っている。
そのシーンを、悠真は知っている。
帰り方を忘れた人へ、声を貸した日。
私のただいまは、ここに戻す。
青灰色のノートにそう書かれた日の映像だ。
もちろん、メイキングに映っているのは本編映像ではない。
撮影準備中か、確認中の一瞬だろう。
それでも、その空気は少しだけ残っていた。
三崎は、画面から目を離さずに言った。
「これ、やばいな」
「何が」
「沈黙」
「また沈黙か」
「また沈黙だよ」
三崎は、唐揚げ弁当の唐揚げに箸を伸ばすことも忘れている。
「白瀬アカリ、何も言ってないのに、何か言い損ねてる」
悠真は、箸を止めた。
「言い損ねてる?」
「うん」
三崎は画面を指で軽く叩いた。
「前に言っただろ。余白じゃなくて我慢って」
「ああ」
「でも、これ、それだけじゃないかもしれない」
「どう違う」
三崎は少し眉を寄せた。
「我慢って、まだ本人が止めてる感じがあるじゃん」
「うん」
「言いたいことを、ぐっと止める感じ」
「うん」
「でも、今の白瀬アカリの沈黙は、止めてるっていうより……どうしていいか分からない感じがする」
悠真は、三崎の言葉をゆっくり受け止めた。
どうしていいか分からない沈黙。
それは、岸谷紗季の中心にかなり近い言葉だった。
ただいまと言わない。
助けてと言わない。
大丈夫で隠す。
それは我慢でもある。
けれど、そのさらに奥には、たぶんある。
どうしていいか分からない。
帰り方を忘れた人の沈黙。
「三崎」
「何」
「今日も、かなり外側の番人だ」
「今日は自分でもそう思う」
「自覚が出てきたな」
「だって今の二秒、普通に鳥肌立ったからな」
三崎はようやく唐揚げを一つ口に入れた。
それから、まだ画面を見ながら続ける。
「白瀬アカリ、すごいな。何も言わないところで、どうしたらいいか分からない人に見える」
「……」
「悲しいです、助けてください、帰りたいですって顔じゃないんだよ」
「うん」
「それすら言葉になる前。自分が何に困ってるのかも、まだ分かってない感じ」
悠真は、静かに息を吐いた。
持って帰る言葉が、今日もまたできた。
しかも、かなり大きい。
「三崎」
「何」
「唐揚げ十個分どころじゃないな」
「ついに弁当代か」
「心の中で制作費」
「規模がでかいのに現物がない」
「外側の番人だからな」
「ブラックすぎる」
三崎は文句を言いながらも、もう一度メイキングを再生した。
◇
その日の午後、白瀬アカリは職場セットにいた。
撮影は、岸谷紗季が一人でコピー機の前に立つ場面だった。
大きな意味のあるシーンではない。
けれど、監督は言った。
「こういう何でもない場面ほど、紗季が出ます」
コピー機が静かに音を立てる。
紙が一枚ずつ出てくる。
紗季はそれを受け取り、揃える。
ただそれだけ。
でも、その間に誰も声をかけてこない。
誰にも見られていない。
何かを考えるには短すぎて、何も考えないには少し長い。
そういう時間。
白瀬アカリは、コピー機の横に立った。
黒いパンプス。
淡いグレーのブラウス。
腕時計。
手には薄い書類。
監督が言う。
「この場面、紗季は何かを思っているというより、何を思えばいいのか分からない時間かもしれません」
「はい」
「疲れている。でも、疲れたと言う場面でもない」
「はい」
「帰りたい。でも、帰りたい場所がはっきりしているわけでもない」
「はい」
「だから、空っぽではない。けれど、分かりやすい感情でもない」
その言葉に、しらいさんは胸の奥が静かに鳴った。
空っぽではない。
分かりやすい感情でもない。
どうしていいか分からない。
まだ三崎の言葉は聞いていない。
けれど、現場でも同じ場所へ近づいている気がした。
本番が始まる。
コピー機の音。
紙が出てくる。
紗季は、それを取る。
揃える。
次の紙を待つ。
ほんの数秒の沈黙。
一度目、白瀬アカリは少し寂しさを乗せすぎた。
「カット」
監督はすぐに言った。
「今のは、少し寂しい人でした」
「はい」
「紗季は寂しいかもしれない。でも、自分で今“寂しい”と認識しているわけではないと思います」
「はい」
二度目。
今度は感情を消しすぎた。
「カット」
監督はモニターを見ながら首を傾けた。
「今度は、少し何もなさすぎますね」
「はい」
「紗季の中には、何かがあります。ただ、その名前が分からない」
名前が分からない。
その一言で、白瀬アカリの中に小さな灯りがついた。
そうだ。
岸谷紗季は、何も感じていない人ではない。
ただ、それが何なのか分からない。
疲れなのか。
寂しさなのか。
助けてほしいのか。
帰りたいのか。
自分でも名前をつけられないまま、今日も書類を揃えている。
三度目。
コピー機の音。
紙が出る。
紗季は取る。
揃える。
次の紙を待つ。
視線が少しだけ落ちる。
でも、悲しそうにはしない。
口元も動かない。
ただ、ほんの一瞬だけ、書類を持つ指先に迷いが出る。
何に迷っているのか、本人にも分からない程度の迷い。
そして次の紙が出て、また作業に戻る。
「カット」
現場が少し静かになった。
監督がモニターを確認する。
しばらくして、頷いた。
「今のです」
白瀬アカリは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「紗季が、どうしていいか分からない人に見えました」
その言葉が、胸に沈んだ。
怖いほど、しっくりきた。
◇
撮影後、しらいさんは控室で青灰色のノートを開いた。
今日は喉よりも、指先が少し疲れていた。
コピー用紙を揃え続けたからではない。
名前のない感情を、指先に少しだけ乗せたからだと思った。
ペンを持つ。
今日の一文は、ゆっくり出てきた。
『どうしていいか分からない沈黙。それが紗季さんかもしれない。』
書いてから、少しだけ息を吐いた。
空白ではない。
我慢でもある。
でも、それだけではない。
どうしていいか分からない沈黙。
この言葉は、岸谷紗季の中心へまた一歩近づいた気がした。
写真を撮り、春日くんへ送る。
すぐ既読がついた。
『読みました』
少し間があく。
『三崎が今日、ほとんど同じところを言っていました』
しらいさんは、思わず控室で小さく笑ってしまった。
もう驚く前に笑ってしまう。
『外側の番人?』
『はい』
『メイキング映像を見て、白瀬アカリの沈黙は、我慢だけではなく、どうしていいか分からない沈黙に見えると』
既読。
しらいさんはスマホを持ったまま、しばらく何も打てなかった。
今日、現場で監督に言われたこと。
自分がノートに書いたこと。
三崎さんが外側から見たこと。
それらが重なる。
自分が掴みかけたものは、外へ届くかもしれない。
そう思うと、怖さより先に、静かな震えが来た。
『三崎さん』
まず、それだけ送る。
続けて、
『今日は会社ごとじゃ足りない』
『国?』
悠真から返る。
しらいさんは、少し笑った。
『外側の番人国』
『建国しましたね』
『した』
軽いやり取り。
そのあと、少し真面目に送った。
『今日、少し震えた』
『怖い震えですか』
『違うかも』
『届くかもしれない震え』
既読。
『それは、すごく大事な震えだと思います』
しらいさんは、その文章を見て静かに目を閉じた。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へは行かなかった。
今日は、強く揺れたわけではない。
疲れてはいるが、自分の部屋へ帰れそうだった。
けれど、声は聞きたかった。
電話がつながる。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまでした」
「春日くんも」
「今日は、どうしていいか分からない沈黙の日でしたね」
「うん」
「今、何割ですか」
「九割」
「かなり戻っていますね」
「うん。今日は、戻れない感じじゃない」
「はい」
「でも、少し震えてる」
「届くかもしれない震え」
「うん」
しらいさんは、自分の部屋で温かいお茶を持っていた。
蜂蜜は入れていない。
今日は、甘さよりも温度だけでよかった。
「メイキング、出たんだね」
「出ました」
「見た?」
「見ました」
「どうだった?」
悠真は少しだけ間を置いた。
「二秒でした」
「うん」
「でも、かなり残りました」
電話の向こうで、しらいさんが少し黙った。
「残った?」
「はい」
「春日くんにも?」
「はい」
「そっか」
「三崎には、かなり刺さっていました」
「外側の番人国、建国だからね」
「はい」
「でも、怖いな」
「はい」
「二秒でも、見られるんだね」
「見られます」
「うん」
「でも、今日のしらいさんが掴んだものは、見られていいものだと思います」
しらいさんは、返事をする前に少し息を吐いた。
「春日くん」
「はい」
「今日は、かなりまっすぐ」
「そうですか」
「うん」
「たまには」
「いつもでもいいよ」
「それは難しいですね」
「じゃあ、たまに」
二人で少し笑った。
◇
「今日の場面」
しらいさんは言った。
「はい」
「コピー機の前で待つだけだった」
「はい」
「でも、難しかった」
「はい」
「寂しいにしすぎても違う」
「はい」
「空っぽでも違う」
「はい」
「何かあるのに、名前が分からない」
「はい」
「それが、紗季さんなのかもしれない」
悠真は静かに聞いていた。
「どうしていいか分からない人」
「はい」
「助けてと言えないのも、ただいまと言えないのも」
「はい」
「何を言えばいいか分からないからかもしれない」
「はい」
「それを、ただ我慢してるだけだと思うと、少し違う」
「はい」
「我慢もしてる」
「はい」
「でも、その前に、分からない」
しらいさんは、温かいお茶を一口飲んだ。
「今日、少し可哀想になった」
「紗季さんが?」
「うん」
「責める感じではなく?」
「うん。昨日の許すに近い」
「はい」
「この人、自分の苦しさの名前も分からないんだって」
「はい」
「それは、つらいね」
「はい」
電話の向こうで、少しだけ沈黙が流れた。
でも、その沈黙は重すぎなかった。
名前のないものを、二人で少しだけ見ているような時間だった。
「春日くん」
「はい」
「今日は、ノートに一文書いたから、もう書かない」
「はい」
「でも、もう一つ思った」
「何ですか」
「分からないままでも、誰かが隣にいていいのかもしれない」
悠真は、胸の奥が静かに温かくなった。
「はい」
「助けてって言えない日も」
「はい」
「ただいまって言えない日も」
「はい」
「何がつらいのか分からない日も」
「はい」
「隣にいていい」
「そう思います」
「これ、書きたいけど書かない」
「心に置きましょう」
「出た」
「出ます」
「でも、今日はそれでいい」
◇
通話の最後、しらいさんは小さく言った。
「今日は、自分の部屋でただいま言う」
「はい」
「かたんの音もある」
「はい」
「ことんじゃないけど」
「しらいさんの部屋の音です」
「うん」
少し間があった。
それから、スマホ越しに小さな音が聞こえた。
かたん。
たぶん、彼女がマグカップを置いた音だった。
「聞こえました」
悠真が言うと、しらいさんが少し笑った。
「聞かせた」
「いい音でした」
「ことんじゃないよ」
「はい」
「でも、今日はこれで帰れる」
「おかえりなさい」
「ただいま」
その声は落ち着いていた。
九割より、少し戻った声だった。
「今日は、泣かない」
「はい」
「沈まない」
「はい」
「でも、震えてる」
「はい」
「届くかもしれないから」
「届くと思います」
「春日くん」
「はい」
「言い切った」
「今日は言い切ります」
「ずるい」
「すみません」
「謝らないで」
いつものやり取りで、電話は終わった。
◇
悠真は、電話を切ったあと、ローテーブルの前に座った。
今日は、こちらの部屋のマグカップは出していない。
ことんの音も鳴らしていない。
でも、電話越しに、かたん、という音を聞いた。
しらいさんの部屋の音。
どうしていいか分からない沈黙。
それが紗季さんかもしれない。
その一文は重い。
けれど、今日の彼女はそれを持ち帰りすぎず、自分の部屋で少し受け止めた。
届くかもしれない震え。
きっと、役者としての震えなのだと思った。
怖さだけではない。
痛みだけではない。
自分が掴んだものが、誰かへ届くかもしれない。
その震え。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
ここはここ。
そして、彼女の部屋には、かたんという音がある。
帰り道は、また一つ増えた。




