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第128話 帰れない役を演じる君に、帰ってくる人の顔が増えていた

 春日悠真がそのことに気づいたのは、朝の写真を送ろうとしたときだった。


 青灰色のコースター。

 白いマグカップ。

 蜂蜜の瓶。

 スプーンは少し離れた場所。


 いつもの配置。


 いつもの光。


 けれど、今日は写真を撮る手が止まった。


 送るか送らないかで迷ったわけではない。

 重くなるかもしれない、と考えたわけでもない。


 ただ、ふと思ったのだ。


 最近のしらいさんは、この写真がなくても帰ってこられる日が増えている。


 肉まんで戻った日があった。

 プリンで戻った日があった。

 自分の部屋の「かたん」という音で戻った日があった。

 何も言わないまま、この部屋に座っているだけで帰れた夜もあった。


 そして、それでもこの部屋へ来る日がある。


 必要だからではなく。

 崩れたからでもなく。

 ただ、ここはここだから。


 悠真はマグカップを見つめた。


 以前なら、彼女が遠くへ行ってしまうのではないかと少し不安になったかもしれない。


 でも今日は違った。


 しらいさんは、遠くへ行っているのではない。


 帰り道を増やしている。


 それも、ただ道を増やしているだけではない。


 帰ってくる顔が、増えているのだ。


 八割で帰ってくる顔。

 何も言わないまま帰ってくる顔。

 肉まんを食べて少し笑って帰ってくる顔。

 かたんの音を聞いて自分の部屋へ帰る顔。

 そして、ことんの音を聞きに来る顔。


 全部、しらいさんだった。


 岸谷紗季という帰れない役を演じているのに、しらいさん自身は、前よりずっと帰ってくる人の顔をしている。


 悠真は写真を撮った。


 今日は、送る。


『今日もあります』


 少し考えて、もう一文添えた。


『帰ってくる顔が増えましたね』


 送ってから、少しだけ照れた。


 直球すぎたかもしれない。


 けれど、既読はすぐについた。


 返事は少し遅れて来た。


『朝から何を言うの』


 それから、


『でも、見た』


 さらに少しして、


『今日、考える』


 短い一文。


 たぶん彼女の中へ届いた。


    ◇


 その日の昼休み、三崎はいつものように唐揚げ弁当を食べていた。


 最近、彼の昼食は妙に物語じみている。

 唐揚げの日は唐揚げの日の言葉を持ってくるし、ラーメンの日はラーメンの日の言葉を持ってくる。


 今日は唐揚げだから、たぶん少し基本に戻る日だ。


 悠真がそう思っていると、三崎がいきなり言った。


「白瀬アカリ、帰れない役をやってるはずなのにさ」


 悠真は箸を止めた。


「うん」


「最近、本人は帰ってくる顔してるよな」


 やはり来た。


 しかも、今日も真正面から来た。


「帰ってくる顔?」


「うん」


 三崎は唐揚げを口に入れ、少し考えながら続けた。


「この前のメイキングとか現場レポート見てると、役としてはどんどん孤独に見えるんだよ」


「ああ」


「でも、白瀬アカリ本人のコメントとか、オフショットの表情は、前より戻ってきてる感じがある」


「……」


「変な言い方だけど、帰れない人を演じながら、帰り方を覚えてるみたいな」


 悠真は、弁当の端を見つめた。


 自分が朝感じたことと、ほとんど同じだった。


 外側の番人は、本当に今日も外側から核心を持ってくる。


「三崎」


「何」


「今日は唐揚げ何個分か分からないな」


「ついに金額換算?」


「しない」


「しろよ」


「心の中で唐揚げ食べ放題」


「心が胃もたれする」


 三崎はくだらない返しをしてから、少しだけ真面目な顔になった。


「でも、いいことだと思うんだよな」


「何が」


「帰れない役をやって、本人まで帰れなくなったらしんどいだろ」


「うん」


「でも、帰れない役をやることで、逆に帰るってことを意識するようになるなら、それは強い」


「……」


「白瀬アカリ、そういう強さを出せるようになってきた気がする」


 悠真は、しばらく黙っていた。


 しらいさんに伝えようと思った。


 この言葉は、きっと必要だ。


 彼女が岸谷紗季に近づきすぎないためにも。

 そして、役を演じることがただ削られることではないと知るためにも。


「春日」


「何だ」


「今日の顔は、ちょっと嬉しそうだな」


「そうか」


「うん。推しが遠くでちゃんと帰ってきてるのを見てるファンの顔」


「分類が細かいな」


「外側の番人だからな」


「便利すぎる」


 三崎は笑って唐揚げをもう一つ食べた。


    ◇


 午後の撮影は、岸谷紗季が駅のベンチに座る場面だった。


 仕事帰り。


 家へ向かう途中。

 けれど、すぐには帰らない。


 スマホを見て、友人からのメッセージを読む。

 返信画面を開き、何も打たずに閉じる。

 ホームのアナウンスが流れる。

 紗季は顔を上げるが、立たない。


 台詞はない。


 また沈黙の場面。


 けれど、今の白瀬アカリには、沈黙にもいくつか種類があることが分かってきていた。


 空白の沈黙。

 我慢の沈黙。

 言葉を止める沈黙。

 どうしていいか分からない沈黙。

 そして、帰り方を探している沈黙。


 今日は、最後の沈黙に近い気がした。


 監督が言う。


「紗季は、ここで家に帰りたくないわけではありません」


「はい」


「でも、帰ったところで何があるのか分からない」


「はい」


「だから、少しだけ座ってしまう。逃げているというより、帰る前に止まっている感じです」


 白瀬アカリは頷いた。


 ベンチに座る。


 スマホを持つ。


 画面を見る。


 返信しない。


 一度目、少し寂しさが見えすぎた。


 二度目、少し疲れが出すぎた。


 三度目。


 白瀬アカリは、ただ座った。


 帰りたくないのではない。

 帰りたいとも言い切れない。

 帰る方法が、まだ体の中で見つかっていない。


 でも、どこかへ帰りたい。


 その小さな矛盾を、肩の力と指先の迷いに乗せた。


 スマホを閉じる。


 ホームのアナウンス。


 顔を上げる。


 少しだけ立ち上がりそうになる。


 でも、まだ座ったまま。


「カット」


 監督がモニターを確認する。


 長い沈黙ではなかった。


 やがて、監督が言った。


「今のです」


「ありがとうございます」


「白瀬さん、紗季の中に“帰りたい”が少し入りましたね」


 その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。


 帰りたい。


 岸谷紗季の中に、ほんの少しだけそれが見えた。


 帰れない人。

 でも、帰りたい人。


 白瀬アカリは、静かに頭を下げた。


    ◇


 撮影後、しらいさんは控室で青灰色のノートを開いた。


 今日の一文は、朝から春日くんにもらった言葉と、現場で監督に言われた言葉が混ざっていた。


 帰ってくる顔が増えましたね。


 紗季の中に“帰りたい”が少し入りましたね。


 帰れない役を演じている。

 でも、自分は帰り方を覚えている。

 紗季にも、帰りたい気持ちが少し見えた。


 それらが一つにつながる。


 しらいさんはペンを持ち、ゆっくり書いた。


『帰れない人を演じるほど、私は帰り方を覚えている。』


 書いた瞬間、少し怖かった。


 綺麗すぎるかもしれない。

 強すぎるかもしれない。


 でも、今日はこの一文でいいと思った。


 少しだけ、希望のようなものが入っている。


 岸谷紗季の物語は、まだ苦しい。

 撮影も続く。

 これからもっと深い場面も来るだろう。


 それでも、自分は帰り方を覚えている。


 それを言葉にしてもいい気がした。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


    ◇


 悠真は、帰宅途中の道でその写真を受け取った。


 青灰色のノート。


『帰れない人を演じるほど、私は帰り方を覚えている。』


 読んだ瞬間、足を止めそうになった。


 朝、自分が送った言葉。

 昼、三崎が言った言葉。

 そして、今日の撮影で彼女が掴んだもの。


 それらが、ちゃんと彼女の中で一つになっていた。


『読みました』


『今日、とても大事な一文です』


 送る。


 既読。


『春日くんの朝の言葉から考えた』


『帰ってくる顔が増えたって』


『はい』


『三崎も似たことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『帰れない役をやりながら、本人は帰り方を覚えているみたいだと』


 既読。


 長い沈黙。


 それから、


『三崎さん』


 いつもの一文。


 そして、


『外側の番人国、勲章』


 と届いた。


 悠真は声を出して笑いそうになった。


『勲章ですか』


『うん』


『現物は?』


『心の中で』


『無給国家ですね』


『ブラック国家』


 軽いやり取り。


 それができる時点で、今日のしらいさんはかなり戻っている。


『今日、部屋行っていい?』


 次に届いた。


『もちろんです』


『重い感じじゃない』


『でも、話したい』


『待っています』


 既読。


『知ってる』


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 玄関を開けると、彼女は少し疲れているが、目元は穏やかだった。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 その声には、少しだけ明るさがあった。


 部屋に入り、ローテーブルの前に座る。


 青灰色のコースター。

 白いマグカップ。

 蜂蜜。

 スプーンは少し離れた場所。


「今日は蜂蜜少しだけ?」


 悠真が聞くと、しらいさんは頷いた。


「うん。今日はそんなに甘くなくていい」


「分かりました」


 ミルクティーを作り、カップを渡す。


 しらいさんはそれを受け取り、コースターへ置いた。


 ことん。


 その音に、彼女は少しだけ笑った。


「今日の音は?」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。


「帰ってきた音」


「前にもありましたね」


「うん。でも、今日は少し違う」


「どう違いますか」


「帰り道を覚えた音」


 悠真は静かに頷いた。


「いい音ですね」


「うん」


 しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。


「春日くん」


「はい」


「今日、紗季さんが少し帰りたそうだった」


「はい」


「監督に言われた。紗季の中に“帰りたい”が少し入ったって」


「はい」


「それ、嬉しかった」


「はい」


「怖さより、嬉しかった」


 最近、その言葉が少しずつ増えている。


 怖いけど嬉しい、ではなく。

 嬉しいが勝つ日。


 今日は、そういう日なのだろう。


「しらいさん自身も、帰り方を覚えていますからね」


 悠真が言うと、彼女は少し照れたように目を伏せた。


「うん」


「だから、紗季さんの中の帰りたいも見えたのかもしれません」


「そうかな」


「はい」


「帰れない人を演じてるのに?」


「だからかもしれません」


 悠真は、朝から考えていたことを口にした。


「しらいさんは、岸谷紗季を演じながら、自分の帰り方を毎日確かめています」


「うん」


「肉まんでも、プリンでも、自分の部屋のかたんでも、ここでのことんでも」


「うん」


「言葉がない日も、八割の日も、笑えた日も」


「うん」


「その全部があるから、紗季さんの帰りたい気持ちを責めずに見られるようになったのかもしれません」


 しらいさんは黙って聞いていた。


 そして、小さく言った。


「春日くん」


「はい」


「今日、かなり長い」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、効く」


「なら、よかったです」


「出た」


 いつもの言葉で、少し笑う。


    ◇


 しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文を見せる。


『帰れない人を演じるほど、私は帰り方を覚えている。』


「これ、綺麗すぎるかな」


 彼女が言った。


 悠真は少し考えた。


「少し綺麗です」


「やっぱり」


「でも、今日はその綺麗さでいいと思います」


「どうして?」


「希望が入っているからです」


 しらいさんは、静かに目を上げた。


「希望」


「はい」


「紗季さんにも?」


「はい」


「私にも?」


「はい」


「春日くんにも?」


「少し」


「少し?」


「かなり」


 しらいさんは笑った。


「言い直した」


「はい」


「じゃあ、今日はこのまま」


「はい」


「書き足さない」


「はい」


「希望を飾りすぎない」


「いいと思います」


 しらいさんはノートを閉じた。


「第三章って感じ」


 と言いかけて、彼女は少しだけ笑って言い直した。


「……違う。今のは忘れて」


「はい」


「物語の外に出そうになった」


「戻りましたね」


「うん」


 悠真も小さく笑った。


 その笑いは、軽くて、穏やかだった。


    ◇


 その後、二人はこれまでの帰り道の話をした。


 最初は、ことんの音が必要だったこと。

 音なしでただいまを言えた日。

 プリンが偉大だった日。

 肉まんが熱かった日。

 かたんの音を電話越しに聞かせた日。

 何も言わなくても帰れていた夜。

 八割で帰ってもただいまを言っていいと知った日。


 並べてみると、思ったより多かった。


「増えたね」


 しらいさんが言った。


「増えましたね」


「前は、ここだけだった」


「はい」


「でも、ここだけじゃなくなった」


「はい」


「それを、前は少し怖がった」


「俺もです」


「うん」


「でも、ここは消えなかった」


「消えません」


「ここはここ」


「はい」


 しらいさんはマグカップを持ち上げ、コースターへ戻した。


 ことん。


「これはここだけの音」


「はい」


「かたんは私の部屋の音」


「はい」


「肉まんは熱い」


「はい」


「プリンは偉大」


「はい」


「三崎さんは外側の番人国」


「かなり大きくなりましたね」


「うん」


 二人で笑った。


 笑える。


 岸谷紗季の話をしていても、笑える。


 それは、白瀬アカリが役を軽んじているからではない。

 しらいさんが、ちゃんと戻ってきているからだ。


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「戻りましたか」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。


「九割七分」


「最高記録ですか」


「たぶん」


「すごいですね」


「うん」


「残り三分は?」


「寝る」


「いつものですね」


「うん」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「帰れない人を演じてるのに、私、帰り方を覚えてる」


「はい」


「変だね」


「変ではありません」


「どうして?」


「帰れない人の隣を歩くためには、自分の帰り道を知っていたほうがいいからです」


 しらいさんは、少しだけ目を丸くした。


 そして、柔らかく笑った。


「今日、最後まで効く」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 悠真はローテーブルの前に座り、青灰色のコースターを見た。


 帰れない人を演じるほど、私は帰り方を覚えている。


 その一文が、今日の部屋に残っている。


 第三章前半の長い道のりが、一つの場所へたどり着いたような気がした。


 岸谷紗季は、まだ帰れていない。


 でも、彼女の中に「帰りたい」が少し見えた。


 白瀬アカリは、その人を演じている。


 しらいさんは、帰ってくる。


 何度も。

 いろいろな道から。

 いろいろな顔で。


 悠真は棚の中のマグカップを見た。


 ことん。


 今日の音は、帰り道を覚えた音だった。

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