第129話 帰れる顔をした君に、現場はもう一つの沈黙を渡した
帰り方を覚えている。
その言葉は、翌朝になっても、しらいさんの中に残っていた。
重くはない。
痛くもない。
でも、簡単に流れていく言葉でもなかった。
帰れない人を演じるほど、私は帰り方を覚えている。
昨日、青灰色のノートに書いた一文。
書いた瞬間は、少し綺麗すぎる気がした。
強すぎる気もした。
でも、今朝になってもその言葉は薄くならなかった。
むしろ、朝の部屋で湯を沸かし、マグカップを置き、カーテンを開けるたびに、少しずつ日常の中へ馴染んでいく。
帰れる場所がある。
帰る方法がいくつもある。
帰れない日があっても、八割で帰っていい。
何も言わなくても帰っていい。
肉まんでも、プリンでも、自分の部屋のかたんでも、春日くんの部屋のことんでも。
その一つ一つが、今の自分を支えている。
だから、今日の撮影も大丈夫。
そう思った。
けれど現場は、そう簡単に「大丈夫」で終わらせてくれる場所ではなかった。
その日の台本には、こう書かれていた。
紗季の友人・美緒、紗季の異変に気づく。
だが、踏み込めない。
しらいさんは、その一行を読んで、少しだけ指を止めた。
岸谷紗季だけが帰れないのではない。
周りの人間もまた、どう近づけばいいか分からない。
助けてと言えない人。
助けてと聞けない人。
その二つが、今日の場面で向き合う。
控室の鏡の前で、しらいさんは小さく息を吐いた。
帰れる顔をした自分が、帰れない人を演じる。
その先に、今日はもう一つの沈黙がある。
助けたいのに、踏み込めない側の沈黙。
◇
理沙さんは、今日も最初に喉を確認した。
「喉は?」
「九割三分です」
「私の評価では九割二分」
「少し低いですね」
「昨日の余韻が一分残っているわ」
「一分」
「数字にしたのはあなたでしょう」
「理沙さん方式です」
「だから責任を押しつけない」
いつものやり取りだった。
それだけで、少し緊張がほぐれる。
理沙さんはタブレットで今日の場面を確認しながら言った。
「今日は、紗季だけの沈黙ではないわね」
「はい」
「友人側の沈黙もある」
「はい」
「ここで大事なのは、紗季が“気づいてほしいのに気づかれない人”になりすぎないこと」
しらいさんは顔を上げた。
「気づいてほしいのに、ではない」
「ええ。紗季は、気づかれたら困る。でも、気づかれなかったら少しだけ痛い」
「……はい」
「矛盾しているけれど、人間はそういうものよ」
「はい」
「友人の美緒も同じ。気づいている。でも踏み込めない。踏み込めない自分に少し傷つく。でも、踏み込まないことを選んでしまう」
理沙さんの言葉は、静かに鋭かった。
「今日は、誰か一人が悪い場面ではない」
「はい」
「紗季も、美緒も、どちらもどうしていいか分からない」
どうしていいか分からない。
昨日の一文が、また戻ってきた。
岸谷紗季の沈黙は、どうしていいか分からない沈黙。
でも今日は、それが相手にもある。
しらいさんは頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「正直でよろしい」
理沙さんは、少しだけ口元を緩めた。
「今日の目標は、正解を出さないこと」
「正解を出さない」
「ええ。友人が踏み込めば救えた、という単純な場面にしない。紗季が本音を言えば救われた、という単純な場面にもしてはいけない」
「はい」
「二人とも、少しずつ間違えている。でも、責める場面ではない」
「責めない」
「昨日の続きね」
しらいさんは、鏡の中の自分を見た。
紗季を責めない。
今日は、紗季に踏み込めない友人も責めない。
それは、思ったより難しい。
◇
昼休み、春日悠真は三崎から妙な質問をされた。
「春日」
「何だ」
「助けたいのに踏み込めない人って、悪い人だと思うか?」
悠真は箸を止めた。
唐揚げ弁当の蓋を開けた三崎は、珍しく唐揚げに手をつけていない。
「急に重いな」
「白瀬アカリのメイキング見返してたら、そう思った」
「またか」
「まただ」
三崎は、スマホを伏せたまま続けた。
「助けてって言えない人の話は、まあ、分かるんだよ。いや、本当には分かってないかもしれないけど」
「ああ」
「でも、そのそばにいる人も、たぶん難しいだろ」
「……」
「気づいてるけど、踏み込めない。聞いたら壊れそうで、聞かないともっと遠くなりそうで」
悠真は、黙って聞いた。
今日も、外側の番人は近い。
しらいさんが今日撮っている場面へ、何も知らずに近づいてくる。
「踏み込めない人を、簡単に責められないよな」
三崎は唐揚げを箸でつついた。
「気づいてたなら助けろよって思うけど、実際、自分がそこにいたらできるか分からない」
「そうだな」
「大丈夫って笑われたら、信じたふりをするかもしれない」
その言葉は、悠真にも痛かった。
しらいさんが「大丈夫」と笑ったとき、自分はいつも気づけるのか。
分からない。
分からないから、聞く。
分からないから、待つ。
でも、それも毎回うまくできるとは限らない。
「三崎」
「何」
「今日は、かなり重めの外側の番人だな」
「俺も思った」
「自覚ありか」
「ある。唐揚げが進まない」
「それは重症だな」
三崎は苦笑して、ようやく唐揚げを一つ口に入れた。
「でもさ」
「うん」
「白瀬アカリがそういう場面をやったら、助けられなかった側も責めない芝居をしそうな気がする」
「どうして」
「白瀬アカリって、最近、誰かを悪者にしない顔をしてる」
悠真は、胸の奥でその言葉を受け取った。
誰かを悪者にしない顔。
それは、昨日しらいさんが掴んだ「責めない」に近い。
「それは、本人にも伝えたい言葉だな」
「本人?」
三崎が首を傾げる。
悠真は一瞬だけ固まった。
「いや、白瀬アカリに届いたらいい感想だなという意味だ」
「ああ、そういうこと」
三崎は納得したように頷いた。
危ない。
外側の番人が鋭すぎるせいで、こちらの言葉まで少しずつ危なくなっている。
◇
撮影は、駅近くの歩道を模したセットで行われた。
紗季と友人の美緒が、仕事帰りに偶然会う場面。
美緒役の女優は、昨日まで何度か共演した相手だった。
明るさがあり、自然な距離感を作るのがうまい。
だからこそ、今日の場面は難しい。
美緒は紗季を心配している。
でも、踏み込めない。
紗季は心配されていることに気づく。
でも、受け取れない。
二人とも優しい。
二人とも少し間違える。
監督が説明する。
「この場面は、誰かが悪い場面ではありません」
理沙さんと同じだった。
「美緒は、紗季を見捨てているわけではない。でも、踏み込めない。紗季も、拒絶しているわけではない。でも、受け取れない」
「はい」
「二人の間に、言葉にならない距離があります」
言葉にならない距離。
それも、今日の一文になりそうだった。
でも、まだ書かない。
本番が始まる。
美緒が紗季に気づく。
「あれ、紗季?」
紗季は立ち止まる。
「あ、美緒」
普通の再会。
美緒は笑う。
紗季も笑う。
でも、美緒の目が少しだけ紗季を探る。
「最近、忙しい?」
「うん。まあ、ちょっとだけ」
「そっか」
会話は普通だ。
どこにでもある。
でも、その下に小さな緊張がある。
美緒は聞こうとする。
本当に大丈夫?
無理してない?
何かあった?
でも、言葉にしない。
代わりに、曖昧に笑う。
「また、ご飯でも行こうよ」
紗季は笑う。
「うん。行こう」
行かないかもしれない約束。
でも、その場を壊さないための約束。
一度目の本番は、少しきれいにまとまりすぎた。
「カット」
監督が言う。
「今のは、二人がちゃんと優しい人たちに見えました」
「はい」
「でも、もう少しだけ不器用でいいです」
美緒役の女優も頷く。
「踏み込めなかった感じを、もう少し残します」
しらいさんも頷いた。
「私は、受け取れなかった感じを」
監督が頷く。
「そうです。二人とも、少し失敗している。でも、それを大げさにしない」
二度目。
美緒は、少しだけ言葉を探した。
紗季は、それに気づいた。
気づいたからこそ、先に笑った。
「大丈夫だよ」
台本にはない一言だった。
監督は止めなかった。
美緒が一瞬だけ止まる。
その止まり方が、あまりにも自然だった。
美緒は言いかけた言葉を飲み込んで、笑う。
「そっか」
紗季も笑う。
「うん」
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを見て、ゆっくり頷いた。
「今の、いいですね」
白瀬アカリは、少し息を吐いた。
「台本にない大丈夫、すみません」
「いえ。紗季が先に閉じました」
監督はそう言った。
「美緒が踏み込む前に、紗季が大丈夫で扉を閉めた。だから美緒は、それ以上踏み込めなかった」
胸の奥が少し痛んだ。
紗季は、助けてと言えないだけではない。
助けようとする人の手前で、大丈夫と言って扉を閉める。
それは相手を守るためでもあり、自分を守るためでもあり、そして少しだけ、自分を遠ざけることでもある。
◇
撮影後、美緒役の女優がしらいさんに声をかけた。
「さっきの“大丈夫だよ”、すごく自然でした」
「ありがとうございます。勝手に出てしまって」
「でも、あれで美緒は入れなくなりました」
「はい」
「美緒、たぶん気づいてるんです。でも、大丈夫って言われたら、そこで止まっちゃう」
その言葉は、演技の話なのに現実の痛みを含んでいた。
「止まるしかないとき、ありますよね」
しらいさんが言うと、美緒役の女優は小さく頷いた。
「あります。踏み込むのが正解とも限らないから」
「はい」
「でも、踏み込まなかったことも残る」
「はい」
二人は、少しだけ黙った。
役の中の話であり、役の外の話でもあった。
そこへ松岡遥が通りかかり、二人を見て少し笑った。
「重い顔してますね」
「場面が場面なので」
美緒役の女優が言うと、松岡は頷いた。
「そういう日は、帰りに味の濃いものです」
「また食べ物」
しらいさんが思わず言うと、松岡は真顔で返した。
「味の濃さは現実です」
「名言みたいに」
「戻るには大事です」
少し笑えた。
その笑いで、今日の場面を全部持ち帰らずに済みそうな気がした。
◇
控室で、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文は、なかなか決まらなかった。
美緒が踏み込めなかったこと。
紗季が先に大丈夫で閉じたこと。
どちらも悪いわけではないこと。
でも、二人の間に距離が残ったこと。
書きたいことは多い。
でも、一文にするなら。
しらいさんは、ゆっくり書いた。
『大丈夫で閉じた扉の前で、踏み込めない人も少し傷つく。』
書いたあと、少しだけ胸が痛んだ。
これは紗季だけの痛みではない。
美緒の痛みでもある。
そして、春日くんにも少し関係がある気がした。
写真を撮って送る。
すぐ既読がついた。
『読みました』
少し間。
『三崎が今日、かなり近いことを言っていました』
しらいさんは、もう驚く代わりに小さく笑った。
『外側の番人国?』
『はい』
『助けたいのに踏み込めない人を簡単に責められない、と』
『大丈夫と笑われたら、信じたふりをするかもしれない、と』
既読。
しらいさんは画面を見つめた。
今日の場面そのものだった。
『三崎さん』
まず送る。
『今日は何?』
悠真から返る。
しらいさんは少し考えた。
『外側の番人国、国民栄誉賞』
『ついに国家事業ですね』
『うん』
少しだけ軽くなった。
そのあと、春日くんからもう一文が来た。
『俺も、踏み込めない人を責められないと思いました』
しらいさんは、その文を少し長く見た。
『春日くんも?』
『はい』
『しらいさんが大丈夫と言ったとき、どこまで聞いていいか分からない日があります』
『でも、分からないからこそ、勝手に決めつけないようにしたいです』
胸の奥が静かに揺れた。
今日の場面が、現実の自分たちへ少しだけ触れている。
『今日、部屋行っていい?』
送る。
『もちろんです』
『重い話になるかも』
『聞きます』
『でも、味の濃いもの買って行く』
『松岡さんですか』
『うん』
『味の濃さは現実らしい』
『名言ですね』
『肉まんじゃなくて、今日はポテトチップス』
『変な味ですか』
『たぶん』
◇
夜、しらいさんはコンビニの袋を持って春日くんの部屋へ来た。
玄関を開けると、少しだけ恥ずかしそうに袋を持ち上げる。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
「それは?」
「戻るためのポテトチップス」
「味は?」
「濃厚バター醤油明太チーズ」
悠真は一瞬だけ黙った。
「情報量が多いですね」
「変な味を選んだ」
「かなり」
「松岡さんに言われたから」
「味の濃さは現実」
「うん」
部屋に入ると、しらいさんはローテーブルの前に座った。
ミルクティーではなく、今日は温かいお茶にした。
ポテトチップスとミルクティーは、少し違う気がしたからだ。
袋を開けると、濃い匂いが部屋に広がった。
しらいさんは一枚食べて、すぐに顔を少ししかめた。
「濃い」
「現実ですね」
「現実」
そのやり取りだけで、少し空気が軽くなった。
それから彼女は、青灰色のノートを開いた。
『大丈夫で閉じた扉の前で、踏み込めない人も少し傷つく。』
悠真は読んだ。
「今日の場面ですね」
「うん」
「それと、俺にも少し刺さります」
「そうだと思った」
「はい」
「春日くんは、踏み込めない日ある?」
「あります」
「私が大丈夫って言ったとき?」
「はい」
「信じたふりする?」
悠真は、少し考えた。
「する日もあります」
正直に答えた。
「本当は、もう少し聞いたほうがいいのかもしれないと思いながら」
「うん」
「でも、聞くことでしらいさんを追い詰めるかもしれないと思って、止まる日があります」
「うん」
「それで、あとから少し引っかかる」
「今日の美緒さんみたい」
「はい」
しらいさんは、ポテトチップスを一枚持ったまま黙った。
「責めないよ」
小さく言った。
悠真は顔を上げた。
「はい」
「踏み込めない春日くんも、責めない」
「……はい」
「私も、大丈夫で閉じちゃう日がある」
「はい」
「春日くんも、止まっちゃう日がある」
「はい」
「どっちも、少し間違える」
「はい」
「でも、見捨ててるわけじゃない」
その言葉に、悠真は胸の奥が少しほどけるのを感じた。
「はい」
「だから、あとからまた聞けばいい」
「はい」
「あとからまた言えばいい」
「はい」
「その日うまくできなくても、終わりじゃない」
それは、今日の場面に対する答えであり、二人の約束でもあった。
◇
しらいさんは、ポテトチップスをもう一枚食べた。
「やっぱり濃い」
「戻れますか」
「かなり」
「現実が強いですね」
「強い」
温かいお茶を飲み、カップを置く。
今日は白いマグカップではなく、普通の湯呑みだった。
音は、ことんより少し軽い。
かた。
しらいさんは、その音を聞いて少し笑った。
「今日は、ことんじゃない」
「はい」
「かた、くらい」
「しらいさんの部屋のかたんに近いですね」
「うん」
「これも帰り道ですか」
「たぶん」
少しずつ、音が増えていく。
ことん。
かたん。
かた。
どれも同じではない。
でも、どれも帰り道になる日がある。
「春日くん」
「はい」
「今日、何割?」
「しらいさんですか?」
「うん」
「九割一分」
「細かい」
「理沙さん方式です」
「私もそう思った」
「高いですね」
「ポテトチップス効果」
「濃厚バター醤油明太チーズ効果」
「長い」
二人で笑った。
笑ったあと、しらいさんは少しだけ真面目な顔になった。
「でも、今日の場面は忘れないと思う」
「はい」
「助けてって言えない人だけじゃない」
「はい」
「助けたいのに踏み込めない人もいる」
「はい」
「どっちも責めない」
「はい」
「でも、どっちも少し傷つく」
「はい」
「そこを、ちゃんとやりたい」
「できると思います」
「言い切った」
「今日は言い切ります」
「ずるい」
「すみません」
「謝らないで」
いつもの言葉。
そこに、少しだけ温かさが戻る。
◇
帰る時間になった。
今日はマグカップではなく湯呑みを洗った。
水の音。
布巾で拭く音。
棚に戻す音。
かた。
しらいさんはその音を聞いて、少しだけ笑った。
「今日の音」
「はい」
「濃い味の日の音」
「覚えておきます」
「覚えなくてもいいけど」
「覚えます」
「春日くんらしい」
玄関で靴を履く前、彼女は振り返った。
「春日くん」
「はい」
「大丈夫で閉じる日があっても」
「はい」
「踏み込めない日があっても」
「はい」
「あとからまた、話せる?」
「話せます」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、大丈夫」
その大丈夫は、今日の撮影で紗季が使ったものとは少し違った。
扉を閉じるためではなく、次にまた開けるための大丈夫だった。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
ローテーブルには、少しだけポテトチップスの濃い匂いが残っている。
大丈夫で閉じた扉の前で、踏み込めない人も少し傷つく。
その一文が、今日の部屋に残っていた。
岸谷紗季だけの物語ではない。
彼女の周りにいる人たちも、どうしていいか分からない。
踏み込めない。
信じたふりをする。
あとから少し傷つく。
でも、それも責めない。
大丈夫で閉じる日があっても。
踏み込めない日があっても。
あとからまた、話せばいい。
悠真は棚の中の湯呑みを見た。
今日の音は、ことんではなく、かた。
帰り道は、また少し増えた。




