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第130話 踏み込めなかった人にも、君は少し優しくなった

 翌日の現場で、しらいさんは美緒役の高瀬菜央と少しだけ長く話した。


 きっかけは、控室前の廊下だった。


 撮影は午後から。

 午前中はリハーサルと段取りの確認が中心で、スタッフたちは少し慌ただしく動いていた。


 しらいさんは紙コップの温かいお茶を持って、壁際で台本を閉じていた。


 今日は、昨日の続きにあたる場面を撮る。


 紗季と美緒が別れたあと。

 美緒は一人になり、振り返る。


 声はかけない。


 追いかけもしない。


 ただ、行ってしまう紗季の背中を見る。


 そして、自分のスマホを取り出し、何かメッセージを打とうとして、やめる。


 台詞はない。


 けれど、美緒の中にはかなりの言葉がある。


 紗季、大丈夫?

 本当に?

 何かあった?

 私でよければ聞くよ。

 でも、踏み込みすぎだったらごめん。


 その全部を、打たない。


 送らない。


 昨日は紗季が「大丈夫」で扉を閉じた。

 今日は、美緒がその扉の前で立ち止まる。


 しらいさんは、その場面を読んでから、ずっと胸の中に小さな引っかかりを感じていた。


 自分は岸谷紗季を演じている。


 帰れない人。

 助けてと言えない人。

 大丈夫で閉じてしまう人。


 けれど、その扉の前に立つ人もいる。


 入れなかった人。

 踏み込めなかった人。

 でも、見捨てたわけではない人。


「白瀬さん」


 声をかけてきたのは、高瀬菜央だった。


 美緒役の彼女は、今日は少しだけ緊張しているように見えた。

 いつもの明るさはある。

 でも、その奥に、役の沈黙を持ってきている顔だった。


「おはようございます」


「おはようございます」


 しらいさんが挨拶を返すと、高瀬は少し迷ってから言った。


「昨日の“大丈夫だよ”、ずっと残ってます」


 しらいさんは、紙コップを持つ指に少しだけ力を入れた。


「私もです」


「美緒としては、あそこで止まるしかなくて」


「はい」


「でも、止まったあとに、すごく嫌な感じが残りました」


「嫌な感じ」


「見捨てたわけじゃないのに、見捨てたみたいな感じです」


 その言葉は、静かに胸へ入ってきた。


 高瀬は苦笑した。


「変ですよね。役の話なのに」


「変じゃないと思います」


 しらいさんはすぐに言った。


「私も、紗季さんを演じながら、ずっとそういうところに引っかかっています」


「白瀬さんも?」


「はい。助けてと言えない側ばかり見ていたんですけど」


 しらいさんは、少しだけ言葉を探した。


「助けられなかった側も、残るんだなって」


 高瀬は小さく頷いた。


「残ります」


「はい」


「美緒、たぶん帰ってから何回も考えると思います。あれでよかったのかなって」


「はい」


「でも、あそこで無理に聞いたら、紗季はもっと閉じたかもしれない」


「そうですね」


「だから、美緒も正解がないんです」


 正解がない。


 その言葉が、今日の現場の空気を決めた気がした。


 紗季にも正解がない。

 美緒にも正解がない。


 助けてと言えないことも。

 踏み込めないことも。


 どちらも少し間違えている。

 でも、どちらも簡単には責められない。


    ◇


 リハーサルでは、まず昨日の別れの場面を軽く確認した。


 紗季が「大丈夫だよ」と笑う。

 美緒が「そっか」と言う。

 二人は別れる。


 そのあとが、今日の本番だった。


 美緒は歩き出しかけて、少しだけ止まる。

 紗季の背中を見る。

 スマホを取り出す。

 メッセージ画面を開く。

 打つ。

 消す。

 画面を閉じる。


 しらいさんは、その場面では背中だけで映る予定だった。


 自分の芝居は大きくない。


 でも、高瀬の芝居を受ける背中でいなければならない。


 監督が言った。


「今日は、美緒の沈黙の場面です」


「はい」


 高瀬が返事をする。


「ただ、白瀬さんの背中も大事です」


「はい」


「紗季は、美緒が振り返ったことに気づいていないかもしれない。でも、観ている人には、二人の距離が見える」


 しらいさんは頷いた。


「紗季は、閉じたことにも気づいていないかもしれません」


 そう言うと、監督が少しだけ目を細めた。


「そうですね。閉じた自覚も薄いかもしれない」


「はい」


「だから、美緒の傷だけが残るわけでもない。紗季も、何かを受け取れなかったことに、あとから気づくかもしれない」


「はい」


「二人とも、その場では分からないんです」


 その場では分からない。


 また、今日の言葉が増えた。


 しらいさんは、足元を確認した。


 黒いパンプス。

 岸谷紗季の靴。


 この靴で、今日は背中を向ける。


 けれど、完全に去るわけではない。


 美緒の視線が届く距離に、紗季の背中がある。


    ◇


 一度目の本番。


 紗季は「大丈夫だよ」と笑い、美緒と別れた。


 白瀬アカリは、歩き出す。


 高瀬菜央の美緒が、後ろで立ち止まる気配がした。


 しらいさんは、その気配を背中で受けた。


 振り返らない。


 気づかない。


 いや、気づいていないことにしているのかもしれない。


 その微妙な差が難しかった。


 後ろで、スマホを操作する小さな音がする。


 高瀬の指が画面を打つ。


 消す。


 画面を閉じる。


「カット」


 監督が声をかけた。


 モニターを見てから、少し考える。


「高瀬さん、今のは少し“送れなかった悲しさ”が見えすぎました」


「はい」


「美緒は傷ついています。でも、まだ自分が傷ついたとは思っていないかもしれない」


「はい」


 高瀬は真剣に頷いた。


 監督は続ける。


「白瀬さんの背中は、少し遠くなりすぎました」


「はい」


「完全に閉じた人ではなく、届きそうなのに届かない距離で」


「はい」


 届きそうなのに届かない距離。


 しらいさんは、その言葉を胸に置いた。


 二度目。


 紗季は歩き出す。


 美緒は振り返る。


 今度は、高瀬の美緒が少し抑えた。


 悲しそうにしすぎない。

 後悔を大きくしない。

 ただ、メッセージを打とうとして止まる。


 しらいさんは、背中を少しだけ残した。


 歩く速度を、ほんのわずかに落とす。


 振り返らない。

 でも、完全に遠ざからない。


 届きそうで、届かない。


 カット。


 監督はモニターを見ながら、静かに頷いた。


「今の、近いです」


 近い。


 その言葉は、いつも少し怖い。


 でも今日は、白瀬アカリ一人ではなく、高瀬菜央と一緒に近づけた言葉だった。


「高瀬さん、美緒が踏み込めなかったことを責めすぎていないのがいいです」


「ありがとうございます」


「白瀬さん、背中に少し余地がありました」


「余地」


「ええ。拒絶ではなく、届かなかった距離」


 しらいさんは、静かに頭を下げた。


 その違いは大きい。


 拒絶ではない。

 届かなかった距離。


 紗季は、美緒を拒んだわけではない。

 美緒も、紗季を見捨てたわけではない。


 ただ、届かなかった。


 そのことが、こんなにも静かに痛い。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は今日は唐揚げ弁当に戻っていたが、やはり少し考え込んでいる。


「また唐揚げが進んでないぞ」


 悠真が言うと、三崎は箸を持ったまま顔を上げた。


「踏み込めなかった人ってさ」


「昨日から続いてるな」


「続いてる」


「白瀬アカリの影響か」


「たぶん」


 三崎は唐揚げを一つ持ち上げた。


「誰かを助けられなかったって、実際にはすごく曖昧じゃん」


「曖昧?」


「うん。助けようとしたけど拒まれたのか、そもそも気づけなかったのか、気づいたけど踏み込めなかったのか」


「ああ」


「あとからなら、いくらでも言えるんだよ。声をかければよかったとか、もっと聞けばよかったとか」


「うん」


「でも、その瞬間って分からない」


 悠真は、黙って聞いた。


 今日もまた、三崎は近い。


「分からないまま、少し間違える」


 三崎が言う。


「それって、誰にでもある気がする」


「……そうだな」


「白瀬アカリがそういう場面をやるなら、助けられなかった側も悪者にしないでほしい」


「昨日も似たことを言っていたな」


「言ってた。でも今日さらに思った」


「どうして」


「俺、現実で気づけない側になる自信があるから」


 その言い方は少し乱暴だったが、正直だった。


 悠真にも分かる。


 自分だって、気づけない側になる可能性はある。

 踏み込めない側になる可能性もある。


 それを全部責め始めたら、きっと誰も何も言えなくなる。


「三崎」


「何」


「今日は、かなり人間側の番人だな」


「外側じゃなくなった?」


「少し内側に来た」


「給料は?」


「出ない」


「どこに行っても無給」


 三崎はようやく唐揚げを食べた。


 その軽さが、今日の重さを少しだけ中和してくれた。


    ◇


 撮影が終わったあと、高瀬菜央がしらいさんに頭を下げた。


「今日、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「背中、すごく助かりました」


「背中が?」


「はい。完全に行ってしまった感じじゃなかったから、美緒が送れなかったことだけを責めなくて済みました」


 その言葉に、しらいさんは少し胸を突かれた。


 背中にも、相手を責めない方法がある。


 自分では前を向いて歩いているだけのつもりでも、後ろにいる人へ何かを渡している。


「高瀬さんの美緒も、責めていない感じがしました」


「責めないようにしたいです」


「はい」


「でも、見逃したことをなかったことにもしない」


 高瀬は、少しだけ困ったように笑った。


「難しいですね」


「難しいです」


 二人で同じ言葉を言って、少し笑った。


 その笑いは、昨日のポテトチップスよりずっと静かだった。


 でも、現実に戻るには十分だった。


    ◇


 控室で、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日は迷わなかった。


『拒絶ではなく、届かなかった距離。そこにも痛みがある。』


 書いてから、少しだけ息を吐いた。


 昨日の一文と並べると、また少し見えてくる。


 大丈夫で閉じた扉の前で、踏み込めない人も少し傷つく。

 拒絶ではなく、届かなかった距離。そこにも痛みがある。


 岸谷紗季の物語は、どんどん一人の物語ではなくなっている。


 帰れない人。

 助けられない人。

 踏み込めない人。

 届かなかった人。


 その全部が、少しずつつながっていく。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐに既読がついた。


『読みました』


 少し間。


『今日の三崎にも必要な一文です』


 しらいさんは少し笑った。


『外側の番人国?』


『今日は少し人間側の番人でした』


『なにそれ』


『現実で気づけない側になる自信がある、と言っていました』


 既読。


 しらいさんは、その一文を長く見つめた。


 気づけない側になる自信。


 変な言い方なのに、とても正直だと思った。


『三崎さん、正直』


『はい』


『春日くんは?』


 送ってから、少し緊張した。


 春日くんからの返事は、少し時間がかかった。


『俺もあります』


『気づけない側になる可能性も、踏み込めない側になる可能性も』


『だから、あとから話せる関係でいたいです』


 しらいさんは、スマホを見ながら小さく頷いた。


 昨日の約束の続きだ。


 その日うまくできなくても、終わりではない。

 あとからまた話せばいい。


『今日、部屋行っていい?』


『もちろんです』


『今日は、濃い味なし』


『ミルクティー?』


『うん。普通の』


『用意します』


    ◇


 夜、しらいさんは手ぶらで来た。


 コンビニの袋はない。

 変な味のポテトチップスもない。


 ただ、青灰色のノートだけが鞄の中にある。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は落ち着いていた。


 部屋に入り、ローテーブルの前に座る。


 今日は、普通のミルクティーだった。


 蜂蜜も普通。

 温度も普通。

 特別に戻すためでも、喉を休ませるためでもない。


 普通に話すためのミルクティー。


 しらいさんはマグカップを置いた。


 ことん。


「今日の音は?」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。


「普通に帰ってきた音」


「いいですね」


「うん」


 彼女は青灰色のノートを開いた。


『拒絶ではなく、届かなかった距離。そこにも痛みがある。』


 悠真は読んだ。


「今日の場面が見えます」


「うん」


「三崎の言葉とも重なります」


「うん」


「俺にも重なります」


 しらいさんは、静かにこちらを見た。


「春日くん」


「はい」


「踏み込めなかった日があっても、責めない」


「はい」


「でも、なかったことにはしない」


「はい」


「あとから話す」


「はい」


「これ、けっこう大事」


「かなり大事です」


「私も、大丈夫で閉じた日があっても、あとから少し開ける練習する」


「はい」


「春日くんも、踏み込めなかった日があっても、あとから聞いて」


「はい」


「その場で全部正解にしなくていい」


「はい」


 悠真は、マグカップを持つ彼女の手を見た。


「その場で全部正解にしなくていい、は俺にも必要です」


「春日くん、正解探しがち」


「そうですね」


「かなり」


「はい」


「でも、私も」


「はい」


 二人で少し笑った。


 似ている部分がある。


 だからこそ、面倒くさい。

 でも、だからこそ分かることもある。


    ◇


 しらいさんはミルクティーを飲んだ。


「今日、高瀬さんと話した」


「美緒役の方ですね」


「うん」


「はい」


「美緒も、踏み込めなかったことが残るって」


「はい」


「でも、あそこで踏み込むのが正解だったとも言えない」


「はい」


「それが難しい」


「はい」


「でも、今日ちょっと思った」


「何をですか」


「紗季さんは一人じゃないんだなって」


 悠真は、少しだけ目を上げた。


「一人じゃない」


「うん。帰れないのは紗季さんだけど」


「はい」


「その周りにも、届かなかった人たちがいる」


「はい」


「それは孤独を消すわけじゃない」


「はい」


「でも、一人だけの痛みではなくなる」


 しらいさんは、言葉を探すように少し黙った。


「物語が、少し広がった感じがした」


「はい」


「紗季さんの帰れなさが、周りの人にも影を落としてる」


「はい」


「でも、それも責めるんじゃなくて」


「はい」


「見ていきたい」


 悠真は頷いた。


「しらいさんらしい見方だと思います」


「そう?」


「はい」


「どういうところが?」


「誰か一人を悪者にしないところです」


 しらいさんは、少しだけ照れたように目を伏せた。


「それ、三崎さんも言ってた?」


「言っていました」


「やっぱり」


「外側の番人なので」


「人間側の番人でもある」


「今日だけかもしれません」


「三崎さん、役職多い」


 二人で笑った。


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「戻りましたか」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。


「九割三分」


「十分ですね」


「うん」


「残り七分は?」


「寝る。あと、少し考える」


「考えすぎないように」


「理沙さん側」


「彼氏側もです」


「強い」


 玄関で、しらいさんは靴を履いた。


 そして振り返る。


「春日くん」


「はい」


「届かなかった日があっても」


「はい」


「あとからまた、手を伸ばせる?」


「伸ばせます」


「私も?」


「はい」


「じゃあ、大丈夫」


 その大丈夫は、昨日と同じく、扉を閉じるものではなかった。


 次に開けるための大丈夫。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 拒絶ではなく、届かなかった距離。

 そこにも痛みがある。


 その一文が、部屋に残っている。


 岸谷紗季の物語は、少しずつ広がっている。


 帰れない人だけではない。

 助けたいのに踏み込めない人。

 大丈夫と信じたふりをした人。

 あとから少し傷ついた人。


 誰か一人を責めるのではなく、その距離を見る。


 しらいさんは、そこへ進もうとしている。


 悠真は棚の中のマグカップを見た。


 今日のことんは、普通に帰ってきた音だった。


 普通の音が鳴る日も、悪くないと思った。

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