第131話 その場で届かなかった手も、あとからなら伸ばせる
朝、春日悠真はマグカップを出す前に、少しだけ考えた。
青灰色のコースター。
白いマグカップ。
蜂蜜の瓶。
スプーンは少し離れた場所。
いつもの配置を作ることは、もう迷わなかった。
送る日もある。
送らない日もある。
それは義務ではなく、合図だ。
ただ、今日は添える言葉で少し迷った。
昨日、しらいさんは言った。
届かなかった日があっても、あとからまた手を伸ばせる?
悠真は答えた。
伸ばせます。
その言葉は、昨夜からずっと胸に残っている。
その場で踏み込めないことがある。
聞けないことがある。
信じたふりをしてしまうことがある。
でも、それで終わりではない。
あとから聞くことも、手を伸ばすことの一つなのかもしれない。
悠真は写真を撮り、メッセージを打った。
『今日もあります』
少し考えて、もう一文。
『その場で聞けなかったことも、あとから聞けます』
送信する。
すぐに既読がついた。
返事は少し遅かった。
『見た』
それから、
『朝から春日くんが重い』
悠真は少し笑った。
『すみません』
『謝るところでは少しある』
『でも、必要』
その一文を見て、胸の奥が少し温かくなった。
さらに少しして、しらいさんからもう一つ届いた。
『今日は、美緒さんの場面が続く』
『たぶん、踏み込めなかった人のあと』
悠真は返す。
『行ってらっしゃい』
『あとから聞く準備をしておきます』
既読。
『ずるい』
『行ってきます』
◇
現場では、高瀬菜央がいつもより静かだった。
美緒役の彼女は、本来なら明るく話す人だ。
スタッフへの挨拶も軽やかで、場の空気を少し柔らかくする力がある。
けれど今日は、紙コップの水を両手で持ちながら、廊下の端で台本を見つめていた。
しらいさんは、その横に立った。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
高瀬は顔を上げて、少し笑った。
「今日、美緒さんの場面ですね」
「はい」
高瀬は台本を閉じた。
「送れなかったメッセージの続きです」
「はい」
「昨日より、難しいかもしれません」
「どうしてですか」
「昨日は、送れなかったところで終わったんです。でも今日は、そのあと美緒が一人で家に帰って、もう一度スマホを見るんです」
「……はい」
「そこで、また送らない」
高瀬は苦笑した。
「二回送らないって、けっこうきついですね」
しらいさんは頷いた。
それは分かる気がした。
一度目に送れなかった。
その場では、仕方なかったかもしれない。
でも、あとからもう一度スマホを見る。
それでも送らない。
そのとき、踏み込めなかった痛みは、少し別の形になる。
「でも、美緒さんは見捨ててるわけじゃない」
しらいさんが言うと、高瀬は静かに頷いた。
「はい。そこが難しいです」
「はい」
「送らないことが、優しさなのか臆病なのか、自分でも分かってない気がして」
「どちらも、少しあるのかもしれません」
「そうですよね」
高瀬は、少しだけ肩を落とした。
「白瀬さん」
「はい」
「紗季として、美緒に送ってほしいですか」
しらいさんは、すぐには答えられなかった。
岸谷紗季として考える。
美緒からメッセージが来たら、どうするだろう。
たぶん、見る。
少し止まる。
返事に困る。
それから、大丈夫だよ、と返すかもしれない。
もしくは、返さないかもしれない。
でも、来なかったら?
それはそれで、少しだけ痛いのだと思う。
「分からないです」
しらいさんは正直に言った。
「でも、来たら困るかもしれないし、来なかったら少し寂しいかもしれません」
高瀬は、小さく息を吐いた。
「紗季、難しいですね」
「はい」
「美緒も難しいです」
「はい」
二人は少しだけ笑った。
答えがないからこそ、笑うしかないような笑いだった。
◇
撮影は、美緒の部屋セットで行われた。
紗季の部屋とは違う。
美緒の部屋は少しだけ色が多かった。
ソファには明るい色のクッション。
テーブルの上には読みかけの雑誌。
壁には小さなポストカード。
キッチンには使いかけのマグカップが二つ。
帰れる部屋に見える。
でも、今日の美緒はその部屋で少し帰れていない。
友人を助けられなかったかもしれない自分を、持ち帰っているから。
しらいさんは、撮影をモニター横で見守る形になった。
自分の出番は少ない。
けれど、この場面は見ておきたかった。
監督が高瀬に説明する。
「美緒は、紗季を見捨てたつもりはありません」
「はい」
「でも、あのまま帰ってきたことが残っている」
「はい」
「ここでメッセージを送れば救える、という場面でもありません。送らないから悪い、という場面でもない」
「はい」
「美緒自身も、どちらが正解か分からないままスマホを閉じます」
高瀬は深く頷いた。
一度目の本番。
美緒は部屋に帰り、鞄を置く。
靴を脱ぎ、手を洗い、スマホを手に取る。
紗季とのトーク画面を開く。
指が止まる。
少し打つ。
『今日はごめん。大丈夫?』
美緒はそれを見つめる。
そして、消す。
画面を閉じる。
カット。
監督はモニターを見てから言った。
「高瀬さん、今のは“送れなかった自分を責めている”が少し強かったです」
「はい」
「美緒は責め始める手前かもしれません。まだ、自分を責める言葉にもできていない」
「はい」
「送れなかったことを、どう扱えばいいか分からない」
どう扱えばいいか分からない。
しらいさんの胸に、その言葉が落ちる。
二度目。
高瀬は、表情を抑えた。
帰宅する。
スマホを見る。
トーク画面を開く。
文字を打つ。
消す。
そのとき、美緒は大きく後悔しない。
泣きもしない。
ため息すらつかない。
ただ、画面を閉じたあと、親指だけが少しスマホの端を撫でる。
まだ何かを探しているように。
「カット」
監督は少し黙った。
それから頷く。
「今の、いいです」
高瀬が小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「美緒は、送らなかったのではなく、送れなかった。その違いが出ていました」
しらいさんは、胸の奥が小さく痛んだ。
送らなかった。
送れなかった。
言わなかった。
言えなかった。
紗季と美緒は、違う場所にいるのに、少し似ている。
どちらも、できなかったことを抱えている。
◇
昼休み、春日悠真は三崎に同じような話を聞かされた。
いや、同じような、というより、もうほとんど現場を見ているのではないかと思うほどだった。
「春日」
「何だ」
「送らなかったメッセージって、送れなかったメッセージと違うよな」
悠真は箸を止めた。
「……今度はメッセージか」
「うん」
三崎は唐揚げ弁当を前に、妙に真剣な顔をしていた。
「助けたい相手にメッセージ打って、消すことってあるだろ」
「ああ」
「それって、送らないと決めたっていうより、送れなかったに近いことがある」
「……」
「相手に踏み込みすぎるのも怖いし、送ったところでどう返ってくるかも怖いし、そもそも何て書けばいいか分からない」
悠真は、朝送った自分の言葉を思い出した。
その場で聞けなかったことも、あとから聞けます。
でも、その「あとから」さえ難しいことがある。
「三崎」
「何」
「今日は、メッセージ外側の番人だな」
「職種が細分化してきた」
「無給だけどな」
「知ってた」
三崎は唐揚げを食べながら続ける。
「でもさ、送れなかったメッセージって、消したあとも残るんだよな」
「どこに」
「自分の中に」
その言葉は、妙に実感があった。
送らなかった文章。
聞かなかった言葉。
踏み込まなかった一歩。
それらは消したようで、本人の中には残る。
「白瀬アカリのドラマがそういうところまで描くなら、かなり刺さると思う」
「そうだな」
「誰かを助けられなかった人って、自分の中に消したメッセージを持ってる気がする」
悠真は、その言葉を持って帰ることにした。
◇
午後の撮影が終わるころ、しらいさんは高瀬ともう一度話した。
高瀬は少し疲れていた。
でも、沈んではいなかった。
「美緒、難しかったです」
「見ていて、すごく分かりました」
「送らなかったんじゃなくて、送れなかったって監督に言われて」
「はい」
「それで、少し楽になりました」
「楽に?」
「はい。美緒が悪い人じゃなくなったから」
高瀬はそう言ってから、少しだけ笑った。
「でも、いい人で済むわけでもないんですよね」
「はい」
「送れなかったことは、やっぱり残る」
「はい」
「だから、次に会ったときの美緒は、たぶん少し違う」
しらいさんは頷いた。
「紗季も、たぶん少し違います」
「どこが?」
「美緒が何か言おうとしたことを、どこかで感じている気がします」
「受け取ってはいないけど?」
「はい。受け取ってはいない。でも、何かが届きかけたことは、たぶん残っている」
高瀬はしばらく黙った。
そして、少し嬉しそうに頷いた。
「それ、次の場面に持っていきます」
「私も」
役と役の間で、少しだけ何かが渡った気がした。
白瀬アカリだけでは作れないもの。
高瀬菜央だけでも作れないもの。
紗季と美緒の間にある、届かなかった距離。
それを、二人で少しずつ見つけていく。
◇
控室で、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文は、すぐに決まった。
『送らなかった言葉ではなく、送れなかった言葉も、人の中には残る。』
書いてから、しばらく見つめる。
これは美緒の言葉だ。
でも、紗季にも関係がある。
そして、春日くんにも、きっと。
写真を撮って送る。
すぐ既読がついた。
『読みました』
『三崎もほとんど同じところを言っていました』
しらいさんは、スマホを見ながら思わず笑った。
『メッセージ外側の番人?』
少しして返事。
『まさにそんな感じでした』
『送らなかったメッセージと送れなかったメッセージは違う』
『消したあとも自分の中に残る、と』
しらいさんは、小さく息を吐いた。
『三崎さん、本当にもう現場にいない?』
『いません』
『怖い』
『はい』
少しだけ笑える。
それから、悠真から続けて届いた。
『俺にもあります』
『送れなかった言葉』
その一文で、しらいさんの指が止まった。
『春日くんも?』
『はい』
『朝の写真を送らなかった日も、少しそうでした』
『送らなかったというより、送れなかった』
しらいさんは、画面を見つめた。
あの日。
春日くんが、重くなるかもしれないと思って写真を送らなかった朝。
それをあとから話してくれた日。
あれも、送れなかった言葉だったのかもしれない。
『今日、部屋行っていい?』
送る。
『もちろんです』
『今日は、送れなかった言葉の話をしたい』
『聞きます』
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
今日はコンビニの袋はない。
手ぶらに近い。
でも、鞄の中には青灰色のノートがある。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入ると、普通のミルクティーが用意されていた。
蜂蜜は少しだけ。
今日は甘さより、温度がほしい日だった。
しらいさんはカップを置く。
ことん。
「今日の音は?」
悠真が聞くと、彼女は少し考えた。
「届かなかった音」
「少し寂しい音ですね」
「でも、ここには届いてる」
「はい」
「じゃあ、届き直した音」
「いいですね」
しらいさんは少し笑った。
そして、ノートを開いた。
『送らなかった言葉ではなく、送れなかった言葉も、人の中には残る。』
悠真は読んだ。
「今日の美緒さんですね」
「うん」
「それと、俺にもあります」
「朝の写真?」
「はい」
「送れなかった?」
「送れませんでした」
悠真は、正直に言った。
「重くなるかもしれないと思ったのもあります」
「うん」
「でも、それ以上に、自分が必要とされなくなるのが怖いという気持ちを隠していました」
「うん」
「その気持ちを送るわけにはいかないと思って、写真ごと送れなかった」
しらいさんは、黙って聞いていた。
責めない。
ただ、聞いている。
「でも、あとから話せた」
「はい」
「あれ、よかった」
「俺もです」
「送れなかった言葉も、あとから話せるんだね」
「はい」
「全部じゃなくても」
「はい」
「少しずつ」
「はい」
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
「私もある」
「送れなかった言葉ですか」
「うん」
「聞いてもいいですか」
「うん」
彼女は少しだけマグカップを見つめた。
「春日くんの部屋に行きたいって言えなかった日があった」
「はい」
「自分で帰る練習をしなきゃって思ってた日」
「はい」
「でも本当は、少し行きたかった」
「はい」
「でも、行きたいって言ったら、また依存してるみたいで怖かった」
「はい」
「だから言えなかった」
悠真は、静かに頷いた。
「それも、送れなかった言葉ですね」
「うん」
「今、聞けてよかったです」
「今さらだけど」
「今さらでも」
「うん」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「あとから届いた」
「はい」
「届き直した」
「はい」
◇
二人はしばらく、送れなかった言葉の話をした。
全部ではない。
深く掘りすぎない。
ただ、思い出せるものを少しずつ。
朝の写真。
部屋へ行きたいと言えなかった日。
大丈夫じゃないかも、と言いかけてやめた夜。
電話したい、と送る前に十分迷った日。
言葉にならなかったものは、思ったよりたくさんあった。
でも、それは全部が失敗というわけではない。
そのときは送れなかった。
でも、あとから少し届くことがある。
そのことが、少しだけ救いだった。
「春日くん」
「はい」
「送れなかった言葉って、消えたわけじゃないんだね」
「はい」
「でも、残っているから怖いだけじゃなくて」
「はい」
「あとから届けられることもある」
「はい」
「それ、今日の美緒さんにも必要かも」
「はい」
「次に紗季さんに会ったとき、美緒さんは何かを届けられるかもしれない」
「はい」
「紗季さんが受け取れるかは分からない」
「はい」
「でも、届き直すことはある」
「はい」
しらいさんは、少しだけ安心したように息を吐いた。
「今日、ちょっと分かった」
「何をですか」
「届かなかったものが、全部そこで終わるわけじゃない」
悠真は頷いた。
「はい」
「帰り道と似てる」
「そうですね」
「一回帰れなくても、あとから帰れる」
「はい」
「一回届かなくても、あとから届く」
「はい」
「一回言えなくても、あとから言える」
「はい」
「すごいね」
「はい」
「なんか、人間って面倒くさいけど、少し救いがある」
悠真は笑った。
「しらいさんらしい感想です」
「そう?」
「はい」
「春日くんも面倒くさい」
「自覚しています」
「でも、少し救いがある」
「それはよかったです」
「出た」
「出ます」
いつもの言葉で、部屋の空気が少し柔らかくなる。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「戻りましたか」
悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。
「九割四分」
「高いですね」
「うん」
「残り六分は?」
「寝る。あと、送れなかった言葉を少し置いていく」
「ここに?」
「うん」
「分かりました」
「重いやつじゃない」
「はい」
「あとから届くかもしれない言葉たち」
「はい」
玄関で、しらいさんは靴を履いた。
振り返る。
「春日くん」
「はい」
「送れなかった日があっても」
「はい」
「あとから、届き直せる?」
「届き直せます」
「うん」
「俺も、そうします」
「私も」
「はい」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
送らなかった言葉ではなく、送れなかった言葉も、人の中には残る。
その一文が、部屋に残っている。
そして、もう一つ。
届かなかったものが、全部そこで終わるわけではない。
悠真は、棚の中のマグカップを見た。
今日のことんは、届き直した音。
そういう音も、あるのかもしれない。




