第132話 遅れて届いた言葉は、救いではなく、次の約束だった
美緒からのメッセージが届く場面は、台本の上ではとても短かった。
紗季、部屋でスマホを見る。
美緒からのメッセージ。
返信せず、画面を伏せる。
それだけ。
けれど、しらいさんはその一行を何度も読んだ。
美緒が一度送れなかった言葉。
その場では届かなかった言葉。
あとから、形を変えて届く言葉。
昨日、春日くんの部屋で話したことが、まだ胸の中に残っていた。
送れなかった言葉も、人の中には残る。
でも、それは消えたわけではない。
あとから届き直すこともある。
今日、まさにそれを撮る。
ただし、それは分かりやすい救いではない。
美緒から届くメッセージは、台本ではこうだった。
『この前はごめん。またご飯行こう。今度は本当に』
長くない。
助けるよ、とも書いていない。
大丈夫? とも聞いていない。
無理しないで、とも言っていない。
ただ、またご飯へ行こう。
今度は本当に。
それだけ。
でも、たぶん美緒には精一杯の手の伸ばし方だった。
紗季を追い詰めないように。
でも、昨日の「また行こう」を社交辞令のままにしないように。
その小さな言葉が、紗季のスマホへ届く。
紗季は見る。
返信はしない。
でも、消さない。
画面を閉じる。
それだけの場面。
しらいさんは、控室で青灰色のノートを開きかけて、やめた。
まだ書かない。
今日は、撮ってからでいい。
◇
理沙さんは、しらいさんの顔を見て言った。
「今日は、届く日ね」
「はい」
「でも、救われる日ではない」
「はい」
しらいさんは頷いた。
そこを間違えてはいけないと思っていた。
美緒からメッセージが届いたからといって、紗季が急に帰れるようになるわけではない。
助けてと言えるようになるわけでもない。
ただいまを言えるようになるわけでもない。
でも、何もなかったことにはならない。
届かなかった距離の向こうから、もう一度、言葉が来る。
それは小さな変化だ。
「紗季は、返信しません」
しらいさんが言うと、理沙さんは頷いた。
「ええ」
「でも、受け取っていないわけではない」
「そうね」
「そこが難しいです」
「難しいわよ」
「最近、それを聞くと安心してきました」
「末期ね」
理沙さんが淡々と言うので、しらいさんは少し笑った。
笑える。
それだけで、今日は少し始まりがいい。
「今日の注意点は?」
理沙さんが聞く。
しらいさんは少し考えた。
「メッセージを、救いにしすぎない」
「はい」
「でも、何でもないものにもしない」
「はい」
「紗季さんは返信しない。でも、画面を閉じる手に少しだけ残す」
理沙さんは、ほんの少し口元を緩めた。
「分かっているなら、あとは現場で探しなさい」
「はい」
◇
昼休み、春日悠真は三崎から唐突に聞かれた。
「春日、遅れて届くメッセージって、救いだと思うか?」
悠真は、弁当の卵焼きを箸でつまんだまま止まった。
「また急だな」
「外側の番人は急に来る」
「自分で言うようになったな」
「もう名乗ることにした」
三崎は唐揚げを一つ口に入れてから、少し真面目な顔になった。
「昨日送れなかった言葉が、今日届くとしてさ」
「ああ」
「それって、救いではあるけど、全部解決ではないよな」
悠真は黙って聞いた。
「たとえば、誰かが“また飯行こう”って送ってくる」
「うん」
「それだけで助かるわけじゃない。でも、何もなかったわけでもない」
「……」
「次があるって分かるだけで、少し違う気がする」
悠真は、胸の中でその言葉を受け取った。
次がある。
それは今日の場面にぴったりだった。
「三崎」
「何」
「今日も外側の番人国、外交担当くらいのことを言っている」
「役職が増えた」
「無給だが」
「国なのにブラック」
三崎は不満そうに言いながらも、少し笑った。
「でもさ、白瀬アカリがそういうメッセージを見る芝居をやったら、絶対うまいと思う」
「どういう芝居だ」
「返信しないけど、消さない感じ」
悠真は、思わず三崎を見た。
「何でそこまで言う」
「外側の番人だから」
「便利すぎる」
「返信できない。でも、嫌だったわけじゃない。画面閉じる。でも、たぶんあとでまた見る」
三崎は自分で言って、少しだけ黙った。
「そういうの、あるだろ」
「あるな」
「返信しないことが拒絶じゃない日」
悠真は、その言葉を持って帰ることにした。
今日もまた、三崎は必要な言葉をくれた。
◇
撮影は、岸谷紗季の部屋セットで行われた。
白いカーテン。
小さなテーブル。
グレーのマグカップ。
整いすぎた部屋。
もう何度も入ったセットなのに、今日は少し見え方が違った。
ここは、ただ帰れない部屋ではない。
外から届いた言葉を、受け取るかどうか迷う部屋でもある。
監督が説明する。
「美緒のメッセージは、紗季にとって救いそのものではありません」
「はい」
「でも、どうでもいい言葉でもない」
「はい」
「紗季は返信しない。けれど、既読をつける」
「はい」
「その既読が、今の紗季にできる精一杯かもしれません」
既読。
それもまた、返事の一種なのかもしれない。
白瀬アカリは、部屋の小さなテーブルの前に座った。
スマホを手に取る。
画面が光る。
美緒からのメッセージ。
『この前はごめん。またご飯行こう。今度は本当に』
一度目の本番。
白瀬アカリは、少しだけその言葉に救われすぎた。
目元が柔らかくなりすぎた。
呼吸が楽になりすぎた。
「カット」
監督は穏やかに言った。
「白瀬さん、今のは少し救いが早かったです」
「はい」
「紗季は、嬉しいと認識する前に閉じるかもしれません」
「はい」
「嬉しい、でも困る。困る、でも消せない。その手前で」
その手前。
最近、ずっとそこを探している気がする。
言葉になる前。
感情に名前がつく前。
救いになる前。
二度目。
今度は感情を抑えすぎた。
スマホを見る。
画面を伏せる。
それだけになってしまった。
「カット」
監督が首を傾げる。
「今のは、届いていないように見えました」
「はい」
「届いています。でも、返せない」
届いている。
でも、返せない。
しらいさんは小さく頷いた。
三度目。
スマホを手に取る。
画面が光る。
美緒からのメッセージ。
紗季は読む。
目元はほとんど変わらない。
でも、指が少しだけ止まる。
返信画面を開きかける。
開かない。
スマホを伏せる。
けれど、伏せたあと、手をすぐには離さない。
指先が、スマホの端に少し触れたまま残る。
拒絶ではない。
救われたわけでもない。
届いた。
でも、返せない。
「カット」
現場が静かになった。
監督がモニターを確認する。
そして、頷いた。
「今のです」
白瀬アカリは、ゆっくり息を吐いた。
「ありがとうございます」
「返信しないことが、拒絶ではありませんでした」
その言葉に、胸が静かに鳴った。
◇
撮影後、高瀬菜央が控室前まで来た。
「白瀬さん」
「はい」
「今の、見てました」
「ありがとうございます」
「美緒として、少し救われました」
「美緒さんが?」
「はい。返信は来なかったけど、届いてはいる気がしたから」
しらいさんは、静かに頷いた。
「紗季さん、返せなかったんだと思います」
「はい」
「でも、消したわけじゃない」
「はい」
「あとで、たぶんまた見る」
高瀬は、その言葉を聞いて少しだけ笑った。
「それだけで、美緒は次も送れるかもしれないです」
次も送れる。
その言葉が、今日の場面の答えのように思えた。
美緒の言葉は、紗季をすぐ救うものではない。
けれど、美緒自身が次も手を伸ばすための小さな支えになる。
届いたかもしれない。
それだけで、人は次に進めることがある。
◇
控室で、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文は、すぐに決まった。
『返信しないことが、拒絶ではない日もある。届いた言葉は、指先に残る。』
少し長い。
でも、今日は削れなかった。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐに既読がつく。
『読みました』
『三崎が今日、ほとんど同じことを言っていました』
しらいさんは、小さく笑った。
『外側の番人国、今日は何担当?』
『外交担当です』
『外交』
『遅れて届くメッセージは全部解決ではない。でも、次があると分かるだけで少し違う、と』
既読。
しらいさんは、画面を見つめた。
次がある。
今日の美緒にも、紗季にも、春日くんとの関係にも必要な言葉だった。
『今日、部屋行っていい?』
『もちろんです』
『返信しないことの話をしたい』
『待っています』
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
今日は声が落ち着いていた。
重すぎない。
でも、何かを持ってきている。
ローテーブルには、ミルクティーが用意されていた。
蜂蜜は普通。
しらいさんはカップを受け取り、コースターへ置いた。
ことん。
「今日の音は?」
春日くんが聞く。
しらいさんは少し考えた。
「既読の音」
「かなり現代的ですね」
「でも、そんな感じ」
「届いた音?」
「うん。返せてないけど、届いた音」
彼は静かに頷いた。
しらいさんは青灰色のノートを開く。
『返信しないことが、拒絶ではない日もある。届いた言葉は、指先に残る。』
春日くんはそれを読んだ。
「俺にも必要な一文です」
「春日くんにも?」
「はい」
「返信がないと不安になる?」
「なります」
「正直」
「はい」
「でも、返せない日もある」
「はい」
「私もある」
「知っています」
「うん」
「それを拒絶と決めつけないようにします」
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
「でも、返せないときは、あとから何か言う練習もする」
「はい」
「既読だけでも精一杯の日がある」
「はい」
「でも、ずっと既読だけだと、相手も傷つく」
「はい」
「だから、あとからでも」
「はい」
「届いてたって言う」
春日くんは、少しだけ目元を和らげた。
「それは、とても助かります」
「春日くん、返信待つタイプ?」
「待ちます」
「かなり?」
「かなり」
「面倒くさい」
「自覚しています」
「でも、近い人の面倒くささ」
「昨日の言葉ですね」
「うん」
二人で少し笑った。
◇
「今日ね」
しらいさんは言った。
「美緒さんのメッセージ、紗季さんは返せなかった」
「はい」
「でも、消さなかった」
「はい」
「あとでまた見る気がした」
「はい」
「それだけで、美緒さんは次も送れるかもしれないって、高瀬さんが言ってくれた」
「はい」
「それ、ちょっと嬉しかった」
「届いたんですね」
「うん。少なくとも、高瀬さんには」
「はい」
「紗季さんにも、たぶん」
「はい」
「私にも」
「はい」
しらいさんは、カップを持つ指先を見た。
「届いた言葉って、指先に残るんだね」
「はい」
「返せなくても」
「はい」
「画面を閉じても」
「はい」
「消えない」
「はい」
「だから、返信できない日も、全部なかったことにはならない」
「はい」
「でも、あとから返せたら、もっといい」
「そうですね」
春日くんは、穏やかに頷いた。
「無理のない範囲で」
「理沙さん側」
「彼氏側もです」
「強い」
いつものやり取り。
そのあと、しらいさんは少しだけ真面目な顔になった。
「春日くん」
「はい」
「もし私が返信できない日があっても」
「はい」
「拒絶じゃない日もある」
「はい」
「でも、不安になったら言って」
「はい」
「私もあとから届いてたって言う」
「はい」
「約束」
「約束です」
その約束は、派手ではない。
でも、二人には必要だった。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
「今日の音、まだ既読?」
悠真が聞くと、しらいさんは少し笑った。
「今は返信した音」
「返ってきましたか」
「うん」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
玄関で、しらいさんは靴を履いた。
「春日くん」
「はい」
「返せない日があっても」
「はい」
「届いてる日がある」
「はい」
「でも、あとから返せる日もある」
「はい」
「覚えてて」
「覚えています」
「私も覚える」
「はい」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
返信しないことが、拒絶ではない日もある。
届いた言葉は、指先に残る。
その一文が、今日の部屋に残っている。
返せない日がある。
でも、届いていないとは限らない。
拒絶とは限らない。
そして、あとから返せる日もある。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
今日のことんは、既読の音から返信の音になった。
そういう変わり方も、悪くないと思った。




