第133話 未返信の画面を、君は消せなかった
未返信の画面は、思っていたより重かった。
岸谷紗季の部屋セットに入る前、しらいさんは控室でスマホを見ていた。
もちろん、自分のスマホではない。
撮影用の小道具として用意された、岸谷紗季のスマホだ。
実際には通信機能はなく、画面表示だけができるものだった。
そこには、美緒からのメッセージが残っている。
『この前はごめん。またご飯行こう。今度は本当に』
短い言葉。
優しすぎない。
踏み込みすぎない。
でも、社交辞令ではない。
美緒なりに、一度送れなかった言葉を、別の形で送り直したのだ。
そのメッセージを、紗季は既読にしている。
けれど、返信していない。
未返信。
たったそれだけの状態が、こんなに重く見えるとは思わなかった。
拒絶ではない。
たぶん、無視でもない。
でも、返せていない。
しらいさんは、画面に映る美緒の名前を見つめた。
返信欄は空白のままだった。
何かを打つことはできる。
でも、何を打てばいいか分からない。
ありがとう。
大丈夫。
また行こう。
ごめん。
どれも違う。
たぶん、どれも少しだけ本当で、少しだけ嘘になる。
理沙さんが控室に入ってきた。
「喉は?」
「九割二分です」
「私の評価では九割一分」
「今日も少し低いですね」
「未返信の画面を見すぎている分」
「喉に関係ありますか」
「あるわ」
理沙さんは当然のように言った。
「返せない言葉も、喉に残ることがある」
しらいさんは、スマホをそっとテーブルへ置いた。
「今日は、紗季さんが返せない日です」
「ええ」
「返したくないわけじゃない」
「そうね」
「でも、返し方が分からない」
「そこを間違えないこと」
理沙さんは、台本を指先で軽く叩いた。
「紗季は美緒を拒絶しているわけじゃない。でも、美緒の言葉を受け止めきれてもいない」
「はい」
「未返信を、冷たさにしない」
「はい」
「でも、あたたかい救いにも早くしすぎない」
「……難しいです」
「難しいわよ」
しらいさんは、少しだけ笑った。
最近、この言葉を聞くと、むしろ安心するようになってきた。
簡単な場面ではない。
だから、簡単にやろうとしなくていい。
美緒の言葉は届いている。
でも、返せない。
今日は、その間に立つ。
◇
昼休み、春日悠真は三崎にいきなり言われた。
「未返信ってさ、終わりじゃないよな」
悠真は箸を止めた。
唐揚げ弁当を開けた三崎は、今日も当然のように核心の近くから話し始める。
「また急だな」
「急に思った」
「白瀬アカリ絡みか」
「まあ、そう」
三崎は唐揚げを一つ口に入れ、少し考えてから続けた。
「既読がついて、返事がないと不安になるじゃん」
「なるな」
「でも、未返信って全部無視じゃないよな」
「……」
「手元で止まってる言葉っていうか。返したいけど、どう返せばいいか分からないやつ」
悠真は、朝しらいさんが送ってきた撮影内容を思い出した。
美緒からのメッセージ。
紗季の未返信。
まさに今日の場面だった。
「三崎」
「何」
「今日は未返信外側の番人だな」
「業務内容が細かい」
「毎回細かくなるな」
「給料は細かくならないけどな。ゼロだから」
「ゼロは細かくならないな」
三崎は不満そうにしながらも、話を続けた。
「未返信って、相手に返してないけど、自分の中ではまだ終わってない状態なんだと思う」
「うん」
「だから、外から見たら無視に見えるけど、本人の手元ではずっと残ってることもある」
「手元で残る」
「そう。消してないなら、まだ終わってない」
悠真は、その言葉を胸に置いた。
未返信は、終わりではない。
まだ手元にある言葉。
今日、しらいさんが掴むかもしれないものと重なる。
「春日」
「何だ」
「お前、今かなり持って帰る顔してる」
「どんな顔だ」
「俺の名言を誰かに伝える顔」
「名言かどうかは分からない」
「ひどい」
「でも、伝えたい言葉ではある」
三崎は少し照れたように目を逸らし、唐揚げをもう一つ食べた。
◇
撮影は、岸谷紗季の部屋セットで始まった。
白いカーテン。
小さなテーブル。
グレーがかったマグカップ。
畳まれたブランケット。
整っている。
でも、どこか温度が薄い。
しらいさんは、この部屋に入るたびに思う。
生活はある。
でも、帰ってきた感じがない。
今日はその部屋で、紗季が美緒のメッセージを見る。
返信画面を開く。
閉じる。
また、少し時間を置いて見る。
それだけの場面だ。
監督がモニターの前で言った。
「紗季は、美緒のメッセージを拒絶していません」
「はい」
「でも、返信できません」
「はい」
「ここを、未返信の冷たさではなく、未返信の迷子にしてください」
未返信の迷子。
その言葉が、しらいさんの中にすっと入った。
拒んでいるのではない。
迷っている。
返事の道を探しているけれど、見つけられない。
一度目の本番。
紗季はテーブルに座り、スマホを手に取った。
美緒のメッセージを見る。
目元が、少しだけ揺れる。
返信画面を開く。
親指が止まる。
閉じる。
カット。
監督はすぐには何も言わなかった。
モニターを見て、少し考えてから口を開く。
「白瀬さん、今のは美緒の言葉に少し救われすぎています」
「はい」
「救われたい気持ちはある。でも、紗季はまだそれを救いとして受け取れる場所にいない」
「はい」
しらいさんは頷いた。
確かに、今の自分は美緒の言葉をあたたかく受け取りすぎた。
紗季より先に、白瀬アカリが「届いてよかった」と思ってしまった。
二度目。
今度は感情を抑えた。
スマホを見る。
返信画面を開く。
閉じる。
けれど、今度は冷たくなりすぎた。
「カット」
監督が言う。
「今のは、少し興味が薄く見えました」
「はい」
「届いてはいる。でも、返せない。その距離でお願いします」
届いてはいる。
でも、返せない。
しらいさんは深呼吸した。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、紗季さんの手元にある未返信へ、もう一度会いに行く。
三度目。
紗季はスマホを見る。
美緒のメッセージ。
『この前はごめん。またご飯行こう。今度は本当に』
目元は大きく動かさない。
けれど、画面を見たまま、一度だけ呼吸が浅くなる。
返信画面を開く。
親指が、文字入力の場所の上で止まる。
何も打たない。
閉じる。
でも、スマホを伏せない。
手の中に持ったまま、ほんの少しだけ画面の縁を撫でる。
言葉は返せない。
でも、美緒の言葉はまだ手元にある。
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを見ている。
数秒後、ゆっくり頷いた。
「今のです」
白瀬アカリは、静かに息を吐いた。
「ありがとうございます」
「未返信が、終わりではありませんでした」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
◇
撮影後、しらいさんは控室に戻る前に廊下で立ち止まった。
スマホを持つ指先に、まだ紗季の感覚が少し残っている。
返せなかった言葉。
でも、消せなかった言葉。
理沙さんが水を渡してくれた。
「飲んで」
「はい」
水を飲む。
少し現実に戻る。
「どうだった?」
理沙さんが聞く。
「未返信は、終わりじゃなかったです」
「そう」
「返せないけど、手元に残っている言葉でした」
「掴めたならいいわ」
「はい」
「ただし、持ち帰りすぎないこと」
「はい」
「あなたの未返信と混ぜすぎない」
しらいさんは少しだけ黙った。
理沙さんは、それを見逃さない。
「心当たりがある顔ね」
「あります」
「春日さん?」
「……はい」
返せなかった日がある。
すぐに言えなかった日がある。
部屋へ行きたいと送れなかった日。
大丈夫じゃないかも、と言えなかった夜。
未返信は、紗季だけのものではない。
「今日は話してもいいけれど、整理しすぎないこと」
理沙さんは言った。
「未返信にも、寝かせる時間があるわ」
「はい」
◇
青灰色のノートを開くと、今日の一文はすぐに決まった。
『未返信は、終わりじゃない。まだ手元にある言葉だ。』
しらいさんは、その文字をしばらく見た。
短い。
でも、今日の場面そのものだった。
写真を撮り、春日くんへ送る。
既読はすぐについた。
『読みました』
『今日、三崎も似たことを言っていました』
しらいさんは少し笑った。
『未返信外側の番人?』
『はい』
『未返信は全部無視ではなく、手元で止まっている言葉のこともある、と』
既読。
しらいさんは、控室の椅子に座ったまま、しばらくスマホを見つめた。
三崎さん。
今日も、外側から届く。
『三崎さん、今日は唐揚げ何個?』
『本人は名言扱いを要求していました』
『名言唐揚げ』
『新しいですね』
少しだけ笑えて、呼吸が戻る。
続けて、春日くんからメッセージが来た。
『俺にも、未返信にしてしまった言葉があります』
しらいさんは、指を止めた。
『朝の写真?』
『それもあります』
『あと、しらいさんに心配だと送りたいのに、重いかもしれないと思って送れなかった日があります』
胸の奥が、静かに揺れた。
春日くんにも、手元で止まっていた言葉がある。
『今日、部屋行っていい?』
しらいさんは送った。
『もちろんです』
『未返信の話、少ししたい』
『聞きます』
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関を開けると、いつもより少しだけ落ち着いた顔をしていた。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入り、ローテーブルの前に座る。
今日は、普通のミルクティーだった。
蜂蜜は少しだけ。
甘さで戻す日ではなく、話すための日。
しらいさんはカップを受け取り、コースターへ置いた。
ことん。
「今日の音は?」
春日くんが聞く。
しらいさんは少し考えた。
「未返信の音」
「少し止まっている音ですね」
「うん。でも、消えてない音」
「はい」
「だから、ここにある音」
悠真は静かに頷いた。
しらいさんは青灰色のノートを開いた。
『未返信は、終わりじゃない。まだ手元にある言葉だ。』
春日くんはそれを読んだ。
「今日の場面ですね」
「うん」
「それと、俺たちにも少しありますね」
「うん」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
「春日くんの未返信、聞いていい?」
「はい」
悠真は少しだけ視線を落とした。
「心配だと送りたいのに、送れなかった日があります」
「うん」
「撮影で重い場面が続いていたとき」
「うん」
「心配しています、と送りたかった」
「うん」
「でも、それが負担になるかもしれないと思って、やめました」
「うん」
「でも、送らなかったあとも、その言葉は残っていました」
しらいさんは、黙って聞いていた。
責めない。
急かさない。
ただ、受け取る。
「今、届いた」
しらいさんは静かに言った。
悠真が顔を上げる。
「今?」
「うん」
「少し遅れました」
「でも届いた」
「はい」
「心配してくれてたの、届いた」
悠真は、少しだけ息を吐いた。
それだけで、手元に残っていた言葉が少し軽くなる気がした。
◇
「私もある」
今度はしらいさんが言った。
「はい」
「春日くんの部屋に行きたいって、送れなかった日」
「はい」
「自分の部屋で戻る練習しなきゃって思って」
「はい」
「でも本当は、少しだけ行きたかった」
「はい」
「でも、それを送ったら、また春日くんに頼りすぎる気がして」
「はい」
「送れなかった」
悠真は、ゆっくり頷いた。
「今、届きました」
「遅い?」
「遅くありません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、未返信は終わりじゃなかった」
「はい」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「今さら届く言葉ってあるんだね」
「ありますね」
「全部すぐ届かなくても」
「はい」
「手元に残っていれば、あとから届く」
「はい」
しらいさんはマグカップを持ち上げ、また置いた。
ことん。
「届き直した音」
「今日の音、変わりましたね」
「うん。未返信の音から、届き直した音になった」
「いいですね」
「うん」
◇
その後、二人は少しだけ未返信の話をした。
深く掘りすぎない。
全部を今夜のうちに届けようとはしない。
未返信にも、寝かせる時間がある。
理沙さんの言葉を、しらいさんは思い出していた。
「春日くん」
「はい」
「全部、今夜返さなくていい?」
「もちろんです」
「未返信の棚みたいなのがあって」
「はい」
「今日は二つくらい返した」
「はい」
「残りはまた今度」
「はい」
「それでいい?」
「いいと思います」
悠真は穏やかに答えた。
「返事にも順番があります」
「春日くん」
「はい」
「今日、いいこと言う」
「ありがとうございます」
「硬い」
「すみません」
「謝らないで」
いつもの言葉が戻る。
それだけで、部屋の空気が少し柔らかくなった。
「返事にも順番がある」
しらいさんは小さく繰り返した。
「それ、今日の心に置く」
「ノートには?」
「書かない」
「はい」
「未返信の棚に置く」
「それもいいですね」
二人で少し笑った。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「戻りましたか」
悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。
「九割二分」
「いいですね」
「うん」
「残り八分は?」
「未返信の棚に置く」
「寝かせるんですね」
「うん」
「分かりました」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「未返信になっても」
「はい」
「終わりじゃない日がある」
「はい」
「でも、できればあとから届いたって言う」
「はい」
「私も言う」
「俺も言います」
「約束」
「約束です」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
未返信は、終わりじゃない。
まだ手元にある言葉だ。
その一文が、今日の部屋に残っている。
届かなかった言葉。
送れなかった言葉。
返せなかった言葉。
それらは、全部が消えてしまうわけではない。
手元に残っているなら、あとから届くことがある。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
今日のことんは、未返信の音で、届き直した音だった。




