第134話 既読のまま眠った夜に、返事はまだ死んでいなかった
既読のまま眠る。
台本に書かれたその短い説明を見て、しらいさんは、少しだけ目を伏せた。
美緒からのメッセージは届いている。
『この前はごめん。またご飯行こう。今度は本当に』
紗季は読んだ。
消さなかった。
拒絶もしなかった。
けれど、返せなかった。
そして今日の場面では、そのまま夜が来る。
返信できないまま、眠る。
それは、思っていたより静かに苦しいことだった。
返さないと決めたわけではない。
でも、返せない。
返せないまま、時間だけが過ぎる。
夜になり、部屋の明かりを消し、布団に入る。
スマホは枕元にある。
いつでも返せる。
でも、返せない。
その状態で眠る人の心は、どこにあるのだろう。
控室で台本を閉じたしらいさんは、指先をそっと喉に当てた。
今日は台詞が少ない。
むしろ、ほとんどない。
でも、喉に残りそうな場面だと思った。
返事にならなかった言葉。
打たれなかった文字。
眠る前にもう一度だけ見て、それでも送れなかったもの。
そういうものも、きっと喉や指先に残る。
理沙さんが入ってきた。
「喉は?」
「九割二分です」
「私の評価では九割二分」
「一致しました」
「今日は喉より、指先ね」
「指先」
「返信できない場面でしょう」
「はい」
「言葉が出ない日もある。文字が打てない日もある。どちらも体を使うわ」
しらいさんは、静かに頷いた。
「既読のまま眠ることが、拒絶に見えないようにしたいです」
「ええ」
「でも、ただ疲れて寝落ちしただけにもしたくない」
「そうね」
理沙さんは台本へ視線を落とした。
「紗季は、返事を忘れて眠るわけではない。返せないまま、眠る」
「はい」
「でも、それは返事が死んだという意味ではない」
返事が死んだわけではない。
その言葉に、胸が少しだけ鳴った。
「今日の紗季は、返せなかったことを抱えたまま眠る。でも、抱えていることに自分で名前をつけられていない」
「はい」
「だから、苦しみすぎないこと」
「苦しみすぎない」
「ええ。苦しいと分かって眠るなら、それはもう少し先の紗季かもしれない」
しらいさんは、その違いを考えた。
苦しいと分かっている人。
苦しいことすら、まだよく分かっていない人。
岸谷紗季は、たぶん後者だ。
胸に何かが残っている。
スマホに未返信が残っている。
でも、それをどう扱えばいいか分からない。
だから、眠る。
眠るしかない。
◇
撮影は、岸谷紗季の部屋セットで行われた。
もう何度も入った部屋。
白いカーテン。
小さなテーブル。
グレーのマグカップ。
畳まれたブランケット。
生活は整っている。
でも、受け止めてくれる音は少ない。
今日の場面では、紗季は帰宅後の服に着替えて、テーブルの前に座る。
スマホを見る。
美緒のメッセージを開く。
返信画面を出す。
何も打たない。
画面を閉じる。
少し時間が飛び、寝る前。
紗季は布団に入る前に、もう一度スマホを見る。
同じメッセージ。
同じ未返信。
そして、画面を伏せて眠る。
監督が言った。
「今日は、未返信を抱えたまま眠る場面です」
「はい」
「眠ることを逃避にしすぎないでください」
「はい」
「かといって、解決でもない」
「はい」
「保留です」
保留。
その言葉が、すっと入った。
既読のまま眠ることは、拒絶ではない。
救いでもない。
終わりでもない。
保留。
今の紗季にできる、精一杯の扱い方。
一度目の本番。
白瀬アカリは、スマホを見つめる時間を少し長くした。
美緒の言葉に揺れる。
返したい。
でも返せない。
その感情を乗せたつもりだった。
けれど、カットがかかる。
「白瀬さん、少し返したい気持ちが見えすぎました」
「はい」
「紗季は、返したいとはっきり自覚していないかもしれません」
「はい」
「気になる。でも、どうして気になるのかまでは分からない。そのくらいで」
気になる。
でも、なぜ気になるのかは分からない。
しらいさんは頷いた。
二度目。
今度は抑えた。
スマホを見る。
返信画面を開く。
閉じる。
眠る。
けれど、今度は淡すぎた。
「今のは、メッセージが流れてしまいましたね」
「はい」
「届いています。残っています。でも、名前はついていない」
届いている。
残っている。
名前はない。
最近、ずっとそういう場所を探している気がした。
言葉になる前。
感情に名前がつく前。
返事になる前。
三度目。
紗季はテーブルの前でスマホを見る。
美緒のメッセージ。
画面の光が、顔に少しだけ当たる。
目元は大きく揺れない。
口元も動かない。
ただ、親指が返信欄の近くで止まる。
止まったあと、何も打たずに画面を閉じる。
それから、寝る前。
照明を落とした部屋で、もう一度スマホを見る。
同じメッセージ。
紗季は、それを読む。
読む、というより、そこにまだあることを確認する。
そして、画面を伏せる。
でも、伏せたあと、すぐには手を離さない。
指先がスマホの背面に一瞬だけ残る。
返事はできなかった。
でも、返事は死んでいない。
まだ、手の下にある。
「カット」
現場が静かになった。
監督がモニターを見ている。
少し長い沈黙のあと、頷いた。
「今のです」
白瀬アカリは、ゆっくり息を吐いた。
「ありがとうございます」
「既読のまま眠ることが、拒絶ではなく保留に見えました」
保留。
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥にあった緊張が少しだけほどけた。
◇
撮影後、しらいさんは控室でしばらく指先を見ていた。
スマホを伏せたときの感覚が残っている。
冷たい画面。
背面に触れた指。
離すまでの、ほんの一瞬。
言葉を打たなかった指。
でも、完全に手放せなかった指。
理沙さんが水を渡してくれる。
「飲んで」
「はい」
水を飲む。
喉よりも、指先が先に現実へ戻ってくる感じがした。
「どうだった?」
「保留でした」
「そう」
「返事が死んだわけじゃなかったです」
「掴めたならいいわ」
「はい」
「今日は春日さんのところへ?」
しらいさんは少し考えた。
「行かないと思います」
「自分の部屋で戻れそう?」
「はい」
「なら、それでいいわ。電話は?」
「短くします」
「ノートは一文まで」
「はい」
いつもの確認。
それだけで、少し安心する。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文は、少し迷った。
既読のまま眠る。
返せなかった。
でも、返事は死んでいない。
それをどう書くか。
ペン先をしばらく止めてから、しらいさんは書いた。
『既読のまま眠っても、返事が死んだわけじゃない。』
書いて、少し息を吐いた。
強い言葉だと思った。
死んだ、という言葉は少し重い。
でも今日は、それくらいはっきり書きたかった。
返信できないこと。
返せないまま眠ること。
それを終わりにしすぎないために。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐに既読がついた。
『読みました』
少し間があって、
『今日、とても大事な一文ですね』
と届いた。
『うん』
『紗季さん、返せなかった』
『でも、終わってなかった』
既読。
『三崎にも伝えたい一文です』
しらいさんは少し笑った。
『今日は三崎さん、何担当?』
『まだ聞いていません』
『珍しい』
『昼休みに聞いたら、たぶん何か言います』
『外側の番人国、勤務前?』
『勤務前です』
軽いやり取りができる。
それだけで、今日の場面を少し置いて帰れそうだった。
◇
その昼休み、春日悠真は三崎に話を振った。
「既読のまま返せないことについて、どう思う」
三崎は唐揚げを箸でつまんだまま固まった。
「今日はそっちから来るのか」
「たまにはな」
「外側の番人に依頼?」
「そうかもしれない」
「報酬は?」
「心の中で」
「はいブラック」
三崎は文句を言いながらも、少しだけ考えた。
「既読のまま返せないって、あるだろ」
「ああ」
「読んでる。届いてる。でも返せない」
「うん」
「それって、相手から見ると不安だけど、本人の中ではまだ終わってないことが多い気がする」
「終わってない」
「うん。返事を保留してるというより、気持ちがまだ文章になってない」
悠真は、しらいさんのノートの一文を思い出した。
既読のまま眠っても、返事が死んだわけじゃない。
かなり近い。
「三崎」
「何」
「今日も勤務してるな」
「無給労働が常態化してる」
「国がブラックだからな」
「外側の番人国、労働環境が終わってる」
三崎はそう言いながら、唐揚げを食べた。
「でも、既読のまま眠ることもあるよな」
「あるな」
「朝になったら返せることもある」
「うん」
「夜は返せない言葉ってあるだろ」
悠真は、その言葉を胸の中へしまった。
夜は返せない言葉。
それも、今日のしらいさんに伝えたいと思った。
◇
夜、しらいさんは自分の部屋にいた。
春日くんの部屋へ行かない日は、もう特別に寂しい日ではなくなってきた。
もちろん、少し寂しいことはある。
でも、それは帰れない寂しさではない。
今日は、自分の部屋で戻る日。
湯を沸かし、温かいお茶を淹れる。
蜂蜜は入れない。
今日は、甘さよりも静けさがよかった。
マグカップをテーブルに置く。
かたん。
自分の部屋の音。
それを聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。
春日くんから電話が来た。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまでした」
「春日くんも」
「今日は自分の部屋ですね」
「うん」
「かたんは鳴りましたか」
「鳴った」
「いいですね」
「うん。今日は、かたんの日」
「今、何割ですか」
「九割」
「十分ですね」
「うん」
しらいさんは、温かいお茶を一口飲んだ。
「今日、返せないまま眠る場面だった」
「はい」
「紗季さん、返せなかった」
「はい」
「でも、終わってなかった」
「はい」
「スマホを伏せたけど、手が少し残った」
「はい」
「それで、分かった」
「何をですか」
「返事が死んだわけじゃないって」
春日くんは、少しだけ間を置いてから言った。
「三崎が、夜は返せない言葉もあると言っていました」
しらいさんは、思わず笑った。
「勤務してた?」
「勤務していました」
「外側の番人国、夜勤」
「かなりブラックです」
「でも、いい言葉」
「はい」
「夜は返せない言葉もある」
「はい」
「朝なら返せることもある」
「はい」
しらいさんは、少しだけスマホを見つめた。
自分にも覚えがある。
夜、返信できなかった言葉。
朝になって、ようやく送れた言葉。
気持ちはあった。
でも、夜の自分には形にできなかった。
「春日くん」
「はい」
「私も、夜は返せない日ある」
「はい」
「でも、朝なら返せることがある」
「はい」
「そのとき、夜に返せなかったことを責めないでほしい」
「責めません」
「でも、不安になったら言って」
「はい」
「待ってたって」
「言います」
「うん」
「しらいさんも、返せなかったときは、あとで届いていたと言ってくれると助かります」
「うん」
「約束です」
「約束」
◇
少し沈黙があった。
でも、電話越しの沈黙は重くなかった。
同じものを少しずつ持っている沈黙だった。
「春日くん」
「はい」
「今日、部屋に行かなかったけど」
「はい」
「帰れてる」
「はい」
「かたんも鳴った」
「はい」
「ノートも一文書いた」
「はい」
「電話もしてる」
「はい」
「九割二分くらいになった」
「増えましたね」
「うん」
「残り八分は?」
「寝る」
「いいですね」
「既読のまま眠る紗季さんと違って」
「はい」
「私は、少し返してから眠れる」
「はい」
「それ、嬉しい」
春日くんの声が少し柔らかくなった。
「俺も嬉しいです」
「出た」
「出ます」
「でも、今日は出ていい」
「そうですか」
「うん」
しらいさんは、マグカップを持ち上げて、また置いた。
かたん。
「聞こえましたか」
「聞こえました」
「今日の音」
「かたんの日の音ですね」
「うん。既読のまま眠る前に、少し返せた音」
「いい音です」
「ことんじゃないけど」
「はい。でも、今日の帰り道です」
しらいさんは、少し笑った。
「春日くん」
「はい」
「今日は、このまま寝る」
「はい」
「返事は死んでないって覚えて寝る」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「明日も行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
電話が切れた。
◇
春日悠真は、ローテーブルの前に座ったままスマホを見ていた。
今日は、こちらの部屋のマグカップは出していない。
ことんの音も鳴らしていない。
でも、電話越しに、かたん、という音を聞いた。
既読のまま眠っても、返事が死んだわけじゃない。
その一文が、胸に残っている。
返せない夜がある。
でも、朝に返せることがある。
届いている。
残っている。
けれど、まだ形になっていない。
そういう言葉を、待てる人でいたいと思った。
待つことは簡単ではない。
でも、返せない人を責めないことと、待つ人の寂しさをなかったことにしないこと。
その両方を、少しずつ覚えていくのだろう。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
今日の音は、遠くのかたん。
彼女が自分の部屋で帰れている音だった。




