第135話 春日、返事を待つ側の静けさを知る
返信が来ない時間には、音がある。
春日悠真は、そのことを初めてはっきり意識した。
スマホは鳴らない。
通知も来ない。
画面も光らない。
誰かの足音も、玄関のチャイムもない。
それなのに、返事を待っている時間には、妙な音がある。
部屋の時計の秒針。
冷蔵庫の低い唸り。
外を通る車の遠い音。
自分がマグカップを持ち上げて、置く音。
ことん。
いつもなら、しらいさんのために鳴る音。
けれど今日は、自分のために鳴った気がした。
その日の朝、しらいさんはいつも通り撮影へ向かった。
撮影内容は、美緒からのメッセージを既読のまま眠った翌日につながる場面だと聞いていた。
返せない言葉。
返事が死んだわけではない夜。
夜は返せない言葉もある。
昨夜、電話でそう話した。
しらいさんは自分の部屋で「かたん」の音を鳴らし、九割二分まで戻ったと言っていた。
大丈夫そうだった。
大丈夫そう。
その言葉を思った瞬間、悠真は少しだけ苦笑した。
大丈夫そう、は便利だ。
でも、それだけで片づけてはいけないことを、最近嫌というほど知っている。
昼過ぎ、悠真はしらいさんへ短く送った。
『撮影、行ってらっしゃい』
既読はついた。
けれど、返事はなかった。
撮影中なのだろう。
分かっている。
分かっているのに、仕事の合間にスマホを見てしまう。
画面は変わらない。
分かっている。
分かっているのに、見る。
それが、待つ側の静けさだった。
◇
昼休み、三崎は一目見て言った。
「春日、返信待ってる顔してる」
悠真は箸を止めた。
「そんな顔があるのか」
「ある」
「どんな顔だ」
「唐揚げを見てるのに、心はスマホにいる顔」
「嫌な顔だな」
「かなり」
三崎は唐揚げ弁当の蓋を開けながら、少しだけ笑った。
「白瀬アカリ?」
悠真は、危うく返事に詰まりかけた。
だが、ここはもう誤魔化し方にも慣れてきている。
「公式の動きが少ないからな」
「いや、今の顔は公式待ちじゃない」
「どう違う」
「公式待ちは、獲物を待つ顔」
「獲物」
「本人の返事待ちは、湯が沸くのを待つ顔」
「たとえがよく分からない」
「俺も今作った」
「作るな」
三崎は笑ったあと、箸で唐揚げをつついた。
「まあでも、返信待つのって静かにしんどいよな」
悠真は、少しだけ黙った。
静かにしんどい。
それは、まさに今の感覚だった。
声を上げるほどではない。
焦るほどでもない。
何かが壊れたわけでもない。
ただ、静かに心の端がスマホへ引っ張られている。
「既読は?」
三崎が聞く。
「ついている」
「なら、届いてはいるんだろ」
「そうだな」
「でも返事がないと、ちょっと考えるよな」
「ああ」
「忙しいんだろうな、とか。疲れてるんだろうな、とか。今は返せないんだろうな、とか」
「うん」
「そこまではいい」
三崎は唐揚げを一つ食べてから、少し真面目な顔になった。
「でも、そのあとに、自分が何か変なこと送ったかな、とか、重かったかな、とか、もういらないかな、とか考え始めると沼」
悠真は、箸を持つ手を止めた。
その通りだった。
しらいさんが返せないのは、撮影中だからだ。
あるいは疲れているからだ。
それは分かっている。
でも、少しだけ考えてしまう。
自分の言葉が、返しにくかったのではないか。
行ってらっしゃい、だけなのに。
その程度の言葉でも、近い相手からのものだと、妙に重さを持つ日がある。
「三崎」
「何」
「今日は、返信待ち外側の番人だな」
「また新部署」
「国が大きくなっている」
「無給国家が肥大化している」
三崎はそうぼやいてから、麦茶を飲んだ。
「でもさ」
「うん」
「既読が人間の全部じゃない」
その言葉は、妙に三崎らしくなかった。
いや、三崎らしいのかもしれない。
急に変な場所から、まっすぐ刺してくる。
「既読が人間の全部じゃない?」
「うん。読んだ。でも返せない。返せないけど、無視したわけじゃない。そういう状態のほうが多いだろ」
「そうだな」
「だから、既読だけ見て人を判断すると、だいたいバグる」
「バグる」
「バグる。心が」
悠真は小さく笑った。
三崎は真顔のまま続ける。
「返せない側にも事情がある。でも、待つ側が静かにしんどいのも本当だろ」
「……ああ」
「だから、待つ側は待ってるって言っていいんじゃないか」
「言っていいのか」
「責めるんじゃなくてな」
三崎は箸を置いた。
「“返せよ”じゃなくて、“待ってた”なら、言ってもいい気がする」
悠真は、その言葉を胸の中へゆっくりしまった。
返せよ、ではなく。
待ってた。
それは確かに違う。
「三崎」
「何」
「今日は唐揚げ食べ放題分くらい働いている」
「現物は?」
「ない」
「やっぱりブラック」
三崎は不満そうに言ったが、唐揚げはきっちり食べ切った。
◇
午後、しらいさんからの返信は来なかった。
既読のまま。
春日悠真は、何度かスマホを見た。
仕事中に何度も見るのはよくないと分かっている。
けれど、指が勝手に画面を起こす。
通知はない。
何も来ていない。
そのたびに、心の中で自分に言う。
撮影中だ。
疲れている。
返せない日もある。
既読は人間の全部ではない。
それでも、待つ時間は静かに伸びた。
帰宅後、悠真はローテーブルの前に座った。
今日は、朝のマグカップ写真は送っていない。
けれど、マグカップは出してある。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜の瓶。
スプーンは少し離れた場所。
いつもの配置。
しらいさんが来る予定はない。
電話の予定もない。
それでも、置いた。
置くことで、自分が落ち着くこともあるのだと、最近ようやく分かってきた。
マグカップを持ち上げ、置く。
ことん。
音が鳴る。
返事を待つ音。
今日は、そういう音だった。
重すぎる。
そう思って、悠真は少し笑った。
しらいさんなら、きっと「春日くん、今日かなり面倒くさい」と言うだろう。
でも、近い人の面倒くささ。
そう言ってくれる気もした。
◇
夜八時を過ぎたころ、スマホが震えた。
しらいさんからだった。
『ごめん、返せなかった』
それだけの一文。
悠真は、すぐに返信しようとして、手を止めた。
すぐ返したい。
大丈夫です、と送りたい。
気にしないでください、と送りたい。
でも、それだけでは少し違う気がした。
三崎の言葉が残っている。
返せよ、ではなく。
待ってた。
責めるのではなく、なかったことにもせず。
悠真はゆっくり打った。
『おつかれさまでした』
『読んでいたなら、それで今日は十分です』
送る。
既読。
少しして、返事が来た。
『読んでた』
『でも、返せなかった』
悠真は胸の奥が少しだけほどけるのを感じた。
読んでた。
その一文だけで、待っていた時間が少し形を変えた。
空白ではなかった。
向こう側にも、ちゃんと手元に残っていた。
悠真は、もう一文送るか迷った。
送るなら今だと思った。
『少し、待っていました』
送ったあと、心臓が変に鳴った。
責めているように見えないだろうか。
負担に感じないだろうか。
けれど、既読がついて、しばらくして返信が来た。
『うん』
『それも言ってくれていい』
悠真は、ゆっくり息を吐いた。
◇
電話は、その少しあとにつながった。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまでした」
「うん。春日くんも」
「今日は長かったですね」
「長かった」
「撮影ですか」
「撮影も。あと、返せなかった時間も」
しらいさんの声は、少し疲れていた。
でも、沈んではいない。
「読んではいたんですか」
「読んでた」
「はい」
「行ってらっしゃい、って来てた」
「はい」
「返そうとした」
「はい」
「でも、撮影入って、そのままになって」
「はい」
「休憩で見て、返そうとして」
「はい」
「何て返すか分からなくなった」
「行ってきます、でよかったのに」
「そうなんだけど」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「なんか、今日の場面が既読とか未返信とか保留だったから」
「はい」
「返すことに変に意味がついちゃった」
「ああ」
「行ってきます、だけなのに」
「はい」
「返し方を考えすぎて、返せなくなった」
悠真は、思わず小さく笑った。
「それは、かなり今日の撮影に引っ張られていますね」
「うん」
「理沙さんに言われそうです」
「言われた」
「もう言われていましたか」
「返事を全部作品にしないで、って」
「理沙さんですね」
「うん」
二人で少し笑った。
笑えるなら、大丈夫。
いや、大丈夫と決めつけない。
でも、今の笑いはちゃんとしらいさんのものだった。
◇
「春日くん」
「はい」
「待ってたって言われて、少しほっとした」
「そうなんですか」
「うん」
「負担ではありませんでしたか」
「少しはあった」
「……はい」
「でも、嫌な負担じゃない」
「はい」
「私が返せないとき、向こうに何も起きてないわけじゃないんだって分かった」
「はい」
「春日くんは、待ってる」
「はい」
「それを言ってくれたほうが、私は分かる」
悠真は黙って聞いた。
「ただ、返せなかっただけじゃなくて」
「はい」
「待たせたんだなって」
「はい」
「責められてる感じじゃなくて」
「はい」
「関係がある感じがした」
その言葉は、悠真の中に静かに落ちた。
関係がある感じ。
待つ側の静けさも、返せない側の苦しさも、どちらか一方だけのものではない。
二人の間にある。
「待つことを、言ってもいいんですね」
悠真が言うと、しらいさんはすぐに答えた。
「言っていい」
「はい」
「でも、返せよ、はだめ」
「はい」
「待ってた、はいい」
「三崎と同じことを言っています」
「外側の番人?」
「はい」
「何て?」
「返せよ、ではなく、待ってたなら言っていい気がすると」
電話の向こうで、しらいさんが笑った。
「三崎さん」
「はい」
「今日、何担当?」
「返信待ち外側の番人です」
「そのまま」
「かなり働いています」
「無給?」
「はい」
「国がブラック」
いつものやり取り。
それだけで、少し戻る。
◇
「今日、ノート書いた?」
悠真が聞くと、しらいさんは少し黙った。
「書いた」
「読んでもいいものですか」
「うん」
「何と?」
しらいさんは、少しだけ息を整えてから言った。
「返せない人も苦しい。待つ人も、少し静かに苦しい」
悠真は、しばらく何も言えなかった。
それは、今日の自分の中にあったものを、そのまま言葉にされたようだった。
「読みました」
電話越しなのに、そう言った。
しらいさんは小さく笑う。
「まだ見せてない」
「でも、読みました」
「ずるい」
「すみません」
「謝らないで」
彼女の声が少し柔らかくなった。
「今日、それが分かった」
「はい」
「返せない私だけじゃない」
「はい」
「待ってる春日くんもいる」
「はい」
「でも、それを重くしすぎると、返すのが怖くなる」
「はい」
「だから、軽く言いたい」
「はい」
「待ってた、くらいで」
「分かりました」
「私も、返せなかったって言う」
「はい」
「ごめん、だけじゃなくて」
「はい」
「読んでた、も言う」
「助かります」
「うん」
しらいさんは、少しだけ眠そうな息を吐いた。
「今日、部屋には行かない」
「はい」
「かたん鳴らした」
「聞かせてもらえますか」
「うん」
少し間があった。
電話の向こうで、小さな音が鳴る。
かたん。
マグカップを置いた音。
「聞こえました」
「今日の音」
「何の音ですか」
「返せなかったけど、読んでた音」
「いい音です」
「春日くん」
「はい」
「今日はことん鳴ってる?」
悠真は、ローテーブルの上の白いマグカップを見た。
「鳴っています」
「今?」
「はい」
悠真はマグカップをそっと持ち上げ、コースターへ置いた。
ことん。
「聞こえましたか」
「聞こえた」
「今日の音です」
「何の音?」
「待ってた音です」
しらいさんは、少しだけ黙った。
それから、静かに笑った。
「そっか」
「はい」
「待ってた音と、読んでた音」
「はい」
「今日は、両方あったんだね」
「ありました」
「じゃあ、帰れてる」
「はい」
「私も?」
「はい」
「春日くんも?」
「はい」
しらいさんは、ゆっくり息を吐いた。
「おかえり、春日くん」
不意に言われて、悠真は少し固まった。
「……ただいま」
自然にそう返した。
電話の向こうで、しらいさんが小さく笑う。
「今日は、春日くんも待つ側から帰ってきた」
「そうかもしれません」
「何割?」
「八割五分くらいです」
「残りは?」
「寝ます」
「私の真似」
「はい」
「じゃあ寝て」
「はい」
「私も寝る」
「おやすみなさい」
「おやすみ、春日くん」
「明日も行ってらっしゃい」
「うん。帰ってくる」
「おかえりって言います」
「私も、春日くんに言う」
「はい」
「知ってる」
電話が切れた。
◇
部屋に静けさが戻った。
返せない人も苦しい。
待つ人も、少し静かに苦しい。
その一文が、まだ見ていないのに、悠真の胸に残っていた。
今日は、しらいさんが返せなかった。
悠真は待っていた。
それだけなら、よくある一日だ。
でも、今日はそれを二人で言葉にできた。
責めるのではなく。
なかったことにするのでもなく。
返せなかった。
読んでいた。
待っていた。
その三つを、部屋と電話の間に置いた。
悠真はローテーブルの上のマグカップを見た。
ことん。
待ってた音。
遠くでは、かたん。
読んでた音。
違う場所で鳴った二つの音が、今日は同じ帰り道の上にあった気がした。




