第136話 美緒は二度目のメッセージを、少しだけ短くした
長いメッセージほど、届かないことがある。
しらいさんがそのことを考えたのは、高瀬菜央が台本を見つめたまま、控室の隅で少し困った顔をしていたからだった。
今日の撮影は、美緒の場面だった。
美緒が、紗季から返信のないメッセージ画面を見つめる。
昨日送った言葉。
『この前はごめん。またご飯行こう。今度は本当に』
既読はついている。
けれど、返事はない。
その画面を見て、美緒はもう一度メッセージを送ろうとする。
最初は長く打つ。
『この前、何かあったなら話してね。無理しなくていいから。私でよければ聞くし、迷惑じゃなければまた連絡して』
でも、消す。
長すぎる。
重すぎる。
優しすぎて、逃げ場がない。
美緒は迷う。
紗季を助けたい。
でも、助ける言葉を送ったら、紗季はもっと閉じるかもしれない。
だから最後に送るのは、短い一文だった。
『寒くなってきたね』
ただ、それだけ。
それだけなのに、台本を読んだしらいさんの胸には、少しだけ温かいものが残った。
助ける言葉ではない。
励ます言葉でもない。
それでも、美緒がまだそこにいると分かる言葉。
隣に立つ言葉。
控室の廊下で、高瀬菜央が小さく息を吐いた。
「白瀬さん」
「はい」
「今日の美緒、難しいです」
「はい」
「長く書いたら重い。でも短くしたら、何でもないみたいに見える」
しらいさんは頷いた。
「でも、何でもなくないですよね」
「そうなんです」
高瀬は少しだけ笑った。
「『寒くなってきたね』って、普通ならどうでもいいメッセージじゃないですか」
「はい」
「でも、美緒にとっては、たぶん必死ですよね」
「必死だと思います」
「助けるって言えないから、天気の話をする」
「はい」
「それ、弱いようで、けっこう強い気がして」
しらいさんは、高瀬の言葉をゆっくり受け取った。
弱いようで、強い。
たぶん、そうだ。
助けるよ、と言うことは分かりやすい。
心配している、と言うことも分かりやすい。
けれど、紗季は分かりやすい手を取れない。
だから、美緒は一歩引いた。
でも、いなくなったわけではない。
寒くなってきたね。
その一文だけで、まだここにいると伝えようとしている。
「美緒さんは、紗季さんを追いかけていない」
しらいさんは言った。
「でも、隣の道を歩いている感じがします」
高瀬は、少しだけ目を丸くした。
「隣の道」
「はい。手はつかまない。でも、同じ方向に少しいる」
「……それ、今日持っていきます」
「私も、紗季さんとして受け取ります」
二人は少しだけ笑った。
役と役の間に、今日も小さな橋がかかった気がした。
◇
撮影は、美緒の部屋セットから始まった。
美緒の部屋には、生活の温度があった。
淡い色のクッション。
少しだけ散らかった雑誌。
冷蔵庫に貼られた小さなメモ。
キッチンの横に置かれたマグカップ。
紗季の部屋より、ずっと人がいる感じがする。
それでも、今日の美緒は少し落ち着かない。
ソファに座り、スマホを見ている。
紗季から返信はない。
既読だけがついている。
監督が高瀬に説明する。
「美緒は、もう一度送ろうとします」
「はい」
「でも、助けようとしすぎる言葉は消します」
「はい」
「ここで重要なのは、美緒が紗季を諦めたわけではないことです」
高瀬が静かに頷く。
「長いメッセージを消すのは、諦めではなく調整ですね」
「そうです」
監督は少し嬉しそうに頷いた。
「踏み込みすぎない距離を探している」
「はい」
「最後に送る『寒くなってきたね』は、天気の話ではありません」
「はい」
「でも、天気の話に見えなければいけない」
それは、とても難しい。
しらいさんはモニターの横で、その説明を聞いていた。
今日は自分の場面は少ない。
けれど、美緒の言葉を受け取るためにも、この撮影を見ておきたかった。
一度目の本番。
高瀬菜央の美緒は、スマホを開いた。
紗季とのトーク画面。
既読のついたままのメッセージ。
美緒は少し迷い、それから文字を打つ。
『この前、何かあったなら話してね。無理しなくていいから。私でよければ聞くし、迷惑じゃなければまた連絡して』
画面を見つめる。
送信ボタンの近くで指が止まる。
消す。
そして、新しく打つ。
『寒くなってきたね』
送信。
カット。
監督はモニターを見ながら言った。
「高瀬さん、今のは少し“分かってほしい”が出すぎました」
「はい」
「美緒は、分かってほしいけれど、分かってほしいと出しすぎると紗季が閉じることも知っている」
「はい」
「もう少し、普通の言葉に逃がしましょう」
「普通の言葉に逃がす」
「ええ。でも、逃げ切らない」
高瀬は深く頷いた。
「もう一度お願いします」
二度目。
美緒は長い文を打つ。
消す。
そこまでは同じ。
ただ、消したあとの表情が少し変わった。
悲しそうにしすぎない。
決意しすぎない。
ただ、自分の中で少しだけ文章の置き場所を変える。
そして、短く打つ。
『寒くなってきたね』
その一文を見て、少しだけ間を置く。
送信。
カット。
現場が静かになった。
監督が頷いた。
「今の、いいです」
高瀬が小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
「助ける言葉ではなく、隣に立つ言葉になっていました」
その言葉に、しらいさんの胸の奥が静かに鳴った。
助ける言葉ではなく、隣に立つ言葉。
今日の一文は、もう決まった気がした。
◇
昼休み、春日悠真は三崎に妙な顔をされた。
「春日」
「何だ」
「今日、何でもないメッセージについて考えてる顔してる」
「どんな顔だ」
「『寒いね』って送られて、その意味を考えすぎる顔」
悠真は箸を止めた。
どうしてそこまで近いのか。
もう本当に、外側の番人国には何らかの諜報機関があるのではないかと思う。
「寒いね、に意味があるとは限らないだろ」
「ある日もある」
「ない日もある」
「そう、それ」
三崎は唐揚げを口に入れ、少し考えながら続けた。
「何でもないメッセージって、何でもないから送れることがあるじゃん」
「うん」
「大丈夫か、って聞くのは重い。でも、寒いな、なら送れる」
「……」
「それで相手が返してくれたら、まだつながってるって分かる」
悠真は、スマホの画面を見ていないのに、しらいさんのやり取りを思い出していた。
おつかれさまです。
行ってらっしゃい。
帰ってきたら、おかえりって言います。
何でもない言葉。
でも、何でもなくはない。
「三崎」
「何」
「今日は何でもないメッセージ外側の番人だ」
「ついに職名が長すぎる」
「国の部署が増えている」
「公務員なのに無給」
「ブラック国家だからな」
三崎はもう怒る気もないように、ため息をついた。
「でも、白瀬アカリがそういう“何でもない言葉を読む芝居”をやったら、たぶん強いぞ」
「どう強い」
「助ける言葉より、普通の言葉のほうが届く人っているだろ」
「……いるな」
「“寒いね”が、“まだ話しかけていい?”になる感じ」
悠真は、その言葉を胸にしまった。
まだ話しかけていい?
美緒の「寒くなってきたね」は、たぶんそういう言葉だ。
◇
午後は、紗季がそのメッセージを受け取る場面のリハーサルだけが行われた。
本番は翌日だが、今日は動きと感情の確認をする。
岸谷紗季の部屋セット。
テーブルの上にスマホ。
通知が来る。
美緒から。
『寒くなってきたね』
紗季はそれを見る。
返信はしない。
でも、どう受け取るか。
監督はしらいさんに言った。
「この言葉は、紗季を救いません」
「はい」
「でも、部屋の温度を少しだけ変えます」
「はい」
「紗季は、それを言葉にできません。けれど、画面を見る時間が少しだけ変わる」
しらいさんは頷いた。
寒くなってきたね。
その一文を、紗季はどう受け取るのだろう。
きっと最初は困る。
何を返せばいいか分からない。
どうしてそんなことを送ってきたのかも、すぐには分からない。
でも、美緒がまだ話しかけてきたことは分かる。
自分が返せなかったのに。
既読のまま眠ったのに。
それでも、もう一度短い言葉が来た。
その事実が、部屋の温度を少しだけ変える。
リハーサルで、しらいさんはスマホを見た。
表情はほとんど動かさない。
でも、画面を伏せるまでの時間を、ほんの少しだけ長くした。
監督が頷く。
「明日は、その方向でいきましょう」
「はい」
「救われない。でも、冷たくはならない」
「はい」
「この距離です」
その距離を、明日まで持っていく。
しらいさんは、心の中でそう思った。
◇
撮影後、しらいさんは高瀬と少しだけ話した。
「今日のメッセージ、届くといいですね」
高瀬が言う。
「届くと思います」
しらいさんは答えた。
「紗季さんは、返せないかもしれません」
「はい」
「でも、届きます」
「それを聞けると、美緒として少し安心します」
高瀬は小さく笑った。
「白瀬さん、紗季のこと、少しずつ分かってきてますよね」
「分かってきた、というより」
しらいさんは少しだけ考えた。
「急かさなくなった気がします」
「急かさない」
「はい。返してほしいけど、返せないこともある。開いてほしいけど、開けないこともある」
「はい」
「でも、言葉は置ける」
高瀬は、その言葉に静かに頷いた。
「美緒も、今日は言葉を置いたんですね」
「はい」
「押し込まずに」
「はい」
置く言葉。
それも、今日の大事な感覚だった。
◇
控室で、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
もう一文は決まっている。
『助ける言葉ではなく、隣に立つ言葉もある。』
書いてから、少しだけ見つめた。
シンプルだ。
でも、今日の美緒はまさにそれだった。
助けるとは言わない。
大丈夫とも聞かない。
ただ、寒くなってきたね、と言う。
その言葉で、隣の道にいることを伝える。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐに既読がついた。
『読みました』
『今日の三崎もかなり近かったです』
しらいさんは笑った。
『何でもないメッセージ外側の番人?』
『ほぼ正解です』
『“寒いね”が、“まだ話しかけていい?”になる感じ、と言っていました』
既読。
しらいさんは、スマホを見つめながら少しだけ目を細めた。
三崎さん。
外側からなのに、今日の美緒の言葉を受け取っている。
『外側の番人国、今日は郵便局』
『郵便局ですか』
『言葉を届けるから』
『無給郵便局ですね』
『ブラック郵便局』
軽く笑える。
それから、しらいさんは少しだけ真面目なメッセージを送った。
『何でもない言葉って、何でもなくないね』
既読。
『はい』
『俺たちのやり取りにもありますね』
『おつかれさまです、とか』
『行ってらっしゃい、とか』
『おかえりなさい、とか』
その言葉を見たとき、しらいさんの胸が少しだけ温かくなった。
『今日、部屋行っていい?』
『もちろんです』
『何でもない言葉の話をしたい』
『待っています』
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
今日はコンビニ袋を持っていない。
ただ、少しだけ穏やかな顔をしていた。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
このやり取りも、何でもない。
けれど、何でもなくない。
部屋に入り、ローテーブルの前に座る。
今日はミルクティーではなく、温かいお茶だった。
「今日はお茶ですか」
「はい。何でもない話の日なので」
「お茶は何でもない?」
「たぶん」
「でも、何でもなくない」
「そうですね」
二人で少し笑った。
しらいさんは湯呑みを持ち、置いた。
かた。
「今日の音」
「何でもない音ですね」
「でも、何でもなくない音」
「はい」
青灰色のノートを開く。
『助ける言葉ではなく、隣に立つ言葉もある。』
春日くんはそれを読んだ。
「美緒さんの言葉ですね」
「うん」
「寒くなってきたね」
「はい」
「それだけ」
「でも、それだけじゃない」
「はい」
「助けるよって言ったら、紗季さんは閉じるかもしれない」
「はい」
「大丈夫? って聞かれたら、大丈夫って返すかもしれない」
「はい」
「でも、寒くなってきたね、なら」
「はい」
「返せなくても、読めるかもしれない」
春日くんは静かに頷いた。
「隣に立つ言葉ですね」
「うん」
しらいさんはお茶を飲んだ。
「春日くんの言葉にも、そういうのある」
「俺の?」
「うん」
「どれですか」
「おつかれさまです」
「ああ」
「行ってらっしゃい」
「はい」
「おかえりなさい」
「はい」
「返事はいりません。今日はここにいます」
「それは少し重めですね」
「でも、隣に立つ言葉だった」
春日くんは、少し照れたように視線を落とした。
「そうなら、よかったです」
「出た」
「出ます」
いつもの言葉。
それも、隣に立つ言葉なのかもしれない。
◇
「私も、そういう言葉を持ちたい」
しらいさんが言った。
「持っていますよ」
「そう?」
「はい」
「どれ?」
「来た」
春日くんが答えると、しらいさんは少しだけ目を丸くした。
「来た?」
「はい」
「それ、ただの報告」
「でも、俺には大事です」
「……そうなの?」
「はい。今日も来てくれたんだと分かります」
しらいさんは、湯呑みを両手で包んだ。
「他には?」
「ただいま」
「それは大事」
「はい」
「あと?」
「知ってる」
春日くんが言うと、しらいさんは少し笑った。
「それ?」
「はい」
「口癖みたいなものなのに」
「でも、それを聞くと、ちゃんといつものしらいさんだと思います」
しらいさんは、少しだけ照れた顔をした。
「何でもない言葉なのに」
「何でもなくないです」
「そっか」
「はい」
「じゃあ、私にもあった」
「あります」
しらいさんは、静かに息を吐いた。
「言葉って、大きくなくていいんだね」
「はい」
「助けてとか、好きとか、大丈夫じゃないとか」
「はい」
「そういう大きい言葉も大事だけど」
「はい」
「来た、とか、知ってる、とか、寒いね、とか」
「はい」
「そういうので隣に立てる日もある」
「そう思います」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「今日、それが分かってよかった」
◇
帰る時間になった。
しらいさんは湯呑みを洗い、棚へ戻した。
水の音。
布巾で拭く音。
棚に置く音。
かた。
今日最後の音。
「戻りましたか」
春日くんが聞く。
しらいさんは少し考えた。
「九割三分」
「いいですね」
「うん」
「残り七分は?」
「寝る。あと、明日の本番に持っていく」
「寒くなってきたね、を?」
「うん」
「はい」
「でも、持ち帰りすぎない」
「はい」
玄関で、しらいさんは靴を履いた。
そして振り返る。
「春日くん」
「はい」
「何でもない言葉でも」
「はい」
「隣に立てる日がある」
「はい」
「明日、それをやってくる」
「行ってらっしゃい」
「うん」
「帰ってきたら、おかえりって言います」
「知ってる」
いつもの言葉。
でも今日は、その「知ってる」が少し特別に聞こえた。
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
助ける言葉ではなく、隣に立つ言葉もある。
その一文が、部屋に残っている。
大きな言葉だけが人を支えるわけではない。
寒くなってきたね。
おつかれさまです。
行ってらっしゃい。
おかえりなさい。
来た。
知ってる。
何でもないような言葉。
でも、何でもなくない言葉。
悠真は棚の中の湯呑みを見た。
今日の音は、かた。
何でもない音で、何でもなくない音だった。




