第137話 何でもないメッセージに、紗季さんの指が止まった
何でもない言葉ほど、受け取り方が難しい。
朝、しらいさんは台本を開いたまま、しばらくその一文を見つめていた。
『寒くなってきたね』
美緒から紗季へ届く、二度目のメッセージ。
助ける言葉ではない。
心配を直接ぶつける言葉でもない。
泣いてもいいよ、でも、話してね、でもない。
ただ、季節の話。
普通なら、そのまま流れてしまいそうな短い一文。
けれど、この物語の中では違う。
美緒は、一度長い言葉を消した。
心配している。
話してほしい。
何かあったなら聞きたい。
その全部を飲み込んで、最後に残した言葉がこれだった。
寒くなってきたね。
それは、紗季の扉をこじ開ける言葉ではない。
ただ、扉の外にまだいると知らせる言葉。
しらいさんは、台本の端に触れた。
今日は、その言葉を紗季として受け取る。
救われすぎてはいけない。
無視してもいけない。
冷たくても違う。
でも、急に温かくなりすぎても違う。
ほんの少しだけ、部屋の温度が変わる。
その微妙な変化を、画面に残さなければならない。
理沙さんが控室に入ってきた。
「喉は?」
「九割三分です」
「私の評価では九割二分」
「少し低いですね」
「今日、指先を使う顔をしているから」
「顔で分かるんですか」
「分かるわよ」
理沙さんは当然のように言った。
しらいさんは少し笑う。
「今日は、喉より指先ですか」
「ええ。返せない言葉、開けない扉、閉じきれない画面。そういうものは、指先に出る」
「はい」
「美緒の言葉は?」
「助ける言葉ではなく、隣に立つ言葉です」
「そうね」
「紗季さんは、それをどう受け取るんでしょう」
「それを探しに行くのが今日の仕事でしょう」
理沙さんは、台本へ視線を落とした。
「大事なのは、美緒の言葉を“救い”にしすぎないこと」
「はい」
「でも、“どうでもいい雑談”にもしてはいけない」
「はい」
「紗季は、まだ返せない。でも、届いたことは消えない」
「はい」
「その届いた感じを、指先に残しなさい」
指先に残す。
それは、今日の場面にとても合っている気がした。
◇
撮影は、岸谷紗季の部屋セットで行われた。
白いカーテン。
小さなテーブル。
グレーのマグカップ。
きちんと畳まれたブランケット。
温度の薄い部屋。
何度も入った場所なのに、今日は少しだけ違って見えた。
この部屋に、美緒の言葉が届く。
それだけで、部屋の外に誰かがいる気配が生まれる。
紗季が一人でいることは変わらない。
部屋の中に誰かが入ってくるわけではない。
でも、完全な一人ではなくなる。
たった一通の短いメッセージで。
監督がモニターの前で説明した。
「昨日の美緒のメッセージを、今日、紗季が受け取ります」
「はい」
「この言葉は、紗季を救っていません」
「はい」
「でも、部屋の温度を一度だけ変えています」
「はい」
「白瀬さん、紗季は返信しません。けれど、画面をすぐに伏せないでください」
「はい」
「読んだあと、少しだけ時間が残る」
少しだけ時間が残る。
しらいさんは頷いた。
一度目の本番。
紗季はテーブルの前に座っていた。
部屋は静か。
スマホが震える。
画面を見る。
美緒からのメッセージ。
『寒くなってきたね』
白瀬アカリは、その言葉を読んだ瞬間、少しだけ目元を柔らかくした。
温かい言葉として受け取った。
自分では抑えたつもりだった。
けれど、カットがかかる。
「白瀬さん、今のは少し分かりやすすぎました」
「はい」
「紗季が“美緒の優しさ”を認識しすぎています」
「はい」
「もっと手前で。何かが届いたけれど、それを優しさだとはまだ呼べない」
優しさと呼べない。
しらいさんは、その言葉を胸に置いた。
二度目。
今度は抑えた。
スマホが震える。
画面を見る。
メッセージを読む。
表情をほとんど動かさない。
けれど、今度は何も届いていないように見えた。
「カット」
監督が少し考える。
「今のは、部屋の温度が変わりませんでした」
「はい」
「冷たくする必要はありません。紗季の中で、何かが一度だけ止まる。それだけでいいです」
何かが一度だけ止まる。
しらいさんは深呼吸した。
寒くなってきたね。
それは、大きな言葉ではない。
でも、大きくないからこそ、紗季の部屋へ入れる。
扉を叩くのではなく、隙間からそっと入る言葉。
三度目。
スマホが震える。
紗季は画面を見る。
美緒からの一文。
『寒くなってきたね』
目元は大きく動かない。
口元も変わらない。
けれど、画面に触れていた指が、ほんの少しだけ止まる。
寒い。
言葉の意味は、それだけ。
でも、紗季の部屋にある白いカーテンや、冷めたマグカップや、畳まれたブランケットが、その一文で少しだけ違って見える。
寒くなってきたね。
誰かが、同じ季節の中にいる。
紗季は返信しない。
返信画面も開かない。
ただ、画面を伏せずに少しだけ見ている。
そして、ゆっくりテーブルに置く。
伏せない。
画面を上にしたまま。
メッセージは、そこに残る。
「カット」
現場が静かになった。
監督がモニターを確認する。
しばらくして、ゆっくり頷いた。
「今のです」
しらいさんは、小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「救われてはいない。でも、部屋の温度が変わりました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに温かくなった。
◇
撮影後、しらいさんは高瀬菜央と廊下で会った。
高瀬は少し緊張した顔で近づいてきた。
「見てました」
「ありがとうございます」
「届いてましたね」
その言葉に、しらいさんは少しだけ目を伏せた。
「はい。届いていました」
「返事はなかったけど」
「はい」
「でも、届いてました」
「うん」
高瀬は、ほっとしたように笑った。
「それだけで、美緒はたぶん次も送れます」
「はい」
「大きな言葉じゃなくてもよかったんだなって」
「はい」
「寒くなってきたね、でよかったんだなって」
しらいさんは頷いた。
「紗季さんには、それくらいの言葉のほうが届く日があるんだと思います」
「強すぎると、閉じちゃう?」
「たぶん」
「難しいですね」
「難しいです」
二人で、また同じ言葉を言った。
でも、今日はその「難しい」が少しだけ明るかった。
正解がないから苦しいだけではない。
探せる余地があるから、難しい。
そんな感覚だった。
◇
昼休み、春日悠真は三崎から当然のように話しかけられた。
「春日」
「何だ」
「“寒いね”って、すごいよな」
悠真は箸を止めた。
「本当に今日はそこへ来るのか」
「どこだよ」
「いや」
「寒いねって、ただの季節の話じゃん」
「ああ」
「でも、相手によっては、“まだ話しかけていい?”になる」
「昨日も似たことを言っていたな」
「昨日より思ってる」
三崎は唐揚げを食べながら続けた。
「大丈夫か、って聞かれると、大丈夫って返さなきゃいけない気がするけど」
「うん」
「寒いね、なら返さなくてもいい。読んでるだけでもいい」
「……」
「でも、読んだら少しだけ、同じ季節にいる感じがする」
悠真は、その言葉を静かに受け取った。
同じ季節にいる感じ。
それは、今日のしらいさんにも伝えたい言葉だった。
「三崎」
「何」
「今日は郵便局どころじゃないな」
「外側の番人国?」
「ああ」
「じゃあ気象庁か」
「寒いね、だからか」
「そう」
「外側の番人国気象庁」
「長い」
「全部無給だ」
「ブラック気象庁」
三崎は自分で言って少し笑った。
「でも、白瀬アカリがその“寒いね”を読む芝居をやったら、たぶんすごいぞ」
「どうすごい」
「返さないのに、読んでるって分かる芝居」
「……」
「無視じゃなくて、部屋の温度が少し変わる感じ」
悠真は、思わず三崎を見た。
さすがに言いすぎだ。
正確すぎる。
「お前、やっぱり現場にいないか」
「いるわけないだろ」
「だよな」
「何だよ」
「いや」
悠真は、今日もこの言葉を持ち帰ることにした。
◇
撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文は決まっていた。
『何でもない言葉が、部屋の温度を一度だけ変える。』
書いたあと、少しだけ見つめる。
何でもない言葉。
でも、何でもなくない言葉。
美緒の「寒くなってきたね」は、紗季の部屋の温度を一度だけ変えた。
たったそれだけ。
でも、今の紗季には、それだけでも大きい。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐに既読がついた。
『読みました』
『三崎が今日、ほとんど同じことを言っていました』
しらいさんは、もう笑うしかなかった。
『外側の番人国気象庁?』
少しして返信。
『どうして分かるんですか』
『寒くなってきたね、だから』
『正解です』
しらいさんは控室で小さく笑った。
『三崎さん、今日は何て?』
『“寒いね”は、相手によっては“まだ話しかけていい?”になる』
『読んだら少しだけ、同じ季節にいる感じがする』
既読。
しらいさんは、画面の文字をしばらく見ていた。
同じ季節にいる感じ。
それは、紗季と美緒だけではない。
自分と春日くんにもある。
おつかれさまです。
行ってらっしゃい。
おかえりなさい。
来た。
知ってる。
それらは全部、同じ季節にいるための言葉だったのかもしれない。
『今日、部屋行っていい?』
送る。
『もちろんです』
『味噌汁みたいな話をするかも』
『松岡さんですか』
『うん。たぶん』
◇
松岡遥が味噌汁の話をしたのは、その少し前だった。
撮影が終わり、控室前で紙コップの味噌汁を飲んでいた松岡が、しらいさんに言ったのだ。
「何でもない言葉って、味噌汁みたいですよね」
「味噌汁」
「はい」
松岡は真顔だった。
真顔で食べ物の話をするのが、この人の特徴なのかもしれない。
「主役じゃないけど、あると戻る」
「戻る」
「ご飯と味噌汁って、すごく普通じゃないですか。でも、疲れてる日にそれがあると、あ、戻ったなって思うことがあるんです」
「はい」
「何でもない言葉も、それに近いです」
「寒くなってきたね、みたいな?」
「そうです。主役の言葉じゃない。でも、あると部屋の温度が変わる」
しらいさんは、その言葉で少し笑った。
「春日くんのおつかれさまですも、味噌汁かもしれません」
松岡は、少し目を丸くしたあと、にこっと笑った。
「いい味噌汁ですね」
「本人に言ったら困ると思います」
「困らせましょう」
「松岡さん」
「大事です。恋愛には困惑も必要です」
松岡はそう言って、また味噌汁を飲んだ。
どうして食べ物の話なのに、毎回少し核心をつくのだろう。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつもの言葉。
でも今日は、その「来た」も「ただいま」も、いつもより少し大事に聞こえた。
部屋に入ると、ローテーブルにはミルクティーではなく、温かい味噌汁が置かれていた。
しらいさんは目を瞬かせた。
「味噌汁」
「松岡さんの話を聞いたので」
「まだ話してないのに」
「メッセージで、味噌汁みたいな話をすると言っていたので」
「春日くん」
「はい」
「準備がいい」
「必要かと思って」
「出た」
「出ます」
しらいさんは笑って、ローテーブルの前に座った。
味噌汁の湯気がふわりと上がる。
味噌と出汁の香り。
甘いミルクティーとは違う、生活の匂いだった。
「今日の音は、ことんじゃないですね」
春日くんが言う。
しらいさんは椀を持ち上げ、そっと置いた。
とん。
「とん」
「新しいですね」
「味噌汁の音」
「はい」
「戻る音というより、部屋にいる音」
「いいですね」
しらいさんは味噌汁を一口飲んだ。
温かい。
大きな感情ではない。
でも、確かに体の中へ入ってくる。
「春日くん」
「はい」
「おつかれさまですって、味噌汁みたいだと思う」
春日くんは、明らかに少し困った顔をした。
「俺の言葉が味噌汁ですか」
「うん」
「それは褒めていますか」
「かなり」
「そうですか」
「主役じゃないけど、あると戻る」
「……それは、嬉しいですね」
「でしょ」
「はい」
「行ってらっしゃいも、味噌汁」
「はい」
「おかえりなさいは?」
「味噌汁ですか」
「ううん」
しらいさんは少し考えた。
「ご飯」
「ご飯」
「うん。味噌汁より主食寄り」
春日くんは、困ったように笑った。
「それはかなり光栄です」
「硬い」
「すみません」
「謝らないで」
いつものやり取り。
今日も、部屋の温度が少し変わる。
◇
しらいさんは青灰色のノートを開いた。
『何でもない言葉が、部屋の温度を一度だけ変える。』
春日くんはそれを読んだ。
「今日の紗季さんですね」
「うん」
「美緒さんの“寒くなってきたね”」
「はい」
「救いではない」
「はい」
「でも、部屋の温度が変わった」
「はい」
「春日くんの言葉も、そういうときがある」
「はい」
「あと、私の“来た”もそうなんだよね?」
「そうです」
「ただの報告なのに」
「俺にとっては、部屋の温度が変わる言葉です」
しらいさんは、少しだけ照れた。
「春日くん」
「はい」
「今日は言い方がまっすぐ」
「味噌汁を飲んでいるので」
「関係ある?」
「あるかもしれません」
「味噌汁、すごい」
二人で少し笑った。
笑ったあと、しらいさんは味噌汁の椀を見つめた。
「何でもない言葉って、たぶん毎日使うから軽く見えるんだね」
「はい」
「でも、本当にしんどい日には、大きい言葉より届くことがある」
「はい」
「助けてって言えない人に、助けるよって言うと閉じることもある」
「はい」
「でも、寒くなってきたね、なら届く」
「はい」
「おつかれさまです、も届く」
「はい」
「ただいま、も」
「はい」
しらいさんは、小さく息を吐いた。
「言葉って、難しいけど、少し優しいね」
「そうですね」
「今日はそう思えた」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
◇
帰る時間になった。
しらいさんは味噌汁の椀を洗い、棚へ戻した。
水の音。
布巾で拭く音。
棚に置く音。
とん。
今日最後の音。
「戻りましたか」
春日くんが聞く。
しらいさんは少し考えた。
「九割五分」
「高いですね」
「味噌汁効果」
「すごいですね」
「うん」
「残り五分は?」
「寝る。あと、明日の紗季さんに持っていく」
「美緒さんの言葉を?」
「うん。寒くなってきたね」
「はい」
「返せるかは分からないけど」
「はい」
「届いたことは、忘れない」
「はい」
玄関で靴を履いたしらいさんは、振り返った。
「春日くん」
「はい」
「今日も、おつかれさまです」
不意に言われ、春日くんが少し目を丸くした。
それから、柔らかく笑う。
「おつかれさまです」
「味噌汁」
「味噌汁ですね」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
何でもない言葉が、部屋の温度を一度だけ変える。
その一文が、今日の部屋に残っている。
寒くなってきたね。
おつかれさまです。
行ってらっしゃい。
おかえりなさい。
来た。
知ってる。
どれも、派手な言葉ではない。
でも、人が帰るために必要な言葉は、案外そういうものなのかもしれない。
悠真は棚の中の椀を見た。
今日の音は、とん。
味噌汁の音。
何でもないけれど、何でもなくない音だった。




