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第138話 三崎、白瀬アカリの“返さない芝居”を語りすぎる

 公開された映像は、またしても短かった。


 ドラマ公式アカウントが出したメイキング動画。

 ほんの二十秒ほど。


 美緒の部屋で、高瀬菜央がスマホを見つめているところ。

 岸谷紗季の部屋で、白瀬アカリがスマホを手にしているところ。

 監督がモニターを見ながら何かを話しているところ。

 スタッフが照明を直しているところ。


 それだけ。


 本編の核心を見せる映像ではない。

 ただの宣伝用の短い切り抜き。


 けれど、三崎は昼休みにそれを見て、完全に固まっていた。


「春日」


「何だ」


「白瀬アカリの“返さない芝居”、やばい」


 春日悠真は、弁当の蓋を開けながら少しだけ目を閉じた。


 来た。


 今日も、外側の番人国が通常営業している。


「返さない芝居って何だ」


「返信しない芝居だよ」


「そのままだな」


「そのままじゃないんだよ」


 三崎はスマホを机に置き、メイキング動画をもう一度再生した。


 白瀬アカリが、岸谷紗季の部屋セットでスマホを見る。


 ほんの一瞬。

 本当に一瞬だ。


 画面を見ている。

 返していない。

 でも、ただ無視しているわけではない。


 悠真はその場面を見た。


 もちろん、知っている。


 美緒からの「寒くなってきたね」を紗季が受け取る場面だ。


 何でもない言葉が、部屋の温度を一度だけ変えた日。


 しらいさんが春日の部屋で味噌汁を飲みながら、「おつかれさまですって味噌汁みたい」と言った日。


 三崎は、画面の中の白瀬アカリを指さした。


「ここ」


「ここ?」


「ここ、返してないだろ」


「ああ」


「でも、読んでる」


「……」


「めちゃくちゃ読んでる」


 悠真は、箸を持ったまま黙った。


 言い方は雑なのに、三崎は今日も正確だった。


「無視じゃないんだよ」


 三崎は熱が入ってきたのか、唐揚げに手をつけるのも忘れている。


「返せないんだよ。でも読んでるんだよ。相手の言葉が手元に残ってるんだよ」


「語るな」


「語るだろ、これは」


「昼休みだぞ」


「昼休みに語らないでいつ語るんだよ」


「仕事のあととか」


「帰ったら忘れるだろ」


「忘れないだろ、その勢いなら」


 三崎は少しだけむっとした顔になった。


「白瀬アカリのすごいところってさ」


「うん」


「返信しないことを、相手への無関心にしないところだと思う」


 悠真は、そこで箸を置いた。


 これは、持って帰る言葉だ。


 間違いなく。


「返さないって、普通は冷たい感じに見えるじゃん」


「ああ」


「でも、白瀬アカリのこれは、関心が消えてない」


「……」


「むしろ、関心があるから返せない感じがする」


 春日悠真は、ゆっくり息を吐いた。


 関心があるから返せない。


 それは紗季のことでもあり、しらいさん自身のことでもあり、昨日まで二人で話してきた未返信の話そのものだった。


「三崎」


「何」


「今日は外側の番人国、通信省だな」


「通信省」


「返信とか既読とか扱うので」


「ついに省庁になった」


「国だからな」


「でも無給?」


「無給」


「ブラック国家、ついに中央省庁までブラック」


 三崎は文句を言いながら、ようやく唐揚げを一つ食べた。


 そして、まだ語り足りない顔でスマホを見る。


「あとさ」


「まだあるのか」


「ある」


「昼休みが終わるぞ」


「重要だから聞け」


「はいはい」


 三崎は真顔で言った。


「返せないことと、相手を忘れたことは違う」


 悠真は、その言葉を胸の中で受け止めた。


 静かに。


 かなり深く。


「白瀬アカリ、そこを見せてる気がする」


「……」


「返せない。でも、忘れてない。画面を閉じても、たぶんあとでまた見る。そういう感じ」


 悠真は、スマホの画面の白瀬アカリを見た。


 何も知らない三崎が、外側からそこまで見ている。


 なら、きっと届く。


 しらいさんが現場で掴んだものは、ちゃんと外へ届き始めている。


    ◇


 その日の撮影は、紗季が美緒のメッセージを再び見る場面から始まった。


 岸谷紗季の部屋。


 テーブルの上にスマホ。


 画面には、昨日届いた美緒のメッセージ。


『寒くなってきたね』


 紗季は、まだ返していない。


 けれど、画面は消していない。


 今日は、そのメッセージをもう一度見る。


 ただそれだけの場面だった。


 台詞はない。

 大きな動きもない。


 しかし、しらいさんは、こういう場面ほど体の奥を使うことを知ってしまっている。


 言葉が少ない日は、喉ではなく、指先や呼吸や目元に感情が残る。


 控室で理沙さんに会うと、いつもの確認があった。


「喉は?」


「九割三分です」


「私の評価では九割三分」


「一致しました」


「今日は指先と目元ね」


「はい」


「美緒の言葉は、もう届いている」


「はい」


「今日は、それが消えていないことを見せる日」


「はい」


 しらいさんは頷いた。


「返せないことと、忘れたことは違う」


 口に出すと、理沙さんが少しだけ目を細めた。


「いい言葉ね」


「春日くんから届きました。正確には三崎さんから」


「外側の番人の方ね」


「理沙さんまで」


「あなたがよく言うから覚えただけよ」


 理沙さんは淡々と言ったあと、台本を閉じた。


「でも、その言葉は今日の場面に合っているわ」


「はい」


「紗季は返せない。でも、美緒を忘れていない」


「はい」


「ただし、忘れていないことを見せすぎない」


「はい」


「また難しいですか」


「難しいです」


「よろしい」


 しらいさんは少し笑った。


 その難しさを、もう怖がりすぎなくなっている。


 難しいということは、探すものがあるということだ。


    ◇


 撮影が始まった。


 紗季は部屋のテーブルの前に座っている。


 仕事から帰ってきたばかり。

 鞄は椅子の横に置かれている。

 グレーのマグカップには水。


 スマホがテーブルにある。


 紗季はそれを手に取る。


 美緒のメッセージを見る。


『寒くなってきたね』


 一度目。


 白瀬アカリは、少しだけ画面を見る時間を長くしすぎた。


 美緒の言葉を大事にしている感じが、表に出た。


 監督がカットをかける。


「白瀬さん、今のは美緒の言葉を大切にしすぎています」


「はい」


「大切なんです。でも、紗季はまだ“大切にしている”とは思っていません」


「はい」


「ただ、消せない。忘れられない。そこまでで」


 しらいさんは頷いた。


 消せない。


 忘れられない。


 でも、大切だと呼ぶにはまだ早い。


 二度目。


 今度は抑えた。


 スマホを見る。

 画面を閉じる。


 けれど、今度は少し薄い。


「カット」


 監督が言った。


「今のは、少し流れましたね」


「はい」


「関心が消えていないことは必要です」


 その言葉に、三崎の言葉が重なった。


 返信しないことを、相手への無関心にしない。


 返せないことと、相手を忘れたことは違う。


 三度目。


 紗季はスマホを手に取る。


 画面を見る。


『寒くなってきたね』


 目元は動かない。


 口元も変わらない。


 けれど、親指が画面の端に触れたまま、ほんの少しだけ止まる。


 返信画面は開かない。


 言葉は出ない。


 でも、画面をすぐには消さない。


 その一文を、もう一度読んだのかもしれない。

 ただ見たのかもしれない。

 本人にも分からないくらいの小さな時間。


 やがて、スマホをテーブルへ置く。


 画面は伏せない。


 上向きのまま。


 そこにまだ、美緒の言葉がある。


「カット」


 現場に短い沈黙が落ちた。


 監督がモニターを確認する。


 数秒後、頷いた。


「今のです」


 白瀬アカリは、小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


「返せないけれど、相手を忘れていない。そう見えました」


 その言葉で、しらいさんの胸が少しだけ熱くなった。


 外側の番人国通信省の言葉は、現場の中でも確かに通じていた。


    ◇


 撮影後、高瀬菜央が控室前に来た。


「白瀬さん、今の見てました」


「ありがとうございます」


「美緒としては、すごく救われました」


「返信してないのに?」


「はい」


 高瀬は、少しだけ笑った。


「だって、忘れられてなかったので」


 その言葉に、しらいさんは静かに頷いた。


「紗季さん、返せませんでした」


「はい」


「でも、忘れてはいなかったです」


「それだけで、美緒は次も話しかけられるかもしれません」


「はい」


「すぐ返事が来なくても、忘れられていないって分かるだけで、少し座り直せます」


 座り直す。


 その言葉も、今後必要になる気がした。


 待っている側が、もう一度そこにいる姿勢を取り戻す。


 短い返信。

 既読。

 画面を伏せないこと。


 それだけで、人は少し座り直せるのかもしれない。


    ◇


 撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文は、もう決まっていた。


『返せないことと、相手を忘れたことは違う。』


 書いてから、しばらく見つめる。


 短い。


 でも、今日の場面にも、春日くんとのやり取りにも、とても必要な一文だった。


 写真を撮り、春日くんへ送る。


 すぐに既読がついた。


『読みました』


『三崎に伝えたいです』


 しらいさんは笑った。


『外側の番人国通信省?』


『はい』


『かなり勤務していました』


『今日は何を言っていました?』


『返信しないことを、相手への無関心にしないところが白瀬アカリのすごいところだと』


『返せないことと、相手を忘れたことは違う、とも』


 既読。


 しらいさんは、スマホを胸元に近づけた。


 外側から届いた言葉が、現場で形になった。


 それが少し不思議で、少し嬉しい。


『三崎さんにありがとうって言いたい』


『心の中で伝えます』


『心の中でボーナス』


『現物は?』


『ない』


『ブラック国家』


 軽いやり取りができる。


 それも、ちゃんと戻れている証拠だった。


『今日、部屋行っていい?』


『もちろんです』


『返せないけど忘れてない話をしたい』


『待っています』


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 そのやり取りが、今日もある。


 何でもないようで、何でもなくない言葉。


 部屋に入ると、今日はミルクティーだった。


 蜂蜜は少しだけ。


 しらいさんはカップを受け取り、青灰色のコースターへ置いた。


 ことん。


「今日の音は?」


 春日くんが聞く。


 しらいさんは少し考えた。


「忘れてない音」


「いいですね」


「返せてないけど」


「はい」


「忘れてない音」


 春日くんは静かに頷いた。


 しらいさんはノートを開く。


『返せないことと、相手を忘れたことは違う。』


 春日くんはそれを読んだ。


「今日は、かなり俺にも必要な一文です」


「春日くんにも?」


「はい」


「返信が遅いと、忘れられた気がする?」


 春日くんは少しだけ考えた。


「毎回ではありません」


「うん」


「でも、弱っている日は少し思います」


「正直」


「はい」


「面倒くさい」


「自覚しています」


「でも、近い人の面倒くささ」


「ありがとうございます」


「硬い」


「すみません」


「謝らないで」


 二人で少し笑った。


 それから、しらいさんはマグカップを両手で包んだ。


「私、返せない日ある」


「はい」


「でも、忘れてない」


「はい」


「春日くんの言葉、ちゃんと手元にある」


「はい」


「でも、手元にあるのに返せないことがある」


「はい」


「それを、忘れてるって思われるのは少し悲しい」


「そうですね」


「でも、春日くんが不安になるのも分かる」


「はい」


「だから、できるときは言う」


「何をですか」


「返せなかったけど、忘れてなかったって」


 春日くんは、少しだけ目元を和らげた。


「それは、とても助かります」


「うん」


「俺も、待っていたけど責めていないと伝える練習をします」


「はい」


「待ってた音?」


「今日のことんです」


「じゃあ、今日は忘れてない音と待ってた音」


「両方ですね」


「部屋が忙しい」


「音が増えましたね」


「増えすぎ」


 しらいさんは笑った。


    ◇


 そのあと、二人は少しだけ沈黙した。


 しらいさんはミルクティーを飲む。

 春日くんは向かいに座っている。


 何かを急いで話す必要はなかった。


「春日くん」


「はい」


「返せないけど忘れてないって、紗季さんにも必要だったけど」


「はい」


「美緒さんにも必要だった」


「はい」


「高瀬さんが言ってた。忘れられてなかっただけで、美緒は次も話しかけられるかもしれないって」


「はい」


「それ、すごく分かる」


「はい」


「返事が来るかどうかだけじゃないんだね」


「はい」


「忘れられてないって分かるだけで、次の言葉を出せることがある」


「はい」


「春日くんも?」


 悠真は頷いた。


「あります」


「私が短くても返したら?」


「はい」


「既読だけでも?」


「日によります」


「正直」


「はい」


「既読だけだと不安な日もある?」


「あります」


「うん」


「でも、後で届いていたと言ってもらえたら、かなり戻れます」


「座り直せる?」


「座り直せます」


 しらいさんは、その言葉に少し笑った。


「高瀬さんの言葉」


「はい」


「春日くんも座り直すんだ」


「かなり」


「かなり座り直すって、ちょっと面白い」


「自分でもそう思います」


 少し笑える。


 笑いながら、大事なことを話せている。


 それが今日の安心だった。


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「今日の音は?」


 春日くんが聞く。


「最後は、返した音」


「返せましたか」


「うん」


「よかったです」


「出た」


「出ます」


 玄関で靴を履いたしらいさんは、振り返った。


「春日くん」


「はい」


「返せない日があっても」


「はい」


「忘れてない日がある」


「はい」


「でも、できるだけあとから言う」


「はい」


「返せなかったけど、忘れてなかったって」


「助かります」


「春日くんも」


「はい」


「待ってたけど、責めてないって言って」


「言います」


「約束」


「約束です」


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 返せないことと、相手を忘れたことは違う。


 その一文が、今日の部屋に残っている。


 返信できない日がある。

 既読のままの日がある。

 短くしか返せない日がある。


 でも、それは相手を忘れたという意味ではない。


 もちろん、待つ側が不安にならないわけでもない。


 だから、あとから言う。


 返せなかったけど、忘れていなかった。

 待っていたけど、責めていない。


 そういう小さな言葉が、関係を座り直させるのかもしれない。


 悠真は棚の中のマグカップを見た。


 今日のことんは、忘れてない音で、返した音だった。

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