第139話 春日、待つことと放っておくことの違いを考える
待つことと、放っておくことは似ている。
春日悠真は、その日の朝、ローテーブルの前でそんなことを考えていた。
青灰色のコースター。
白いマグカップ。
蜂蜜の瓶。
スプーンは、少し離れた場所。
いつもの配置。
でも、今日は写真を撮らなかった。
撮らないと決めたわけではない。
送るのが怖かったわけでもない。
ただ、今日は少し考えたかった。
待つこと。
放っておくこと。
しらいさんは、返せない日がある。
それはもう分かっている。
返せないからといって、忘れているわけではない。
既読のまま眠っても、返事が死んだわけではない。
短い返事にも温度がある。
未返信は、終わりではない。
それは、何度も二人で確認してきた。
けれど、そこで終わりではなかった。
では、待つ側はどうすればいいのか。
返事を急かさない。
それは大事だ。
でも、何も送らないままでいることが、いつも優しさになるとは限らない。
追いかけすぎれば圧になる。
見なさすぎれば孤独になる。
その間に、どれくらいの距離で立てばいいのか。
悠真はマグカップを持ち上げ、少し迷ってからコースターへ置いた。
ことん。
小さな音。
今日は、誰かを呼ぶ音ではない。
考える音だった。
◇
昼休み、三崎は春日の顔を見るなり言った。
「今日、待つことについて考えてる顔してる」
春日は箸を止めた。
「お前は占い師か」
「外側の番人国、通信省の経験があるからな」
「省庁勤務経験を積むな」
「無給だけどな」
三崎は唐揚げ弁当の蓋を開けながら、少しだけ得意そうにした。
最近の三崎は、自分の謎の肩書きを受け入れ始めている。
本人が受け入れ始めると、こちらのほうが少し困る。
「で、何を待ってるんだ」
「別に」
「別に、の顔ではない」
「どんな顔だ」
「追撃メッセージを送るかどうか迷ってる顔」
春日は、言葉に詰まった。
当たっている。
かなり当たっている。
昨夜、しらいさんとは話せた。
返せないことと忘れたことは違う、と話した。
待っていたけど責めていない、と言う練習をしようと決めた。
でも今朝、彼女は撮影に入ってから、まだ何も返していない。
忙しいのは分かっている。
撮影中なのも分かっている。
返せない日があるのも分かっている。
それでも、何か短く送りたくなる。
おつかれさまです。
返事はいりません。
ここにいます。
でも、それを送ることが優しさなのか、圧なのかが分からない。
三崎は唐揚げを一つ食べてから、麦茶を飲んだ。
「既読つかないときに追撃しないのは、まあ優しさかもしれないけどさ」
「うん」
「ずっと何も送らないのも、寂しいときあるよな」
春日は黙った。
今日も三崎は、何も知らないくせに真ん中へ来る。
「待つってさ」
三崎は続けた。
「何もしないこととは、ちょっと違う気がする」
「どう違う」
「放っておくのは、見てない感じ」
「……」
「待つのは、見てるけど急かさない感じ」
春日は、その言葉をゆっくり胸の中へ入れた。
見ているけど、急かさない。
それは、今朝から探していた答えにかなり近かった。
「三崎」
「何」
「今日は外側の番人国、かなり重要会議だな」
「会議費は?」
「ない」
「議事録手当は?」
「ない」
「ブラック」
三崎は文句を言いながらも、どこか楽しそうに唐揚げを食べている。
「でも、まあ」
「うん」
「送るなら、“返事しろ”じゃなくて、“ここにいる”くらいがいいんじゃないか」
春日は、箸を持ったまま三崎を見た。
「ここにいる」
「うん」
「それなら、相手が返せなくても、まあ読めるだろ」
「……」
「いや、知らんけど」
「最後に逃げるな」
「人の心のことを断言すると怖いだろ」
それは確かにそうだった。
三崎は時々、とても雑に核心を突いたあと、最後だけ妙に慎重になる。
その不格好さが、たぶん信用できるところでもある。
「春日」
「何だ」
「待つのって、たぶん椅子を置いとく感じだ」
「椅子?」
「相手が帰ってきたときに座れるように。こっちから座れ座れって押しつけるんじゃなくて、でも片づけもしない」
「……」
「椅子はあるよ、くらい」
春日は、少しだけ笑った。
「今日の三崎は、唐揚げより椅子だな」
「意味が分からない」
「俺にも分からない」
「じゃあ言うな」
三崎はそう言って、また唐揚げを食べた。
けれど春日は、その言葉を持って帰ることにした。
椅子はあるよ。
それは、今日必要な言葉だった。
◇
午後、春日悠真は何度かスマホを見た。
しらいさんからの返信はない。
既読もついていない。
撮影中だろう。
あるいは、スマホを見られない状況なのだろう。
分かっている。
それでも、スマホを見る。
待つ側の心は、理屈より少し遅れてついてくる。
夕方になっても返信は来なかった。
悠真は会社を出て、駅へ向かう道を歩いた。
夕方の空気は少し冷えていた。
寒くなってきたね。
美緒の言葉を思い出す。
あれは、助ける言葉ではなく、隣に立つ言葉だった。
では、自分にとっての「寒くなってきたね」は何だろう。
大丈夫ですか、ではない。
返事ください、でもない。
心配しています、だけだと少し重い日もある。
しらいさんが返せなくても読める言葉。
自分が見ていることだけを伝える言葉。
急かさず、でも片づけない椅子。
悠真は改札を通り、ホームの端で立ち止まった。
スマホを開く。
メッセージ画面には、最後に送った自分の言葉が残っている。
『行ってらっしゃい』
まだ返事はない。
その下に、新しい文を打つ。
『返事はいりません』
少し考えて、続ける。
『今日は、ここにいます』
打ったあと、しばらく送信ボタンを押せなかった。
ここにいます。
重いだろうか。
いや、少し重い。
でも、今の自分にできる一番正直で、一番急かさない言葉だった。
春日は深く息を吸い、送信した。
すぐに既読はつかなかった。
それでよかった。
返事はいらない、と書いたのだから。
それでも、送ったあとに胸の奥が少しだけ落ち着いた。
放っておいたのではない。
待っている。
その違いを、自分に示せた気がした。
◇
帰宅してから、春日はローテーブルの前に座った。
今日はしらいさんが来る予定はない。
電話の約束もない。
それでも、マグカップを出した。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜の瓶。
スプーンは少し離れた場所。
写真は撮らない。
送らない。
ただ、置く。
自分の部屋に、椅子を一つ置いておくみたいに。
春日は自分用のミルクティーを作った。
蜂蜜は少しだけ。
いつもより少し薄い。
自分のために作ると、どうしても量や甘さが適当になる。
しらいさんのために作るときのほうが、ずっと丁寧だ。
それに気づいて、少しだけ笑った。
自分のことも、もう少し丁寧に扱ったほうがいいのかもしれない。
マグカップを置く。
ことん。
待つ音。
今日は、そういう音だった。
スマホは静かなままだった。
悠真は、何度も見ないようにした。
見ていないふりではない。
待っている。
見ているけど、急かさない。
三崎の言葉を思い出す。
待つことは、見ないことではない。
でも、見すぎることでもない。
ちょうどいい距離は、たぶん毎回違う。
今日の距離は、このくらいなのだと思うことにした。
◇
夜九時を少し過ぎたころ、スマホが震えた。
しらいさんからだった。
『読んだ』
それだけ。
春日の胸が、思ったより大きく反応した。
返事はいらない、と自分で書いた。
それでも、返ってくると嬉しい。
自分は本当に面倒くさい。
そう思いながらも、画面を見つめる。
続けて、もう一文来た。
『今日は返せないかも』
春日は、すぐに返信したくなる気持ちを少し抑えた。
彼女は「返せないかも」と言っている。
なら、こちらが長く返す必要はない。
けれど、何も返さないのも違う。
少しだけ。
椅子はあるよ、くらい。
『届いているなら、それで十分です』
送る。
既読がつく。
返事は来ない。
それでいい。
そう思った。
でも、不思議なことに、さっきまでの静けさとは少し違っていた。
読んだ。
その一言があるだけで、待つ時間の温度が変わる。
しらいさんが完全に遠くにいるのではないと分かる。
返せなくても、届いている。
それを知るだけで、春日は少し座り直せた。
◇
さらに一時間ほどして、電話が鳴った。
しらいさんからだった。
春日は驚いて、少しだけ慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし」
「春日くん」
声は疲れていた。
でも、沈んでいない。
「おつかれさまでした」
「うん。春日くんも」
「電話、大丈夫ですか」
「少しだけ」
「はい」
「返事はいりません、って来た」
「はい」
「今日は、ここにいます、って」
「はい」
「読んだ」
「はい」
「すぐ返せなかった」
「はい」
「でも、すごく助かった」
春日は、何も言えなかった。
助かった。
その一言で、今日の待ち時間が少し報われた気がした。
「重くなかったですか」
春日が聞くと、しらいさんは少し笑った。
「少し重かった」
「……はい」
「でも、いい重さだった」
「いい重さ」
「うん。毛布くらい」
「毛布」
「布団ほど重くない」
「なるほど」
「でも、寒い日にはあると助かる」
春日は、思わず笑った。
「松岡さんみたいな比喩ですね」
「私も思った」
「食べ物ではなく寝具ですが」
「たまには」
少しだけ笑い合う。
それだけで、電話の空気が柔らかくなった。
「今日ね」
「はい」
「撮影、長かった」
「はい」
「美緒さんの言葉を受け取ったあとの、紗季さんの場面だった」
「はい」
「返せないまま、でも読んでる」
「はい」
「それをやってたら、私も返事のことを考えすぎた」
「はい」
「春日くんに何て返せばいいか分からなくなった」
「はい」
「でも、返事はいりませんって来て」
「はい」
「ここにいますって来て」
「はい」
「それで、返さなくても届いてることは伝えたいと思った」
「読んだ、ですね」
「うん」
しらいさんは、小さく息を吐いた。
「読んだ、しか返せなかったけど」
「十分でした」
「本当に?」
「はい」
「春日くん、待ってた?」
春日は少しだけ迷った。
でも、昨日約束した。
待っていたことを、責めるのではなく伝える。
「待っていました」
正直に言った。
「でも、返せよとは思っていませんでした」
「うん」
「ただ、ここにいました」
「うん」
「それを送ってよかったです」
「私も、届いてたって言えてよかった」
◇
少しだけ沈黙があった。
電話越しの沈黙。
今日は、その沈黙も悪くなかった。
「春日くん」
「はい」
「待つことと、放っておくことって違うね」
春日は、昼の三崎の言葉を思い出した。
「はい」
「今日、少し分かりました」
「どう違うと思いますか」
「放っておかれると、見えなくなる」
「はい」
「待たれてると、見られてる」
「はい」
「でも、急かされてない」
「はい」
「今日の春日くんのメッセージは、待ってるほうだった」
春日は、胸の奥が静かに温かくなった。
「よかったです」
「出た」
「出ます」
「今日は出ていい」
「はい」
「春日くん」
「はい」
「私も、待つの上手くなりたい」
「はい」
「春日くんが返せない日とか」
「俺が?」
「うん」
「ありますかね」
「あるよ」
「そうですね」
「そのとき、放っておくんじゃなくて、待てるようになりたい」
「はい」
「椅子、置いておく感じ」
春日は目を丸くした。
「それ、三崎が昼に言っていました」
「三崎さん」
「はい」
「外側の番人国、家具屋?」
「椅子なので」
「職種が増えた」
「増えすぎですね」
二人で少し笑った。
◇
「今日、ノート書いた?」
春日が聞くと、しらいさんは少し黙った。
「書いた」
「読んでもいいものですか」
「うん」
「何と?」
しらいさんは、少しだけ声を整えて言った。
「待つことは、見ないことじゃない。急かさずに、見ていること」
春日は、ゆっくり息を吐いた。
自分が今日考えていたことが、そのまま一文になっている。
「読みました」
「また見てないのに」
「読みました」
「ずるい」
「すみません」
「謝らないで」
しらいさんの声が少し柔らかくなる。
「今日、それを覚えた」
「はい」
「春日くんが待ってくれてたから」
「はい」
「でも、私も待たせた」
「はい」
「どっちもある」
「はい」
「返せない人も、待つ人もいる」
「はい」
「でも、今日の待つは、嫌じゃなかった」
春日は、しばらく黙った。
それから言った。
「俺も、待つのは少し苦しかったですが、嫌ではありませんでした」
「うん」
「しらいさんを放っておいたわけではないと、自分で分かったので」
「うん」
「それがよかったです」
「じゃあ、春日くんも戻った?」
「はい」
「何割?」
「九割くらいです」
「高い」
「読んだ、が来たので」
「読んだ、すごい」
「かなり」
しらいさんは小さく笑った。
「今日は、かたん鳴らす?」
「聞きたいです」
「うん」
少し間があった。
電話の向こうで、小さな音がした。
かたん。
「聞こえました」
「今日の音」
「何の音ですか」
「読んだ、の音」
「いい音です」
「春日くんは?」
「ことん、鳴らします」
春日はマグカップを持ち上げ、コースターへ置いた。
ことん。
「聞こえましたか」
「聞こえた」
「今日の音です」
「何の音?」
「ここにいます、の音です」
しらいさんは、少しだけ黙った。
それから、静かに言った。
「届いた」
「はい」
「おかえり、春日くん」
「ただいま」
「今日は私も帰る」
「おかえりなさい」
「ただいま」
電話越しに、二人の帰る音が重なった気がした。
◇
通話を終えたあと、春日はローテーブルの前に座ったまま、しばらく動かなかった。
待つことは、見ないことじゃない。
急かさずに、見ていること。
その一文が、まだ見ていないのに胸に残っている。
今日は、返事を待った。
静かに苦しかった。
でも、放っておいたわけではなかった。
ここにいる、と伝えた。
しらいさんは、読んだ、と返してくれた。
それだけで、二人とも少し帰ってこられた。
悠真は青灰色のコースターの上のマグカップを見た。
ことん。
ここにいます、の音。
遠くで鳴った、かたん。
読んだ、の音。
違う部屋で鳴った二つの音が、今日は同じ待ち時間を支えていた。




