第140話 届いていた、と翌朝に言える君がいた
翌朝、しらいさんは目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
部屋はまだ薄暗い。
カーテンの隙間から入る光は白く、空気は少し冷えている。
昨夜、春日くんと電話したあとに置いたマグカップが、テーブルの上にそのまま残っていた。
かたん。
昨夜の音。
読んだ、の音。
しらいさんは、ベッドの中でスマホを手に取った。
春日くんからのメッセージが、まだ画面に残っている。
『返事はいりません』
『今日は、ここにいます』
昨夜、それを読んだ。
読んだ、とだけ返した。
それだけで精一杯だった。
撮影でずっと「返せない言葉」の中にいた日だったから、春日くんへの返事まで何かの芝居みたいに考えすぎてしまった。
返したいのに、返せない。
でも、読んでいた。
春日くんは、それを受け取ってくれた。
電話で、待っていたとも言ってくれた。
責めるのではなく、なかったことにするのでもなく、ただ。
待っていた、と。
しらいさんは、画面を見つめたまま、しばらく黙っていた。
昨夜は言えなかったことがある。
読んだ、だけでは足りなかったこと。
でも、夜の自分にはまだ言葉にならなかった。
朝になった今なら、少しだけ返せる気がした。
しらいさんはメッセージを打った。
『昨日のそれ、届いてた』
送る。
すぐに既読がついた。
春日くんは、もう起きていたらしい。
『よかったです』
その一文を見て、胸の奥がやわらかくなった。
続けて、春日くんから届く。
『朝に届いたことを言ってもらえるの、かなり助かります』
しらいさんは、少しだけ笑った。
『昨日は返せなかった』
『でも、死んでなかった』
送ってから、少し照れた。
昨日のノートの言葉だ。
既読。
『はい』
『返事は生きていました』
しらいさんは、ベッドの中で小さく息を吐いた。
朝から少し泣きそうになって、でも泣かなかった。
泣くほどではない。
ただ、昨日の夜に止まっていた言葉が、朝になってちゃんと動いた。
それが嬉しかった。
◇
現場に入ると、理沙さんはいつものように最初に聞いた。
「喉は?」
「九割四分です」
「私の評価では九割四分」
「一致しました」
「昨夜、ちゃんと寝た?」
「はい」
「春日さんには?」
「朝、返しました」
「昨夜返せなかった分?」
「はい。届いてた、って」
理沙さんは少しだけ頷いた。
「よろしい」
「よろしい、なんですね」
「ええ。返せなかったことを放置しなかったのは、よろしい」
しらいさんは、紙コップの水を受け取った。
「今日の撮影、紗季さんも返すんですよね」
「短くね」
「はい」
今日の場面。
美緒の「寒くなってきたね」に、紗季が翌日ようやく返す。
返事は、たった二文字。
『うん』
それだけ。
でも、それだけが、とても大きい。
「気をつけることは?」
理沙さんが聞く。
しらいさんは少し考えて答えた。
「救いにしすぎない」
「はい」
「でも、何でもない返事にもしない」
「はい」
「紗季さんにとっては、今できる最小の返事」
「そうね」
「扉を開けるんじゃなくて、隙間ができる」
理沙さんは、ほんの少しだけ目を細めた。
「いいところまで来ているわね」
「はい」
「でも、分かっていると思った日ほど、現場で崩れることがある」
「はい」
「決めつけないこと」
「探します」
「それでいいわ」
◇
撮影は、岸谷紗季の部屋セットで行われた。
昨日と同じ部屋。
白いカーテン。
小さなテーブル。
グレーのマグカップ。
きちんと畳まれたブランケット。
温度の薄い部屋。
けれど、昨日とは少しだけ違う。
テーブルの上のスマホには、美緒のメッセージが残っている。
『寒くなってきたね』
その言葉は、昨日この部屋の温度を一度だけ変えた。
今日は、そこへ紗季が二文字を返す。
監督がモニターの前で説明した。
「この場面は、とても小さい変化です」
「はい」
「紗季は急に心を開いたわけではありません」
「はい」
「美緒を受け入れた、というほどでもない」
「はい」
「でも、無視し続ける場所からは、ほんの少し動いた」
しらいさんは頷いた。
「返事は二文字です」
「はい」
「でも、二文字しか返せないのではなく、二文字なら返せた、にしてください」
その言葉に、胸の奥が少し鳴った。
二文字しか返せない。
二文字なら返せた。
似ているようで、全然違う。
前者は足りなさで、後者は小さな前進だ。
一度目の本番。
紗季はテーブルの前に座る。
スマホを見る。
美緒のメッセージ。
しばらく見て、返信画面を開く。
白瀬アカリは、ほんの少しだけ目元をやわらかくした。
そして、打つ。
『うん』
送信。
カット。
監督は少し考えた。
「白瀬さん、今のは少し返せた喜びが早かったです」
「はい」
「紗季は、まだ喜んではいないと思います」
「はい」
「返せたことを、自分で大きく扱えない。けれど、送ったあとに少しだけ息が変わる」
しらいさんは頷いた。
二度目。
今度は抑えた。
スマホを見る。
返信画面を開く。
うん、と打つ。
送る。
しかし、今度は少し作業のようになった。
「カット」
監督が言う。
「今のは、返事が軽すぎました」
「はい」
「二文字ですが、軽いわけではありません」
「はい」
「紗季にとっては、二文字分しか開けられなかった。でも、その二文字分は本物です」
二文字分は本物。
しらいさんは、深呼吸した。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、今から紗季さんの二文字へ会いに行く。
三度目。
紗季はスマホを見る。
『寒くなってきたね』
その一文は、まだそこにある。
昨日届いた言葉。
返せなかった言葉。
眠っても死ななかった返事。
紗季は返信画面を開く。
親指が一度止まる。
何か長い言葉を考えたわけではない。
ただ、空白を見る。
何を書けばいいか分からない。
でも、何も返さないままでは、少しだけ違う。
指が動く。
『うん』
たった二文字。
紗季はそれを一度見る。
消さない。
送信する。
送ったあと、すぐに画面を閉じない。
送信済みになった二文字を、ほんの一瞬だけ見ている。
そして、スマホをテーブルに置く。
画面は伏せない。
ただ、手を離したあと、少しだけ息が浅くなって、それから戻る。
「カット」
現場が静かになった。
監督がモニターを見ている。
短い沈黙のあと、ゆっくり頷いた。
「今のです」
しらいさんは、静かに息を吐いた。
「ありがとうございます」
監督はモニターから目を上げて言った。
「これは救いではなく、扉の隙間です」
その言葉に、胸がじんわり熱くなった。
扉の隙間。
開いたとは言えない。
でも、閉じ切ってもいない。
そこに、小さな光が入る。
◇
撮影後、高瀬菜央はモニターのそばで泣きそうな顔をしていた。
大きく泣くわけではない。
でも、目元が赤い。
「白瀬さん」
「はい」
「今の、美緒として見てました」
「はい」
「うん、だけなのに」
「はい」
「すごく嬉しかったです」
その言葉に、しらいさんの胸も少し揺れた。
「紗季さんには、それが精一杯でした」
「伝わりました」
「本当に?」
「はい」
高瀬は静かに頷いた。
「長くなくていいんだなって思いました」
「はい」
「うん、だけでも、返ってきたんだなって」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「美緒さんは、座り直せそうですか」
高瀬は、目元を拭きながら笑った。
「かなり」
その言葉を聞いて、しらいさんも少し笑えた。
◇
昼休み、春日悠真は三崎から予想通りの話をされた。
「春日」
「何だ」
「短い返事って、短いから軽いわけじゃないよな」
悠真は箸を止めた。
「今日も通常営業だな」
「外側の番人国、通信省だからな」
「今日は通信省か」
「短文担当」
「部署が細かい」
三崎は唐揚げを一つ食べて、少しだけ真面目な顔になった。
「長文で返せない日ってあるだろ」
「ああ」
「でも、うん、だけなら返せる日がある」
「……」
「その“うん”って、雑に見えるけど、本人からするとかなり頑張った返事のこともある」
悠真は、しらいさんの朝のメッセージを思い出した。
昨日のそれ、届いてた。
それも、長くはなかった。
でも、十分だった。
「三崎」
「何」
「今日も短文担当としてかなり働いている」
「手当は?」
「ない」
「ブラック通信省」
三崎は少し笑ったあと、麦茶を飲んだ。
「でも、短い返事が来ると、待ってた側は少し座り直せるよな」
座り直せる。
高瀬菜央と同じ言葉。
いや、今後しらいさんから聞くことになる言葉と、たぶん同じだ。
「短い返事でも、そこにいてくれる感じがする」
「はいはい」
「何で急に雑なんだよ」
「いや、刺さってる」
「刺さってる顔じゃない」
「刺さると雑になることがある」
「面倒くさいな」
春日は少し笑った。
自分でも面倒くさいと思う。
でも、三崎の言葉は今日も確かに持って帰るべきものだった。
◇
撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文は、もう決まっていた。
『返事が短くても、扉が少し開く日がある。』
最初は、プロットで考えていた言葉に近く「返事が短くても、扉が少し開く日がある」と書いた。
ただ、少しだけ迷ってから、もう一度見直す。
短い返事。
二文字の「うん」。
それは扉の隙間。
しらいさんは、下に小さくもう一文足したくなった。
でも、やめた。
今日は一文でいい。
写真を撮り、春日くんへ送る。
すぐに既読がついた。
『読みました』
『今日、とても大事な一文ですね』
続けて、
『三崎が、短い返事でも待っていた側は少し座り直せると言っていました』
しらいさんは思わず笑った。
『高瀬さんも同じこと言ってた』
『美緒さんとして?』
『うん』
『うん、だけなのに嬉しかったって』
『かなり座り直せそうって』
既読。
『三崎、現場にいるのでは』
『外側の番人国通信省短文担当です』
『長い』
『本人は手当を求めていました』
『心の中で支給』
『現物は?』
『ない』
『ブラック通信省』
軽いやり取りで、胸の緊張が少しほどける。
それから、春日くんから届いた。
『朝の、届いてた、も俺はかなり座り直しました』
しらいさんは、その一文をゆっくり読んだ。
自分の短い返事が、春日くんを座り直させた。
それが少し照れくさくて、でも嬉しかった。
『今日、部屋行っていい?』
送る。
『もちろんです』
『短い返事の話をしたい』
『待っています』
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつもの言葉。
でも今日は、その短さが少し心地よかった。
長い説明がなくても、届く言葉がある。
部屋に入ると、ローテーブルにはミルクティーが用意されていた。
蜂蜜は少しだけ。
しらいさんはカップを受け取り、青灰色のコースターへ置いた。
ことん。
「今日の音は?」
春日くんが聞く。
しらいさんは少し考えた。
「うん、の音」
「短いですね」
「でも、開いた音」
「はい」
しらいさんはノートを開いた。
『返事が短くても、扉が少し開く日がある。』
春日くんはそれを読んだ。
「今日の紗季さんですね」
「うん」
「二文字でした」
「はい」
「でも、二文字なら返せた」
「はい」
「監督が言ってた。救いじゃなくて、扉の隙間だって」
「いい言葉ですね」
「うん」
「しらいさんの朝の返事も、俺にとっては扉の隙間でした」
しらいさんは、少しだけ目元を揺らした。
「届いてた、ってやつ?」
「はい」
「あれ、短かった」
「でも、かなり大きかったです」
「春日くん」
「はい」
「座り直した?」
「かなり」
「やっぱり」
しらいさんは少し笑った。
「高瀬さんも、三崎さんも、春日くんも座り直す」
「今日は座り直しの日ですね」
「変な日」
「でも、大事な日です」
「うん」
◇
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
「私、短い返事って少し怖かった」
「はい」
「冷たく見えるかなって」
「はい」
「雑に見えるかなって」
「はい」
「でも、長く返せない日がある」
「はい」
「返せないより、短くても返せるなら、そのほうがいい日もある」
「はい」
「でも、短すぎると相手が不安になる日もある」
「はい」
「難しいね」
「難しいですね」
「出た」
「出ます」
二人で少し笑った。
そのあと、春日くんは静かに言った。
「短い返事が不安な日もあります」
「うん」
「でも、短い返事でも温度があることを、最近少し分かってきました」
「温度」
「はい」
「私の“うん”にも?」
「あります」
「どんな温度?」
春日くんは少し考えた。
「日によります」
「正直」
「はい」
「今日の“届いてた”は?」
「少し朝の温度でした」
「なにそれ」
「でも、そう感じました」
「春日くん、たまに詩人」
「すみません」
「謝らないで」
しらいさんは笑った。
そして、少しだけ真面目な顔になる。
「春日くん」
「はい」
「私が短い返事の日」
「はい」
「全部冷たいわけじゃないって、覚えてて」
「覚えています」
「でも、不安なら聞いて」
「はい」
「今日は短いけど、届いてる? って」
「聞いていいんですか」
「うん」
「分かりました」
「私も言う」
「何をですか」
「今日は短いけど、ちゃんと届いてるって」
春日くんは、少しだけ目元を和らげた。
「それは、とても助かります」
「よかった」
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「今日の音は、まだ“うん”ですか」
春日くんが聞く。
「ううん」
しらいさんは少し考えた。
「今日は、届いてた、の音」
「朝の返事ですね」
「うん」
「俺はかなり座り直しました」
「それ、好き」
「座り直す、ですか」
「うん。なんか、人間っぽい」
玄関で靴を履き、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「短い返事でも」
「はい」
「扉が少し開く日がある」
「はい」
「でも、開けすぎない日もある」
「はい」
「それでも、次がある」
「はい」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まった。
◇
部屋に静けさが戻った。
返事が短くても、扉が少し開く日がある。
その一文が、今日の部屋に残っている。
短い返事は、冷たいとは限らない。
長く書けない日。
夜には返せない言葉。
朝なら返せる一文。
二文字なら開けられる扉。
そういうものが、人と人の間にはある。
悠真は棚の中のマグカップを見た。
今日のことんは、うん、の音で、届いてた、の音だった。




