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第141話 二文字の返事を、美緒は何度も読み返した

 美緒は、朝になってもその二文字を消せなかった。


『うん』


 ただ、それだけ。


 絵文字もない。

 句読点もない。

 続きの言葉もない。


 けれど、夜中にその二文字が届いた瞬間、美緒はベッドの上でしばらく動けなくなった。


 紗季から返事が来た。


 それだけなら、喜んでいいはずだった。


 けれど、美緒はすぐには喜べなかった。


 嬉しい。


 それは間違いない。


 でも、この「うん」を、自分はどう受け取ればいいのだろう。


 行きたい、という意味なのか。

 社交辞令に対する、最低限の返事なのか。

 無視できなかったから、無理に返してくれたのか。

 それとも、本当にほんの少しだけ、こちらを向いてくれたのか。


 分からない。


 分からないから、何度も読み返した。


 読み返しても、二文字は二文字のままだった。


 増えない。

 減らない。

 意味を説明してくれない。


 それなのに、画面の中で小さく光っている。


 美緒は返信欄を開いた。


『よかった』


 打って、止まる。


 よかった、でいいのだろうか。


 紗季が返してくれたことを喜びすぎると、次の返事を求めているみたいにならないだろうか。


 消す。


『今度、本当に行こう』


 打つ。


 これも違う。


 今度、という言葉は便利だけれど、今の紗季には少し重い気がする。


 消す。


『無理しないでね』


 打つ。


 これも、指が止まった。


 無理しないで。


 優しい言葉のつもりなのに、紗季が無理していると決めつけているようにも見える。


 消す。


 結局、美緒は何も送らなかった。


 スマホを胸の上に置いて、天井を見つめる。


「……返ってきたんだよね」


 小さく呟く。


 部屋には返事がなかった。


 でも、画面の中にはあった。


『うん』


 美緒はもう一度だけそれを見て、今度はスマホを伏せなかった。


    ◇


 撮影現場で、その場面を演じる高瀬菜央は、台本を片手にしばらく黙っていた。


 白瀬アカリは、少し離れた椅子に座って紙コップの水を飲んでいた。


 今日は紗季の出番は少ない。


 けれど、美緒側の大事な場面がある。


 紗季が送った「うん」を、美緒がどう受け取るのか。


 それは、紗季が返事をしたことと同じくらい大事だった。


「白瀬さん」


 高瀬が小さく声をかけてきた。


「はい」


「美緒って、喜んでいいんですかね」


 その問い方が、もう美緒だった。


 白瀬アカリは、少しだけ考えた。


「嬉しいとは思います」


「ですよね」


「でも、喜んだら紗季さんを追い詰めそうで、怖いんだと思います」


 高瀬は「ああ」と息を吐いた。


「それです。そこが難しくて」


「はい」


「返事が来たんだから、普通は嬉しいじゃないですか」


「はい」


「でも、美緒がここで笑いすぎると、紗季に“返して正解だったよね”って圧をかける感じになる気がして」


「分かります」


「かといって、何も感じてないみたいにすると、昨日まで待ってたことが嘘になる」


「はい」


 高瀬は台本を閉じ、膝の上に置いた。


「美緒、面倒くさいですね」


 白瀬アカリは少し笑った。


「紗季さんも、かなり面倒くさいです」


「二人とも面倒くさい」


「はい」


「でも、そこが人間っぽい」


 高瀬はそう言って、少しだけ肩の力を抜いた。


「白瀬さんなら、紗季として、この“うん”をどう思います?」


「紗季さんは……たぶん、送ったあとに怖くなってます」


「怖く?」


「はい。返してしまったから、次が来るかもしれない。期待されるかもしれない。でも、返さなかったことにはできない」


「うわ……」


 高瀬は苦笑した。


「じゃあ美緒は、次を急がないほうがいいですね」


「たぶん」


「でも、嬉しいんですよ」


「はい」


「嬉しいのに、静かにする」


「それが今日の美緒さんかもしれません」


 高瀬は小さく頷いた。


「嬉しいのに、静か」


 その言葉を、何度か口の中で転がす。


「いけそうです」


    ◇


 撮影は、美緒の部屋セットで行われた。


 紗季の部屋より、少しだけ色があった。


 クッション。

 読みかけの雑誌。

 飲みかけのペットボトル。

 テーブルに置かれた小さな観葉植物。


 生活がある。


 整いすぎていない。

 人の気配が、ちゃんと残っている。


 美緒はベッドの上でスマホを見る。


 画面には、紗季からの二文字。


『うん』


 一度目の本番。


 高瀬菜央は、その画面を見て、ほんの少し笑った。


 きれいな笑みだった。


 返事が来たことを、素直に喜ぶ顔。


 けれど、監督はカットをかけた。


「高瀬さん、今のは少し安心しすぎです」


「はい」


「美緒は嬉しい。でも、まだ安心まではいかない」


「はい」


「返事が来たことより、返してくれた紗季の状態を考えてしまう人だと思います」


「分かりました」


 二度目。


 今度の美緒は、笑わなかった。


 画面を見て、少しだけ眉を寄せる。


 心配が前に出た。


 カット。


 監督は首を少し傾げる。


「今度は心配が強いですね」


「はい」


「美緒は、紗季をかわいそうな人として見たいわけではないと思います」


「はい」


「嬉しい。心配。でも、踏み込みすぎたくない。その三つが同時にある感じで」


 高瀬は、深く息を吐いた。


「難しいですね」


 監督が少し笑う。


「難しいですね。でも、ここが撮れると二人の距離がかなり見えます」


 三度目。


 ベッドの上。


 夜の部屋。


 美緒はスマホを見る。


『うん』


 目が少しだけ止まる。


 喜びが一瞬だけ浮かぶ。


 でも、すぐに追いかけるように迷いが来る。


 返信欄を開く。


『よかった』


 打つ。


 少し見つめる。


 消す。


『今度、本当に行こう』


 打つ。


 消す。


『無理しないでね』


 打つ。


 指が止まる。


 消す。


 何も送らない。


 けれど、スマホを伏せない。


 美緒は画面を見たまま、小さく息を吐く。


 笑顔ではない。


 泣きそうでもない。


 ただ、届いた二文字を乱暴に扱わないように、そっと持っている顔だった。


 カット。


 現場が少しだけ静かになった。


 監督がモニターを見て、頷く。


「今のでいきましょう」


 高瀬菜央は、ほっとしたように息を吐いた。


 白瀬アカリは、少し離れた場所でその芝居を見ていた。


 胸の奥がじんわり温かくなる。


 紗季の「うん」は、美緒にも届いていた。


 紗季が思っているより、たぶんずっと丁寧に。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は唐揚げ弁当を開けながら、今日もスマホを机に置いていた。


「今日は何を見てるんだ」


「白瀬アカリの次の展開を考えてる」


「毎日だな」


「外側の番人に休日はない」


「労働環境が悪いな」


「雇用主が唐揚げを支給しないからな」


「雇ってない」


 三崎は唐揚げを一つ食べてから、少し真面目な顔になった。


「でもさ、短い返事って、もらった側も困るよな」


 春日は箸を止めた。


「もらった側?」


「うん。“うん”とか、“はい”とか、“大丈夫”とか」


「うん」


「返ってきたのは嬉しい。でも、それにどう返せばいいか分からなくなる」


「……」


「喜びすぎたら、次も返せって圧になるし。心配しすぎたら、相手をかわいそう扱いするし」


 春日は、静かに三崎を見た。


「お前」


「何」


「今日も外側の番人だな」


「もはや定型文」


「でも本当に」


 三崎は少し得意げに肩をすくめた。


「待ってる側ってさ、返事が来たら終わりじゃないんだよ」


「うん」


「返事が来た瞬間から、今度は自分がどう返すかが始まる」


 春日は、その言葉を胸にしまった。


 しらいさんに伝えたい。


 そして、自分にも必要だった。


 しらいさんから何か言葉が返ってきたとき、それをどう受け取るか。

 次を求めすぎないか。

 喜びを、相手の義務に変えていないか。


「三崎」


「何個?」


「今日は十個」


「大台維持」


「心の中で」


「はいはいブラック」


 三崎は笑いながら唐揚げを食べた。


    ◇


 撮影後、白瀬アカリは高瀬菜央と少しだけ話した。


 休憩スペースの端。


 紙コップの水。

 差し入れの焼き菓子。

 誰かが置いた台本。


 高瀬は椅子に座るなり、深く息を吐いた。


「今日、疲れました」


「分かります」


「白瀬さん、いつも紗季側でこれやってるんですよね」


「はい」


「大変ですね」


「高瀬さんも、今日はかなり大変そうでした」


「美緒側も、難しいですね」


 高瀬は苦笑した。


「待つって、ただ待てばいいわけじゃないんだなって」


「はい」


「返事が来たら来たで、今度はこっちが試される」


 その言葉に、白瀬アカリは頷いた。


「春日くんにも伝えたいです」


 口にしてから、少しだけしまったと思った。


 高瀬が目を細める。


「春日くん」


「あ」


「例の?」


「例の、というほどでは」


「ありますね」


 高瀬は楽しそうに笑った。


「でも、いいと思います。そういう人がいると、役から戻りやすそう」


「はい」


「白瀬さん、最近、帰ってくる顔してますし」


 また、その言葉だ。


 帰ってくる顔。


 白瀬アカリは、少しだけ目を伏せた。


「そんなに分かりますか」


「分かります」


 高瀬は、まっすぐ言った。


「今日の美緒も、紗季から返事が来て嬉しかった。でも、それ以上に、紗季がどこかへ戻ろうとしているのを見た気がしたんです」


「……はい」


「だから、雑に返せなかった」


 白瀬アカリは、その言葉をゆっくり受け取った。


 紗季がどこかへ戻ろうとしている。


 美緒には、そう見えたのかもしれない。


    ◇


 その日のノートは、美緒の言葉になった。


 青灰色のページに、しらいさんは一文だけ書いた。


『うん、の二文字は、美緒さんの夜も少しだけ止めた。』


 書いてから、少しだけ息を吐く。


 今日は紗季ではなく、美緒の夜。


 紗季が返した言葉は、相手の時間も止めた。


 それは少し怖くて、でも温かい。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読がついた。


『読みました』


『今日は美緒さん側ですね』


 しらいさんは少し笑った。


『うん』


『三崎が似たことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『短い返事は、もらった側も困る』


『返事が来た瞬間から、今度は自分がどう返すかが始まる、と』


 しらいさんは、画面を見つめたまま小さく頷いた。


 本当に、その通りだった。


『三崎さん』


 送る。


『今日は唐揚げ十個?』


『はい』


『安定』


『本人は現物を求めています』


『心の中で』


『安定』


 短いやり取りで、少し笑えた。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 今日は、撮影が極端に重かったわけではない。


 でも、美緒の夜を見たあと、自分一人で帰るには少し言葉が残っていた。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 自然に言えた。


 部屋に入ると、いつものローテーブル。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 春日くんはミルクティーを作ってくれた。


 今日は蜂蜜普通。


 カップを置く。


 ことん。


 今日は、誰かの夜に触れた音だった。


「今日は、美緒さんの撮影を見てた」


 しらいさんが言う。


「はい」


「紗季さんからの“うん”を、美緒さんが読む場面」


「はい」


「美緒さん、喜びすぎない。心配しすぎない。返信しない。でも、スマホを伏せない」


「はい」


「高瀬さん、すごかった」


「はい」


「紗季さんの二文字が、美緒さんを止めた」


 春日くんは静かに頷いた。


「短い返事でも、相手の時間を動かすんですね」


「うん」


「そして、止めるんですね」


「うん」


 しらいさんはミルクティーを飲んだ。


「春日くん」


「はい」


「私が何か返したとき、春日くんも困る?」


 春日くんは、少しだけ考えた。


「困ることもあります」


「正直」


「はい」


「たとえば?」


「“うん”と返ってきたとき、嬉しいです」


「うん」


「でも、そのあとに何を返せば、次を求めすぎないか考えます」


「……うん」


「喜びすぎると、しらいさんに返してよかったと思わせるより、次も返さなきゃと思わせるかもしれない」


「うん」


「心配しすぎると、弱い人扱いしてしまうかもしれない」


「うん」


「だから、困ります」


 しらいさんは、少しだけ目を伏せた。


「それ、今日の美緒さんと同じ」


「はい」


「春日くんも、美緒さん側だった」


「そうですね」


 春日くんは少し照れたように笑った。


「俺も、待つ側なので」


 その言葉が、胸に残った。


 春日くんは、ただ受け止めるだけの人ではない。


 待つ側として、迷っている。


 返事をもらって、嬉しくて、でも次を求めすぎないように考えている。


「春日くん」


「はい」


「いつも、ありがとう」


 言ってから、少し照れた。


 でも、今日は言えた。


 春日くんは、すぐには返さなかった。


 それから、静かに言った。


「こちらこそ」


「短い」


「喜びすぎないようにしました」


 しらいさんは、思わず笑ってしまった。


「それ、ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


 笑いが、部屋に少し広がった。


    ◇


 青灰色のノートを開く。


 今日の一文を見せる。


『うん、の二文字は、美緒さんの夜も少しだけ止めた。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「返事をした側だけではなく、受け取った側の夜も動いたんですね」


「そう」


「物語が広がりましたね」


「うん」


「アクセス狙いとしても、かなり強いと思います」


「どうして?」


「紗季さんの内面だけでなく、美緒さんの夜も見えると、読者は二人分待つことになります」


「二人分」


「はい。紗季さんは次に返せるのか。美緒さんは次に送るのか。両方気になる」


「春日くん、本当に編集者みたい」


「すみません」


「謝らないで。助かる」


 しらいさんは、ノートを閉じた。


「今日は書き足さない」


「はい」


「美緒さんの夜は、美緒さんのところに置いて帰る」


「いいと思います」


「出た」


「出ます」


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割六分」


「かなり戻っていますね」


「うん。今日は美緒さんの夜を、全部持って帰らなかったから」


「はい」


「残り四分は?」


「帰り道で」


「大丈夫そうですか」


「うん」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「返事が来たら、終わりじゃないんだね」


「はい」


「そこから、受け取った側の時間も始まる」


「はい」


「私、春日くんの時間も、少し止めてる?」


 春日くんは、少しだけ笑った。


「止まることもあります」


「うん」


「でも、悪い止まり方だけではありません」


「そっか」


「はい」


 しらいさんは、少し安心した顔で頷いた。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「待っています」


「うん」


 そして、少しだけ間を置いて。


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。


 うん、の二文字は、美緒さんの夜も少しだけ止めた。


 短い返事は、返した側だけのものではない。


 受け取った側も、迷う。

 喜ぶ。

 怖がる。

 次を求めないように、言葉を選ぶ。


 春日は、少しだけ自分のスマホを見た。


 しらいさんからの短い返事が、どれだけ自分の時間を動かしてきたかを思う。


 そして、自分の返事が、彼女の次の言葉を急かさないものであったかも。


 まだ、うまくは分からない。


 でも、今日少し分かった。


 待つ側にも、練習がある。


 春日は棚の中のマグカップを見た。


 今日のことんは、受け取った側の音だった。


 小さな二文字を、乱暴に扱わないための音だった。

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