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第142話 返したあとに、紗季さんはスマホを伏せなかった

返事をしたからといって、朝が劇的に変わるわけではない。


 岸谷紗季の部屋には、いつものように朝が来た。


 白いカーテンの隙間から、薄い光が入る。

 小さなテーブル。

 一人分の椅子。

 グレーのマグカップ。

 畳まれたブランケット。

 生活の形はある。


 けれど、まだ「帰っている」感じは薄い。


 それでも、昨日までとは一つだけ違うものがあった。


 スマホだ。


 テーブルの上に置かれたスマホ。


 そこには、美緒からの誘いに対して、紗季が昨夜返した二文字が残っている。


『うん』


 たった二文字。


 それでも、紗季は返した。


 そして今日、そのスマホを伏せない。


 その場面を撮る日だった。


    ◇


 控室で台本を読んだしらいさんは、思わず小さく息を吐いた。


「伏せない、だけ……」


 声に出してみると、簡単に聞こえる。


 でも、簡単なはずがない。


 今までの紗季なら、スマホを伏せていた。


 通知を見ないように。

 期待しないように。

 返事をした事実を、自分の目から隠すように。


 けれど今日は、伏せない。


 見つめ続けるわけではない。

 返信を待っているわけでもない。

 嬉しそうにするわけでもない。


 ただ、伏せない。


 それだけの芝居。


 けれど、その「それだけ」が、今の紗季にとっては大きい。


 しらいさんは、台本を膝の上で閉じた。


 そこへ理沙さんが入ってきた。


「喉は?」


「九割三分です」


「私の評価では九割二分」


「今日は近いですね」


「今日は喉より手元と視線」


「はい」


 理沙さんはタブレットを見ながら、すぐ本題に入った。


「今日の場面、分かっているわね」


「スマホを伏せない場面です」


「ええ」


「見ているわけじゃない。でも隠さない」


 理沙さんが、少しだけ目を上げた。


「いいわね」


「でも、難しいです」


「難しいわよ」


 あっさり言われた。


「スマホを伏せないだけで、期待しているようにも見える。強くなったようにも見える。逆に、何も考えていないようにも見える」


「はい」


「今日は、スマホを敵にしない日」


 その言葉に、しらいさんは顔を上げた。


「敵にしない」


「ええ。今まで紗季にとって、スマホは少し怖いものだったはずよ。返せない言葉が来る。見なかったことにしたい通知が来る。画面を伏せれば、一時的に消せる」


「はい」


「でも今日は、消さない」


「はい」


「味方にするほどではない。でも、敵にはしない」


 しらいさんは、ゆっくり頷いた。


 スマホを敵にしない。


 それなら分かる。


 紗季はまだ、美緒とのやり取りを温かいものとして抱けるほどではない。

 けれど、完全に拒絶する段階からは、一歩だけ離れた。


「今日の目標は?」


 理沙さんが聞く。


 しらいさんは少し考えて、答えた。


「隠さない。でも、待ちすぎない」


「いいわ」


「画面を見張らない」


「そう」


「ただ、そこに置いておける」


 理沙さんは頷いた。


「それで行きなさい」


    ◇


 撮影前、高瀬菜央が差し入れの焼き菓子を持って来た。


「白瀬さん、今日、紗季側ですよね」


「はい」


「昨日、美緒側で“うん”を受け取りました」


「見てました。すごくよかったです」


「ありがとうございます。でも今日、紗季がスマホを伏せないって聞いて」


「はい」


「美緒としては、ちょっと泣きそうです」


 しらいさんは少し笑った。


「美緒さん、泣きそうですか」


「泣きそうです。だって、伏せないんですよ」


「はい」


「あの紗季が」


 高瀬は、そこで少し声を落とした。


「でも、紗季本人はたぶん、そんな大げさなことだと思ってないんですよね」


「はい」


「そこが難しい」


「かなり」


 高瀬は焼き菓子の袋を開けずに、手の中で少し握った。


「美緒はたぶん、紗季がスマホを伏せなかったなんて知らない」


「はい」


「でも、視聴者は見る」


「はい」


「美緒が知らないところで、紗季がほんの少し変わる。これ、強いですね」


 しらいさんは、胸の奥が静かに鳴るのを感じた。


 美緒は知らない。


 でも、見る人は知っている。


 紗季が美緒の言葉を完全に隠さなかったことを。


「高瀬さん」


「はい」


「今日、それを意識しすぎないようにします」


「そうですね。意識しすぎたら、紗季が視聴者サービスしてるみたいになる」


「視聴者サービス」


「違います?」


「いえ、ちょっと分かります」


 二人で少し笑った。


 笑えたことで、少し緊張がほどけた。


    ◇


 撮影は、岸谷紗季の部屋セットで行われた。


 朝。


 テーブルの上にスマホがある。


 紗季はその前に座り、まだ少し眠そうな顔で水を飲む。


 昨日、美緒に「うん」と返した。


 そして、返事をしたあとに眠った。


 朝になっても、世界は変わっていない。


 でも、テーブルの上のスマホだけが、少し違う。


 監督が説明する。


「白瀬さん、今日は救われた場面ではありません」


「はい」


「紗季はまだ何も解決していない」


「はい」


「ただ、スマホを伏せる理由が一つ減った」


 しらいさんは、その言葉を心に置いた。


 伏せる理由が一つ減った。


 それはとても小さい。


 でも、とても大きい。


「一度目、行きます」


 本番。


 紗季はテーブルに座る。


 スマホを見る。


 画面は暗い。


 指先で画面を軽く触る。

 昨日のやり取りが見える。


 美緒のメッセージ。


 自分の返事。


『うん』


 その画面を見たあと、しらいさんは少しだけ柔らかい表情を出してしまった。


 あ、違う。


 自分でも分かった。


 嬉しさが見えすぎた。


「カット」


 監督の声。


 しらいさんは軽く頭を下げる。


「すみません。今のは、少し受け取りすぎました」


 監督はモニターを見ながら頷いた。


「そうですね。今の紗季は、少し“嬉しい”を自覚しています」


「はい」


「今日は、そこまで行かなくていいです」


「はい」


「嬉しいかもしれない。でも、本人はまだそれを嬉しいと呼べない」


 しらいさんは深く頷いた。


 嬉しいと呼べない。


 それだ。


 紗季は、返事をしたことを誇れるわけではない。

 美緒とのつながりを喜べるわけでもない。


 ただ、画面を伏せるほど怖くはなかった。


 二度目。


 今度は、感情を消しすぎた。


 スマホを見る。

 水を飲む。

 置く。


 淡々としている。


 けれど、何も変わっていないように見えた。


「カット」


 監督は少しだけ苦笑した。


「今度は、スマホがただの物になりましたね」


「はい」


「今日は、スマホがただの物ではない。でも敵でもない。その間で」


「はい」


 ただの物ではない。

 敵でもない。


 間。


 ずっと、間ばかりを探している。


 でも、岸谷紗季はその間にいる人なのだ。


 三度目。


 本番。


 紗季はテーブルに座る。


 水を飲む。


 スマホへ目が行く。


 画面に触れる。


 昨日の二文字が表示される。


『うん』


 紗季は、それを長くは見ない。


 けれど、すぐに伏せもしない。


 画面が暗くなる。


 そのまま、スマホをテーブルの上に置く。


 画面は上。


 紗季は朝の支度へ移る。


 けれど、一度だけ、視線がスマホのほうへ戻りかける。


 戻りきらない。


 そのまま、立ち上がる。


 カット。


 現場が静かになる。


 監督がモニターを見る。


 数秒後、静かに頷いた。


「今のです」


 しらいさんは、胸の奥で息を吐いた。


 伏せなかった。


 見張らなかった。


 ただ、そこに置けた。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は今日、コンビニで買ったヨーグルトまで並べていた。


「健康志向か?」


「違う。白瀬アカリのスマホ芝居について考えていたら、軽いものが食べたくなった」


「本当に昼飯の基準が意味不明だな」


「外側の番人だからな」


「万能すぎるだろ、その肩書き」


 三崎はヨーグルトの蓋を開けながら、真面目な顔で言った。


「返事したあとってさ、スマホの置き方が変わるよな」


 春日は箸を止めた。


「置き方?」


「うん。返す前は伏せる。見たくないから」


「うん」


「でも、返したあとって、伏せる必要が少し減る」


「……」


「かといって、ずっと見てると待ってるみたいになる」


 春日は、思わず笑いそうになった。


 まただ。


 今日も、外側からほぼ現場に来ている。


「三崎」


「何」


「お前、怖いぞ」


「何でだよ」


「今日も外側の番人すぎる」


「いいことだろ」


「いいことだ」


 三崎はヨーグルトを一口食べた。


「スマホを伏せないって、地味だけど強いと思うんだよ」


「どうして?」


「拒絶してないから」


「うん」


「でも、依存してるわけでもない」


「うん」


「その中間って、かなり人間っぽい」


 春日は、その言葉を胸にしまった。


 今日のしらいさんに届けたい。


 三崎は続ける。


「白瀬アカリがそれをやったら、たぶん見る側は気づく人だけ気づく」


「うん」


「でも、気づいた人は離れない」


「離れない?」


「こういう小さい変化を拾える作品って、追いたくなるんだよ。見逃したらもったいない気がする」


 春日は、深く頷いた。


 アクセス狙いとしても強い。


 派手な展開だけでなく、読者が「見逃したくない」と感じる細部を積む。


 三崎は、外側の読者代表として、それを自然に言語化している。


「今日は何個分?」


 三崎が聞いてきた。


「今日はヨーグルト一個分」


「少なくない?」


「でも濃厚」


「現物は?」


「出ない」


「はいブラック」


    ◇


 撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文は、すぐ出てきた。


『返したあと、紗季さんはスマホを伏せなかった。まだ見ていたわけじゃない。でも、隠さなかった。』


 書いたあと、少しだけ迷った。


 長い。


 でも、今日はこれを削ると違う気がした。


 まだ見ていたわけじゃない。

 でも、隠さなかった。


 その中間が大事だった。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読がついた。


『読みました』


『今日の中間ですね』


 しらいさんは、少し笑った。


『中間ばかり探してる』


『そこが紗季さんらしいのだと思います』


 既読。


 続けて春日くんから来る。


『三崎が似たことを言っていました』


 しらいさんは、もう自然に笑ってしまった。


『外側の番人?』


『はい』


『スマホを伏せないのは、拒絶していない。でも、ずっと見ているわけでもないから依存でもない。その中間が人間っぽい、と』


 しらいさんは控室で画面を見つめた。


 拒絶していない。


 依存でもない。


 その中間。


『三崎さん』


 送る。


『今日はヨーグルト?』


 春日くんの返事は少し遅れた。


『本当に何なんですか』


『当たり?』


『はい』


『濃厚?』


『そこまで当てないでください』


 しらいさんは声を出さずに笑った。


 それだけで、撮影の緊張が少し解けた。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 今日は、自分の部屋に帰ってもよかった。


 でも、スマホを伏せない場面について、春日くんと話しておきたかった。


 玄関を開ける。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は穏やかだった。


 部屋に入ると、いつものローテーブル。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 春日くんはミルクティーを作ってくれた。


 今日は蜂蜜少なめ。


「今日は少なめ?」


「見張らない甘さです」


「何それ」


「甘すぎると、スマホを見張りそうなので」


 しらいさんは思わず笑ってしまった。


「春日くん、今日は変」


「すみません」


「謝らないで。けっこう好き」


「ならよかったです」


 カップを受け取り、コースターへ置く。


 ことん。


 今日は、伏せない音だった。


「今日、紗季さんはスマホを伏せなかった」


「はい」


「でも、見てたわけじゃない」


「はい」


「待ってたわけでもない」


「はい」


「ただ、隠さなかった」


「はい」


 春日くんは、静かに頷いた。


「それ、すごく大きいですね」


「出た」


「出ます」


「今日は出ると思った」


「本当に大きいので」


 しらいさんはミルクティーを飲んだ。


 少し甘い。


 でも、軽い。


 今日にはちょうどよかった。


「スマホって、怖いね」


「はい」


「返せない言葉が来る」


「はい」


「返したら、次が来るかもしれない」


「はい」


「見たくないときは伏せる」


「はい」


「でも、伏せたら全部消えるわけじゃない」


「はい」


「今日は、伏せなかった」


 春日くんは少し考えてから言った。


「紗季さんにとって、スマホが少しだけ中立になったのかもしれません」


「中立」


「敵でも味方でもなく、そこにあるもの」


「うん」


「美緒さんの言葉が残っている場所」


「うん」


「でも、紗季さんを責めるものではない」


 しらいさんは、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


「それ、いい」


「はい」


「今日の紗季さん、スマホを敵にしなかった」


「はい」


「味方にも、まだできない」


「はい」


「でも、敵じゃなかった」


 その言葉を口にした瞬間、今日の芝居が少し整理された。


 ノートに書き足したい気持ちが出た。


 でも、止める。


 今日は一文だけでいい。


    ◇


 青灰色のノートを開く。


 今日の一文を見せる。


『返したあと、紗季さんはスマホを伏せなかった。まだ見ていたわけじゃない。でも、隠さなかった。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「長いけど」


「必要な長さです」


「理沙さんに言われそう」


「一文なので」


「便利」


 しらいさんは少し笑った。


「春日くんは、私から返事が来たあと、スマホ伏せる?」


 ふと聞いてみた。


 春日くんは少し驚いた顔をした。


 それから、正直に答える。


「伏せることもあります」


「あるんだ」


「はい」


「どういうとき?」


「嬉しすぎて、次を待ちすぎそうなとき」


 しらいさんは、少しだけ目を伏せた。


「そっか」


「画面を見ていると、また来るかもしれないと思ってしまうので」


「うん」


「だから、伏せます」


「それ、悪いこと?」


「悪くはないと思います」


「うん」


「でも、最近は伏せない日も増えました」


「どうして?」


 春日くんは、少しだけ笑った。


「返事が来ても来なくても、しらいさんの存在が消えるわけではないと、少し分かってきたので」


 しらいさんは、その言葉をゆっくり受け取った。


「春日くんも、スマホを敵にしなくなってる?」


「そうかもしれません」


「じゃあ、一緒」


「はい」


 しらいさんはマグカップを置いた。


 ことん。


「今日のことん、スマホを伏せない音」


「また増えましたね」


「増えるね」


「いいと思います」


「出た」


「出ます」


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割七分」


「かなり戻っていますね」


「うん。今日はスマホを伏せなかったけど、見張らなかったから」


「はい」


「残り三分は?」


「帰り道で」


「大丈夫そうですか」


「うん」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「返事をしたあと、隠さないって怖いね」


「はい」


「でも、ずっと見張らなくてもいいんだね」


「はい」


「そこにあるって、分かっていれば」


「はい」


「少しだけ、大丈夫かも」


 春日くんは、静かに頷いた。


「おかえりなさい」


 しらいさんは笑った。


「ただいま」


「行ってらっしゃい」


「明日の分?」


「はい」


「ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


 いつものやり取り。


 そして、少しだけ新しい安心。


「また帰ってくる」


「待っています」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。


 返したあと、紗季さんはスマホを伏せなかった。

 まだ見ていたわけじゃない。

 でも、隠さなかった。


 返事とは、送った瞬間に終わるものではない。


 送ったあとも、そこに残る。

 隠すか、見張るか、ただ置いておくか。


 その小さな違いに、その人の今の距離が出る。


 春日は自分のスマホを手に取った。


 画面を上にして、ローテーブルの端に置く。


 伏せない。


 見張らない。


 ただ、そこに置いておく。


 少しだけ、紗季の気持ちが分かった気がした。

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