第143話 春日、短い返事の次を欲しがりそうになる
春日悠真は、自分のスマホを伏せなかった。
昨夜、ローテーブルの端に画面を上にして置いたスマホは、朝になってもそのままだった。
通知は来ていない。
それは当たり前だった。
しらいさんは朝から撮影がある。
昨夜も「明日は少し早い」と言っていた。
返事が来ないことは、何もおかしいことではない。
それなのに、悠真は何度か画面へ視線を落としてしまった。
伏せない。
見張らない。
ただ、そこに置いておく。
そう決めたはずなのに。
画面が光らないことを確認するたび、自分の中に小さな期待が残っているのが分かった。
昨日、しらいさんは言った。
返事をしたあと、隠さないって怖い。
でも、ずっと見張らなくてもいい。
その言葉を聞いて、悠真も少し分かった気になっていた。
けれど朝になってみると、まるで分かっていなかった。
伏せないことと、見張らないことは、似ているようで全然違う。
スマホを伏せないと、そこに期待があることを認めなければならない。
画面を見張らないためには、その期待を相手に差し出しすぎないようにしなければならない。
それが難しい。
悠真は朝食のトーストをかじりながら、スマホを見た。
通知はない。
笑ってしまった。
「……面倒くさいな、俺」
声に出すと、少しだけ楽になった。
しらいさんから返事がほしい。
それは自然な気持ちだ。
けれど、その自然な気持ちを、そのまま相手の肩に乗せたら、たぶん重くなる。
昨日の「うん」も、そうだった。
紗季が返した二文字。
美緒が受け取った二文字。
そして、受け取った側の時間が始まった。
今朝の悠真も、少しだけ美緒側にいた。
◇
昼休み、三崎は今日も唐揚げ弁当だった。
安定している。
ある意味、尊敬するほどに。
「春日」
「何だ」
「今日は顔がスマホを見張ってる男」
「何だその顔は」
「今作った」
「毎回作るな」
三崎は唐揚げを一つつまみながら、じっと悠真を見た。
「返事待ち?」
「違う」
「その否定は返事待ちのやつだな」
「うるさい」
「白瀬アカリ?」
「何でもそこにつなげるな」
「だいたい当たるから」
悠真は、否定しようとしてやめた。
三崎はこういうとき、妙に鋭い。
何も知らない。
それなのに、外側から必要なところだけを拾ってくる。
「短い返事ってさ」
三崎が言った。
「何だ」
「来たら嬉しいだろ」
「うん」
「でも、一回返ってくると、次もほしくなる」
悠真は箸を止めた。
三崎は続ける。
「たとえばさ、昨日まで返事がなかった相手から“うん”って来たら、すごく嬉しいじゃん」
「うん」
「で、次の日も何か来ないかなって思う」
「……うん」
「でも、それを相手に見せすぎると、返事が義務になる」
痛いところを、正確に突かれた気がした。
悠真は黙った。
三崎は唐揚げを口へ運び、少しだけ真面目な顔をした。
「返事を喜ぶのと、次を取り立てるのは違うと思うんだよ」
「取り立てる」
「うん。借金みたいに」
「表現が強いな」
「でも、そういう感じになることあるだろ」
「……あるな」
「返してくれたから、次も返してね。昨日言えたから、今日も言ってね。そういうのって、言葉は優しくても圧になる」
悠真は、胸の奥が少し重くなった。
まさに今朝の自分だった。
しらいさんの短い言葉を喜んだ。
届いていたと言ってくれたことに救われた。
スマホを伏せない話を一緒にできた。
そのあと、次がほしくなっていた。
それは悪いことではない。
でも、出し方を間違えると、しらいさんの返事はまた「やらなければならないこと」になる。
「三崎」
「何」
「今日、かなり外側の番人だ」
「はい来た」
「今日は唐揚げ何個分だと思う?」
「十二」
「十個」
「減らされた」
「十分高い」
「現物は?」
「出ない」
「知ってた」
三崎は笑ったが、すぐに少しだけ声を落とした。
「でも、待つ側も練習いるよな」
「うん」
「返事が来たら喜ぶ。でも、次を急がない」
「うん」
「むずい」
「むずいな」
「だから白瀬アカリの役、強いんだと思う。返せない側だけじゃなくて、待つ側も映してる感じがするから」
悠真は頷いた。
物語が、紗季だけでなく美緒にも広がっている。
それは、読者にとっても強い。
返す側。
待つ側。
受け取る側。
次を欲しがってしまう側。
どの立場にも、自分を重ねられる。
それが、この作品の力になっていく気がした。
◇
午後、悠真は何度かスマホを見た。
通知は来なかった。
けれど、朝ほど苦しくはなかった。
三崎の言葉が残っていたからだ。
返事を喜ぶのと、次を取り立てるのは違う。
待つ側も練習がいる。
その二つを、胸の内側で何度か繰り返した。
夕方、ようやくしらいさんからメッセージが届いた。
『撮影終わった』
短い。
けれど、十分だった。
悠真は、すぐに返そうとして手を止めた。
おつかれさまでした。
今日はどうでしたか。
何割戻っていますか。
部屋へ来られますか。
いつものように、いくつも言葉が浮かぶ。
でも、今日は少し違う。
返ってきた言葉を、次の言葉を求める入口にしすぎない。
悠真はゆっくり入力した。
『おつかれさまでした』
『昨日の言葉、まだ助かっています』
送る。
既読は、すぐにつかなかった。
それでいいと思った。
少しして、既読。
さらに少しして、
『昨日の?』
と返ってきた。
『スマホを伏せない話です』
『返事が来ても来なくても、存在が消えるわけではないと少し分かってきた、という話』
既読。
少し間があって、
『私も、今日少し助かった』
と来た。
悠真は、その短い言葉を見て、胸の奥が温かくなった。
もっと聞きたい。
どう助かったのか。
撮影で何があったのか。
今日の紗季はどうだったのか。
けれど、今日は取り立てない。
『よかったです』
それだけ送った。
既読。
『今日、部屋行ける』
しらいさんから来た。
悠真は小さく息を吐いた。
『待っています』
すぐに既読がつく。
『知ってる』
その四文字だけで、今日は十分すぎるくらいだった。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関を開けると、彼はいつも通りそこにいた。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
そのやり取りが、今日は少しだけ柔らかかった。
部屋に入る。
ローテーブルには、青灰色のコースター。
白いマグカップ。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんは、いつものようにミルクティーを作ってくれる。
今日は蜂蜜普通。
カップを受け取り、コースターへ置く。
ことん。
今日は、返事を急がない音だった。
「春日くん」
「はい」
「今日、メッセージ少なかった」
「はい」
「聞きたいこと、あった?」
「ありました」
「やっぱり」
しらいさんは少し笑った。
春日くんは、正直に頷いた。
「撮影のことも、紗季さんのことも、何割戻っているかも聞きたかったです」
「うん」
「でも、今日は聞かないほうがいいと思いました」
「どうして?」
春日くんは少し考えた。
すぐに答えない。
その間に、しらいさんはミルクティーを一口飲んだ。
「昨日、しらいさんから短い言葉をもらって、俺はかなり嬉しかったです」
「うん」
「でも、嬉しかったからこそ、次もほしくなりました」
「……うん」
「そのまま聞いたら、返事を取り立てるみたいになる気がしました」
しらいさんは、マグカップを両手で包んだ。
「取り立てる」
「三崎の言葉です」
「外側の番人」
「はい」
「何て?」
「返事を喜ぶのと、次を取り立てるのは違う、と」
しらいさんは、静かにその言葉を受け取った。
「三崎さん」
「今日は唐揚げ十個分です」
「現物なし?」
「心の中で」
「安定」
少し笑ったあと、しらいさんは目を伏せた。
「それ、今日の私にも必要」
「はい」
「返事をしたあとって、次も返さなきゃって思いやすい」
「はい」
「一回できたら、次もできるでしょって、自分にも思う」
「はい」
「でも、できない日もある」
「はい」
「春日くんが今日、次を急がなかったの、助かった」
春日くんは、少しだけほっとした顔をした。
「よかったです」
「出た」
「出ます」
「でも、本当に」
しらいさんは、カップを置いた。
ことん。
「今日、撮影で紗季さんも少し似たことがあった」
「はい」
「美緒さんに“うん”って返したあとだから、次も返せるようになったわけじゃない」
「はい」
「返した事実は残ってる」
「はい」
「でも、次もすぐ返せるわけじゃない」
「はい」
「その感じ、今日は少し分かった」
◇
しらいさんは、鞄から青灰色のノートを取り出した。
「今日は、現場でまだ書いてない」
「そうなんですね」
「うん。春日くんの話を聞いてから書こうと思った」
「はい」
「三崎さんの言葉も入った」
ノートを開き、ペンを持つ。
少し考えて、書く。
『返事を喜んでもらえるのは嬉しい。でも、次を急がれないと、もっと返しやすくなる。』
書き終えて、春日くんへ見せた。
彼は、ゆっくり読んだ。
「読みました」
「うん」
「これは、俺にもかなり必要な一文です」
「春日くんに?」
「はい」
「私にも」
「はい」
「紗季さんにも?」
「たぶん、美緒さんにも」
しらいさんは、少しだけ目を細めた。
「みんなに必要」
「はい」
「じゃあ、強い一文」
「かなり」
「アクセス狙いとしても?」
少し冗談のつもりで聞いた。
春日くんは真面目に頷く。
「強いと思います」
「本当に?」
「はい。返す側だけではなく、待つ側にも読者が共感できます」
「うん」
「“次を急がれないと、もっと返しやすくなる”というのは、読者の中にも刺さる人が多いと思います」
「春日くん、また編集者」
「すみません」
「謝らないで。今日は嬉しい」
しらいさんは、ノートを閉じた。
今日は書き足さない。
この一文でいい。
◇
そのあと、二人は少しだけ静かに話した。
今日の撮影のこと。
紗季が美緒からの次のメッセージをまだ受け取っていないこと。
返事をしたあとの怖さ。
待たれることの重さ。
待つ側の迷い。
「春日くん」
「はい」
「私が返せない日、あると思う」
「はい」
「昨日返せたのに、今日は返せないとか」
「はい」
「部屋に来られたのに、次の日は来られないとか」
「はい」
「ただいまが言えたのに、うまく言えない日とか」
「はい」
「そのとき、がっかりする?」
春日くんは、すぐには答えなかった。
少し考えてから、正直に言った。
「少しは、すると思います」
「正直」
「はい」
「うん」
「でも、それをしらいさんに返事の義務として渡さないようにしたいです」
「うん」
「がっかりすることと、責めることは違うと思うので」
しらいさんは、その言葉をゆっくり受け取った。
「それ、いい」
「はい」
「がっかりしてもいいんだ」
「いいと思います」
「でも、責めない」
「はい」
「待つ側も、大変だね」
「大変ですね」
「私、返す側ばかり大変だと思ってた」
「待つ側も、少し面倒くさいです」
「春日くんはかなり」
「自覚はあります」
二人で少し笑った。
その笑いがあったから、話が重くなりすぎずに済んだ。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割七分」
「かなり戻っていますね」
「うん。今日は、次を急がれなかったから」
「はい」
「残り三分は?」
「帰り道で」
「大丈夫そうですね」
「うん」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「返せない日もある」
「はい」
「でも、返したくないわけじゃない日もある」
「はい」
「そこ、間違えないでね」
「覚えておきます」
「私も、春日くんが待ってくれてることを、当たり前にしすぎないようにする」
「ありがとうございます」
「出た」
「出ます」
しらいさんは、少し笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「待っています。でも、急ぎません」
その言葉に、しらいさんは一瞬だけ目を揺らした。
それから、柔らかく笑った。
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。
返事を喜んでもらえるのは嬉しい。
でも、次を急がれないと、もっと返しやすくなる。
それは、しらいさんの言葉であり、紗季の言葉でもあり、美緒のための言葉でもあった。
そして、春日自身の宿題でもあった。
待つこと。
喜ぶこと。
次を欲しがること。
その全部を、相手へ押しつけすぎないこと。
簡単ではない。
けれど、今日少しだけ分かった。
返事が来たら、終わりではない。
そこから、待つ側の練習も始まる。
春日は自分のスマホを見た。
画面は上を向いている。
伏せない。
見張らない。
次を急がない。
その練習を、今日も少しだけ続ける。




