第144話 美緒は「今度」を、初めて日付にしようとした
美緒は、その言葉を何度も見ていた。
『また今度、ご飯行こう』
自分で送った言葉だ。
軽い。
便利。
優しい顔をしていて、逃げ道が多い。
また今度。
その言葉は、相手を追い詰めない。
けれど同時に、本当に約束しなくても済んでしまう。
紗季から返ってきたのは、二文字だった。
『うん』
それだけ。
でも、美緒にとっては十分だった。
少なくとも、紗季は消さなかった。
無視しなかった。
短くても、返してくれた。
だからこそ、美緒は次の言葉に迷っていた。
このまま「今度」のままにしておけば、何も壊れない。
紗季に負担をかけないで済む。
自分も傷つかないで済む。
また数日後に、何かのきっかけで声をかければいい。
けれど、それではたぶん、届かない。
美緒は、スマホの返信欄を開いた。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』
そこまで打って、止まる。
日付が入った。
たったそれだけで、言葉が急に本物になる。
「今度」は逃げられる。
「来週の水曜か木曜」は逃げにくい。
紗季は困るかもしれない。
美緒は画面を見つめたまま、親指を少し浮かせた。
送信ボタンの上で、指が止まる。
怖い。
誘う側なのに、怖い。
断られることが怖いのではない。
もちろん、それも少しはある。
けれど、それ以上に怖いのは、紗季に「返さなきゃ」と思わせることだった。
美緒は一度、スマホをテーブルに置いた。
かたん、と小さな音が鳴る。
部屋の中で、その音だけが妙に大きく聞こえた。
「……重いかな」
誰に聞くでもなく呟く。
返事はない。
でも、画面にはまだ自分の打ちかけた言葉が残っている。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』
美緒はもう一度スマホを持った。
文章の後ろに、少し付け足す。
『無理なら大丈夫』
打ってから、また止まった。
無理なら大丈夫。
それは優しい言葉のつもりだった。
でも、紗季にとって「大丈夫」は、簡単な言葉ではないのかもしれない。
大丈夫。
紗季は、いつもその言葉で自分を隠してきた。
だから、美緒がこの言葉を使うことが、かえって紗季を苦しめるかもしれない。
美緒は少し迷って、文章を消した。
また書き直す。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう? 無理なら返事はあとでいいよ』
これも違う。
あとでいい、と言われても、返事を待たれていることは変わらない。
消す。
また、最初の文章だけが残った。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』
美緒は長く息を吐いた。
「……今度、のままじゃ、だめだよね」
自分に言う。
だめ、ではない。
でも、進まない。
紗季が「うん」と返してくれた。
なら、美緒も一歩だけ本当の言葉にする必要がある。
送信ボタンに指を置く。
押す。
メッセージが送られた。
美緒はスマホを伏せなかった。
ただ、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
◇
その場面の撮影前、高瀬菜央はずっと台本を読んでいた。
白瀬アカリは少し離れた場所で、紙コップの温かいお茶を持っている。
今日は紗季の出番は少ない。
でも、紗季に届く前の言葉が作られる日だ。
高瀬は台本を閉じ、しらいさんのほうへ歩いてきた。
「白瀬さん」
「はい」
「美緒、今日かなり怖いです」
「日付を入れるからですか」
「はい」
高瀬は、苦笑に近い顔をした。
「今度って言葉、便利ですよね」
「はい」
「優しいふりもできるし、自分も逃げられる」
「……はい」
「でも、日付を入れた瞬間に、こっちの本気が出ちゃう」
しらいさんは頷いた。
「紗季さんから見ても、たぶん日付があるほうが怖いです」
「ですよね」
「でも、曖昧なままだと、届かないかもしれない」
「そこなんです」
高瀬は、自分のスマホを手の中でくるりと回した。
「美緒、踏み込みすぎたくないんです。でも、踏み込まないと届かないところまで来てる」
「はい」
「それが難しい」
「分かります」
「白瀬さんが紗季なら、日付入りの誘い、どう感じます?」
しらいさんは少し考えた。
「怖いです」
「即答」
「はい。でも、たぶん消せないです」
高瀬の目が少し動いた。
「消せない」
「はい。曖昧な“今度”より、現実の形があるから」
「現実の形」
「水曜とか木曜って、逃げ道が少ない分、ちゃんとそこにある感じがします」
高瀬は、その言葉を静かに受け取った。
「じゃあ、美緒は今日、逃げ道を少し減らすんですね」
「はい」
「紗季を追い詰めるためじゃなくて」
「はい」
「届くために」
しらいさんは頷いた。
「たぶん」
「それで行きます」
高瀬は、少しだけ背筋を伸ばした。
「届くために、逃げ道を少し減らす」
◇
美緒の部屋セットは、紗季の部屋より少し散らかっていた。
でも、不快な散らかり方ではない。
読みかけの本。
コンビニのレシート。
クッション。
小さな観葉植物。
テーブルの上のスマホ。
ちゃんと誰かが暮らしている部屋だった。
監督が、高瀬へ説明する。
「美緒は、今日は踏み込む日です」
「はい」
「でも、強く踏み込むわけではない」
「はい」
「日付を入れる。ただそれだけ」
「はい」
「その“ただそれだけ”が、美緒にとっても大きい」
高瀬は頷いた。
しらいさんは、離れた場所でそのやり取りを聞いていた。
ただそれだけ。
この作品は、ずっとそれを撮っている気がする。
スマホを伏せない。
一秒だけ止まる。
返事を消さない。
日付を入れる。
大事件ではない。
けれど、その人にとっては大きい。
一度目の本番。
美緒はスマホを開く。
紗季とのやり取りを見る。
『うん』
その二文字を見て、返信欄を開く。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』
打つ。
そのあと、高瀬の美緒は少し覚悟を決めすぎた。
送信ボタンを押す前の顔が、強かった。
カット。
監督が言う。
「高瀬さん、今のは少し決意が見えすぎています」
「はい」
「美緒は、勇気を出しているけれど、自分を格好よくは見せたくないはずです」
「はい」
「押したあとに怖くなるくらいで」
高瀬は頷いた。
「分かりました」
二度目。
今度は、怖さが先に出た。
指が止まりすぎる。
送る前から後悔しているように見えた。
カット。
監督が少し首を傾げる。
「今のは、送れなさそうですね」
「はい」
「美緒は送ります。怖いけれど、今日は送る」
「はい」
「怖いからやめる、ではなく、怖いまま送る」
高瀬は深く息を吐いた。
「怖いまま送る」
「はい」
三度目。
部屋。
夜。
美緒はスマホを見る。
紗季の「うん」を、もう一度読む。
返信欄を開く。
打つ。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』
送信ボタンの上で、指が止まる。
強い決意ではない。
逃げ腰でもない。
怖い。
でも、逃げない。
美緒は一度スマホをテーブルに置く。
かたん。
音が鳴る。
少し息を吐き、もう一度スマホを持つ。
画面を見る。
送る。
送信済みの文字が表示される。
美緒はスマホを伏せない。
ただ、画面を見たまま、少しだけ目を細める。
送った。
もう戻せない。
でも、送った。
カット。
現場が少し静かになった。
監督がモニターを見て、頷く。
「今のでいきましょう」
高瀬菜央は、肩から力が抜けたように息を吐いた。
しらいさんも、少しだけ胸の奥が熱くなった。
美緒さんも、一秒を越えた。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は今日は、コンビニのカレンダー付きメモ帳を見ながら弁当を食べていた。
「何を見てるんだ」
「日付」
「なぜ」
「白瀬アカリの役、そろそろ“今度”が日付になる気がして」
春日は、箸を落としそうになった。
「お前、本当に怖いな」
「また当てた?」
「知らない」
「知らない顔じゃない」
三崎はにやりと笑ったあと、メモ帳を指で叩いた。
「今度って便利なんだよ」
「うん」
「でも、日付を入れたら、もうちょっと本気になる」
「うん」
「来週の水曜とか木曜とか」
春日は、もう笑ってしまった。
「何で曜日まで出るんだ」
「リアルだろ」
「リアルすぎる」
三崎は唐揚げを食べながら続けた。
「でもさ、日付を入れるって、誘う側も怖いよな」
「うん」
「曖昧なままなら、流れても傷が浅い。でも日付を入れたら、相手が返すか返さないかがはっきりする」
「うん」
「それでも入れるって、けっこう勇気いる」
春日は頷いた。
今日も持ち帰る言葉ができた。
「三崎」
「何」
「今日はカレンダー何枚分だ」
「報酬の単位が変わった」
「心の中で一か月分」
「多いのか少ないのか分からない」
「現物は出ない」
「そこは分かる」
◇
撮影後、高瀬菜央はしばらくスマホを持ったまま座っていた。
もちろん、画面は撮影用のものだ。
本当に紗季へ送ったわけではない。
それでも、彼女は送信後の余韻をまだ少し抱えているようだった。
「白瀬さん」
「はい」
「送る側も、疲れますね」
「はい」
「返す側ばかり大変だと思ってました」
「私も、美緒さん側を見て少し思いました」
「待つ側も、誘う側も、怖いんですね」
「はい」
高瀬は、スマホをテーブルに置いた。
「でも、今日の美緒は、曖昧な優しさから少し出た気がします」
「はい」
「今度、って言って逃げない」
「はい」
「紗季を追い詰めるためじゃなくて、届くために」
しらいさんは、昼前に二人で話した言葉を思い出した。
届くために、逃げ道を少し減らす。
その一歩は、きっと紗季にも届く。
怖い形で。
でも、たぶん必要な形で。
◇
その日の青灰色のノートは、美緒の一文になった。
しらいさんは、控室で静かに書いた。
『美緒さんは、“今度”を逃げ道にしないために、日付を入れた。』
書いたあと、少しだけ見つめる。
これは紗季の言葉ではない。
でも、紗季へ届く前の、美緒の勇気だ。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐ既読がつく。
『読みました』
『美緒さんも進みましたね』
しらいさんは少し笑う。
『うん』
『三崎が今日、かなり近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『“今度”は便利だけど、日付を入れた瞬間に本気になる』
『誘う側も怖い、と』
しらいさんは、画面を見ながら小さく息を吐いた。
やはり、今日も三崎さんは外側から見ていた。
『三崎さん』
『今日はカレンダー?』
少し間が空いてから、春日くんの返事。
『なぜ分かるんですか』
『当たり?』
『カレンダー付きメモ帳を見ていました』
『怖い』
『本当に』
しらいさんは、声を出さずに笑った。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
今日は紗季として大きく消耗したわけではない。
でも、美緒の送信ボタンを見ていたら、自分の中にも少し残るものがあった。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
その言葉は、自然に出た。
部屋へ入り、ローテーブルの前に座る。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
カップを置く。
ことん。
今日は、日付の音だった。
「今日は、美緒さんが日付を入れた」
しらいさんが言う。
「はい」
「今度、じゃなくて」
「はい」
「来週の水曜か木曜」
「具体的ですね」
「うん」
「怖いですね」
「怖かった」
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
「誘う側も、怖いんだね」
「はい」
「返す側ばかり怖いと思ってた」
「はい」
「でも、美緒さんも怖かった」
「はい」
「日付を入れたら、流せなくなる」
「はい」
「でも、今度のままだと届かない」
春日くんは、静かに頷いた。
「三崎も、同じことを言っていました」
「うん」
「曖昧なままなら、流れても傷が浅い。でも日付を入れたら、相手が返すか返さないかがはっきりする」
「それ、今日の美緒さん」
「はい」
「春日くんは?」
「俺ですか」
「うん。誘うとき、日付入れるの怖い?」
春日くんは少し考えた。
「怖いです」
「正直」
「はい」
「どうして?」
「断られるかどうかが、はっきりするので」
「うん」
「あと、相手に返事を求める形になるので」
「うん」
「でも、曖昧にしすぎると、こちらの本気も届かない」
しらいさんは、その言葉をゆっくり受け取った。
「じゃあ、美緒さんと同じ」
「そうですね」
「私も、たぶん同じ」
「はい」
「来られるなら行く、って言うのは楽」
「はい」
「でも、何曜日に行くって言うのは怖い」
「はい」
「守れなかったらどうしようって思う」
春日くんは、少しだけ声を柔らかくした。
「守れない日があってもいいと思います」
「出た」
「出ます」
「でも、必要なやつ」
しらいさんは少し笑った。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文を見せる。
『美緒さんは、“今度”を逃げ道にしないために、日付を入れた。』
春日くんは、それをゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「美緒さんの勇気ですね」
「そう」
「でも、紗季さんにとっては怖いメッセージにもなる」
「うん」
「そこがいいですね」
「いい?」
「物語として、です」
「春日くん、編集者」
「すみません」
「謝らないで。続けて」
春日くんは少し照れたように視線を落とした。
「優しいだけの誘いではなくなった。でも、乱暴でもない」
「うん」
「読者は、美緒さんを応援しつつ、紗季さんが苦しくなることも想像できる」
「うん」
「だから次を読みたくなると思います」
しらいさんは、頷いた。
たしかに、ここで物語は強くなる。
美緒が一歩踏み込む。
でも、その一歩は紗季にとって怖い。
どちらも悪くない。
だから読者は見届けたくなる。
「春日くん」
「はい」
「私たちも、日付入れる?」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
春日くんは一瞬固まった。
それから、真面目に聞く。
「何のですか」
「次に、何でもない日に来る日」
「……」
「撮影が重いからじゃなくて」
「はい」
「戻るためだけじゃなくて」
「はい」
「普通にミルクティー飲む日」
春日くんは、少しだけ目元を緩めた。
「入れたいです」
「怖い?」
「怖いです」
「私も」
「でも、入れますか」
「うん」
しらいさんはスマホを出した。
カレンダーを開く。
撮影予定を見ながら、少し考える。
「来週の金曜、撮影早く終わる予定」
「はい」
「予定だから、変わるかもしれない」
「はい」
「でも、来られるなら来るじゃなくて」
「はい」
「来週の金曜、来る」
言ってしまった。
言った瞬間、胸が少し鳴った。
春日くんも、少しだけ息を止めていた。
「分かりました」
「重い?」
「嬉しいです」
「でも、もし撮影が押したら」
「そのときは、そのときです」
「うん」
「日付を入れるのは、絶対に守れという意味ではなく、そこへ向かう気持ちを形にすることだと思います」
しらいさんは、目元が熱くなるのを感じた。
「春日くん」
「はい」
「今日、かなり好き」
「ありがとうございます」
「照れないの?」
「照れています」
「分かりにくい」
「すみません」
「謝らないで」
二人で少し笑った。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割八分」
「高いですね」
「日付入れたから」
「怖くなりませんでしたか」
「怖い。でも、ちょっと嬉しい」
「はい」
「美緒さんも、そうだったのかな」
「そうかもしれません」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「来週の金曜」
「はい」
「来る」
「待っています」
「急がないで」
「はい」
「でも、待ってて」
「もちろんです」
しらいさんは笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「来週の金曜も」
少し照れた。
でも、言えた。
「うん」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。
美緒さんは、“今度”を逃げ道にしないために、日付を入れた。
そして、しらいさんも日付を入れた。
来週の金曜。
ただそれだけのことなのに、部屋の空気が少し変わった気がした。
絶対の約束ではない。
撮影が押すかもしれない。
疲れて来られないかもしれない。
予定は変わるかもしれない。
それでも、日付を入れた。
曖昧な今度ではなく、来週の金曜。
春日はスマホのカレンダーを開き、その日に小さく予定を入れた。
『ミルクティー』
それだけ。
でも、十分だった。




