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第145話 紗季さんは、日付のある誘いを削除できなかった

岸谷紗季のスマホに、そのメッセージが届いたのは、夜の部屋だった。


 仕事から帰ってきて、靴を脱いで、鞄を椅子の横に置いたあと。


 いつものように、部屋の明かりをつける。

 白いカーテン。

 小さなテーブル。

 グレーのマグカップ。

 一人分の椅子。


 そこにスマホを置いた瞬間、画面が光った。


 美緒からだった。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 紗季は、すぐには動かなかった。


 昨日までの「今度」ではなかった。


 日付がある。


 水曜。

 木曜。


 その二つの曜日が、画面の中で妙に現実の重さを持っていた。


 ただの社交辞令ではない。


 流れていく言葉ではない。


 予定にできる言葉だった。


 だからこそ、怖かった。


 紗季はスマホを持ち上げる。


 画面を見つめる。


 返信欄を開く。


『大丈夫』


 打ちかけて、止まった。


 何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。


 行ける、という意味の大丈夫なのか。

 気にしないで、という意味の大丈夫なのか。

 断るための大丈夫なのか。

 相手を安心させるためだけの大丈夫なのか。


 分からない。


 だから、消した。


 指先が、少しだけ冷えていた。


 今までなら、たぶんこの言葉で済ませていた。


 大丈夫。


 その四文字は便利だった。


 相手を傷つけないように見える。

 自分も説明しなくて済む。

 場を終わらせられる。


 けれど今日の紗季には、その言葉が選べなかった。


 画面には、美緒のメッセージが残っている。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 紗季は、消せなかった。


 返信できない。


 でも、削除もできない。


 スマホを伏せることもできず、ただテーブルの上に置いた。


 画面は、上を向いていた。


    ◇


 控室で台本を読んだしらいさんは、長く息を吐いた。


「これは……きついですね」


 声に出すと、少しだけ現実味が増した。


 今日の場面。


 紗季が美緒からの日付入りの誘いを受け取る。


 返事をしようとする。


 でも、いつもの「大丈夫」が使えない。


 そして、削除できない。


 書かれている動作は少ない。


 けれど、心の中で起きていることは多すぎる。


 そこへ理沙さんが入ってきた。


「喉は?」


「九割一分です」


「私の評価では八割九分」


「低いですね」


「今日は、言葉にしない混乱が多い日だから」


 理沙さんは椅子に座り、タブレットを閉じた。


「日付のある誘い、来たわね」


「はい」


「紗季にとっては、かなり怖い」


「はい」


「でも、完全に嫌なわけではない」


「はい」


「だから消せない」


 しらいさんは、小さく頷いた。


 消せない。


 今日の中心は、たぶんそこだ。


 行くとも言えない。

 断るとも言えない。

 でも、なかったことにはできない。


「今日、気をつけることは?」


 理沙さんが聞く。


 しらいさんは、少し考えた。


「迷いを、答えにしないこと」


「続けて」


「紗季さんは、まだ行くとは決めていない」


「ええ」


「でも、行きたくないとも決めていない」


「そう」


「だから、迷っている状態そのものを演じる」


 理沙さんは、わずかに頷いた。


「いいわね」


「あと……“大丈夫”を使えなくなったことを、大きくしすぎない」


「ええ」


「紗季さんは、自分でそれが大きな変化だとは分かっていない」


「その通り」


 理沙さんは、タブレットを膝に置いた。


「今日は、返せなかった場面ではないわ」


「はい」


「いつもの言葉で逃げられなかった場面」


 その言葉に、しらいさんの胸が少し重くなった。


 返せないだけなら、今までもあった。


 でも今日は違う。


 いつもの大丈夫が使えない。


 それは、紗季が少し変わってしまった証拠だった。


    ◇


 撮影前、高瀬菜央が静かに近づいてきた。


 今日は美緒の出番はない。


 けれど、自分の送った言葉が紗季に届く日だから、現場に残っていた。


「白瀬さん」


「はい」


「今日、見ていてもいいですか」


「もちろんです」


「美緒として、怖いです」


 高瀬は少しだけ苦笑した。


「送った側なのに?」


 しらいさんが聞くと、高瀬は頷いた。


「はい。昨日は送る側が怖かったんですけど」


「はい」


「今日は、届いたあとが怖いです」


「届いたあと」


「美緒の言葉が、紗季を困らせるかもしれない」


 しらいさんは、返事をする前に一度だけ台本へ目を落とした。


「困ると思います」


「ですよね」


「でも、困ることが悪いとは限らない気もします」


 高瀬は少し目を開いた。


「どういうことですか」


「紗季さんは今まで、困る前に“大丈夫”で終わらせていたのかもしれません」


「ああ……」


「今日は、困ったまま残る」


「はい」


「それが苦しいけど、少しだけ本当なのかもしれない」


 高瀬は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。


「美緒、罪悪感ありますね」


「ありますか」


「あります。でも、送ってよかったとも思っていると思います」


「はい」


「白瀬さん」


「はい」


「紗季に、嫌われないですかね」


 その聞き方が、少し美緒そのものだった。


 しらいさんは、優しく笑った。


「紗季さんは、まだそこまで考えられないと思います」


「そこまで?」


「嫌いとか、好きとか、行きたいとか、行きたくないとか」


「はい」


「その前で止まってる」


 高瀬は、小さく頷いた。


「じゃあ、見守ります」


「はい」


「美緒として、ちょっと胃が痛いです」


「紗季としても、胃が痛いです」


 二人で小さく笑った。


 笑えたことで、少しだけ現場の空気が柔らかくなった。


    ◇


 撮影は、岸谷紗季の部屋セットで行われた。


 夜。


 仕事から帰ったばかりの部屋。


 紗季は鞄を置く。


 スマホをテーブルに置く。


 画面が光る。


 美緒のメッセージ。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 監督が説明する。


「白瀬さん、今日は“怖い”を先に出しすぎないでください」


「はい」


「まず、日付があることに少し止まる」


「はい」


「それから、自分のいつもの言葉が使えないことに気づく」


「はい」


「削除できないことは、最後に残ります」


 しらいさんは頷いた。


 順番が大事だ。


 日付。

 大丈夫。

 消せない。


 一度目の本番。


 紗季は部屋に入る。


 スマホを置く。


 画面が光る。


 メッセージを読む。


 しらいさんは、そこで怖さを出しすぎた。


 日付を見た瞬間に、表情が少し固まりすぎた。


「カット」


 監督が言う。


「今のは、紗季が日付を脅威として見ています」


「はい」


「怖いのは怖い。でも、最初から脅威ではない」


「はい」


「“本当に来た”くらいで」


 本当に来た。


 それなら分かる。


 美緒が、社交辞令ではなく本当に誘ってきた。


 その驚きが先だ。


 二度目。


 紗季はメッセージを見る。


 日付を読む。


 水曜。

 木曜。


 少しだけ指が止まる。


 返信欄を開く。


『大丈夫』


 打つ。


 しかし、すぐに違うと気づく。


 消す。


 ここで、しらいさんは少し感情を入れすぎた。


 「大丈夫」を使えないことに気づく芝居が、分かりやすくなりすぎた。


 カット。


 監督が首を少し傾げる。


「今のは、紗季が自分の変化を分かっていますね」


「はい」


「まだ、分からなくていいです」


「はい」


「ただ、いつもの言葉が今日は手に馴染まない。それくらいで」


 手に馴染まない。


 その表現が、しらいさんの中に入ってきた。


 いつも使っていたペンが、急に書きにくくなったような感覚。


 言葉そのものを否定しているわけではない。

 でも、今日は使えない。


 三度目。


 紗季は帰宅する。


 スマホが光る。


 メッセージを読む。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 ほんの少しだけ、画面を見る時間が長くなる。


 返信欄を開く。


『大丈夫』


 打つ。


 指が止まる。


 何かが違う。


 けれど、その違和感に名前はない。


 消す。


 画面には、美緒のメッセージだけが残る。


 紗季は、削除しようとはしない。


 でも、返事もできない。


 スマホをテーブルに置く。


 画面は上。


 部屋の明かりの下で、日付のある誘いが残っている。


 紗季は立ち上がりかける。


 けれど、一度だけスマホを見る。


 見つめない。


 ただ、そこにあることを確認する。


 カット。


 現場が静かになった。


 監督がモニターを見て、深くはないが確かに頷いた。


「今のでいきましょう」


 しらいさんは、静かに息を吐いた。


 返せなかった。


 でも、消せなかった。


 その二つが、同じ画面に残った。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は今日は珍しく、弁当を開ける前から腕を組んでいる。


「何だその顔」


「難しいことを考えてる顔」


「白瀬アカリか」


「そう」


「即答だな」


 三崎は真面目な顔で言った。


「日付のある誘いが来たあと、返せないって、かなりきついよな」


 春日は箸を止めた。


「どうしてそう思う」


「今度、なら流せる」


「うん」


「でも、水曜か木曜って来たら、返すか返さないかを迫られる」


「うん」


「それで返せない。でも消せない。これ、かなり進んでる」


 春日は、昨日のプロットを思い出すまでもなく、今日も三崎が近いことを知った。


「返せないのに、進んでるのか」


「進んでるだろ」


 三崎は、唐揚げ弁当の蓋を開けながら言う。


「だって、拒絶してるなら消すじゃん」


「うん」


「行く気があるなら返すじゃん」


「うん」


「返せない。でも消せない。つまり、どっちでもない場所で止まってる」


「うん」


「でも、その“どっちでもない”って、前より相手の言葉を持ってるってことだろ」


 春日は、胸の中でその言葉を受け取った。


 返せないことと、消せないことは違う。


 しらいさんが今日書きそうな言葉に、かなり近い気がした。


「三崎」


「何」


「今日も外側の番人だ」


「唐揚げ何個?」


「十一個」


「半端だな」


「今日の中間に合っている」


「現物は?」


「出ない」


「そこは中間じゃないのか」


「出ない」


「はいブラック」


    ◇


 撮影後、しらいさんは控室で少しだけ座ったまま動かなかった。


 紗季は返せなかった。


 でも、削除しなかった。


 それだけなのに、体の中に妙な疲れが残っている。


 高瀬がそっと近づいてきた。


「白瀬さん」


「はい」


「美緒としては、削除されなかっただけで、ちょっと救われます」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「紗季としては、返せなくてごめんって思っています」


「ですよね」


「でも、ごめんとも返せない」


「うわ……」


 高瀬は胸に手を当てた。


「二人とも、まだまだですね」


「はい」


「でも、進んでますよね」


「進んでると思います」


「じゃあ、よかった」


 高瀬は、小さく笑った。


「美緒には、まだ返事が来ない」


「はい」


「でも、視聴者は消されてないことを知る」


「はい」


「これ、強いですね」


「かなり」


 しらいさんは頷いた。


 美緒は知らない。


 でも、見る人は知っている。


 紗季が消さなかったことを。


 返せない沈黙の中に、拒絶ではないものがあることを。


    ◇


 青灰色のノートを開く。


 今日の一文は、春日くんへ送る前から決まっていた。


『紗季さんは返せなかった。でも、日付のある誘いを削除できなかった。』


 書いたあと、少しだけ迷う。


 もう一文、書きたくなる。


 返せないことと、消せないことは違う。


 でも、それはまだ明日に取っておく。


 今日は、紗季の事実だけでいい。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読。


『読みました』


『消せなかったんですね』


 しらいさんは返信する。


『うん』


『三崎がかなり近いことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『返せない。でも消せない。それは前より相手の言葉を持っているということではないか、と』


 しらいさんは、控室で目を閉じた。


 今日も、外側の言葉が刺さる。


『三崎さん』


『今日は唐揚げ十一個?』


 春日くんからの返事は少しだけ遅れた。


『怖すぎます』


『当たり?』


『はい』


『中間だから?』


『そこまで同じです』


『怖い』


『本当に』


 少し笑えた。


 その笑いで、紗季の部屋から少し戻れた気がした。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 今日は話したかった。


 返せなかったこと。

 消せなかったこと。

 いつもの「大丈夫」を選べなかったこと。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は少し低かった。


 でも、ちゃんと自分の声だった。


 部屋に入ると、ローテーブルにはいつものものがある。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 春日くんがミルクティーを作る。


 今日は蜂蜜少し多めだった。


「今日は甘い」


「日付のある誘いの日なので」


「理屈が分からない」


「少し現実が重い日なので」


「分かるような、分からないような」


 でも、ありがたかった。


 カップを置く。


 ことん。


 今日は、消せなかった音だった。


「紗季さん、返せなかった」


「はい」


「でも、消せなかった」


「はい」


「大丈夫って打った」


「はい」


「消した」


「はい」


「いつもの言葉なのに、今日は使えなかった」


 春日くんは、静かに聞いていた。


「それ、すごく大きいですね」


「出た」


「出ます」


「でも、今日のは本当に大きいかも」


「はい」


「大丈夫が使えなくなったの、少し怖かった」


「はい」


「紗季さんにとって、大丈夫って便利だったから」


「はい」


「相手を安心させられるし、自分も説明しなくて済む」


「はい」


「でも、今日は使えなかった」


 春日くんは、少しだけ考えてから言った。


「紗季さんが、言葉を雑に使えなくなってきたのかもしれません」


 しらいさんは、顔を上げた。


「雑に」


「はい」


「大丈夫という言葉が、もう前みたいな逃げ道だけでは使えなくなった」


「うん」


「それは苦しいですが、進んでいる気がします」


 しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。


 甘さが喉を通る。


「春日くん」


「はい」


「今日、かなり効く」


「よかったです」


「出た」


「出ます」


    ◇


 青灰色のノートを開く。


 今日の一文を見せる。


『紗季さんは返せなかった。でも、日付のある誘いを削除できなかった。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「できなかったことと、できなかったことが並んでいますね」


「え?」


「返せなかった。削除できなかった」


「あ……本当だ」


「でも、二つ目のできなかったは、進んでいる」


 しらいさんは、少しだけ息を止めた。


 できなかったことが二つ。


 でも、意味が違う。


 返せなかった。

 削除できなかった。


 前者はまだ言葉を選べない弱さ。

 後者は相手の言葉をなかったことにできない変化。


「春日くん」


「はい」


「それ、すごくいい」


「はい」


「書き足したい」


「今日は?」


「……我慢する」


「偉いです」


「先生」


「すみません」


「謝らないで」


 しらいさんは笑った。


 少しだけ肩が軽くなった。


「返せなかったことだけ見たら、止まってるみたい」


「はい」


「でも、削除できなかったことも見ると、止まってるだけじゃない」


「はい」


「美緒さんの言葉、持ってる」


「はい」


「紗季さん、まだ持ってる」


 春日くんは頷いた。


「それが次につながると思います」


「うん」


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割四分」


「少し残っていますね」


「日付が六分残ってる」


「水曜か木曜ですか」


「うん」


「その六分は?」


「帰り道で少し置く」


「大丈夫そうですか」


「今日は、大丈夫って言わない」


 春日くんは少しだけ笑った。


「では?」


「置いて帰る」


「はい」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「返せないことと、消せないことは違うね」


「はい」


「まだ返せない」


「はい」


「でも、消せない」


「はい」


「それ、覚えておく」


「俺も覚えておきます」


 春日くんは、いつものように言った。


「おかえりなさい」


 しらいさんは少し笑う。


「ただいま」


「行ってらっしゃい」


「明日の分?」


「はい」


「ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


 そのやり取りで、ちゃんと帰れそうだった。


「また帰ってくる」


「待っています」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。


 紗季さんは返せなかった。

 でも、日付のある誘いを削除できなかった。


 できなかったことが、二つ。


 けれど、それは同じではない。


 人は、できないことの中でも進むことがある。


 言えない。

 返せない。

 断れない。


 それでも、消せない。

 伏せない。

 すぐには受け取らない。


 その小さな違いが、物語を進めていく。


 春日は自分のスマホを見た。


 来週の金曜。


 カレンダーに入れた「ミルクティー」の予定が、まだそこにある。


 約束もまた、日付を持つと少し重い。


 でも、削除する気にはならなかった。

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