表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
145/173

第147話 行けない、とは書けなかった夜

 岸谷紗季は、返信欄を開いたまま止まっていた。


 美緒からのメッセージは、まだ消していない。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 日付のある誘い。


 「今度」ではなくなった言葉。


 紗季は、それを何度も見た。


 水曜。

 木曜。


 曜日があるだけで、言葉は急に現実の重さを持つ。


 予定になる。

 待ち合わせになる。

 行くか、行かないかを選ばなければならないものになる。


 紗季は、返信欄に指を置いた。


『ごめん』


 そこまで打つ。


 そのあとに、続ける。


『行けない』


 画面の中に、その五文字が並んだ。


 ごめん、行けない。


 それだけなら、短い。

 相手にも伝わる。

 誘いを終わらせることができる。


 けれど、紗季の指は送信ボタンに触れなかった。


 行けない。


 そう書いた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。


 本当に、行けないのだろうか。


 仕事があるわけではない。

 予定が埋まっているわけでもない。

 体調が悪いわけでもない。


 なら、なぜ行けないのか。


 説明できない。


 行きたくないのかと聞かれたら、それも違う気がした。


 行きたい、とも言えない。

 行きたくない、とも言えない。

 行けない、とも言えない。


 紗季は、画面の文字を見つめた。


『ごめん、行けない』


 その文章は、きれいに断っているように見える。


 でも、紗季の中の本当とは少し違っていた。


 まだ選べていないのに、断る形だけを先に作っている。


 そんな気がした。


 紗季は、その文字を消した。


 一文字ずつ。


 行けない。

 ごめん。


 消える。


 画面には、また美緒のメッセージだけが残った。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 紗季はスマホを伏せなかった。


 でも、返せなかった。


    ◇


 控室でその台本を読んだしらいさんは、しばらく声を出せなかった。


 今日の場面は、昨日よりさらに静かだった。


 紗季が返信欄を開く。

 「ごめん、行けない」と打つ。

 送れずに消す。


 それだけ。


 けれど、その「それだけ」が重い。


 返せない。

 消せない。

 そして今日は、断れない。


 今までの紗季なら、相手を傷つけないために「ごめん」と言えたかもしれない。


 今までの紗季なら、行けない理由を作ったかもしれない。


 けれど、今の紗季はそれができない。


 行けない、と書くには、自分の気持ちを少しでも選ばなければならないから。


 そこへ理沙さんが入ってきた。


「喉は?」


「九割です」


「私の評価では八割八分」


「低いですね」


「今日は、言葉にする前の混乱が強い日だから」


 理沙さんは椅子に座り、タブレットを閉じた。


「今日の場面、分かっているわね」


「はい」


「紗季は、行けないと書けない」


「はい」


「どうして?」


 しらいさんは、少し考えた。


「行けない理由がないから」


「それもある」


「でも、行きたいとも言えない」


「ええ」


「行けないと決めたわけでも、行きたいと決めたわけでもない」


「そう」


「まだ選べない」


 理沙さんは小さく頷いた。


「そこね」


「はい」


「今日は、紗季を“断らない人”にしないこと」


「断らない人」


「ええ。断らないのではなく、まだ断れない。もっと言うなら、まだ選べない」


「はい」


「選ばない人と、選べない人は違う」


 その言葉は、今日の芯になりそうだった。


 しらいさんは、胸の中で繰り返す。


 選ばない人と、選べない人は違う。


「今日の目標は?」


 理沙さんが聞く。


 しらいさんは答えた。


「断る文章を書いたのに、その文章が自分のものじゃないと気づくこと」


「いいわ」


「でも、気づきすぎない」


「そう」


「紗季さんはまだ、自分が選べないことを説明できない」


「その距離で行きなさい」


    ◇


 撮影前、高瀬菜央がそっと近づいてきた。


 今日は美緒の出番はない。


 けれど、また残っていた。


「白瀬さん」


「はい」


「今日、紗季は返せませんよね」


「はい」


「美緒としては、怖いです」


「そうですよね」


「でも、白瀬さんが紗季なら……行けないって書けます?」


 しらいさんは少し迷ってから、首を横に振った。


「たぶん、書けないです」


「どうしてですか」


「行けないと書くには、行かない理由が必要な気がするから」


「ああ……」


「でも、紗季さんは理由が分からない」


「はい」


「行きたくないわけじゃない」


「はい」


「行きたいとも言えない」


「はい」


「だから、行けない、とも言えない」


 高瀬は、深く息を吐いた。


「美緒、待つしかないですね」


「はい」


「でも、美緒には、紗季がそこまで迷っていることは見えない」


「はい」


「返事がない、だけに見える」


 しらいさんは頷いた。


 そこが切ない。


 視聴者は見る。


 紗季が「行けない」と書いて、消すところを。


 でも、美緒は知らない。


 美緒の画面には、ただ返事が来ない時間だけが流れる。


「美緒さん、苦しいですね」


 しらいさんが言うと、高瀬は少し笑った。


「紗季も苦しいですよ」


「はい」


「二人とも苦しいのに、相手には半分も見えてない」


「それ、今日の物語ですね」


 高瀬は、静かに頷いた。


「見えないところで、相手のことを考えてる」


    ◇


 撮影は岸谷紗季の部屋セットで行われた。


 夜。


 テーブルの上にスマホがある。


 画面には、美緒からの日付入りの誘い。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 紗季は返信欄を開く。


 打つ。


『ごめん、行けない』


 消す。


 監督が説明する。


「白瀬さん、今日は“断る勇気がない”ではありません」


「はい」


「“断る言葉もまだ自分のものになっていない”です」


「はい」


「紗季は、行けないと言えば終わることは分かっている」


「はい」


「でも、それを送れない」


「はい」


「なぜなら、それが本当に自分の答えなのか分からないから」


 しらいさんは頷いた。


 答えではない言葉。


 それを送れない。


 一度目の本番。


 紗季はスマホを見る。


 返信欄を開く。


『ごめん、行けない』


 打つ。


 その文字を見て、しらいさんは少し苦しさを出しすぎた。


 胸が詰まるような顔になった。


 カット。


 監督がすぐに言う。


「今のは、紗季がかなり苦しさを自覚しています」


「はい」


「まだ、そこまで言葉になっていない」


「はい」


「苦しい、より先に、違う、です」


 違う。


 それは分かる気がした。


 行けない、と書いた。


 でも違う。


 それだけ。


 二度目。


 紗季は打つ。


『ごめん、行けない』


 画面を見る。


 今度は感情を抑えすぎた。


 ただ迷っているだけに見える。


 カット。


 監督は少しだけ首を傾げた。


「今のは、文章を整えているように見えます」


「はい」


「もっと、文章そのものが手に馴染まない感じで」


「はい」


 文章が手に馴染まない。


 昨日の「大丈夫」と同じだ。


 いつもの言葉。

 使えば楽になる言葉。


 でも今日は、手に馴染まない。


 三度目。


 紗季はスマホを見る。


 日付のある誘いを読む。


 返信欄を開く。


『ごめん』


 打つ。


 一度止まる。


 それから、


『行けない』


 と続ける。


 画面の中に文章が完成する。


 紗季は、それを読んでいる。


 長くはない。


 けれど、送れない。


 苦しい顔はしない。


 泣きそうにもならない。


 ただ、その文章が自分の答えではないことに、体が先に気づいている。


 指が送信ボタンへ向かわない。


 代わりに、一文字ずつ消す。


 行けない。

 ごめん。


 消える。


 画面には、美緒の誘いが残る。


 紗季はスマホをテーブルに置く。


 伏せない。


 でも、見続けない。


 ただ、そこにある。


 カット。


 現場が静かになった。


 監督がモニターを見て、静かに頷く。


「今のでいきましょう」


 しらいさんは、ゆっくり息を吐いた。


 行けない、と言えなかった。


 でも、それは逃げではなかった。


 まだ選べない人の、静かな停止だった。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は今日は唐揚げ弁当を開けているが、なぜか箸で唐揚げを持ち上げたまま止まっていた。


「食べろ」


「今、考えてる」


「また白瀬アカリか」


「当たり前だろ」


「唐揚げ落ちるぞ」


 三崎は唐揚げを口に入れ、噛みながら言った。


「誘いに対して、“行けない”って書けないことあるよな」


 春日は、もう驚くより先に苦笑した。


「また来たな」


「何が」


「外側の番人が」


「褒め言葉として受け取る」


 三崎は少し真面目な顔に戻った。


「行けないって書くの、意外と難しいんだよ」


「うん」


「予定があるなら書ける。体調悪いなら書ける。仕事なら書ける」


「うん」


「でも、理由が自分でも分からないと書けない」


 春日は、箸を止めた。


「行きたくないわけじゃない。でも行けるとも言えない」


「うん」


「そういうときの“行けない”って、なんか嘘っぽくなる」


 まさに今日の紗季だった。


 三崎は続ける。


「選ばないのと、選べないのは違うんだよな」


 春日は、思わず三崎を見た。


「何だよ」


「いや、今日の報酬が決まった」


「唐揚げ何個?」


「十三個」


「増えた」


「心の中で」


「現物なし」


「いつも通り」


 三崎は笑いながらも、少しだけ声を落とした。


「でも、これを白瀬アカリがやったら刺さると思う」


「どうして」


「返事しないから進んでない、じゃなくて」


「うん」


「返事しようとして、自分の嘘に気づくんだろ」


「……」


「それ、進んでるじゃん」


 春日は、三崎の言葉を胸の中にしまった。


 返事をしない。


 でも、止まっているわけではない。


 自分の嘘に気づく。


 それもまた、進展だった。


    ◇


 撮影後、しらいさんは控室で高瀬菜央と少し話した。


 高瀬は、どこか落ち着かない顔をしていた。


「白瀬さん」


「はい」


「美緒、返事来ないんですよね」


「はい」


「でも、紗季が消した文字を見られたら、たぶん待てる気がします」


「見られないですけどね」


「そうなんですよね」


 高瀬は苦笑した。


「視聴者だけが知ってる」


「はい」


「美緒は知らない」


「はい」


「ずるいですね、この構造」


「かなり」


 二人で笑った。


 けれど、その笑いには少し切なさがあった。


「美緒には、返事がないように見える」


「はい」


「でも、紗季は返事を作って消してる」


「はい」


「それを美緒が知らないの、苦しいです」


「でも、視聴者は知る」


「はい」


「だから、見ている人は二人とも責めにくくなる」


 高瀬は、少しだけ目を見開いた。


「ああ……確かに」


「美緒、急かしてない」


「紗季、無視してるわけじゃない」


「はい」


「どっちも頑張ってる」


 高瀬は、静かに頷いた。


「これ、いいですね」


「はい」


「地味だけど、ずっと見ていたくなります」


    ◇


 青灰色のノートを開く。


 今日の一文は、すぐに決まった。


『紗季さんは、行けないとも言えなかった。選ばないのではなく、まだ選べない。』


 書いたあと、しばらくその文字を見た。


 選ばないのではなく、まだ選べない。


 これは、紗季さんだけの言葉ではない。


 しらいさん自身にも、たぶん何度もあった。


 写真を撮り、春日くんへ送る。


 すぐ既読。


『読みました』


『今日はかなり大事ですね』


 しらいさんは返す。


『うん』


『三崎が、ほぼ同じことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『選ばないのと、選べないのは違う』


『返事しないから進んでいないのではなく、返事しようとして自分の嘘に気づくのも進展だ、と』


 しらいさんは、画面を見たまま動けなくなった。


 自分の嘘に気づく。


 それは、今日の紗季そのものだった。


『三崎さん』


『今日は唐揚げ十三個?』


 春日くんの返事はすぐだった。


『怖いを超えてきました』


『当たり?』


『はい』


『やっぱり』


『本人は現物支給を諦めていません』


『心の中で』


『安定です』


 しらいさんは少し笑った。


 その笑いで、紗季の部屋から少し戻れた。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 今日は、話さないと少し重いと思った。


 行けないと書けなかった紗季の夜を、自分の部屋だけに持ち帰るには、まだ少し整理が足りなかった。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は少し疲れていた。


 でも、沈んではいなかった。


 部屋に入る。


 いつものローテーブル。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 春日くんがミルクティーを作る。


 今日は蜂蜜少し多めだった。


「今日は甘い」


「選べない日なので」


「分かるような、分からないような」


「すみません」


「謝らないで。今日は助かる」


 カップを受け取り、コースターへ置く。


 ことん。


 今日は、選べない音だった。


「紗季さん、“行けない”って書いた」


「はい」


「でも、送れなかった」


「はい」


「行けない理由がない」


「はい」


「でも、行けるとも言えない」


「はい」


「行きたいとも言えない」


「はい」


「行きたくないとも言えない」


 春日くんは、静かに聞いていた。


「だから、消した」


「はい」


「でも、誘いは消さなかった」


「はい」


「何も選んでないようで、何かは残してる」


 春日くんは、少しだけ頷いた。


「選べない状態を、消さずに持っているんですね」


「うん」


「それは、苦しいですけど、進んでいると思います」


「三崎さんも言ってた?」


「はい」


「自分の嘘に気づくのも進展」


「はい」


 しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。


 甘さが少し強い。


 でも、今日はそれでよかった。


「春日くん」


「はい」


「私も、そういうことある」


「はい」


「行けないって言えば楽なのに、言えない」


「はい」


「行きたいとも言えない」


「はい」


「でも、消せない」


「はい」


「そういう予定とか、言葉とか、人とか」


 春日くんは、少しだけ間を置いてから言った。


「俺との来週の金曜も、そうなったら言ってください」


 しらいさんは、目を上げた。


「どういうこと?」


「来ると言ったけれど、行けないとも行けるとも言えない日になったら」


「うん」


「そのまま言ってください」


「選べないって?」


「はい」


「面倒くさいよ」


「はい」


「待つ側も困るよ」


「困ると思います」


「正直」


「でも、行けないと嘘で決められるより、選べないと言ってもらえるほうがいいです」


 しらいさんは、目元が少し熱くなるのを感じた。


「春日くん」


「はい」


「今日、それはずるい」


「すみません」


「謝らないで」


 しらいさんは、カップを置いた。


 ことん。


「でも、覚えておく」


「はい」


「選べないって言ってもいい」


「はい」


「行けないでも、行けるでもなく」


「はい」


「まだ選べない」


「はい」


「それも、返事?」


 春日くんは少し考えてから答えた。


「返事の手前かもしれません」


「返事の手前」


「はい。でも、沈黙よりは少し手前に見える場所です」


「いいね、それ」


「はい」


「書き足したい」


「今日は?」


「我慢する」


「偉いです」


「先生」


「すみません」


「謝らないで」


 二人で少し笑った。


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割五分」


「少し残っていますね」


「選べない五分」


「その五分は?」


「帰り道で、選ばずに持って帰る」


「はい」


「大丈夫って言わない」


「分かりました」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「選ばないのと、選べないのは違う」


「はい」


「返せないのと、返したくないのも違う」


「はい」


「行けないのと、まだ選べないのも違う」


「はい」


「違いが多いね」


「はい」


「面倒くさいね」


「かなり」


 二人で笑った。


 その笑いが、今日の重さを少しだけ軽くした。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「待っています」


「急がないで」


「はい」


「でも、待ってて」


「もちろんです」


 しらいさんは、少しだけ安心した顔で言った。


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。


 紗季さんは、行けないとも言えなかった。

 選ばないのではなく、まだ選べない。


 今日の一文は、静かに重かった。


 選ばない人。

 選べない人。


 その違いを見誤ると、人を簡単に責めてしまう。


 なぜ返さないのか。

 なぜ来ないのか。

 なぜ断らないのか。

 なぜ選ばないのか。


 でも、本当は選ばないのではなく、まだ選べないだけかもしれない。


 春日はスマホを見た。


 来週の金曜の予定。


『普通のミルクティー』


 その文字は、まだ消していない。


 約束は嬉しい。


 でも、怖くもある。


 もし、しらいさんがその日に選べなくなったとしても。


 春日は、待てるだろうか。


 急がずに。

 でも、待つ場所を消さずに。


 少しだけ難しい宿題が増えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ