第148話 春日、誘われる側の怖さを少しだけ知る
誘われることは、嬉しいことだと思っていた。
誰かに声をかけられる。
予定に入れてもらえる。
一緒に過ごす相手として、選んでもらえる。
それは、基本的にはいいことだ。
春日悠真は、そう思っていた。
少なくとも昨日までは。
けれど、しらいさんが話した岸谷紗季のことを思い出すと、その考えが少し揺れた。
美緒から届いた、日付のある誘い。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』
優しい言葉だった。
強引ではない。
責めていない。
踏み込みすぎてもいない。
それでも紗季は返せなかった。
『ごめん、行けない』
そう打って、消した。
行きたいとも言えない。
行きたくないとも言えない。
行けるとも言えない。
行けないとも言えない。
選ばないのではなく、まだ選べない。
昨夜、しらいさんはそう言った。
春日は、その言葉が朝になっても胸に残っていた。
そして、ふと思い出した。
自分にも、そういう日があった。
◇
社会人になったばかりのころ、春日は先輩に何度も飲みに誘われた。
「春日、今日ちょっと行くぞ」
それは、断りにくい誘いだった。
悪意はない。
先輩は面倒見がよく、仕事も教えてくれた。
嫌な人ではなかった。
むしろ、いい人だった。
だからこそ、断りにくかった。
疲れている。
早く帰りたい。
明日の朝も早い。
一人で少し静かにしたい。
そう思っていても、口から出るのはだいたい同じだった。
「はい、大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
でも、誘われた瞬間に、断る理由を探すより先に「大丈夫です」が出た。
誘われること自体は嬉しい。
気にかけてもらえるのはありがたい。
輪の中に入れてもらえるのも、たぶん悪いことではない。
でも、断れない誘いは、扉ではなく壁になることがある。
そのときの自分は、うまく説明できなかった。
今なら少しだけ分かる。
誘いは、相手が差し出した扉だ。
けれど、断る力がない人にとっては、その扉は「通らなければいけない入口」に見える。
春日は、朝の電車の中でスマホを見た。
来週の金曜。
カレンダーに入れた予定。
『普通のミルクティー』
しらいさんが、自分から日付を入れてくれた。
それは嬉しい。
かなり嬉しい。
でも、もしその日が近づいて、彼女が苦しくなったら。
来るとも言えない。
行けないとも言えない。
まだ選べない。
そうなったとき、自分はその予定を「扉」のままにしておけるだろうか。
壁にしてしまわないだろうか。
◇
昼休み、三崎は唐揚げ弁当を開ける前から春日の顔を見ていた。
「春日」
「何だ」
「今日は誘われる側の顔をしてる」
「何だそれは」
「今作った」
「毎日顔を作るな」
三崎は唐揚げに箸を伸ばしながら、当然のように言った。
「白瀬アカリ関連?」
「何でもそこにつなげるな」
「違うのか?」
春日は少し黙った。
違わない。
ただ、白瀬アカリ本人というより、しらいさんから聞いた紗季の話が、自分の過去に触れたのだ。
「誘われるのって、怖いこともあるなと思って」
春日が言うと、三崎は「お」と少しだけ目を細めた。
「急に深いところ来たな」
「お前が聞いたんだろ」
「聞いたけど」
三崎は唐揚げを一つ口に入れ、少し考えた。
「まあ、あるだろ」
「あるか」
「ある。断れる人にとっては誘いだけど、断れない人にとっては召集令状みたいになる」
「表現が強い」
「でも近いだろ」
「近いな」
三崎は少しだけ笑って、味噌汁の蓋を開けた。
「誘いってさ、断る権利がある人には嬉しいんだよ」
「うん」
「でも、断るのが苦手な人には、ちょっと怖い」
春日は、その言葉をゆっくり受け取った。
これだ、と思った。
「断る権利がある人には嬉しい。断るのが苦手な人には怖い」
「うん」
「かなりいいな」
「唐揚げ何個?」
「十三個」
「昨日と同じ」
「安定の高評価」
「現物は?」
「出ない」
「はいブラック」
三崎はもう慣れたようにそう言って、唐揚げを食べた。
けれど、すぐにまた真面目な顔に戻る。
「でも、誘う側も難しいよな」
「うん」
「曖昧すぎると届かない。具体的すぎると重い」
「うん」
「だから、誘う側が悪いわけじゃない」
「そうだな」
「誘われる側が弱いわけでもない」
「うん」
「ただ、扉の重さが人によって違う」
春日は箸を止めた。
「今日、かなり言うな」
「外側の番人だからな」
「それ、もはや何でもありだな」
「でも当たるだろ」
「当たる」
春日は素直に認めた。
扉の重さが人によって違う。
その言葉も、しらいさんに伝えたいと思った。
◇
その日のしらいさんの撮影は、比較的短かった。
岸谷紗季の部屋で、日付入りの誘いが残ったスマホを一度見る場面。
職場で、いつも通り仕事をする場面。
そして、帰り道に少しだけ足取りが鈍る場面。
大きな台詞はない。
けれど、昨日の「行けないとも言えなかった」状態が、体の中に残っている。
撮影後、しらいさんからメッセージが届いた。
『撮影終わった』
春日はすぐに返す。
『おつかれさまでした』
『今日は、三崎がかなりいいことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『誘いは、断る権利がある人には嬉しい。でも、断るのが苦手な人には怖い、と』
既読がついたあと、しばらく返事がなかった。
春日はスマホを見つめそうになって、やめた。
伏せない。
見張らない。
急がない。
少しして、返事が来た。
『それ、今日かなり必要』
春日は胸の奥で小さく息を吐いた。
『夜、行ける』
『部屋で聞きたい』
春日は返信する。
『待っています』
既読。
『でも、急がないで』
その一文を見て、春日は少し笑った。
『はい』
『でも、待っています』
既読。
『知ってる』
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関を開けると、彼女は少し疲れた顔をしていた。
でも、重く沈んでいるわけではない。
何かを考えながら歩いてきた顔だった。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
自然に言えた。
部屋に入る。
ローテーブルには、いつものもの。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんはミルクティーを作ってくれた。
今日は蜂蜜普通。
カップを置く。
ことん。
今日は、誘いの重さを置く音だった。
「春日くん」
「はい」
「三崎さんの言葉、もう一回聞きたい」
「はい」
春日くんは、少しだけ姿勢を正した。
「誘いは、断る権利がある人には嬉しい。でも、断るのが苦手な人には怖い」
しらいさんは目を伏せた。
「うん」
「それから、扉の重さは人によって違う、とも言っていました」
「扉の重さ」
「はい」
「それ、すごく分かる」
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
「美緒さんの誘いは、優しい」
「はい」
「でも、紗季さんには重い」
「はい」
「美緒さんが悪いわけじゃない」
「はい」
「紗季さんが弱いだけでもない」
「はい」
「扉が、重い」
春日くんは頷いた。
「俺も、昔少しありました」
「誘われるのが?」
「はい」
「聞いていい?」
「もちろんです」
春日くんは、社会人になったばかりのころの話をした。
先輩からの飲み会の誘い。
悪意がないこと。
むしろ親切だったこと。
でも断れず、いつも「大丈夫です」と言っていたこと。
しらいさんは黙って聞いていた。
春日くんが、自分の過去を話すのは珍しかった。
「春日くんにも、あったんだ」
「ありました」
「大丈夫じゃないのに、大丈夫ですって言うやつ」
「はい」
「紗季さんだ」
「少しだけ、そう思いました」
「うん」
しらいさんはカップを置いた。
ことん。
「誘われるのって、嬉しいだけじゃないんだね」
「はい」
「断れる人には、扉」
「はい」
「断れない人には、壁」
「はい」
「でも、誘われないと扉もない」
「そうですね」
「難しい」
「難しいです」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「この作品、ずっと難しいね」
「でも、そこが強いと思います」
「アクセス狙いとして?」
「はい」
春日くんは真面目に頷いた。
「誘う側、誘われる側、待つ側、返せない側。いろんな立場の読者が自分を重ねられると思います」
「春日くん、今日も編集者」
「すみません」
「謝らないで。今日は助かる」
◇
しらいさんは、青灰色のノートを取り出した。
「今日の一文、まだ書いてない」
「はい」
「春日くんと三崎さんの言葉を聞いてから書こうと思った」
ペンを持つ。
少しだけ迷って、書いた。
『誘いは、扉になる日もある。でも、断れない人には壁にもなる。』
書いたあと、しばらく見つめる。
これは紗季の言葉だ。
でも、春日くんの言葉でもある。
そして、自分の言葉でもある。
春日くんに見せる。
彼は、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「かなり大事です」
「扉と壁」
「はい」
「同じ誘いなのに、受け取る人によって変わる」
「はい」
「美緒さんの優しさが、紗季さんには壁に見えるかもしれない」
「はい」
「でも、扉でもある」
「はい」
「そこ、難しい」
春日くんは、少しだけ考えてから言った。
「だから、日付を入れた美緒さんも、返せない紗季さんも、どちらも責めにくいんだと思います」
「うん」
「そこが、物語として強いです」
「読者が二人とも応援したくなる?」
「はい」
「でも、苦しくなる」
「はい」
「それ、アクセス的には?」
「続きが気になると思います」
しらいさんは少し笑った。
「やっぱり編集者」
「すみません」
「だから謝らないで」
◇
少しして、しらいさんは静かに言った。
「春日くん」
「はい」
「来週の金曜、怖い?」
春日くんは、少しだけ目を伏せた。
「怖いです」
「私も」
「はい」
「誘ったのは私だけど」
「はい」
「日付を入れたのも私だけど」
「はい」
「近づくと、ちょっと怖い」
「はい」
「でも、消したくはない」
春日くんは、静かに頷いた。
「俺もです」
「もし、私が選べなくなったら?」
「はい」
「来るとも、行けないとも言えなくなったら?」
「そのまま言ってください」
「選べないって?」
「はい」
「それも誘いへの返事になる?」
「返事の手前にはなります」
「返事の手前」
「はい。俺は、それを受け取ります」
しらいさんは、目元が少し赤くなった。
「春日くん」
「はい」
「そういうところ」
「すみません」
「謝らないで」
しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。
少し冷めていた。
でも、その温度が今はちょうどよかった。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割六分」
「少し残っていますね」
「扉と壁の四分」
「その四分は?」
「帰り道で少し考える」
「はい」
「でも、今日は持てる重さ」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「誘いは、嬉しい」
「はい」
「でも、怖い日もある」
「はい」
「それを忘れないでね」
「覚えておきます」
「私も、春日くんが誘う側になる怖さを忘れないようにする」
「ありがとうございます」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「待っています。扉として」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「壁にしないでね」
「はい」
「でも、待ってて」
「もちろんです」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。
誘いは、扉になる日もある。
でも、断れない人には壁にもなる。
同じ言葉でも、受け取る人によって重さが変わる。
そのことを、春日は今日少しだけ知った。
誘う側の勇気。
誘われる側の怖さ。
待つ側の迷い。
返せない側の沈黙。
どれも一方的ではない。
だから、この物語は続きが気になるのだと思った。
春日はスマホのカレンダーを開いた。
来週の金曜。
『普通のミルクティー』
その予定は、まだ消さない。
扉として、そこに置いておく。




