第149話 美緒は「返信いらないよ」を送るか迷った
美緒は、返信の来ない画面を見つめていた。
何度見ても、画面は変わらない。
紗季に送ったメッセージは、まだそこにある。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』
既読はついている。
それだけで、胸の奥が少し鳴った。
見てくれた。
読んでくれた。
でも、返事はない。
美緒は、スマホを伏せようとして、やめた。
伏せたところで、消えるわけではない。
紗季から返事が来ないことも。
自分が日付を入れて送ったことも。
それが紗季にとって重いかもしれないことも。
何も消えない。
美緒は返信欄を開いた。
『返信いらないよ』
打って、指が止まった。
優しい言葉のはずだった。
返せなくてもいい。
急がなくてもいい。
無理に答えを出さなくてもいい。
そう伝えたい。
けれど、画面の中のその一文は、少し違う顔をしていた。
『返信いらないよ』
それを送ったら、紗季はどう思うだろう。
返せていないことを、さらに意識するかもしれない。
美緒に気を遣わせてしまったと思うかもしれない。
「返信しなくていい」と言われたことに、逆に返さなければいけない気持ちになるかもしれない。
美緒は、その文字をじっと見つめた。
優しさは、ときどき相手の逃げ場を作る。
でも、ときどき、逃げ場を作ったつもりで、相手の足元に線を引いてしまう。
ここまで来なくていいよ、と言いながら、そこに立てない相手を見つめてしまう。
美緒は、小さく息を吐いた。
「……違うか」
文字を消した。
一文字ずつ。
返信いらないよ。
消えていく。
画面には、また自分が送った日付入りの誘いだけが残った。
美緒はスマホをテーブルに置いた。
画面は上。
何も送らない。
それは、逃げではない。
たぶん、待つことだった。
◇
撮影前、高瀬菜央はかなり悩んでいた。
白瀬アカリは、控室の端で台本を読んでいる。
今日の出番は、美緒側の場面が中心だ。
紗季は直接は出ない。
けれど、美緒が何を送らないかによって、紗季との距離が変わる。
高瀬は台本を閉じて、白瀬アカリのほうへ来た。
「白瀬さん」
「はい」
「返信いらないよ、って本当に優しいんですかね」
その問いは、今日の場面そのものだった。
白瀬アカリは、すぐには答えなかった。
少し考えてから言う。
「優しい日もあると思います」
「はい」
「でも、今日の紗季さんには、少し難しいかもしれません」
「ですよね」
高瀬は苦笑した。
「美緒としては、返さなくていいよって言いたいんです」
「はい」
「でも、それを送ると、紗季に“返せてない私を気にしてるんだ”って思わせる気がして」
「はい」
「それも重い」
「重いと思います」
高瀬は椅子に腰を下ろし、スマホを手の中で回した。
「送らないことが、逃げに見えないようにしたいんです」
「はい」
「でも、何もしないだけにも見せたくない」
「はい」
「難しいですね」
「かなり」
二人は少しだけ笑った。
こういう場面は、いつも地味だ。
けれど、地味なところほど難しい。
何かを言う芝居ではなく、言わない芝居。
何かをする芝居ではなく、しない芝居。
しかも、ただできないのではない。
選んで、しない。
「美緒さんは、前にも送らないことを選びましたよね」
白瀬アカリが言う。
「はい」
「でも、今日は少し違う気がします」
「どう違いますか」
「前は、踏み込みすぎないために送らなかった」
「はい」
「今日は、紗季さんに“返せていない自分”を見せすぎないために送らない」
高瀬は、しばらく黙った。
それから、ゆっくり頷く。
「それです」
「はい」
「返信いらないよ、って送ったら、美緒は優しい人に見えるかもしれない」
「はい」
「でも、紗季は自分が返せていないことを、また突きつけられるかもしれない」
「はい」
「だから、送らない」
高瀬は、台本を開き直した。
「今日の美緒、見せ場ですね」
「はい」
「何も送らない見せ場」
「強いです」
「地味なのに」
「地味だから強いと思います」
高瀬は、少し照れたように笑った。
「白瀬さんに言われると、効きます」
◇
美緒の部屋セット。
夜。
テーブルの上にスマホがある。
紗季とのやり取りが表示されている。
美緒が送った日付入りの誘い。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』
そして、その下にはまだ何もない。
監督が、高瀬に説明する。
「美緒は、今日は送らないことを選びます」
「はい」
「ただ何もしないのではありません」
「はい」
「送る直前まで行く。でも、送らないほうが今はいいと判断する」
「はい」
「優しさを見せる芝居ではなく、優しさを引っ込める芝居です」
その言葉に、白瀬アカリは少しだけ胸を突かれた。
優しさを引っ込める。
それは難しい。
優しくしたい。
安心させたい。
自分が気にしていることを伝えたい。
でも、それを相手に渡すことが、相手の負担になるかもしれない。
だから、引っ込める。
一度目の本番。
美緒はスマホを見る。
返信欄を開く。
『返信いらないよ』
打つ。
そのあと、高瀬の美緒は少し優しすぎる顔をした。
自分がいいことをしようとしている顔。
カット。
監督が首を少し傾げる。
「今のは、美緒の優しさが少し前に出ています」
「はい」
「美緒は、自分の優しさを確認したいわけではないと思います」
「はい」
「むしろ、これを送ることが本当に優しいのか分からなくなる」
高瀬は頷いた。
「分かりました」
二度目。
今度は、迷いが強すぎた。
送るべきか送らないべきかの葛藤が、少し大きく見えた。
カット。
監督が言う。
「今のは、選択が大きすぎますね」
「はい」
「美緒にとっては大きい。でも、画面上はもっと小さくていい」
「はい」
「送るか送らないかの大決断ではなく、指がそこで止まった、くらいで」
高瀬は息を整えた。
三度目。
夜の部屋。
美緒はスマホを見る。
紗季から返事はない。
返信欄を開く。
『返信いらないよ』
打つ。
指が止まる。
画面の文字を見る。
美緒の目に、ほんの少しだけ違和感が浮かぶ。
これは優しいのだろうか。
いや、違うかもしれない。
そう思ったことを、言葉にはしない。
ただ、文字を消す。
一文字ずつ。
返信いらないよ。
消える。
美緒はスマホを伏せない。
けれど、もう何も打たない。
画面を見つめたまま、小さく息を吐く。
待つ。
それだけ。
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを見て、頷く。
「今のでいきましょう」
高瀬菜央は、肩の力を抜いた。
白瀬アカリも、少しだけ息を吐いた。
送らなかった。
でも、逃げなかった。
美緒さんもまた、少し進んだ。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は唐揚げ弁当を開けているのに、今日もなかなか食べ始めない。
「食べろ」
「今日は送らない優しさについて考えてる」
「もう唐揚げに失礼だろ」
「唐揚げも分かってくれる」
「唐揚げを巻き込むな」
三崎は箸を持ったまま言った。
「返信いらないよ、ってあるだろ」
「あるな」
「あれ、優しいけど、タイミングによっては重いよな」
春日は、もう驚きすぎて逆に冷静だった。
「今日も外側の番人だな」
「まだ何も言ってないだろ」
「もう言ってる」
三崎は少し笑ったあと、唐揚げを一つ口に入れた。
「返せてない人に“返信いらないよ”って送るのってさ」
「うん」
「相手を楽にすることもあるけど、返せてない事実をもう一回見せることにもなる」
「うん」
「だから、送らない優しさもある」
春日は頷いた。
今日の高瀬菜央が演じているであろうものと、きっと重なる。
「でも、送らないって難しいよな」
三崎は続けた。
「何もしないのと、待つのは違う」
「うん」
「待つって、わりと能動的なんだよ」
「能動的」
「うん。何もしないように見えて、かなり踏ん張ってる」
春日は、その言葉を心にしまった。
これは、今日しらいさんへ届けたい。
「三崎」
「何個?」
「十四個」
「増えた」
「かなりいい」
「心の中で?」
「もちろん」
「そろそろ現物が恋しい」
「いつか」
「絶対出ないやつだ」
◇
撮影後、高瀬菜央はかなり疲れた顔をしていた。
「白瀬さん」
「はい」
「送らないって、疲れますね」
「はい」
「何もしてないのに」
「何もしてないわけじゃないと思います」
「ですよね」
高瀬は、紙コップの水を飲んだ。
「今日の美緒、逃げてないですよね」
「逃げてないと思います」
「なら、よかった」
「紗季としては……」
白瀬アカリは少しだけ考えた。
「送られなかったことに、たぶん気づけないです」
「はい」
「でも、もし知ったら、少し助かると思います」
高瀬は、ほっとしたように笑った。
「美緒には、それで十分です」
しらいさんは胸の奥が温かくなった。
紗季には見えない美緒の待ち。
美緒には見えない紗季の迷い。
その両方を、視聴者だけが知っている。
この構造は、やはり強い。
続きが気になる。
二人を責めたくない。
そして、どうか少しずつ届いてほしいと思う。
◇
青灰色のノートを開く。
今日は、美緒の一文。
しらいさんは、少し迷わずに書いた。
『美緒さんは、送らないことを、今度は逃げではなく待つことにした。』
書いたあと、胸にすとんと落ちた。
送らない。
でも逃げない。
待つ。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐ既読がつく。
『読みました』
『美緒さんも待つ練習をしているんですね』
しらいさんは返信する。
『うん』
『三崎が、かなり近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『何もしないのと、待つのは違う』
『待つのは能動的だ、と』
しらいさんは、画面を見つめたまま小さく頷いた。
今日も、三崎さんは必要な言葉を外側から拾っている。
『三崎さん』
『今日は唐揚げ十四個?』
春日くんからすぐ返る。
『本当に怖いです』
『当たり?』
『はい』
『増えた』
『本人は現物支給を求めています』
『心の中で』
『そろそろ怒られそう』
『もう怒っています』
しらいさんは少し笑った。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
今日は紗季としての消耗ではない。
美緒の「送らない」を見た疲れがあった。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつもの声。
いつもの部屋。
ローテーブルには、白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
カップを置く。
ことん。
今日は、送らない音だった。
「美緒さん、返信いらないよって打った」
「はい」
「消した」
「はい」
「送らなかった」
「はい」
「でも、逃げなかった」
春日くんは静かに頷いた。
「待つことにしたんですね」
「うん」
「三崎の言葉ですが、何もしないのと待つのは違うそうです」
「今日、それすごく分かった」
「はい」
「送らないって、何もしてないみたいに見える」
「はい」
「でも、美緒さんはかなり踏ん張ってた」
「はい」
「優しくしたいのに、引っ込めた」
「はい」
「それ、難しいね」
「難しいですね」
しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。
「春日くん」
「はい」
「春日くんも、そういうことある?」
「送らないことですか」
「うん」
「あります」
「私に?」
「はい」
「あるんだ」
「あります」
春日くんは少しだけ照れたように視線を落とした。
「メッセージを送りたくなることはあります」
「うん」
「大丈夫ですか、とか」
「うん」
「無理しないでください、とか」
「うん」
「来られなくてもいいです、とか」
「うん」
「でも、それを送ると、しらいさんが“返さなきゃ”と思うかもしれないと考えて、送らないことがあります」
しらいさんは、カップを両手で包んだまま黙った。
「それ、知らなかった」
「言っていませんでしたから」
「そっか」
「はい」
「春日くんも、待ってるんだね」
「はい」
「何もしないんじゃなくて」
「はい」
「待ってる」
「はい」
しらいさんは、胸の奥が少し温かくなった。
同時に、少し申し訳なさも出てきた。
けれど、それをすぐ「ごめん」にしない。
今日は、そういう日ではない。
「ありがとう」
代わりに、そう言った。
春日くんは、少しだけ驚いてから頷いた。
「こちらこそ」
「短い」
「返しすぎないようにしました」
「ずるい」
二人で笑った。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文を見せる。
『美緒さんは、送らないことを、今度は逃げではなく待つことにした。』
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「第139話の美緒さんから、少し変わりましたね」
「そう」
「前は送らないことで距離を取った」
「はい」
「今日は、待つために送らなかった」
「はい」
「同じ送らないでも、違う」
「それが書きたかった」
しらいさんはノートを閉じた。
「今日は書き足さない」
「はい」
「でも、覚えておく」
「はい」
「送らないことも、待つことになる」
「はい」
「春日くんの送らないも、受け取った」
春日くんは、少しだけ目元を緩めた。
「ありがとうございます」
「出た」
「出ます」
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割七分」
「戻っていますね」
「うん。今日は、美緒さんの待つを置いて帰れる」
「はい」
「残り三分は?」
「帰り道で」
「大丈夫そうですか」
「大丈夫……って言ってもいい日」
「はい」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「送らない優しさもあるんだね」
「はい」
「でも、送ってほしい日もある」
「はい」
「難しいね」
「かなり」
「そのときは、ちゃんと迷ってね」
「はい」
「私も迷う」
「はい」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「待っています」
「送らずに?」
「必要なら送ります」
「いい答え」
「ありがとうございます」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、青灰色のコースターを見た。
送らないことを、逃げではなく待つことにする。
それは、思ったより難しい。
送りたい言葉を引っ込める。
優しさを相手に見せびらかさない。
返せていない相手へ、さらに返事のきっかけを押しつけない。
何もしないように見えて、かなり踏ん張っている。
春日はスマホを見た。
今夜は、しらいさんへ追加のメッセージを送らない。
けれど、それは距離を置くためではない。
待つためだ。
そう思うと、画面の暗さが少しだけ優しく見えた。




