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第150話 待たれていることに、紗季さんはまだ気づかない

 岸谷紗季は、待たれていることを知らない。


 美緒がスマホを握りしめて、返信欄に『返信いらないよ』と打ったことも。


 それを一文字ずつ消したことも。


 送らないことを、逃げではなく待つことにしたことも。


 紗季は何も知らない。


 紗季のスマホに残っているのは、美緒から届いた日付のある誘いだけだった。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 その文字は、昨日から消えていない。


 返信もしていない。


 削除もしていない。


 スマホは、テーブルの上に画面を上にして置かれている。


 けれど、紗季はそれを見張っているわけではなかった。


 見てしまうと、返さなければならない気がする。

 伏せてしまうと、なかったことにしようとしている気がする。


 だから、そのまま置いている。


 見ていない。

 でも、隠していない。


 その中間に、紗季はいた。


 部屋の中は静かだった。


 白いカーテン。

 小さなテーブル。

 グレーのマグカップ。

 一人分の椅子。

 畳まれたブランケット。


 いつもの部屋。


 変わったようには見えない。


 紗季自身も、何かが変わったとは思っていない。


 けれど、テーブルの上には、美緒の言葉が残っている。


 紗季はまだ知らない。


 自分が返せないまま置いているこの時間を、美緒が責めずに待っていることを。


 まだ、知らない。


    ◇


 控室で台本を読んだしらいさんは、最初に小さく眉を寄せた。


「……知らない、か」


 今日の場面は、静かだった。


 美緒から新しいメッセージは来ない。


 紗季も返信しない。


 大きな出来事は何もない。


 ただ、紗季の部屋にスマホがある。

 そこに美緒の誘いが残っている。

 紗季はまだ、待たれていることに気づかない。


 それだけ。


 けれど、これは軽い場面ではない。


 むしろ、かなり難しい。


 視聴者は知っている。


 美緒が送らなかったことを。

 返信を急がせないために、あえて待つことを選んだことを。


 でも、紗季は知らない。


 このズレをどう演じるか。


 紗季としては、何も知らないまま部屋にいる。

 けれど物語としては、美緒の待ちがそこに重なっている。


 しらいさんは、台本を閉じて膝の上に置いた。


 そこへ理沙さんが入ってきた。


「喉は?」


「九割二分です」


「私の評価では九割一分」


「今日は近いですね」


「今日は喉より、知らないままいる難しさね」


「はい」


 理沙さんは椅子に座り、タブレットを軽く指で叩いた。


「美緒が待っていることを、紗季は知らない」


「はい」


「でも、視聴者は知っている」


「はい」


「こういう場面で、白瀬アカリが“知っている側”にならないこと」


 しらいさんは、顔を上げた。


「知っている側」


「ええ。あなたは台本を読んでいる。美緒が送らなかったことも知っている。高瀬さんの芝居も見ている」


「はい」


「でも、紗季は知らない」


「はい」


「知らない人として、そこにいること」


 それが、今日の難しさだった。


 しらいさんは、深く頷いた。


「待たれていることを感じすぎない」


「そう」


「でも、美緒の言葉が残っていることは消さない」


「そう」


「紗季さんは、誘いを持っているけど、その向こうにいる美緒さんの待ちまでは知らない」


 理沙さんが少しだけ口元を緩めた。


「いい整理ね」


「でも、かなり難しいです」


「難しいわよ」


 いつものように、あっさり言われた。


「今日の目標は?」


 理沙さんが聞く。


 しらいさんは、少し考えてから答えた。


「待たれていることには気づかない。でも、待っている人がいる世界の中にはいる」


 理沙さんは、静かに頷いた。


「それで行きなさい」


    ◇


 撮影前、高瀬菜央が控室の入口から顔を出した。


「白瀬さん、少しだけいいですか」


「はい」


 高瀬は今日は出番がなかった。


 けれど、現場には来ている。


 美緒として、自分が送らなかったあとの紗季を見届けたいのかもしれない。


「今日、美緒は出ないんですけど」


「はい」


「なんか、胃が痛いです」


 しらいさんは少し笑った。


「分かります」


「紗季は知らないんですよね。美緒が待ってること」


「はい」


「それが、なんか……もどかしいですね」


「はい」


「でも、知らないほうがいいのかもしれない」


 高瀬は、自分で言ってから少し考え込んだ。


「知ったら、紗季は返さなきゃって思うかもしれないから」


「そうですね」


「美緒が待っているって知ったら、優しさも圧になるかもしれない」


「はい」


 しらいさんは、台本の端を指でなぞった。


「でも、視聴者は知っている」


「はい」


「だから、紗季を責めにくくなる」


「うん」


「美緒も責めにくくなる」


 高瀬は頷いた。


「二人とも、見えないところで相手のことを考えてますもんね」


「はい」


「でも、相手には半分も見えてない」


「それが、今日は大事だと思います」


 高瀬は、少しだけ笑った。


「白瀬さん、今日かなり紗季を知らないでください」


「はい」


「美緒としては、知られたら困ります」


「分かりました」


 二人は小さく笑った。


 笑いながらも、どこか緊張していた。


    ◇


 撮影は、岸谷紗季の部屋セットで行われた。


 夜。


 仕事から帰ったあとの部屋。


 紗季は鞄を椅子の横に置き、テーブルの前に座る。


 スマホはテーブルの上にある。


 画面は暗い。


 そこには、美緒の誘いが残っている。


 けれど、新しい通知はない。


 美緒は送らなかった。


 紗季はそれを知らない。


 監督が説明する。


「白瀬さん、今日は“何も来ていない”場面です」


「はい」


「でも、本当に何もないわけではない」


「はい」


「視聴者は、美緒が送らなかったことを知っている」


「はい」


「紗季は知らない」


「はい」


「その差を、白瀬さんが背負いすぎないでください」


 しらいさんは頷いた。


 背負いすぎない。


 紗季はまだ、ただ部屋にいる。


 待たれていることに気づかないまま。


 一度目の本番。


 紗季は部屋に入る。


 鞄を置く。


 スマホを見る。


 画面は暗い。


 しらいさんは、その暗い画面を少し意味ありげに見てしまった。


 美緒が送らなかったことを知っている人の視線だった。


「カット」


 監督の声。


 しらいさんは、小さく頭を下げた。


「今のは、知っている側でした」


 監督がモニターを見ながら頷く。


「そうですね。紗季が少し“来ていない意味”を分かっているように見えました」


「はい」


「紗季は、何も来ていないことを、まだそこまで意味にできません」


「はい」


「ただ、スマホがそこにある。それだけで」


 それだけ。


 けれど、ただの物でもない。


 二度目。


 今度は、スマホをただの物として扱いすぎた。


 画面を見る動きが、ほとんど意味を持たなかった。


 カット。


 監督は少しだけ苦笑した。


「今度は、スマホが完全に小道具になりましたね」


「はい」


「難しいですよね」


「かなり」


「誘いは残っている。でも、待ちまでは知らない。その中間です」


 また、中間。


 この作品は、いつも真ん中を探す。


 三度目。


 紗季は部屋に入る。


 鞄を置く。


 テーブルの前に座る。


 スマホへ目が行く。


 画面は暗い。


 新しい通知はない。


 紗季は、それを長く見ない。


 けれど、完全に無視もしない。


 画面に触れる。


 美緒の誘いが表示される。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 紗季は、それを読む。


 返信欄は開かない。


 削除もしない。


 ただ、画面を閉じる。


 スマホを伏せない。


 テーブルに置く。


 そして、立ち上がり、グレーのマグカップを手に取る。


 水を入れる。


 飲む。


 画面は、テーブルの上で暗くなる。


 紗季は、待たれていることに気づかない。


 でも、待っている人がいる世界の中にいる。


 カット。


 現場が静かになった。


 監督がモニターを見て、しばらく黙っていた。


 その沈黙が少し怖かった。


 やがて、監督が頷く。


「今のです」


 しらいさんは、静かに息を吐いた。


 知らないまま、そこにいた。


 それが撮れた気がした。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は唐揚げ弁当を開け、今日はきちんと食べ始めていた。


 珍しい。


 と思ったら、唐揚げを一つ飲み込んだあと、すぐに話し始めた。


「春日」


「何だ」


「視聴者だけが知ってる待ちって強いよな」


「また急に来たな」


「白瀬アカリの話」


「だろうな」


 三崎は箸を持ったまま続ける。


「たとえばさ、AさんがBさんの返事を待ってる」


「うん」


「Bさんはそれを知らない」


「うん」


「でも視聴者は、Aさんが待ってることを知ってる」


「うん」


「そうすると、Bさんが何もしてない場面でも、視聴者は勝手に緊張するんだよ」


 春日は、三崎を見た。


 今日も近い。


 いや、もう近いどころではない。


 作品の構造そのものを言い当てている。


「続けて」


「お、今日は聞く気だ」


「聞く」


 三崎は少し得意そうに唐揚げをつまんだ。


「Bさんがスマホを見るだけで、視聴者は“待ってる人がいるのに”って思う」


「うん」


「でもBさんは知らないから、責める感じにはならない」


「うん」


「むしろ、早く気づいてくれってなる」


「うん」


「これ、続き読みたくなるやつだろ」


 春日は頷いた。


 まさにアクセス狙いとして強い構造だ。


 登場人物同士が互いに知らない感情を、読者だけが知っている。


 そのズレが、続きを読ませる。


「三崎」


「何個?」


「今日は唐揚げ十五個」


「増えた」


「かなりいい」


「ついに現物?」


「心の中で」


「知ってた」


 三崎は文句を言いながらも、少し嬉しそうだった。


「でも、こういうのってさ」


「うん」


「派手な事件より、続き気になるんだよな」


「どうして」


「だって、本人がまだ知らないから」


「うん」


「知ったときどうなるかを見たくなる」


 春日は、その言葉を持ち帰ることにした。


    ◇


 撮影後、高瀬菜央がモニター前で小さく息を吐いた。


「白瀬さん」


「はい」


「美緒としては、胃が痛いです」


「ですよね」


「紗季、知らないんですね」


「はい」


「でも、知らないままでいてくれたから、よかった気もします」


「はい」


「美緒が待ってることを知らない紗季が、ちゃんとそこにいた」


 しらいさんは、少しだけ胸が温かくなった。


「高瀬さんにそう言ってもらえると、安心します」


「本当にそう見えました」


「よかった」


「でも、早く知ってほしい」


「美緒として?」


「美緒としても、視聴者としても」


 高瀬は笑った。


「ずるいですよね。知ってほしいけど、今すぐ知ったら困る」


「はい」


「この作品、ずっとそれです」


「本当に」


 二人は少し笑った。


 その笑いが、現場の緊張をほどいた。


    ◇


 青灰色のノートを開く。


 今日の一文は、少し時間がかかった。


 紗季は知らない。

 美緒は待っている。

 視聴者は知っている。

 スマホはそこにある。


 どれを書けばいいか迷う。


 しらいさんは、ペンを持ったまま少しだけ目を閉じた。


 そして書いた。


『紗季さんはまだ知らない。でも、待っている人がいる世界にいる。』


 これだと思った。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読。


『読みました』


『今日の構造が一文に入っていますね』


 しらいさんは少し笑う。


『構造?』


『はい。三崎が今日かなり語っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『視聴者だけが待っている人を知っていると、本人が何もしていない場面でも緊張する』


『本人がまだ知らないから、知ったときどうなるか見たくなる、と』


 しらいさんは、控室で小さく頷いた。


 まさに今日の撮影だった。


『三崎さん』


『今日は唐揚げ十五個?』


 春日くんからの返事は早かった。


『もう当てるのが当然みたいになってきましたね』


『当たり?』


『はい』


『本人、現物欲しがってた?』


『はい』


『安定』


 少し笑えた。


 この軽さがあるから、重い場面から戻れる。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 今日は、話したかった。


 待たれていることに気づかない人を演じたあと、自分が今どれくらい誰かに待たれているのか、少しだけ確かめたくなった。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は自然だった。


 部屋に入る。


 ローテーブルには、いつものもの。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 春日くんがミルクティーを作る。


 今日は蜂蜜普通。


 カップを置く。


 ことん。


 今日は、知らない待ちを置く音だった。


「今日、紗季さんは知らなかった」


 しらいさんが言う。


「はい」


「美緒さんが待っていること」


「はい」


「返信いらないよ、って送らなかったこと」


「はい」


「責めずに待っていること」


「はい」


「何も知らない」


 春日くんは、静かに聞いていた。


「でも、視聴者は知ってる」


「はい」


「だから、紗季さんがスマホを見るだけで、意味が出る」


「はい」


「本人は知らないのに」


「はい」


「それ、怖いね」


「怖いですね」


「でも、強いね」


「かなり」


 春日くんは頷いた。


「三崎が言っていました。本人がまだ知らないから、知ったときどうなるか見たくなる、と」


「うん」


「アクセス狙いとしても強いと思います」


「春日くん、今日は普通に編集者」


「すみません」


「謝らないで。今日はそれ聞きたい」


 しらいさんはミルクティーを飲んだ。


 少しだけ安心する。


「春日くん」


「はい」


「私も、知らないうちに待たれてることある?」


 春日くんは、少し考えた。


「あります」


「あるんだ」


「はい」


「春日くんに?」


「はい」


「たとえば?」


「しらいさんが忙しくて返事がないとき」


「うん」


「俺は、返事を急がないようにして待っています」


「うん」


「しらいさんは、俺がどんなふうに待っているか知らない」


「うん」


「でも、待っています」


 しらいさんは、目を伏せた。


「それ、ちょっと怖い」


「はい」


「でも、少し嬉しい」


「はい」


「知ったら、返さなきゃって思うかも」


「そう思わせたくないです」


「うん」


「だから、全部は見せません」


 その言葉が、胸の奥に入ってきた。


 全部は見せない。


 優しさを隠すのではなく、負担にしないために。


「春日くん」


「はい」


「今日、かなり美緒さん側」


「そうかもしれません」


「でも、春日くん側でもある」


「はい」


 しらいさんは、ノートを開いた。


 今日の一文を見せる。


『紗季さんはまだ知らない。でも、待っている人がいる世界にいる。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「しらいさんも、そうかもしれません」


「待っている人がいる世界?」


「はい」


「春日くん?」


「俺だけではないと思います」


「……」


「理沙さんも、松岡さんも、高瀬さんも、現場の人も、三崎も」


「三崎さんも?」


「外側の番人として」


 しらいさんは少し笑った。


「待たれすぎると、重い」


「はい」


「でも、待っている人がいる世界にいるのは、少し救い」


「はい」


「それを、全部知らなくてもいい?」


「いいと思います」


「必要な分だけ知る」


「はい」


「今日の紗季さんも、いつか必要な分だけ知るのかな」


「そうだといいですね」


「うん」


    ◇


 帰る時間になった。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割七分」


「戻っていますね」


「うん。知らない待ちを全部持って帰らなくていいって分かったから」


「はい」


「残り三分は?」


「帰り道で少しだけ」


「大丈夫そうですか」


「うん」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「待ってくれてるの、全部は言わなくていい」


「はい」


「でも、たまに教えて」


「分かりました」


「面倒くさい?」


「かなり」


「私もそう思う」


 二人で笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「待っています」


「今日は言うんだ」


「今日は必要かと」


「うん。必要だった」


 しらいさんは、少し柔らかく笑った。


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、青灰色のコースターを見た。


 紗季さんはまだ知らない。

 でも、待っている人がいる世界にいる。


 知らないまま支えられていることがある。


 知らないまま待たれていることがある。


 全部を知る必要はない。


 知りすぎると、今度はそれが重さになる。


 でも、必要なときに少しだけ知れたら、救いになる。


 春日はスマホを見た。


 今夜は、もう送らない。


 でも、待っている。


 それは、しらいさんがもう知っている。

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