第99話 百話目ではないけれど、君は少しだけ自分で帰ってきた
スプーン右を、使わない夜があった。
ことんの音を、鳴らさない夜もあった。
それでも、しらいさんは帰ってきた。
写真だけの日もある。
短い「ただいま」だけの日もある。
蜂蜜だけの日もある。
青灰色のノートに一文だけ書いて、あとから「置いた」と知らせてくる日もある。
最初のころなら、それはきっと帰ってきたとは思えなかった。
部屋に来ること。
マグカップを置くこと。
ことんと音を鳴らすこと。
それだけが、しらいさんが戻ってくる証拠のように感じていた。
けれど最近は、少し違う。
春日悠真は、朝のローテーブルを見ながらそう思った。
青灰色のコースター。
白いマグカップ。
蜂蜜の瓶。
右側には置かれていないスプーン。
昨日は、スプーン右を休ませた日だった。
合図は守るもの。
でも、縛るものではない。
昨夜、しらいさんが青灰色のノートに書いた言葉。
その一文は、悠真にも読ませてくれた。
外には出ない。
でも、二人の内側には残った。
悠真はマグカップの写真を撮った。
今日はスプーンを入れなかった。
ただ、いつものマグカップだけ。
『今日もあります』
送る。
少し迷ってから、もう一文。
『合図なしでも、あります』
既読はすぐについた。
『見た』
少し間。
『合図なしでも、帰れる』
悠真は、静かに息を吐いた。
『はい』
『帰れます』
既読。
『少し自信ついた』
その一文を見て、胸の奥が温かくなった。
小さなことかもしれない。
でも、たぶん大きなことだった。
スプーン右がなくても。
ことんの音がなくても。
部屋へ行けない夜でも。
しらいさんは、少しずつ自分で帰る道を覚え始めている。
◇
昼休み、三崎は珍しくスマホを見ていなかった。
代わりに、唐揚げ弁当をしっかり開けている。
「今日は白瀬アカリの記事、読まないのか」
悠真が言うと、三崎は箸を止めた。
「読ませたいのか?」
「そういうわけじゃない」
「俺の白瀬アカリ感想が日課になってるだろ、お前」
「否定はしない」
「否定しろよ」
三崎は少し笑ってから、鞄の横に置いたスマホをちらりと見る。
「読んだよ。朝」
「読んだのか」
「読んだ。言わなかっただけ」
「何かあったのか」
三崎は唐揚げを一つ食べ、少し考えた。
「白瀬アカリ、前より自分の足で立ってる感じがする」
悠真は箸を持つ手を止めた。
「自分の足で?」
「うん」
三崎は軽い調子ではなかった。
今日の三崎は、いつものように記事の見出しや蜂蜜の話で騒ぐのではなく、少し落ち着いている。
「前はさ」
三崎が言う。
「ちゃんとしてるけど、ちゃんとしてること自体に支えられてる感じがしたんだよ」
「……」
「ちゃんとしていないと崩れる、みたいな」
悠真は何も言わなかった。
その言葉は、昔の白瀬アカリにかなり近い。
正解を出す。
丁寧に答える。
弱さを見せない。
前向きな言葉で閉じる。
それで立っていた人。
「でも今は、ちゃんとしてなくても戻れる場所があるって分かってる人の感じがする」
三崎は続けた。
「だから、ちゃんと立ててる。変な言い方だけど」
「変ではないと思う」
「そうか?」
「ああ」
「じゃあいいか」
三崎は少し照れたように目を逸らす。
「年末番組のあとから特にそう思うんだよな。帰る場所があるって言葉に寄りかかってるんじゃなくて、それを知ったうえで自分で立ってる感じ」
悠真は、胸の奥で何かがゆっくりほどけるのを感じた。
外側からも、そう見えている。
しらいさんは、少しずつ自分で帰ってこられるようになっただけではない。
白瀬アカリとしても、自分の足で立つように見え始めている。
「三崎」
「何」
「今日もかなり外側の番人だ」
「もうその呼び名、ツッコむの疲れてきた」
「定着したな」
「してない。俺はただの唐揚げ食ってるファンだ」
「唐揚げ食ってる外側の番人」
「弱そう」
「でも有能だ」
三崎は笑った。
「まあ、ファンとしては安心したって話だよ」
「安心?」
「うん。白瀬アカリ、売れてきてるけど、前より危なっかしさが減った気がする」
悠真は少し驚いた。
「危なっかしく見えていたのか」
「少しな。綺麗に立ちすぎてる人って、逆に危なそうじゃん」
「……そうだな」
「今は、少し揺れても戻れる感じがする」
その言葉は、今日一番持って帰るべき言葉だった。
少し揺れても戻れる。
たぶん、しらいさんが今いちばん聞きたい言葉だ。
「持って帰る」
思わず呟いた。
三崎が眉を寄せる。
「何を?」
「感想を」
「またか。俺の感想、どこへ持って帰られてるんだ」
「心の中へ」
「便利な心だな」
「広めにしてある」
「その心、唐揚げ一個入る?」
「入らない」
「けち」
三崎はそう言って、残りの唐揚げを自分で食べた。
◇
午後、しらいさんから写真が届いた。
今日はカップの右側にスプーンはなかった。
白いカップ。
蜂蜜のスティック。
青灰色のノート。
スプーンは、カップから少し離れた紙ナプキンの上に置かれている。
『今日はスプーン右なし』
悠真は画面を見て、小さく笑った。
『見ました』
『それでも帰れそうですか』
既読。
『うん』
『少し変だけど』
『帰れる』
悠真は、三崎の言葉を送ることにした。
『三崎が今日、言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『白瀬アカリは、前より自分の足で立っている感じがすると』
既読。
少し間。
『自分の足』
『はい』
『戻れる場所があることに寄りかかっているのではなく』
『それを知ったうえで、自分で立っている感じがすると』
既読。
長い沈黙。
仕事中のデスクで、悠真はスマホを伏せた。
こういうとき、しらいさんはすぐに返せない。
それも分かってきた。
しばらくして、スマホが震えた。
『三崎さん』
またその一文。
けれど今日は、そのあとが少し違った。
『それ、今すごくほしかった』
悠真は静かに画面を見つめた。
『少し揺れても戻れる感じがする、とも言っていました』
既読。
『泣きそう』
『まだ仕事中ですか』
『うん』
『では泣かないでください』
『理沙さん側』
『彼氏側もです』
既読。
『強い』
少し間。
『でも、春日くんは?』
来ると思った。
外側の番人の感想だけでなく、近い人の言葉も聞きたいのだろう。
悠真は少し考えた。
『俺も、そう思います』
『スプーン右がない日でも、ことんの音がない日でも』
『しらいさんは少しずつ帰ってこられるようになっていると思います』
『それは、俺の部屋から遠くなることではなく』
『しらいさんが自分でも歩けるようになっていることだと思います』
送ってから、少しだけ重かったかもしれないと思った。
既読。
しばらく沈黙。
そして、
『春日くん』
『はい』
『仕事中にそれはだめ』
悠真は少し笑った。
『すみません』
『謝るところではある』
『でも、ありがとう』
続けて、
『今日、行きたい』
胸が静かに鳴った。
『来られますか』
『理沙さんに確認する』
『今日は短めならって言われそう』
『無理はしないでください』
『うん』
『でも、今日は帰って言いたいことがある』
『待っています』
既読。
『知ってる』
◇
夜、しらいさんは本当に来た。
玄関を開けると、彼女はいつもより少しだけまっすぐ立っていた。
疲れていないわけではない。
目元には仕事の名残がある。
けれど、どこか落ち着いていた。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入ると、彼女はローテーブルを見る。
マグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
右側には置かれていないスプーン。
今日はスプーンを少し離した場所に置いていた。
「スプーン右なし」
「はい」
「合わせてくれた?」
「はい」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「お礼合戦?」
「今日は引き分けで」
「早い」
二人で少し笑った。
悠真はミルクティーを作った。
蜂蜜は少しだけ。
今日は多めではない気がした。
カップを渡すと、しらいさんは両手で受け取る。
そして、コースターに置いた。
ことん。
「今日は鳴らすんだ」
「部屋なので」
「うん」
彼女はその音を聞き、少しだけ目を閉じた。
「やっぱり本物は違う」
「はい」
「でも、なくても帰れた」
「はい」
「今日は、それを言いたかった」
しらいさんはカップを両手で包んだまま、ゆっくり続ける。
「昨日も今日も、スプーン右がなくても帰れた」
「はい」
「ことんの音を我慢した日も、帰れた」
「はい」
「蜂蜜だけの日も、帰れた」
「はい」
「でも、ここに来たら、もっと帰れた」
「はい」
「それが分かった」
悠真は静かに頷いた。
「帰り方が増えたんですね」
「うん」
「でも、全部同じじゃない」
「はい」
「スプーン右は、遠くから帰る道」
「はい」
「蜂蜜の日は、少し疲れた日の道」
「はい」
「ノートは、言葉が帰る場所」
「はい」
「ことんの音は、どうしても本物がほしい日の道」
「はい」
「この部屋は」
そこで彼女は少しだけ止まった。
マグカップを見て、悠真を見て、少し照れたように笑う。
「全部を置きに来る場所」
悠真は、その言葉を胸の中で受け止めた。
「はい」
「でも、全部を毎日置かなくてもいい」
「はい」
「それも分かってきた」
「はい」
「だから、少し自分で帰ってこられるようになった気がする」
しらいさんは、そう言ったあと、少しだけ不安そうにこちらを見た。
「それ、寂しい?」
悠真は正直に考えた。
寂しくない、と言えば嘘になる。
彼女が自分だけを頼らなくても帰れるようになる。
それは喜ばしいことで、同時に少しだけ寂しい。
でも、前ほど怖くはなかった。
「少しは」
悠真は答えた。
「はい」
「でも、それ以上に嬉しいです」
しらいさんは、静かに息を止めた。
「本当?」
「はい」
「無理してない?」
「少しだけ面倒くさい顔はしていると思います」
「してる」
「でも、本当に嬉しいです」
「……そっか」
彼女はミルクティーを一口飲んだ。
「よかった」
「はい」
「春日くんが寂しいって言ってくれるのも、ちょっと嬉しい」
「そうですか」
「うん」
「かなり面倒くさいですね」
「お互いに」
「お互いですか」
「お互い」
二人で少し笑った。
◇
しらいさんは青灰色のノートを取り出した。
「今日、書いてきた」
「読んでいいですか」
「一つだけ」
彼女はページを開く。
そこには、短い一文があった。
『春日くんのところに帰るために、自分でも少し歩けるようになりたい。』
悠真は、その文字を何度も読んだ。
胸の奥が熱くなる。
これは、仕事中に送られていたら確実にだめだった。
「読んだ?」
「はい」
「重い?」
「重くありません」
「本当に?」
「はい」
「では?」
「かなり効きました」
「よし」
しらいさんは少しだけ照れたように笑った。
「私、春日くんのところに帰るのを、春日くんだけに任せたくない」
「はい」
「春日くんが待ってくれてるのは、すごく嬉しい」
「はい」
「でも、私も歩きたい」
「はい」
「仕事からでも、外の光からでも、取材の言葉からでも」
「はい」
「ちゃんと、自分で帰ってきたい」
悠真は静かに頷いた。
「帰ってきてください」
「うん」
「でも、迷ったら呼んでください」
「呼ぶ」
「合図も使ってください」
「使う」
「使わない日も作ってください」
「作る」
「ノートにも置いてください」
「置く」
「何も書かない日も」
「ある」
「休む日も」
「必要」
「かなり成長しましたね」
しらいさんは少しだけ目を細めた。
「春日くん、今ちょっと先生」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「でも、百点?」
「百点です」
「やった」
彼女は小さく笑った。
その笑いは、以前より少し軽かった。
◇
短い滞在だった。
理沙さんからの許可は一時間だけ。
それでも、しらいさんは満足そうだった。
マグカップを洗う手つきも、今日は落ち着いている。
水の音。
カップを拭く音。
棚に戻す音。
ことん。
最後の音が、いつもよりはっきり聞こえた。
「今日の点数」
悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。
「九十六点」
「高いですね」
「スプーン右なしで帰れたから」
「はい」
「でも、部屋のことんはやっぱり必要だったから」
「それで四点減点?」
「ううん。四点は、まだ伸びしろ」
「なるほど」
「いつか、もっと自分で帰ってこられるかもしれない」
「はい」
「でも、ここには来る」
「もちろんです」
「来なくていいって意味じゃない」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「ならよし」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「今日は、少し自分で帰ってきた」
「はい」
「でも、最後はここに着いた」
「はい」
「おかえりって言って」
悠真は、まっすぐ彼女を見た。
「おかえりなさい」
しらいさんは、少しだけ目元を赤くして笑った。
「ただいま」
それは、これまでより少しだけ強い「ただいま」だった。
誰かに引っ張られて戻ってきたのではなく。
自分の足で歩いて、ここまで来た人の声。
「また行ってくる」
「はい」
「また帰ってくる」
「待っています」
「知ってる」
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻った。
◇
悠真はローテーブルの前に戻った。
マグカップはもう棚にある。
スプーンは右ではなく、少し離れた小皿の上。
青灰色のノートは、今日は彼女と一緒に帰っていった。
ここに残っているのは、ミルクティーの少し甘い匂いだけ。
それでも、部屋には確かに「ただいま」の余韻があった。
白瀬アカリは、これからもっと遠くへ行くのかもしれない。
取材も増える。
仕事も増える。
新しい役も来る。
外側の目も、きっと強くなる。
でも、しらいさんは少しずつ帰り方を覚えている。
誰かに連れ戻されるだけではなく。
合図に縛られるだけでもなく。
自分の足で、少しずつ。
悠真は、空になったローテーブルを見ながら思った。
待つことは、ただ立ち止まることではない。
彼女が自分で帰ってこられるように、場所を消さずにいることだ。
そして、帰ってきたら言う。
おかえりなさい。
何度でも。




