第98話 スプーン右が、少しだけ噂になりかける
スプーン右は、あまりにも地味な合図だった。
だからこそ、二人は安心していた。
蜂蜜は少し外へ出た。
白瀬アカリの小さな習慣として、インタビューにも載り、ファンの間でも少し真似されるようになった。
けれど、スプーン右は違う。
ただ、カップの右側にスプーンを置くだけ。
誰が見ても、それは癖にしか見えない。
意味なんてない。
ただの置き方。
しらいさんは、そう思っていた。
春日くんも、そう言ってくれた。
外ではただのスプーン。
内側では、ただいま。
だから、その日も何気なくやってしまった。
取材現場の控室だった。
白瀬アカリは、午前中の撮影を終えて、少しだけ休憩に入っていた。
テーブルには、スタッフが用意してくれた温かい紅茶がある。
蜂蜜のスティックも添えられていた。
最近は、現場でも蜂蜜を用意されることが増えた。
最初は少し恥ずかしかった。
でも今は、「ありがとうございます」と受け取れるようになってきた。
蜂蜜そのものではなく、温かい飲み物をゆっくり飲む時間が大事。
そう、自分でも線を引けるようになってきたからだ。
しらいさんは蜂蜜を少しだけ入れた。
混ぜたスプーンを、いつものようにカップの右側へ置く。
本当に、いつものように。
何も考えずに。
そのとき、近くにいた若いスタッフがふと笑った。
「白瀬さん、いつもスプーン右なんですね」
指先が止まった。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけだったと思う。
けれど、体の中で何かが小さく跳ねた。
「……え?」
白瀬アカリの声は、ちゃんと穏やかに出た。
スタッフは悪気のない顔で、紙コップの横を指す。
「前の現場でも見た気がして。なんか、置き方決まってるのかなって」
「ああ」
しらいさんは微笑んだ。
白瀬アカリの顔で。
「たぶん、無意識です」
「そうなんですね。なんか几帳面で白瀬さんっぽいなって思いました」
「几帳面、ですか?」
「はい。飲み物周りも綺麗にしてるイメージあります」
「そんなに綺麗ではないですよ」
軽く笑う。
スタッフも笑う。
そこで話は終わった。
本当に、それだけだった。
悪意もない。
詮索でもない。
ただ、現場の雑談。
けれど、しらいさんの胸の中では、その小さな言葉がしばらく残った。
いつもスプーン右なんですね。
たったそれだけ。
なのに、二人だけの合図に、外側の視線が少し触れた気がした。
◇
その日の昼休み、春日悠真は三崎といつもの休憩スペースにいた。
三崎はまた白瀬アカリの記事を読んでいる。
完全に日課だった。
「春日」
「何」
「白瀬アカリ、今日の現場写真出てる」
「公式か?」
「うん。雑誌の公式。撮影合間っぽいやつ」
三崎がスマホをこちらに向ける。
そこには、白瀬アカリの後ろ姿に近い写真が写っていた。
顔は横顔程度。
テーブルには紙コップと資料。
悠真は、一瞬だけ息を止めた。
紙コップの右側に、スプーンがあった。
ただ、それだけ。
普通の人なら見ない。
見ても何とも思わない。
けれど悠真には、そこに小さな合図が見えた。
しらいさんが、外の現場で少しだけ帰ってきた跡。
「どうした?」
三崎が目ざとく聞く。
「いや」
「また何か見つけた顔」
「何も」
「嘘っぽい」
「面倒くさいファンだから、写真の小物まで見てしまうだけだ」
「それは分かる」
「分かるのか」
「俺も最近、白瀬アカリのインタビュー写真で飲み物を探すようになってきた」
「それはかなり面倒くさいな」
「お前に言われたくない」
三崎は笑いながら、画面を自分のほうへ戻した。
「でも、こういう何気ない写真って、ファンは見るよな」
「そうだな」
「飲み物とか、机の上とか、手元とか。本人が出してる言葉じゃないところまで、勝手に情報として拾っちゃう」
悠真は箸を止めた。
三崎は唐揚げ弁当を開けながら、何気なく続ける。
「まあ、公式が出してる写真だから変なものは写ってないんだろうけど。見る側は本当に細かいところまで見る」
「……そうだな」
「白瀬アカリみたいに今注目されてる人は、余計にそうだろうな」
悠真は、胸の奥に小さなざわつきを覚えた。
公式写真の右側のスプーン。
何でもないものだ。
けれど、見ようと思えば誰でも見える。
二人だけの合図は、誰にも分からないほど地味だ。
でも、地味だから絶対に見られないわけではない。
「春日」
「何だ」
「今日の顔、ちょっと心配ファン強め」
「分類を更新するな」
「白瀬アカリの写真見たあと、急に深くなったから」
「……ファンとして、細かいところまで見られるのは大変そうだと思っただけだ」
「それは思う」
三崎は素直に頷いた。
「売れるって、そういうことでもあるんだろうな。本人が意味を込めてないものにも、意味を探される」
悠真は、少しだけ苦く笑った。
意味を込めていないものに、意味を探される。
今日の場合は逆だった。
意味を込めているものを、意味がないように見せている。
それでも、外側から見れば同じだ。
机の上のただのスプーン。
「三崎」
「何」
「今日も外側の番人だな」
「その呼び名、もう諦めたほうがいい?」
「諦めてくれ」
「外側の番人、昼休みに唐揚げ食べてるだけなんだけど」
「十分だ」
三崎は呆れた顔をしながらも、少しだけ笑った。
◇
午後、しらいさんからメッセージが来た。
『スプーン右、見られた』
悠真は、会社のデスクでその文字を見て固まった。
やはり。
昼に見た公式写真のことかもしれない。
いや、写真ではなく現場で直接言われたのかもしれない。
『大丈夫ですか』
送る。
既読はすぐについた。
『大丈夫』
『でも、ちょっとびっくりした』
『スタッフさんに、いつもスプーン右なんですねって言われた』
悠真は、画面を見ながら静かに息を吐いた。
『悪意は?』
『全然ない』
『ただの雑談』
『几帳面で白瀬さんっぽいって』
その文に、少しだけ安心する。
悪い流れではない。
詮索でもない。
ただの雑談。
でも、しらいさんが驚いたのは分かる。
『一度見られただけなら、ただの癖です』
悠真は送った。
既読。
『うん』
『理沙さんにもそう言われた』
『でも、ちょっと怖かった』
『二人だけの合図が、外に触れた感じがした』
悠真は、すぐには返せなかった。
その感覚は、とてもよく分かる。
『スプーン右をやめますか』
送る。
既読。
少し長い沈黙。
やがて、
『やめたくない』
と返ってきた。
続けて、
『でも、外では気をつけたい』
『無理に置かない』
『必要な日だけ』
悠真は、少しだけ安心した。
『それがいいと思います』
『スプーン右は、義務ではなく合図なので』
既読。
『義務じゃない合図』
『うん』
『今日、それほしかった』
悠真は画面を見つめる。
『三崎も似たことを言っていました』
『え』
『公式写真など、ファンは小物まで見ることがある』
『本人が意味を込めていないものにも、意味を探されることがある、と』
既読。
しらいさんの返事は少し遅れた。
『外側の番人』
『今日も仕事してる』
『はい』
『何も知らないのに、ちゃんと外を見てくれる』
『はい』
『春日くんは?』
悠真は指を止める。
『俺は少し心配になりました』
正直に送る。
『二人だけの合図を守りたいと思いました』
既読。
少し間。
『それ、近い人の顔』
『はい』
『たぶん、今しています』
『見たい』
『あまり見せたい顔ではありません』
『でも、見たい』
前にも似たやり取りをした。
悠真は少し笑ってしまう。
『今日は来られますか』
送る。
既読。
『微妙』
『理沙さんと確認がある』
『スプーン右の件?』
『うん』
『あと、今後の取材写真とか』
『分かりました』
『無理しないでください』
既読。
『でも、夜少し電話したい』
『もちろんです』
◇
その夕方、しらいさんは理沙さんと小さな打ち合わせをした。
控室ではなく、事務所の会議室だった。
テーブルの上には、公式が昼に出した写真も表示されている。
紙コップ。
資料。
右側のスプーン。
理沙さんはそれを見て、静かに言った。
「写真自体に問題はないわ」
「はい」
「スプーン右も、誰が見てもただの置き方」
「はい」
「スタッフの発言も、ただの雑談。悪意も詮索もない」
「分かっています」
「でも、あなたが驚いたのも分かる」
しらいさんは、少しだけ顔を上げた。
理沙さんはタブレットを閉じる。
「二人だけの合図に、外の視線が触れた気がしたのでしょう」
「……はい」
「今後、こういうことは増えるわ」
「はい」
「飲み物、手元、小物、服の色。本人が意味を込めていなくても、あるいは少し意味を込めていても、外から見られる」
「はい」
「だから、合図を作るなとは言わない。でも、外で使う合図には余白を持たせなさい」
「余白?」
「それがなくても成立すること。見られてもただの癖で済むこと。毎回必ずやらなくてもいいこと」
しらいさんは、春日くんの言葉を思い出した。
義務ではなく合図。
「春日くんにも、義務ではなく合図って言われました」
「それは正しいわね」
「理沙さん、今日も春日くんに甘い」
「正しいことは正しいと言うだけよ」
理沙さんは少しだけ目を細めた。
「スプーン右は続けてもいい。ただし、外では自然に。必要な日だけ。無理に置かない」
「はい」
「写真に写る可能性がある場所では、特に意識しすぎないこと。意識しすぎると、かえって癖として目立つ」
「はい」
「部屋や自宅で使うぶんには問題ない」
「はい」
「ことんの音と同じ。必要なときに使う。頼りすぎない」
しらいさんは頷いた。
少しだけ寂しい。
でも、安心もした。
やめなくていい。
けれど、無理に続けなくていい。
それは、今の自分にちょうどよかった。
「理沙さん」
「何?」
「合図って、増えすぎると疲れますね」
「ええ」
「でも、ないと寂しい」
「そうね」
「難しいです」
「難しいわよ」
いつもの答え。
けれど、少し笑ってしまった。
「でも、今日は一つ学んだわね」
「何をですか」
「合図にも休みが必要ということ」
しらいさんは、その言葉を心の中で繰り返した。
合図にも休みが必要。
たしかに、毎日使えば義務になる。
義務になれば、帰る道ではなく確認作業になる。
「それ、ノートに書きたいです」
「書きなさい」
「外には?」
「出さない」
「はい」
理沙さんは少しだけ表情を緩めた。
「今日のあなたは、驚いたけれど崩れてはいない」
「そうですか」
「ええ。以前なら、合図をやめるか、逆に守ろうとして固くなったでしょう」
「……たぶん」
「今日は、続けるけれど必要な日だけにする、と言えた」
「はい」
「それで十分」
十分。
その言葉も、最近少しずつ受け取れるようになってきた。
◇
夜の通話は、いつもより少し遅かった。
悠真はローテーブルの前に座っていた。
今日はカップの右側にスプーンを置かなかった。
代わりに、スプーンは小皿の上に置いてある。
右でも左でもない、少し離れた場所。
無理に置かない日。
そう決めた。
スマホが鳴る。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまです」
「春日くんも」
「理沙さんとは話せましたか」
「うん」
「どうでした?」
「スプーン右は、続けていいって」
「はい」
「でも、外では自然に。必要な日だけ。無理に置かない」
「俺もそう思います」
「うん」
「今日は?」
悠真はローテーブルを見る。
「今日は、俺は置いていません」
電話の向こうで、しらいさんが少し黙った。
「置いてないんだ」
「はい」
「寂しい?」
「少し」
「私も少し」
「でも、今日は置かない日でいいと思いました」
「うん」
「合図にも休みが必要なので」
しらいさんが、小さく息を吸った。
「それ、理沙さんにも言われた」
「そうなんですか」
「うん。合図にも休みが必要って」
「理沙さんはやっぱりすごいですね」
「春日くんも同じ方向見てる」
「そうでしょうか」
「うん」
しらいさんの声は、少し落ち着いていた。
「今日は、スプーン右なしでも帰る練習」
「はい」
「蜂蜜は?」
「入れています」
「私も」
「なら、蜂蜜の日ではありますね」
「うん。でもスプーン右じゃない」
「はい」
「ちょっと変な感じ」
「そうですね」
「でも、帰れないわけじゃない」
「はい」
「スプーン右がなくても、帰れる」
「はい」
「それも大事?」
「大事だと思います」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「春日くん、今日ずっと理沙さん側」
「彼氏側もです」
「出た」
「はい」
「でも、今日はそれで安心する」
「よかったです」
「出た」
いつもの言葉が戻ってくる。
それだけで、電話の向こうの緊張が少しほどけた気がした。
◇
「今日ね」
しらいさんが言う。
「スタッフさんに言われたとき、一瞬すごく怖かった」
「はい」
「秘密がばれたわけじゃないのに」
「はい」
「誰も何も知らないのに」
「はい」
「でも、こっちのものに外の光が当たった感じがした」
「はい」
「外の光って、強いね」
「そうですね」
「年末番組の光とは違うけど」
「はい」
「何気ない雑談の光も、たまに強い」
悠真は、静かに聞いていた。
派手なスクープでもない。
大きな記事でもない。
ただのスタッフの一言。
それでも、しらいさんにとっては十分に光だった。
「でも、やめたくなかった」
「はい」
「スプーン右、好きだから」
「はい」
「春日くんにただいまって言う合図だから」
悠真は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「俺も好きです」
「うん」
「だから、必要な日だけ続けましょう」
「うん」
「合図は守るものですが、縛るものではないので」
電話の向こうで、しらいさんが黙った。
少しして、
「春日くん」
「はい」
「それ、ノートに書く」
「どうぞ」
「今書く」
紙を開く音がした。
青灰色のノートだ。
ペン先が走る音。
少しして、彼女が読み上げた。
「合図は、守るもの。でも、縛るものではない」
悠真は静かに息を吐いた。
「いいと思います」
「うん」
「今日は読ませてくれるんですね」
「これは読ませる」
「ありがとうございます」
「お礼合戦?」
「今日は引き分けで」
「うん」
◇
通話の終わり際、しらいさんが少し迷うように言った。
「今日は、ことんの音ほしいような、我慢したいような」
「どちらにしますか」
「……今日は、なし」
「分かりました」
「スプーン右なし、ことんなし」
「はい」
「蜂蜜だけ」
「はい」
「それで帰る」
「おかえりなさい」
少し早めに言った。
電話の向こうで、しらいさんが小さく笑う。
「まだ言ってない」
「先に言いました」
「ずるい」
「すみません」
「謝らないで」
少し間が空く。
「ただいま」
その声は、とても小さかった。
でも、ちゃんと届いた。
「おかえりなさい」
今度は、もう一度言った。
「二回言った」
「必要そうだったので」
「うん」
「必要だった」
しらいさんは、少し眠そうに息を吐いた。
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
電話が切れた。
◇
悠真はローテーブルを見た。
今日はスプーン右ではない。
ことんの音も鳴らさない。
でも、蜂蜜入りの温かい飲み物はある。
そして、しらいさんは帰ってきた。
合図がなくても帰れる日。
合図を休ませる日。
それもまた、二人に必要な帰り道なのだろう。
悠真はスプーンを小皿の上に置いたまま、カップを一口飲んだ。
少し甘い。
いつもより静かな甘さだった。
白瀬アカリが遠くへ行くほど、帰り道は増えていく。
けれど、その道を毎日全部使う必要はない。
必要な日に、必要な道を選ぶ。
それが、今の二人の新しい線引きだった。




