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第97話 何もしなかった日の百点

 翌朝、白瀬アカリは少しだけ変な気分で目を覚ました。


 目覚ましが鳴る前だった。

 窓の外はまだ薄く、カーテンの隙間から入る光も頼りない。


 体は重くない。


 むしろ、いつもより少し軽かった。


 それが不思議だった。


 昨日、何もしなかったからだ。


 台本を読んでいない。

 取材の答えも考えていない。

 過去の記事も見返していない。

 青灰色のノートにも、その場では何も書かなかった。


 春日くんの部屋でミルクティーを飲んで、少しスマホを我慢して、ソファで眠って、またミルクティーを飲んだ。


 本当に、それだけだった。


 何もしなかった。


 なのに、朝になっても白瀬アカリは壊れていなかった。


 その当たり前のことが、しらいさんには少しだけ新しかった。


 ベッドの中でスマホを取る。

 春日くんとのメッセージ画面を開く。


 昨夜、帰宅してから一文だけ送った。


『今日、何もしなかった。でも、白瀬アカリは壊れなかった』


 青灰色のノートにも同じ文を書いた。

 そして写真は送らなかった。


 そのかわり、春日くんから返ってきた文字がある。


『すごくいい一文です』


『何もしなかった日の百点ですね』


 そのときは、少し笑ってしまった。


 百点。

 何もしなかったのに。


 でも、今朝になってその言葉が胸の中で少しずつ温まっている。


 何もしなかった日の百点。


 そんな点数があってもいいのかもしれない。


 しらいさんは、ベッドの上で小さく息を吐いた。


 今日からまた仕事だ。


 けれど昨日の休みは、ちゃんと昨日で終わったのではなく、今日の体の中に少し残っている気がした。


    ◇


 事務所に着くと、理沙さんはすでにいた。


 いつも通り、タブレットを開き、今日のスケジュールを確認している。


 白瀬アカリとしての一日は、ここから始まる。


「おはようございます」


「おはよう。喉は?」


「九割四分です」


 理沙さんが目を上げた。


「自分評価で?」


「はい」


「私の評価では九割三分」


「高いですね」


「昨日休んだからでしょう」


 あまりにも当然のように言われて、しらいさんは少しだけ黙った。


 昨日休んだから。


 その一言が、妙に胸へ残る。


「顔色も悪くないわ」


「はい」


「睡眠は?」


「いつもより少し長く寝ました」


「よろしい」


 理沙さんはタブレットに何かを入力した。


 それから、何気ない顔で聞く。


「昨日、休めた?」


 しらいさんは少し考えた。


 休めた、のだろうか。


 何もしない練習はした。

 スマホも我慢した。

 ソファで寝た。

 ミルクティーを飲んだ。

 少し泣きそうにもなった。


 仕事はしていない。


 でも、休めたかと聞かれると、まだ少し自信がない。


「何もしませんでした」


 結局、そう答えた。


 理沙さんは顔を上げた。


「百点」


 即答だった。


 しらいさんは思わず目を丸くする。


「え」


「百点」


「そんなに早く?」


「早くていい内容だから」


「何もしなかっただけです」


「だから百点」


 理沙さんは淡々と言った。


「今のあなたに必要なのは、何かを足すことではなく、何もしない時間に慣れることよ」


「はい」


「昨日、それをした」


「はい」


「なら百点」


 しらいさんは、何も言えなかった。


 理沙さんに褒められることはある。

 でも、たいていは条件つきだ。


 悪くない。

 でもここは気をつけて。

 今の量で十分。

 ただし足しすぎないこと。


 そういう言葉が多い。


 なのに今日は、百点。


 何もしなかったことに、百点。


「……百点なんですか」


「ええ」


「本当に?」


「同じことを二回言わせないで」


「すみません」


「謝るところではないわ」


 いつもの調子で返され、少しだけ笑いそうになった。


 理沙さんはスケジュール表を指で軽く叩く。


「昨日の休みを受けて、今日のあなたの反応を見る。そこで問題がなければ、今後も短い休みを意図的に入れる」


「今後も?」


「ええ」


「休みを?」


「当然でしょう」


「……はい」


「休みは一回で終わるイベントではないわ」


 その言葉は、少しだけ怖く、少しだけ安心した。


 休みは一回で終わるイベントではない。


 これからも入る。

 また何もしない練習をする日がある。


 白瀬アカリが働き続けるために、しらいさんが壊れないために。


「春日さんの部屋では、何をしたの?」


 理沙さんが聞く。


「ミルクティーを飲みました」


「ええ」


「スマホを見ない練習をしました」


「ええ」


「少し寝ました」


「少し?」


「三十分くらい」


「上出来ね」


「春日くんが十分钟で起こしてくれませんでした」


「彼氏側が勝ったわけね」


 しらいさんは咳き込みそうになった。


「理沙さん」


「何?」


「そういう言い方」


「今さらでしょう」


「……はい」


「で、ノートは?」


「部屋では書きませんでした」


「それも百点」


「本当に?」


「ええ。書くことを義務にしなかった」


 理沙さんは、そこで少しだけ表情を柔らかくした。


「青灰色のノートは、言葉を置く場所であって、宿題ではないわ」


 しらいさんは小さく頷いた。


「はい」


「書かない日も作りなさい」


「昨日、春日くんにも言われました」


「彼もたまには正しい」


「たまには?」


「たまには」


 理沙さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 たぶん、かなり評価しているときの言い方だ。


「でも、帰ってから一文だけ書きました」


「何て?」


 しらいさんは少し迷った。


 それから、小さく答えた。


「今日、何もしなかった。でも、白瀬アカリは壊れなかった、って」


 理沙さんは、数秒黙った。


 その沈黙が少し怖い。


 けれど、返ってきた言葉は静かだった。


「いい一文ね」


 しらいさんは、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「春日くんにも、そう言われました」


「でしょうね」


「何もしなかった日の百点って」


「それも悪くないわ」


「理沙さんも?」


「ええ」


 理沙さんはタブレットを閉じる。


「昨日は、何もしなかった日の百点。今日は、その百点を持ったまま仕事へ戻れるかを見る日」


「はい」


「張り切りすぎないこと」


「はい」


「昨日休んだから今日は倍頑張る、は禁止」


 言われる前に少し思っていた。


 昨日休んだから、今日は取り返さなければ。

 そんな気持ちが、朝から少しだけあった。


 理沙さんはそこまで読んでいたのだろう。


「……はい」


「休んだ分を取り返すのではなく、休んだから普通に働ける。それでいい」


「はい」


「分かった?」


「分かりました」


「本当に?」


「少し」


「正直でよろしい」


 理沙さんは、今日の一枚目の資料を差し出した。


「では、普通に始めましょう」


 普通に。


 その言葉が、今日は少しだけ優しく聞こえた。


    ◇


 昼休み、春日悠真はしらいさんからのメッセージを読んでいた。


『理沙さんに百点もらった』


 画面を見た瞬間、自然と口元が緩んだ。


『おめでとうございます』


 すぐ既読がつく。


『何もしなかっただけなのに』


『何もしなかったから百点なんだと思います』


 既読。


『春日くんも同じこと言う』


『理沙さんと意見が合って光栄です』


『硬い』


『すみません』


『謝らないで』


 いつものやり取り。


 向かいに座っていた三崎が、目ざとく気づく。


「春日」


「何」


「いいことあった顔」


「顔を見るな」


「今のは分かりやすい」


「そうか」


「白瀬アカリ?」


 悠真は一瞬だけ止まった。


 三崎の言葉は、いつも何気ない。


 でも、少しだけ危ない。


「白瀬アカリの記事の話だ」


「何か出た?」


「いや、昨日休めてるといいなと思っていたから」


 嘘ではない。

 かなりぼかしているが、嘘ではない。


 三崎はそれを聞いて、少しだけ真面目な顔になった。


「ああ。休めてるならいいな」


「お前も昨日言ってたな」


「言った。白瀬アカリ、休むの下手そうって」


「本当にそうかもしれないな」


「でも、もしちゃんと休めてるならファンとして安心」


 三崎は唐揚げを一つ口へ入れる。


「売れてる人ってさ、休んだことまでニュースになるわけじゃないだろ」


「そうだな」


「でも、ファンとしては休んでるかどうかも気になるわけだ」


「かなり面倒くさいな」


「お前に言われたくない」


「それはそうだ」


 三崎は笑った。


 でも、すぐに言葉を続ける。


「白瀬アカリ、もっと仕事増えると思うけど、休んだら仕事の質も上がりそうだよな」


「そう思うか」


「思う。最近の表情って、張りつめてるだけじゃなくて余白があるだろ」


「うん」


「その余白って、ちゃんと休まないと消えそう」


 悠真は、箸を止めた。


 三崎は今日も、普通に大事なことを言う。


「外側の番人だな」


「またそれ」


「今日も仕事してる」


「外側の番人、給料出る?」


「出ない」


「じゃあ唐揚げ一個くれ」


「何で俺の弁当から出るんだ」


 二人は少し笑った。


 その軽さに救われながらも、悠真は三崎の言葉を胸にしまった。


 ちゃんと休まないと、余白が消える。


 これは、しらいさんに伝えたい。


    ◇


 午後の仕事は、思ったより普通に進んだ。


 白瀬アカリは、取材で少し話し、撮影で少し笑い、コメント収録で短い言葉を選んだ。


 昨日休んだからといって、何か特別に能力が上がったわけではない。


 けれど、いつもより呼吸が浅くならなかった。


 質問を受けたとき、焦って正解を探しに行く感じが少し弱かった。

 間が怖くない、とまでは言えない。

 でも、間に追われる感じは少し減っていた。


 理沙さんは、何も言わなかった。


 ただ、撮影の合間に一度だけ頷いた。


 それだけで、悪くないのだと分かった。


 夕方、控室へ戻ると、理沙さんが言った。


「今日は足しすぎなかったわね」


「昨日休んだからでしょうか」


「その可能性はある」


「休むと、仕事ができるんですね」


「今さら?」


「……今さらです」


 理沙さんはほんの少しだけ笑った。


「だから休みを入れたの」


「はい」


「今後も入れるわよ」


「はい」


「嫌そうな顔をしない」


「しましたか」


「少し」


「すみません」


「謝るところではないわ。慣れなさい」


 休みに慣れる。


 それもまた、練習なのだろう。


 しらいさんは頷いた。


「はい」


「今日はノートに何か書く?」


「一文だけ、たぶん」


「義務ではないわよ」


「分かっています」


「ならいいわ」


    ◇


 夜、しらいさんは部屋へは来られなかった。


 けれど、通話はできた。


 悠真はローテーブルの前に座り、マグカップをコースターに置いていた。

 右側にはスプーン。

 蜂蜜入りのハーブティーも用意している。


「もしもし」


「春日くん」


「百点、おめでとうございます」


「まだ言う」


「何度でも」


「恥ずかしい」


「でも、よかったです」


「うん」


 しらいさんの声は、昨日より少し明るかった。


「今日、仕事できた」


「はい」


「昨日何もしなかったのに」


「はい」


「普通にできた」


「はい」


「それが少し不思議だった」


「休んだから普通にできたんだと思います」


「理沙さんにも言われた」


「はい」


「休んだ分を取り返すんじゃなくて、休んだから普通に働けるって」


「その通りですね」


「うん」


 少し沈黙。


 それから、彼女がぽつりと言う。


「私、ずっと休むと遅れると思ってた」


「はい」


「何もしないと、置いていかれる気がしてた」


「はい」


「白瀬アカリが動いていない間に、誰かが先に行く気がして」


「はい」


「でも、昨日何もしなかったのに、今日はちゃんと仕事できた」


「はい」


「白瀬アカリ、壊れなかった」


「壊れませんでしたね」


「うん」


 しらいさんは少し笑った。


「三崎さんは?」


「今日も外側の番人でした」


「何て?」


「ちゃんと休まないと、白瀬アカリの余白が消えそうだと」


 電話の向こうが静かになった。


 数秒して、しらいさんが小さく息を吐く。


「三崎さん」


「はい」


「本当に外側から見てる」


「はい」


「余白、消えるのは嫌だな」


「俺も嫌です」


「春日くんも?」


「はい」


「でも、余白を作るには休みがいる」


「たぶん」


「休むのも、余白を守る仕事?」


「そうかもしれません」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「それ、ノートに書く」


「いいと思います」


「今日の一文」


「はい」


「休むのは、余白を守る仕事」


 悠真は、その言葉をゆっくり受け止めた。


「すごくいいです」


「本当?」


「はい」


「じゃあ書く」


 電話の向こうで、紙を開く音がした。


 青灰色のノートだろう。


 ペン先が紙を走る音。


 少しして、


「書いた」


 と彼女が言った。


「読んでいいですか」


「今日はだめ」


「分かりました」


「でも、置いた」


「はい」


「昨日の一文の次に」


「はい」


「何もしなかった日の百点と、休むのは余白を守る仕事」


「いい並びですね」


「ちょっと格好つけすぎ?」


「いいと思います」


「春日くん、甘い」


「彼氏側なので」


「便利に使ってる」


「はい」


 二人で少し笑った。


    ◇


 通話の終わり際、しらいさんが言った。


「春日くん」


「はい」


「今日は、ことんの音ほしい」


 悠真はマグカップを見る。


「はい」


「昨日休めたから、今日は聞きたい」


「分かりました」


 カップを持ち上げる。


 青灰色のコースターの上へ、そっと置く。


 ことん。


 小さな音が、部屋に落ちる。


 電話の向こうで、しらいさんが黙った。


「聞こえましたか」


「聞こえた」


「よかったです」


「今日は、依存じゃない」


「はい」


「百点のご褒美」


「そうですね」


「うん」


 その声は、少し眠そうで、少し満足そうだった。


「おやすみ、春日くん」


「おやすみなさい」


「今日、休めた私の百点」


「はい」


「明日は、普通に働く私の八十点くらいを目指す」


「百点じゃなくていいんですか」


「毎日百点だと疲れる」


 悠真は笑った。


「それも大事ですね」


「うん」


「では、八十点くらいで」


「うん」


 電話が切れた。


 悠真はローテーブルの前で、しばらくマグカップを見ていた。


 何もしなかった日の百点。

 休むのは、余白を守る仕事。

 毎日百点でなくていい。


 しらいさんは、少しずつ休むことを覚え始めている。


 白瀬アカリが遠くへ行くためではなく。

 しらいさんが、ちゃんと戻ってこられるように。


 悠真は、マグカップを棚へ戻した。


 ことん。


 今日の音は、昨日より少し軽く聞こえた。

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