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第96話 白瀬アカリ、初めて“休む仕事”を入れられる

 理沙さんからの連絡は、午前十時過ぎに来た。


 春日悠真は会社のデスクで、資料の数字を確認していた。

 いつもの午前。

 いつものキーボードの音。

 隣では三崎が、なぜか真剣な顔で社内チャットを睨んでいる。


 そのとき、スマホが短く震えた。


 しらいさんからだった。


『大変』


 たった二文字。


 悠真は画面を見て、少しだけ背筋を伸ばした。


『どうしましたか』


 すぐ既読がつく。


『理沙さんに休みを入れられた』


 悠真は、一瞬だけ意味を考えた。


 休みを入れられた。

 それは良いことではないのか。


 けれど、しらいさんの「大変」は本気らしかった。


『休みですか』


『うん』


『半日』


『強制』


『それは良いことでは』


 既読。


 少し間。


『何をしたらいいか分からない』


 悠真は、画面を見ながら小さく息を吐いた。


 いかにも彼女らしい。


 休みを入れられて困る。

 時間が空いたことに、どうしていいか分からなくなる。


 白瀬アカリは、仕事のための準備ならいくらでもできる。

 台本を読む。

 取材の答えを考える。

 体調を整える。

 表情を確認する。

 言葉を選ぶ。


 でも、休むとなると急に迷子になる。


『何もしない練習をしましょう』


 悠真は送った。


 既読。


 少しして、


『何もしない練習』


 と返ってくる。


『はい』


『難しい』


『たぶん、今のしらいさんには必要です』


 既読。


 また少し間。


『春日くんも理沙さん側』


『彼氏側もです』


『強い』


 いつもの返事。


 けれど、そのあとに続いた文は少し弱かった。


『休むの、怖い』


 悠真は、その一文を見つめた。


 休むのが怖い。


 白瀬アカリが大きくなり、仕事が増え、取材も増え、注目も増えた。

 そんな中で、休むことは遅れることのように感じるのかもしれない。


 あるいは、何もしない時間に、考えたくないことが浮かんでくるのが怖いのかもしれない。


『怖くても大丈夫です』


『休むのも、今の仕事です』


 送る。


 既読。


『それ、理沙さんに言われた』


『休むことを仕事にしなさいって』


 悠真は少し笑った。


 理沙さんらしい。

 あまりにも理沙さんらしい。


『理沙さんは正しいです』


 既読。


『分かってる』


『でも、休む仕事って何』


『難題ですね』


『難題』


 少し間が空く。


『明日の午後』


『半日休み』


『部屋、行っていい?』


 悠真は、すぐに返した。


『もちろんです』


『ただし、本当に休むなら』


 既読。


『条件つき』


『はい』


『資料禁止』


『取材の答えを考えるの禁止』


『スマホ確認しすぎ禁止』


『青灰色のノートは?』


 悠真は少し考えた。


 ノートは仕事ではない。

 けれど、言葉を整理するものでもある。


『持ってきてもいいですが、書かなくてもいい日にしましょう』


 既読。


『書かなくてもいい日』


『はい』


『それも難しい』


『では練習です』


 既読。


『何もしない練習』


『うん』


『怖いけど、行く』


『待っています』


『知ってる』


    ◇


 昼休みになると、三崎は開口一番に言った。


「春日、白瀬アカリ、最近ちょっと露出多すぎないか」


 悠真は弁当の蓋を開けかけた手を止めた。


「急に何だ」


「いや、嬉しいんだけどさ。雑誌、ウェブ、番組、取材、コメント。追う側も忙しい」


「追わなければいいだろ」


「ファン仲間としてそれは無理」


「無理なのか」


「無理」


 三崎はカフェラテを置き、スマホをテーブルに伏せた。


「でも、本人はもっと忙しいわけだろ」


「そうだな」


「休めてるのかね」


 悠真は、思わず三崎を見た。


 今日も外側の番人は、何も知らずに大事なところを突いてくる。


「休めてなさそうに見えるか?」


「見えるというか、仕事の流れがすごいからな。売れ始めのタイミングって、本人が休むって言い出しにくそうじゃん」


「……」


「白瀬アカリ、たぶん自分から休ませてくださいって言えないタイプだろ」


 悠真は箸を置きたくなった。


 近い。


 本当に近い。


「どうしてそう思う」


「昔の記事と今の記事を読み比べてると、ちゃんとしすぎなんだよ」


 三崎は昨日からその読み比べに凝っている。


「今は余白があるけど、根っこは真面目。自分で止まるの苦手そう」


「なるほど」


「だから、誰かが休ませないと危ないんじゃないかって」


 悠真は、内心で理沙さんの顔を思い浮かべた。


 休むことを仕事にしなさい。


 まさに、誰かが休ませようとしている。


「三崎」


「何」


「今日もかなり外側の番人だな」


「その呼び名、定着させようとしてるだろ」


「もう定着しているかもしれない」


「どこで?」


「俺の中で」


「なら勝手にしてくれ」


 三崎は呆れた顔をしながら、唐揚げを一つ口に入れた。


「でも本当に、白瀬アカリは休んでほしい」


「ファンとして?」


「ファンとして。いい演技を長く見たいから」


 その言い方が、妙に三崎らしかった。


 好きだから、もっと見たい。

 でも、だからこそ消耗してほしくない。


 単純なようで、今のしらいさんには大切な外側の声だった。


「その感想も、いいな」


「また褒めた」


「かなりいい」


「最近、俺の昼休みの発言、白瀬アカリ感想欄みたいになってるな」


「なってる」


「まあいいけど」


 三崎はそう言って、ようやく唐揚げ弁当に本格的に取りかかった。


    ◇


 その日の夕方、しらいさんは理沙さんと打ち合わせをしていた。


 小さな事務所の会議室。

 テーブルの上には、今後二週間のスケジュール表が置かれている。


 そこには細かく予定が入っていた。


 雑誌取材。

 ウェブインタビュー。

 コメント収録。

 衣装合わせ。

 次の作品候補の打ち合わせ。

 演技レッスン。

 写真撮影。

 移動。

 確認。

 また移動。


 その中に、一か所だけ空白があった。


 明日の午後。


 そこには、理沙さんの手書きでこう書かれている。


『休み』


 しらいさんは、その二文字を見つめていた。


「理沙さん」


「何?」


「本当にここ、空けるんですか」


「空けるわ」


「でも、確認したほうがいい資料が」


「午前中に回す」


「取材の回答案も」


「今日中に見る」


「次の台本候補は」


「明後日でいい」


「でも」


「アカリ」


 理沙さんの声が少しだけ低くなった。


 しらいさんは口を閉じる。


「休みを入れると言ったでしょう」


「はい」


「半日だけよ」


「はい」


「丸一日ではないのだから、せめて半日くらい休みなさい」


「……はい」


 理沙さんはタブレットを閉じた。


「あなた、最近少し反応が遅くなっている」


「反応?」


「質問を受けてから答えるまでの間が、疲れによるものなのか、考えている余白なのか、見分けにくくなっている」


 しらいさんは、少しだけ息を止めた。


 理沙さんはちゃんと見ている。


 言葉だけではなく、間の質まで。


「喉も大きく崩れてはいないけれど、戻りが遅い。睡眠も短い。移動中の仮眠だけでは足りない」


「はい」


「今休まないと、あとで仕事を減らすことになる」


 それは、脅しではなかった。


 事実だ。


「休みは、仕事を続けるために入れるものよ」


「はい」


「だから、明日の午後は休むこと」


「何をすればいいですか」


 しらいさんが真剣に聞くと、理沙さんは一瞬だけ黙った。


 それから、少し呆れたように息を吐く。


「何もしないの」


「何もしない」


「そう」


「でも、何もしないと不安になります」


「不安になっても、何もしない」


「難しいです」


「だから練習するの」


 春日くんと同じことを言う。


 そう思って、しらいさんは少しだけ笑いそうになった。


「春日さんの部屋へ行くのね?」


「……はい」


「行くのは許可するわ。ただし条件がある」


「はい」


「資料を持ち込まない」


「はい」


「スマホ確認は最低限」


「はい」


「ノートは持っていってもいいけれど、書く義務を作らない」


「……春日くんにも同じようなことを言われました」


「でしょうね」


 理沙さんは、少しだけ表情を緩めた。


「彼氏側も、たまには役に立つわね」


「理沙さん」


「何?」


「今、普通に言いましたね」


「今さらでしょう」


 しらいさんは、何も言い返せずに少しだけ頬を熱くした。


「とにかく」


 理沙さんはスケジュール表の『休み』を指で軽く叩いた。


「明日は、休む仕事をしなさい」


「休む仕事」


「そう」


「白瀬アカリとして?」


「いいえ」


 理沙さんは、少しだけ目を細めた。


「しらいさんとして」


 その言葉が、胸の奥へ落ちた。


 白瀬アカリとして休むのではなく、しらいさんとして休む。


 仕事のために体調を整えるという名目ではなく。

 次の取材に備えるためでもなく。

 ただ、自分に戻るために。


「……はい」


「返事だけはいいのよね」


「頑張ります」


「休みで頑張らない」


「……はい」


「そこから練習」


    ◇


 夜、しらいさんから悠真にメッセージが来た。


『理沙さんに、休みで頑張らないって言われた』


 悠真はローテーブルの前でそれを読んで、思わず笑ってしまった。


『正しいです』


 既読。


『春日くんもそう言うと思った』


『はい』


『明日、何もしない練習』


『はい』


『怖い』


『でも、部屋に来られます』


 既読。


『うん』


『それは嬉しい』


『俺もです』


 送ってから、少しだけ照れる。


 既読。


『最近、自然に言う』


『言ったほうがいいかと思って』


『効く』


『ならよかったです』


『出た』


 そのあと、しらいさんから写真が届いた。


 白いカップ。

 蜂蜜のスティック。

 右側のスプーン。

 そして、青灰色のノート。


『今日は書かない』


 悠真は、その写真をしばらく見た。


 ノートがあるのに、書かない。

 それも休む練習なのだろう。


『それもいいと思います』


 送る。


 既読。


『書かないと、少し落ち着かない』


『でも今日は書かない』


『すごいです』


『本当に』


 既読。


『それ、今日ほしかった』


『明日はもっと何もしない日です』


『怖い』


『一緒に練習しましょう』


 既読。


『うん』


    ◇


 翌日、午後二時。


 インターフォンが鳴った。


 いつもより早い時間にしらいさんが来るのは、少し不思議だった。

 窓の外はまだ明るい。

 夜の部屋ではなく、昼の部屋。


 玄関を開けると、しらいさんが立っていた。


 黒いキャップもマスクもしている。

 けれど、夜より少しだけ表情が見える。


 手には小さな鞄だけ。


 資料の入る大きなバッグではない。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 しらいさんは、そう言ってから自分で少し驚いたような顔をした。


「昼にただいまって変」


「変ではありません」


「そう?」


「帰ってきたので」


「うん」


 部屋に入ると、彼女はすぐにローテーブルを見た。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 ティッシュ。

 右側のスプーン。


 そして、今日は資料が置けるスペースがない。


 代わりに、クッションが一つ置かれていた。


「資料置き場がない」


「今日は不要なので」


「徹底してる」


「何もしない練習ですから」


「先生みたい」


「生徒は休むのが苦手そうですね」


「かなり」


 彼女は少し笑った。


 けれど、その笑いには落ち着かなさも混じっていた。


 悠真はミルクティーを作った。

 蜂蜜は、今日は多すぎないくらい。

 休みの日だからといって、全部を甘くしすぎる必要はない気がした。


 マグカップを渡すと、しらいさんは両手で受け取り、コースターへ置いた。


 ことん。


 昼の部屋に、その音が落ちる。


 夜に聞くより少し明るい音に聞こえた。


「昼のことん」


 しらいさんが言う。


「違いますか」


「少し違う」


「どう違います?」


「夜は帰ってきた音。昼は、休んでいいよって音」


 悠真は少しだけ胸を打たれた。


「いいですね」


「今の、ノートに書きたい」


「今日は書かない練習では?」


「う」


 しらいさんは言葉に詰まる。


「いきなり難しい」


「では、覚えておきましょう」


「忘れたら?」


「俺が覚えています」


 彼女は少しだけこちらを見た。


「春日くん、そういうところ」


「はい」


「ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


 いつものやり取りで、少し空気が緩む。


    ◇


 最初の三十分、しらいさんは落ち着かなかった。


 ミルクティーを飲む。

 カップを置く。

 スマホを見ようとする。

 やめる。

 鞄を触る。

 何も入っていないことを思い出す。

 またスマホを見ようとする。


 悠真はそのたびに、声をかけすぎないようにした。


 止めすぎると、かえって仕事になる。

 でも、放っておくと彼女はたぶん何かを確認し始める。


「スマホ、気になりますか」


「気になる」


「何が?」


「何か連絡来てるかもって」


「理沙さんから本当に大事な連絡があれば、電話が来るのでは」


「そう」


「では、今は見なくても大丈夫です」


「理屈では分かる」


「はい」


「気持ちは見たい」


「見たいままで、見ない練習です」


「難しい」


「練習なので」


 しらいさんは少しだけ恨めしそうにこちらを見る。


「春日くん、今日は理沙さん側が強い」


「彼氏側もです」


「強い」


「休んでほしいので」


 その一言で、彼女は黙った。


 少しだけ顔を伏せ、マグカップを両手で包む。


「それ言われると、見ない」


「はい」


「ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


 彼女はスマホを裏返して、少し遠くへ置いた。


 それだけでも、今日の小さな勝利だった。


    ◇


 次の三十分、しらいさんはソファにもたれていた。


 何もしない。


 ただ、部屋にいる。


 テレビもつけない。

 音楽も流さない。

 会話も少なめ。


 窓の外から、車の音が少し聞こえる。

 マンションのどこかで扉が閉まる音がする。

 冷蔵庫が小さく鳴る。


 しらいさんは、最初それらの音にいちいち反応していた。


 けれど少しずつ、肩の力が抜けていく。


「眠いですか」


 悠真が聞くと、彼女は目を閉じたまま答えた。


「眠くない」


「声は眠そうです」


「眠くない」


「分かりました」


「……少し眠い」


「はい」


「でも寝たら、もったいない」


「何がですか」


「休みが」


 悠真は少し笑った。


「休みは、寝ても減りません」


「減る気がする」


「では、十分钟だけ目を閉じる練習にしましょう」


「それ、昼寝」


「練習です」


「言い方」


 しらいさんは小さく笑った。


 それから、クッションを抱えるようにして、ソファに横になった。


「十分钟」


「はい」


「起こして」


「分かりました」


「寝顔、見ないで」


「それは難しい位置です」


「見すぎないで」


「努力します」


「努力」


「はい」


 彼女は少しだけ目を細め、それから本当に目を閉じた。


 最初はまだ、まぶたに力が入っていた。

 けれど数分もしないうちに、呼吸がゆっくりになる。


 寝た。


 たぶん十分钟どころでは起きない。


 悠真は、静かにカップを手に取った。


 音を立てないように飲む。


 昼の部屋で、白瀬アカリではないしらいさんが眠っている。


 それは、とても静かで、とても大事な光景だった。


    ◇


 結局、しらいさんは三十分ほど眠った。


 起きた瞬間、彼女はぱちっと目を開け、すぐに時計を見た。


「十分钟じゃない」


「すみません」


「起こしてって言った」


「よく眠っていたので」


「春日くん」


「はい」


「甘い」


「今日は休む練習なので」


「理沙さん側じゃない」


「彼氏側です」


 しらいさんは一瞬黙った。


 それから、クッションに顔を少し埋める。


「それはずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、寝た」


「はい」


「資料見なかった」


「はい」


「スマホも見なかった」


「はい」


「ノートも書かなかった」


「はい」


「何もしなかった」


 彼女は自分で言って、少し不安そうな顔になった。


「本当に何もしなかった」


「はい」


「白瀬アカリ、今日何もしてない」


「はい」


「大丈夫かな」


「大丈夫です」


 悠真は、はっきり言った。


「何もしないことも、今日の仕事です」


 しらいさんは、じっとこちらを見た。


「春日くん」


「はい」


「それ、理沙さんと同じくらい効く」


「光栄です」


「硬い」


「すみません」


「謝らないで」


 彼女は少し笑った。


 でも、目元は少し赤くなっていた。


「何もしなかったのに」


「はい」


「ちょっと泣きそう」


「泣いてもいいですよ」


「泣いたら、何かしたことになる?」


「休みの範囲です」


「範囲広い」


「今日は広めで」


 しらいさんは笑いながら、少しだけ涙を拭いた。


 正式予約というほどではない。

 でも、休みの途中で少しだけこぼれた涙。


 それも、きっと必要だった。


    ◇


 帰る時間になるころ、しらいさんはかなり落ち着いていた。


 スマホを見る回数は、最初の一回だけ。

 しかも、本当に大事な連絡がないことを確認してすぐ伏せた。


 資料は見なかった。

 取材の答えも考えなかった。

 ノートも書かなかった。


 何もしない練習は、たぶん成功だった。


 マグカップを洗いながら、しらいさんが言った。


「今日の点数」


「はい」


「七十八点」


「低めですね」


「何もしないのが下手だった」


「でも、しました」


「うん」


「では八十八点くらいでは」


「甘い」


「彼氏側なので」


「それ、便利に使ってる」


「はい」


 しらいさんは少し笑った。


 そして、マグカップを棚に戻す。


 ことん。


 今日は少しだけ音がやわらかかった。


「春日くん」


「はい」


「何もしないって、怖いけど」


「はい」


「ちょっと楽だった」


「はい」


「でも、一人だったらたぶん無理だった」


「はい」


「次は、一人でも少しできるようになりたい」


「それはいいですね」


「うん」


「でも、最初の練習はここで」


「はい」


「それでいいと思います」


 しらいさんは頷いた。


「青灰色のノートに書きたいことができた」


「今日は書かない日では?」


「帰ってから、一文だけ」


「何を書くんですか」


 彼女は少しだけ考えてから言った。


「今日、何もしなかった。でも、白瀬アカリは壊れなかった」


 悠真は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


「それ、すごくいいです」


「本当?」


「はい」


「じゃあ書く」


「はい」


「でも、明日書くかも」


「それでもいいと思います」


「うん。書く日も、書かない日もあり」


「はい」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「休む仕事、少しできた」


「はい」


「おつかれさまです」


 悠真が言うと、しらいさんは少し驚いた顔をした。


「休んだのに?」


「休む仕事をしたので」


 彼女は、目元を少し赤くしながら笑った。


「それ、今日いちばん効いた」


「言えてよかったです」


「出た」


「出ます」


「うん」


 そして、いつものように言う。


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


 部屋に静けさが戻った。


 悠真はローテーブルを見た。


 今日は青灰色のノートはない。

 スプーン右もない。

 ただ、マグカップのあった場所と、少しだけ残ったミルクティーの匂いがある。


 何もしなかった午後。


 けれど、その何もしなかった時間は、たしかに二人の中に残った。


 白瀬アカリは、今日、何もしなかった。


 それでも壊れなかった。


 むしろ、少しだけ戻ってきた。

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