第95話 外側の番人と、内側のノート
外側の番人。
最初にそう呼んだのは、たぶん春日悠真だった。
けれど、その言葉を気に入ったのは、しらいさんのほうだった。
昼休み、悠真が三崎の新しい感想を送ると、彼女はすぐにそう返してきた。
『外側の番人、今日も仕事してる』
スマホの画面を見て、悠真は少し笑った。
会社の休憩スペースでは、その外側の番人本人が、唐揚げ弁当を前にしてスマホを操作している。
もちろん、三崎は何も知らない。
自分が白瀬アカリ本人に感想を届けられていることも、外側の番人と呼ばれていることも、青灰色のノートの存在も、スプーン右も知らない。
知らないからこそ、三崎の言葉は外側のものとして価値がある。
白瀬アカリを、ただのファンとして見る。
画面越しに見て、記事を読んで、好き勝手に、でもちゃんと考えて感想を言う。
それが今のしらいさんに必要なのだと、悠真にも分かっていた。
分かっている。
分かっているのに、少しだけ胸の奥が落ち着かなかった。
「春日」
三崎が顔を上げた。
「何」
「また難しい顔してる」
「してない」
「してる。白瀬アカリのこと考えてる顔」
「その分類、雑になってきたな」
「いや、基本形だから」
「基本形にするな」
三崎は笑いながら唐揚げを一つ口に入れた。
「で、昨日のインタビュー読んだ?」
「読んだ」
「やっぱり余白あるよな」
「昨日も言ってたな」
「うん。で、もう一個思った」
悠真は箸を止めた。
こういう「もう一個思った」は、だいたい持ち帰ることになる。
「何を?」
「白瀬アカリって、たぶん近くで見てる人と、遠くで見てる人で印象が違うタイプだと思う」
悠真は、思わず三崎を見た。
「どういう意味だ」
「遠くで見ると、きれいで、ちゃんとしてて、自然体っぽくて、でもちょっと謎がある人」
「うん」
「近くで見ると、たぶんもっと不器用なんじゃないかって気がする」
胸の奥が、小さく跳ねた。
三崎は弁当を食べながら、軽い調子で続ける。
「いや、会ったことないけどな」
「当たり前だ」
「でも、記事の言葉の選び方見てるとさ。自然に話してるように見えて、実はめちゃくちゃ考えてる感じがある」
「……」
「だから、遠くから見てるファンとしては、その考えた跡を勝手に踏み荒らさないようにしたいなと思うわけだ」
悠真は、すぐには返事ができなかった。
考えた跡を、踏み荒らさない。
それは、青灰色のノートにかなり近い考え方だった。
外に出す言葉の裏にある、出さなかった言葉。
言葉になる前に迷った跡。
白瀬アカリが選んだものと、しらいさんが残したもの。
それを雑に想像で埋めないこと。
三崎は本当に、何も知らずに大事なことを言う。
「三崎」
「何」
「今日もかなりいい」
「最近、俺の感想に点数つけるようになったな」
「つけてない」
「今、かなりって言っただろ」
「かなりは点数じゃない」
「白瀬アカリ語だから?」
「もうそういう扱いなのか」
三崎は楽しそうに笑った。
けれど、悠真は少しだけ笑いきれなかった。
三崎の言葉を持ち帰ったら、しらいさんはきっと喜ぶ。
たぶん、青灰色のノートにも書く。
外側の番人は、今日もいい仕事をした。
そのことが嬉しい。
でも、少しだけ複雑だった。
しらいさんを支える言葉が、自分以外からも届く。
理沙さんの線引き。
三崎の外側の視点。
青灰色のノート。
蜂蜜の日。
スプーン右。
帰る道が増えるのは、いいことだ。
なのに、どこかで小さな独占欲が顔を出す。
自分だけが、彼女の帰る場所でいたかったのだろうか。
そう思った瞬間、悠真は自分の面倒くささに少し呆れた。
「春日?」
三崎が怪訝そうに見る。
「いや」
「穴?」
「たぶん」
「何穴?」
「自分で掘った穴」
「哲学?」
「違う」
三崎はよく分からないという顔をしながらも、それ以上は聞かなかった。
◇
午後、悠真はしらいさんへメッセージを送った。
『外側の番人が、また言っていました』
すぐ既読がつく。
『待ってた』
その一文で、悠真の胸が少しだけざわついた。
待ってた。
三崎の感想を。
いや、それは悪いことではない。
外側からの言葉が今の彼女に必要なのは分かっている。
それでも、少しだけ引っかかる自分がいる。
悠真は、そんな自分を隠すように三崎の言葉を送った。
『白瀬アカリは、遠くで見る人と近くで見る人で印象が違うタイプに見えるそうです』
『遠くで見ると、きれいで、ちゃんとしていて、自然体で、少し謎がある人』
『でも近くで見ると、もっと不器用なんじゃないかと』
既読。
少し間。
『三崎さん』
またそれだけ。
次に来るまで、少し時間があった。
『本当に見てる』
悠真は続けた。
『あと、白瀬アカリの言葉には考えた跡があるから』
『ファンとしては、その考えた跡を勝手に踏み荒らさないようにしたい、と』
既読。
今度は長かった。
仕事の通知がいくつか入り、悠真は一度スマホを伏せた。
けれど、意識は机の上に置いたスマホへ戻ってしまう。
数分後、震えた。
『それ、ノートに書く』
悠真は静かに息を吐いた。
やはり。
『いいと思います』
送る。
既読。
『春日くん』
『はい』
『今、ちょっと複雑な顔してる?』
悠真は固まった。
なぜ分かる。
いや、メッセージだけでも分かるのだろうか。
しばらく迷って、正直に送る。
『少し』
既読。
『三崎さんの感想、嬉しいけど?』
『はい』
『少しだけ、もやっとした?』
『……はい』
既読。
すぐには返事が来ない。
悠真は、やってしまったかもしれないと思った。
しらいさんに余計な気を使わせるようなことを言ったかもしれない。
けれど、返ってきたのは意外な言葉だった。
『よかった』
悠真は画面を見つめた。
『よかった?』
『うん』
『春日くんも、ちゃんともやっとするんだって思った』
『それは、いいことですか』
『いいこと』
『近い人の顔』
悠真は、その一文を何度も読んだ。
近い人の顔。
『でも、三崎さんの感想も大事』
『はい』
『理沙さんの線引きも大事』
『はい』
『ノートも大事』
『はい』
『でも、春日くんは近い』
既読の画面に、次の言葉が続く。
『近すぎて面倒くさい顔する人』
悠真は、会社のデスクで思わず口元を押さえた。
『それは褒めていますか』
『かなり』
『なら受け取ります』
『うん』
少し間が空く。
『今日、行けるかも』
胸が静かに鳴った。
『部屋にですか』
『うん』
『三崎さんの言葉、ノートに置きたい』
『春日くんのもやっとした顔も見たい』
悠真は返事に迷った。
見られたいような、見られたくないような。
『あまり見せたい顔ではありません』
既読。
『でも、見たい』
『意地悪ですね』
『少し』
その返事に、悠真は小さく笑った。
『待っています』
既読。
『知ってる』
◇
しらいさんが来たのは、夜の九時を少し過ぎたころだった。
玄関を開けると、彼女はいつものように「来た」と言った。
少し疲れた声。
でも、どこか楽しそうでもある。
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入ると、しらいさんはすぐにローテーブルを見た。
マグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
スプーン右。
そして、テーブルの端に空けてあるノート用の場所。
「空いてる」
「はい」
「今日はノート持ってきた」
彼女は鞄から青灰色のノートを取り出した。
表紙の端が、ほんの少しだけくたっとしている。
使われ始めたものの顔になっていた。
悠真はミルクティーを作り、蜂蜜を少し多めに入れる。
彼女がカップをコースターに置く。
ことん。
その音のあと、しらいさんはじっと悠真を見た。
「春日くん」
「はい」
「今、面倒くさい顔してる」
「してますか」
「してる」
「……そうですか」
「三崎さんの話?」
悠真は黙った。
隠しても仕方ない。
「はい」
正直に答えると、しらいさんは少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「やっぱり」
「嬉しそうですね」
「少し」
「なぜ」
「春日くんが、ちゃんと近い人の反応をしてるから」
その言い方に、悠真は少しだけ目を伏せた。
「狭いですね、俺は」
「狭い?」
「しらいさんを支えるものが増えるのは、いいことだと分かっています」
「うん」
「理沙さんの言葉も、三崎の感想も、ノートも必要です」
「うん」
「でも、少しだけ複雑になる」
「うん」
「自分だけが特別でいたいみたいで、かなり面倒くさいです」
言ってしまってから、少し後悔した。
けれど、しらいさんは笑わなかった。
カップを両手で包み、しばらく悠真を見ていた。
「春日くん」
「はい」
「それ、言ってくれてよかった」
「そうですか」
「うん」
「重くないですか」
「重くない」
「本当に?」
「うん。だって、私もたぶん逆ならもやっとする」
「しらいさんも?」
「する」
彼女は少しだけ頬を赤くして、視線を逸らした。
「春日くんが、誰か別の人の言葉で安心してたら」
「はい」
「その人のこと、ありがたいと思う」
「はい」
「でも、ちょっとだけ、私じゃないんだって思う」
悠真は、胸の奥が静かに鳴るのを感じた。
「それは」
「うん」
「かなり効きます」
「出た」
「出ます」
しらいさんは少し笑った。
「だから、春日くんのもやっとした顔、嫌じゃない」
「はい」
「ただ、隠されると困る」
「……はい」
「私、春日くんが何でも平気な人みたいになるの、ちょっと怖い」
「平気ではありません」
「知ってる」
「ならよかったです」
「出た」
いつものやり取りで、少しだけ空気が柔らかくなる。
◇
しらいさんは青灰色のノートを開いた。
「今日、三崎さんの言葉を書いた」
「はい」
「これは読んでいい」
ページをこちらに向ける。
そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。
『白瀬アカリの言葉には、考えた跡がある。そこを踏み荒らされたくない。外側の番人は、遠くからそれに気づいた。』
悠真はゆっくり読んだ。
三崎の言葉を、しらいさんの文字が受け止めている。
不思議だった。
三崎は何も知らない。
でも、その感想は青灰色のノートの中に入った。
外側の言葉が、内側のノートに置かれた。
「読みました」
「うん」
「三崎が知ったら驚きますね」
「絶対言わないで」
「言いません」
「調子に乗るから」
「かなり」
「かなり」
しらいさんは少し笑った。
それから、次のページを指で押さえた。
「これは、春日くんのこと」
「俺の?」
「うん」
「読んでいいんですか」
「読んでいい」
少し緊張しながら、悠真はノートを見る。
『春日くんは、近い人だから面倒くさい顔をする。私は、その顔を見ると帰ってきた気がする。』
悠真は、声が出なかった。
ノートの上の文字が、静かに胸へ入ってくる。
近い人だから面倒くさい顔をする。
その顔を見ると帰ってきた気がする。
「……これは」
「うん」
「仕事中に送られなくてよかったです」
「送ったらだめだった?」
「かなり」
「じゃあノートで正解」
しらいさんは少しだけ笑った。
「春日くんの面倒くさい顔、ちゃんと置いておきたかった」
「そんなものを」
「大事」
「大事ですか」
「うん」
彼女はマグカップを見た。
「ことんの音とか、蜂蜜とか、スプーン右とか、ノートとか」
「はい」
「そういう合図も大事だけど」
「はい」
「春日くんの顔も、帰る合図になってる」
悠真は思わず目を伏せた。
「しらいさん」
「何」
「今日、ずるいのはそちらです」
「そう?」
「かなり」
「じゃあ引き分け」
「何が」
「ずるさ」
二人は少し笑った。
◇
しばらく、二人は三崎の話をした。
どこまで伝えるか。
どこまで持ち帰るか。
三崎には何も言わないままでいいのか。
「三崎さん、外側の番人だけど」
しらいさんが言う。
「本人は何も知らない」
「はい」
「だからいいんだよね」
「そう思います」
「でも、感謝はしてる」
「はい」
「心の中で」
「はい」
「ノートにも少し」
「それくらいなら」
「うん」
彼女はミルクティーを飲んだ。
「春日くんは近い」
「はい」
「理沙さんは仕事」
「はい」
「三崎さんは外側」
「はい」
「ノートは内側」
「はい」
「四つあると、少し安心する」
悠真は静かに頷いた。
少しだけ複雑さは残っている。
でも、さっきより軽くなっていた。
しらいさんを支えるものが増える。
それは、自分の場所がなくなることではない。
むしろ、自分だけでは支えきれない部分を、他の場所が支えてくれる。
そのぶん、自分は自分の距離でいればいい。
面倒くさい顔をしながら。
「春日くん」
「はい」
「まだ少しもやっとしてる?」
「少し」
「うん」
「でも、さっきより大丈夫です」
「そっか」
「はい」
「じゃあ、今日は八十九点」
「何の点数ですか」
「春日くんの近い人点」
「初めて聞く点数ですね」
「十一点は?」
「何でしょう」
「隠そうとした分」
「厳しい」
「でも合格」
「ありがとうございます」
「硬い」
「すみません」
「謝らないで」
いつもの調子に戻る。
それだけで、部屋の空気がほどけた。
◇
帰る時間になり、しらいさんはノートを鞄にしまった。
今日は持って帰る日らしい。
「置いていかないんですね」
「今日は持って帰る」
「はい」
「三崎さんの言葉と、春日くんの面倒くさい顔を持って帰る」
「後者はいらないのでは」
「いる」
「そうですか」
「うん」
彼女はマグカップを洗い、棚に戻す。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
そして、コースターを整える。
「春日くん」
「はい」
「私は、三崎さんの感想を待つこともある」
「はい」
「理沙さんの線引きに助けられることもある」
「はい」
「ノートに救われることもある」
「はい」
「でも、ここに帰ってくる」
悠真は、静かに彼女を見た。
「はい」
「春日くんが、少し面倒くさい顔でおかえりって言うから」
「それでいいんですか」
「それがいい」
しらいさんはそう言って、少しだけ笑った。
「かなり」
その言葉に、悠真の胸が小さく鳴った。
「なら、言います」
「うん」
「何度でも」
「知ってる」
玄関で靴を履き、彼女はドアの外へ出る。
「また帰ってきます」
「おかえりって言います」
「面倒くさい顔で?」
「たぶん」
「よし」
ドアが閉まった。
部屋に静けさが戻る。
今日はノートも一緒に帰っていった。
ローテーブルには、青灰色のコースターと、右側に置かれたスプーンだけが残っている。
悠真は、少しだけ苦笑した。
自分だけが特別でいたいという小さな独占欲は、たぶん完全には消えない。
でも、それを隠さずに言えた。
しらいさんは笑わずに受け取ってくれた。
近い人だから面倒くさい顔をする。
そうノートに書かれたなら、もう少しだけ、この面倒くささとも付き合っていける気がした。




