第94話 昔の記事と今の記事の間に、君の余白があった
昼休みの三崎は、いつもより真剣な顔でスマホを見ていた。
真剣、というより、眉間にしわを寄せている。
唐揚げ弁当の蓋もまだ開けていない。箸も割っていない。昼休み開始から三分ほど経っているのに、三崎が唐揚げへ手を出していない時点で、かなり珍しい事態だった。
「三崎」
春日悠真が声をかけると、三崎は画面から目を離さずに言った。
「春日、ちょっと待て」
「何を」
「今、白瀬アカリの昔の記事と今の記事を読み比べてる」
「昼休みに?」
「昼休みに」
「唐揚げ冷めるぞ」
「これは冷めてもいい唐揚げ」
「唐揚げに失礼だな」
「でも今、それどころじゃない」
悠真は弁当の蓋を開けながら、少しだけ身構えた。
最近の三崎は、白瀬アカリに関して時々妙に鋭い。
映画を観て、テレビ特番を観て、年末番組を観て、インタビューを読み、いつの間にか「面倒くさいファン二号」を名乗り始めた男である。
そして今、昔の記事と今の記事を読み比べている。
嫌な予感というより、何か大事なことを言いそうな気配があった。
「昔の記事って、どのあたりだ?」
「数年前のやつ。ドラマの脇役で注目され始めたころのインタビュー」
「よく見つけたな」
「沼の底には古い記事が落ちてる」
「名言みたいに言うな」
三崎はようやくスマホから顔を上げた。
けれど、箸にはまだ手を伸ばさない。
「昔の白瀬アカリ、すごくちゃんとしてる」
「ちゃんとしてる?」
「うん。言葉が全部きれい。感謝してます、学ばせていただきました、前向きに頑張ります、支えてくださった皆さんのおかげです」
悠真は、あの古い記事を思い出した。
しらいさんが泣いた夜。
泣く正式予約を使った夜。
あの頃の記事の中の白瀬アカリは、本当にきれいだった。
きれいで、丁寧で、弱音などどこにもなかった。
でも、そのきれいさの奥で、当時の彼女は息を詰めていた。
「悪い意味じゃないんだよ」
三崎は続けた。
「読んでて嫌な感じはしない。若いのにしっかりしてるなって思う」
「うん」
「でも、全部が正解っぽい」
「正解」
「そう。質問に対して、模範解答をきちんと出してる感じ」
悠真は黙って頷いた。
三崎は、今度は最近の記事を開いた。
「で、今の記事」
「うん」
「こっちも丁寧だし、ちゃんとしてる。白瀬アカリらしい。でも、ちょっと違う」
「どう違う?」
三崎は少し考えた。
こういうとき、以前の三崎なら勢いで適当に言ったかもしれない。
けれど最近は、ちゃんと言葉を探すようになった。
「余白がある」
その言葉が出た瞬間、悠真は箸を止めた。
「余白」
「うん。昔の記事は、答えが全部閉じてる感じだった。質問されて、きれいに答えて、終わり」
「……」
「今の記事は、答えてるんだけど、少しだけ開いてる」
「開いてる?」
「たとえば、温かい飲み物の話とか、戻れる場所の話とか。全部は言ってないけど、本当にそういうものがこの人の中にあるんだろうなって感じる」
悠真は、青灰色のノートを思い出した。
外に出せなかった言葉。
ミルクティーの湯気。
ことんという音。
青灰色のノートそのもの。
白瀬アカリが外に出した言葉には、確かに余白がある。
そして、その余白の内側に、しらいさんが置いてきた言葉がある。
「余白があるのは、いいことなのか?」
悠真が聞くと、三崎は少し眉を寄せた。
「いいことだと思う」
「うん」
「でも、ちょっと危ない」
「危ない?」
「余白ってさ、読んでる側が勝手に埋めたくなるんだよ」
三崎は、そこでようやく唐揚げ弁当の蓋を開けた。
だが、まだ食べない。
「白瀬アカリが“戻れる場所”って言うとするだろ」
「ああ」
「その場所が何なのか、本人は具体的に言ってない。でも、読む側は勝手に想像する。家族かな、友達かな、恋人かな、一人の部屋かな、昔から大事にしてる場所かなって」
悠真は、胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。
三崎は何も知らない。
それなのに、正確に危ういところを踏んでくる。
「もちろん、それが魅力でもあるんだよ」
三崎は言った。
「全部説明されるより、少し余白があるほうが残る。白瀬アカリって、今そこがいい」
「うん」
「でも、余白があるぶん、勝手に埋められすぎると危ない」
「……」
「本人が守ってる場所まで、外から想像で踏み込まれる感じになるから」
悠真は、しばらく黙った。
昨日、しらいさんは青灰色のノートに書いた。
言わなかった言葉。
外に出さなかった言葉。
読ませるページと、まだ読ませないページ。
そこには、余白を守るための努力があった。
そして三崎は、外側からその危うさに気づいている。
「三崎」
「何」
「お前、本当に外側の番人だな」
「だから何なんだよ、その呼び名」
「かなり的確な呼び名だと思う」
「褒めてる?」
「かなり」
「出た、かなり」
三崎は少し照れたように笑い、ようやく唐揚げを一つ口に入れた。
「まあ、俺はただのファンだけどな」
「ただのファンが一番大事なことを言う場合もある」
「春日、今日ちょっと詩人」
「やめろ」
「白瀬アカリの影響?」
「面倒くさいファンの影響だ」
「お前の自己紹介?」
「たぶん」
二人は少し笑った。
その軽さに救われながらも、悠真は三崎の言葉を胸の中へしまった。
余白が魅力。
でも、余白を勝手に埋められすぎると危ない。
これは、持って帰る言葉だ。
◇
午後、悠真は仕事の合間にしらいさんへメッセージを送った。
『三崎が、昔の記事と今の記事を読み比べていました』
少しして既読がつく。
『外側の番人が?』
悠真は思わず笑った。
『はい』
『また何か言った?』
『言いました』
既読。
『怖い』
『でも聞きたい』
最近、この流れもかなり自然になってきた。
悠真は、三崎の言葉をできるだけそのまま送る。
『昔の記事は、模範解答みたいに閉じていた』
『今の記事は、答えているけれど少し開いている』
『余白がある、と』
既読。
すぐには返事が来ない。
しらいさんは、たぶんその言葉をゆっくり受け取っている。
悠真は続けた。
『その余白が魅力だけど、読む側が勝手に埋めすぎると危ないとも言っていました』
『本人が守っている場所まで、想像で踏み込まれる感じになるから、と』
既読。
今度は、さらに長い沈黙。
仕事中のデスクで、悠真はスマホを伏せた。
すぐに返事が来ないことも、最近は分かってきた。
こういう言葉は、彼女がすぐに返せるものではない。
しばらくして、スマホが震えた。
『三崎さん』
短い一文。
それから、
『本当に外側の番人』
さらに少し間があって、
『余白って言葉、ちょっと刺さった』
悠真は返信する。
『痛いほうですか』
既読。
『痛いけど、必要なほう』
『はい』
『昔の記事、私も思い出した』
その文を見た瞬間、悠真はあの夜を思い出した。
しらいさんがこの部屋で古い記事を読み、泣いた夜。
過去の白瀬アカリを、ようやく自分の言葉で見た夜。
『今の私は、余白を作れるようになったのかな』
しらいさんから届く。
悠真は少し考えてから打った。
『作れていると思います』
『でも、その余白を守る場所も必要だと思います』
既読。
『青灰色のノート?』
『はい』
『それと、理沙さんの線引き』
『三崎の外側の感想』
『しらいさん自身が選ぶこと』
既読。
しばらくして、
『春日くんは?』
と来た。
悠真は指を止めた。
『俺は』
そこまで打って、少し迷う。
彼女に近すぎる自分は、何なのだろう。
読者でもない。
マネージャーでもない。
ただのファンでもない。
恋人。
それはそうだ。
けれど、今の話の中で自分がどんな役割なのか、簡単には言えなかった。
少し考え、送る。
『俺は、余白の中にあるものを全部知ろうとしすぎないようにする人、でいたいです』
既読。
長い沈黙。
そして、
『春日くん』
『はい』
『仕事中にそれはだめ』
悠真は小さく笑った。
『すみません』
『謝るところではある』
『でも、ありがとう』
続けて、
『今日、ノートに書く』
と届いた。
◇
夜、しらいさんは部屋には来られなかった。
けれど、青灰色のノートの写真が届いた。
彼女の自宅か、仕事先の控室かは分からない。
白いカップと、右側のスプーン。
その隣に、開かれたノート。
ただし、文字は写らないように少しぼかされていた。
『三崎さんの言葉、置いた』
悠真は、それを見て静かに息を吐いた。
『読みません』
『でも、置けてよかったです』
既読。
『うん』
『今日は読ませない』
『分かりました』
『でも、春日くんには言葉で少し話したい』
『聞きます』
既読。
少しして、通話がつながった。
◇
「もしもし」
しらいさんの声は、思ったより落ち着いていた。
「おつかれさまです」
「春日くんも」
「ノートに書けましたか」
「うん」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
電話の向こうで、彼女が少し笑う。
そのあと、短い沈黙があった。
「余白って、怖いね」
「はい」
「昔は、余白なんて作りたくなかった」
「はい」
「全部きれいに答えて、閉じて、誰にも入られないようにしてた」
「はい」
「でも、それって自分も入れなくなるんだよね」
悠真は、静かに聞いていた。
「今は少し開けるようになった」
「はい」
「温かい飲み物とか、蜂蜜とか、戻れる場所とか」
「はい」
「でも、開けたところから、誰かが勝手に入ってくるかもしれない」
「はい」
「だから怖い」
「はい」
「でも、全部閉じたくはない」
「はい」
「難しい」
「難しいですね」
しらいさんは小さく息を吐いた。
「理沙さんは、選びなさいって言う」
「はい」
「三崎さんは、余白を勝手に埋められすぎると危ないって言う」
「はい」
「春日くんは、全部知ろうとしすぎないようにするって言う」
「はい」
「三人とも違う場所から言ってるのに、同じところを見てる気がする」
その言葉に、悠真は少し驚いた。
たしかにそうかもしれない。
理沙さんは仕事の境界線を見ている。
三崎は外側の読者やファンの温度を見ている。
悠真は近すぎる場所で、踏み込みすぎない距離を探している。
それぞれ違う。
けれど、みんな彼女の余白を守ろうとしている。
「しらいさん自身は、どうしたいですか」
悠真が聞くと、少し間が空いた。
「私は」
しらいさんはゆっくり言った。
「余白を怖がりすぎずに作りたい」
「はい」
「でも、その余白に誰でも入れていいわけじゃない」
「はい」
「だから、青灰色のノートがいる」
「はい」
「外に出す余白と、内側に置く余白」
「内側に置く余白」
「うん」
「それ、いい言葉ですね」
「今、思いついた」
「ノートに書きますか」
「書く」
電話の向こうで、紙をめくるような音がした。
しらいさんはその場で書いているらしい。
ペン先が紙を走る小さな音が聞こえる。
しばらくして、
「書いた」
と彼女が言った。
「読んでいいですか」
「今日はまだだめ」
「分かりました」
「でも、置いた」
「はい」
「内側に置く余白」
その言葉が、電話越しに静かに落ちた。
◇
通話は短めで終わった。
しらいさんは翌朝も早い。
理沙さんからも、夜更かし禁止と言われているらしい。
切る前に、彼女が言った。
「今日はことんの音、我慢する」
「はい」
「スプーン右とノートで足りた」
「すごいです」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあよし」
少しだけ誇らしそうな声だった。
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
電話が切れたあと、悠真はローテーブルの前に座ったまま、しばらく動かなかった。
今日はマグカップを鳴らさない。
ことんの音なしで、彼女は帰ってきた。
スプーン右。
青灰色のノート。
内側に置く余白。
帰り方が、また一つ増えた。
悠真は、自分のカップの右側に置いたスプーンを見た。
それから、閉じたスマホを見た。
三崎の言葉。
しらいさんの言葉。
理沙さんの線引き。
白瀬アカリが外へ言葉を出すほど、しらいさんの内側にも言葉が増えていく。
でも、そのすべてを明るい場所へ出さなくていい。
余白は、外にもあっていい。
内側にもあっていい。
悠真は、そう思った。
そして、今日は音を立てずにマグカップを棚へ戻した。
静かな夜だった。
けれど、その静けさの中に、ちゃんと帰ってきた気配があった。




