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第93話 青灰色のノートと、言えなかったミルクティー

 青灰色のノートが部屋にあるだけで、ローテーブルの景色は少し変わった。


 マグカップ。

 コースター。

 蜂蜜の瓶。

 右側に置いたスプーン。

 そして、閉じられたままの小さなノート。


 春日悠真は、出勤前にそれをしばらく見ていた。


 触ってはいない。


 昨夜、しらいさんが置いていったものだ。

 中には、読んでいい一文と、まだ読んではいけない一文がある。


 それだけで、ノートはただの文具ではなくなっていた。


 秘密そのものではない。

 秘密の置き場所。


 しらいさんが外へ出せなかった言葉を、無理に春日悠真へ渡すのではなく、一度そこに置くための場所。


 悠真は、朝の写真を撮るためにマグカップを整えた。

 今日はノートを写真に入れるかどうかで迷った。


 入れれば、彼女に「ちゃんとここにある」と伝わる。

 でも、毎回写すと、その存在が少し重くなる気もした。


 結局、ノートの端だけがほんの少し写るようにした。

 主役はいつものマグカップ。

 でも、そこに置いた言葉もちゃんとある。


 写真を送る。


『今日もあります』


 少し置いて、もう一文。


『ノートも、ここにあります』


 しばらくして既読がついた。


『見た』


『端だけ写ってる』


 悠真は少し笑った。


『写しすぎないようにしました』


『それ、ちょうどいい』


『重くない?』


『重くありません』


 送ってから、少し考え直す。


『でも、大事な重さはあります』


 既読。


 少し間。


『朝からそれはずるい』


『すみません』


『謝らないで』


 いつものやり取り。


 そのあと、しらいさんから短く届いた。


『今日も取材』


『たぶん、言わないことが増える』


 悠真は、青灰色のノートを見る。


『置き場所はあります』


 既読。


『うん』


    ◇


 昼休み、三崎はコンビニのサンドイッチを片手に、また白瀬アカリの記事を読んでいた。


 最近の三崎は、本当に白瀬アカリの情報に詳しい。


 少し前まで「映画がよかった」と言っていた男が、今では過去のインタビューまで読み比べている。

 人は沼に落ちると早い。いや、落としたつもりはないのだが。


「春日」


「何」


「白瀬アカリ、今日も取材っぽいな」


「そうなのか」


「公式の投稿に出てた。雑誌っぽい」


「本当に追ってるな」


「ファン仲間だからな」


「もう否定しない」


「お、認めた」


「認めたくはない」


 三崎は笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。


「でも最近、白瀬アカリのインタビュー読むの、ちょっと緊張する」


「緊張?」


「うん。前は普通に、いいこと言ってるなって読んでたんだけど」


 三崎はサンドイッチを置き、スマホの画面を伏せた。


「最近は、この人、どこまで言うんだろうって思う」


 悠真は箸を止めた。


「どこまで?」


「外に出す言葉と、出さない言葉がありそうじゃん」


 胸の奥が、静かに鳴った。


 三崎は何も知らない。

 青灰色のノートの存在も、付箋の一文も知らない。


 でも、外側からそこを感じ取っている。


「それ、どう見える?」


 悠真が聞くと、三崎は少し考えた。


「うまく言えないけど、白瀬アカリって、最近“全部は言わない人”になってきた気がする」


「……」


「でも、隠してる感じじゃない。守ってる感じ」


 悠真は、言葉を返せなかった。


 守っている。


 それは、まさに今のしらいさんがしようとしていることだった。


 隠すのではなく、選ぶ。

 外に出すものと、内側に残すものを分ける。


「お前、本当に外側の番人だな」


 思わず言うと、三崎が眉を上げた。


「何それ」


「いや、何でもない」


「変な呼び名つけるなよ」


「まだつけてない」


「今つけたろ」


 三崎は笑ったあと、少しだけ照れたように視線を逸らした。


「でもさ、守ってる感じがあるから、逆に信頼できるんだよな」


「信頼?」


「何でも話します、何でも見せます、っていう自然体じゃなくて。ここまでは話すけど、ここから先は自分のものです、っていう自然体」


 悠真は、その言葉を心の中でゆっくり受け取った。


 これは、持って帰る。


 しらいさんに。


 青灰色のノートに書かれるかもしれない言葉として。


「三崎」


「何」


「今日もかなりいい」


「感想が?」


「ああ」


「じゃあ、白瀬アカリに届けておいてくれ」


 何気ない冗談だった。


 悠真は一瞬だけ固まった。


 三崎はそれに気づかず、サンドイッチを食べている。


 悠真はお茶を飲み、少し遅れて返した。


「ファン仲間として、心の中でな」


「心の中かよ」


「それが安全だ」


「何が?」


「いろいろ」


 三崎は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


    ◇


 取材後のしらいさんから写真が届いたのは、夕方を少し過ぎたころだった。


 白いカップ。

 蜂蜜のスティック。

 右側のスプーン。

 そして、テーブルの隅に置かれた小さな紙。


 今日は付箋ではなく、取材資料の余白を切ったような白い紙だった。


 そこに短い文字。


『今日、戻れる場所の話をした。でも本当は、青灰色のノートの話をしたかった。』


 悠真は、その文を見つめた。


 青灰色のノート。


 もう、彼女の中でそれも帰る場所の一つになり始めている。


 外へ出せない言葉を置く場所。

 言わなかったことを、なかったことにしない場所。


 それを話したかった。

 でも、話さなかった。


 外には出せない。

 でも、内側では確かにある。


『読みました』


 悠真は送った。


『ここに置けます』


 既読。


 少しして、


『今日は持っていく』


 と返ってきた。


 悠真は首を傾げる。


『ノートを?』


『うん』


『行けるかも』


 胸の奥が少し明るくなる。


『部屋にですか』


『うん』


『一時間だけ』


『理沙さん許可済み』


 悠真はすぐに返した。


『待っています』


 既読。


『ノート、読むページある』


『読まないページもある』


『分かりました』


『ミルクティー』


『蜂蜜多めで』


 悠真は微笑んだ。


『用意します』


    ◇


 しらいさんが来たのは、夜の九時前だった。


 いつものように、玄関の外に立っていた。


 黒いキャップ。

 薄いマスク。

 ベージュのコート。

 鞄を少し強く抱えている。


 たぶん、その中に青灰色のノートがある。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 部屋に入った瞬間、彼女は小さく息を吐いた。


 その息だけで、今日が長かったことが分かった。


 悠真はコートを受け取り、彼女をローテーブルの前へ促す。


 マグカップ。

 コースター。

 蜂蜜多めのミルクティー。

 右側のスプーン。


 今日はノートを置くスペースも空けてある。


 しらいさんはそれに気づき、少しだけ笑った。


「空いてる」


「はい」


「ノート用?」


「はい」


「準備がいい」


「必要そうだったので」


「うん。必要だった」


 彼女は鞄から青灰色のノートを取り出した。


 昨夜、部屋に置いていったもの。

 今日、持っていくと言って、本当に持ってきたもの。


 ノートは、ほんの少しだけ使われた気配をまとっていた。


 しらいさんはミルクティーを受け取り、コースターへ置いた。


 ことん。


 その音を聞いてから、ようやくノートを開いた。


「今日、三つ書いた」


「三つ」


「うん。多い」


「読んでいいものは?」


「一つ目と三つ目」


「二つ目は?」


「まだだめ」


「分かりました」


 彼女はページを少しだけめくり、指で示した。


「ここ」


 悠真は、ノートを見る。


 一つ目の言葉。


『今日、戻れる場所の話をした。でも本当は、青灰色のノートの話をしたかった。』


 写真で送られてきた文と同じだった。


 でも、手元のノートで見ると、また違う。


 そこに彼女の筆圧があった。

 少し迷ったような文字の揺れもあった。


「読みました」


「うん」


「ノートの話は、外に出せませんね」


「出せない」


「はい」


「でも、話したかった」


「はい」


「戻れる場所って、部屋とか河川敷とかだけじゃなくなってきた」


「はい」


「言葉にも帰る場所ができた」


 悠真は、昨夜自分が言った言葉を思い出した。


 言葉が帰る場所。


 彼女はそれを持って帰ったと言った。

 そして今日、本当に持っていた。


「嬉しいです」


「春日くんが?」


「はい」


「私も」


 しらいさんは、少し照れたように笑った。


「三つ目も読む?」


「はい」


 彼女はページの下のほうを指で押さえた。


 三つ目。


『今日、白瀬アカリとして笑った。しらいさんは少し眠かった。』


 悠真は、思わず笑ってしまった。


「何で笑うの」


「すみません。かわいくて」


 言ってから、しまったと思った。


 しらいさんの顔が一瞬で赤くなる。


「春日くん」


「はい」


「急にそういうの言わないで」


「すみません」


「謝るところではある」


「はい」


「でも、嫌じゃない」


「……はい」


 彼女は少しだけ視線を逸らした。


「これ、取材中ずっと思ってた」


「眠かったんですね」


「眠かった」


「白瀬アカリは?」


「ちゃんと笑ってた」


「しらいさんは?」


「眠かった」


「それは書いておいたほうがいいですね」


「でしょ」


 二人で少し笑った。


 外に出せない言葉は、必ずしも重いものばかりではない。

 眠かった。

 噛みそうになった。

 ミルクティーが飲みたかった。


 そういう小さな本音も、なかったことにしなくていい。


 悠真は、そのことが少し嬉しかった。


    ◇


 しらいさんは、二つ目の行を手で隠したまま、ノートを閉じた。


「これは、まだ読ませない」


「はい」


「でも、ここにある」


「はい」


「読ませない言葉も、ここにある」


「それも大事だと思います」


「うん」


 彼女はノートの表紙をそっと撫でた。


「春日くんに読ませるためだけのノートじゃない」


「はい」


「私が、私の言葉をなくさないためのノート」


「そうですね」


「でも、読んでほしい日もある」


「その日は読みます」


「読まなくていい日もある」


「その日は読みません」


「勝手に読まない」


「読みません」


「そこ、かなり信用してる」


「ありがとうございます」


「硬い」


「すみません」


「謝らないで」


 いつものやり取りが、ノートの周りに落ち着いていく。


 それが不思議だった。


 最初は少し重くなるかと思っていた。

 でも、青灰色のノートはこの部屋に馴染み始めている。


 マグカップと同じように。

 コースターと同じように。

 蜂蜜とスプーン右と同じように。


 新しい帰り方として。


「今日、三崎が言っていました」


 悠真が切り出すと、しらいさんは顔を上げた。


「外側の番人?」


「はい」


「何て?」


「白瀬アカリは、全部を話さない人になってきた気がする、と」


 しらいさんの表情が少しだけ緊張する。


「それ、悪い意味?」


「いい意味です」


「本当?」


「はい。隠している感じではなく、守っている感じだと」


 しらいさんは黙った。


 その言葉が、ゆっくり彼女の中に入っていくのが見えるようだった。


「守ってる」


「はい」


「外側から、そう見えるんだ」


「少なくとも三崎には」


「うん」


「何でも見せる自然体ではなく、ここまでは話すけど、ここから先は自分のものです、という自然体だと」


 しらいさんは、ノートを両手で持ったまま俯いた。


 少しだけ目元が赤くなっている。


「三崎さん」


「はい」


「本当に外側の番人」


「かなり」


「かなり」


 彼女は小さく笑った。


「それ、今日ほしかった」


「持って帰れてよかったです」


「うん」


 しらいさんはノートを開きかけて、少し迷った。

 それから、空いている行に短く何かを書いた。


 悠真は見ない。


 書き終えたあと、彼女はノートを閉じた。


「今のは?」


「まだ読ませない」


「分かりました」


「でも、ここに置いた」


「はい」


「三崎さんの言葉、置いた」


 悠真は静かに頷いた。


    ◇


 ミルクティーが少し冷めるころ、しらいさんは小さく欠伸をした。


「眠いですね」


「眠い」


「今日は早めに帰りましょう」


「うん」


「理沙さんにも言われているでしょう」


「言われてる」


「では」


「でも、もう少しだけ」


 しらいさんはマグカップを両手で包んだ。


「今日、ここに来られてよかった」


「はい」


「スプーン右もいいし、蜂蜜の日もいいし、写真でも帰れる」


「はい」


「でも、やっぱり部屋は違う」


「はい」


「音がある」


「はい」


「春日くんの顔もある」


 悠真は少しだけ固まった。


「顔ですか」


「うん」


「どんな顔ですか」


「面倒くさい顔」


「……」


「でも、安心する顔」


 しらいさんは少し笑った。


「それは褒めていますか」


「褒めてる」


「なら受け取ります」


「うん」


 彼女はマグカップをコースターに置いた。


 ことん。


「この音も、今日は本物」


「はい」


「ノートにも書いておこうかな」


「今ですか」


「ううん。今日はもう眠い」


「では、次で」


「うん」


 しらいさんはノートを鞄にしまった。


 今日は持って帰るらしい。


「今日は持って帰るんですね」


「うん。まだ書きたいことあるかも」


「はい」


「でも、次来たらまた置くかも」


「分かりました」


「このノート、行ったり来たりする」


「しらいさんみたいですね」


 言ってから、少しだけ笑った。


 しらいさんも気づいたらしく、目を細める。


「私みたい?」


「はい」


「外へ行って、ここへ戻って」


「はい」


「また外へ行く」


「はい」


 彼女は鞄の中のノートにそっと触れた。


「じゃあ、ノートもただいまって言うのかな」


「言うかもしれません」


「春日くん、ノートにもおかえりって言う?」


「必要なら」


「それはちょっと面白い」


 二人で笑った。


 こういうくだらない笑いがあるから、この部屋は重くなりすぎない。


    ◇


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「ノート、ありがとう」


「どういたしまして」


「おかげで、言わなかったことが少し怖くなくなった」


「はい」


「でも、全部書かなきゃって思わないようにする」


「それがいいと思います」


「一文だけ」


「はい」


「書かない日もあり」


「もちろんです」


「読ませないページもあり」


「はい」


「読んでほしい日は、読む」


「はい」


 彼女は少しだけ安心した顔をした。


「よし」


「よし、ですか」


「うん」


「今日の点数は?」


 聞くと、しらいさんは少し考えた。


「九十点」


「理由は?」


「言わなかった言葉を、少し置けたから」


「十点は?」


「眠いから」


「それは仕方ないですね」


「うん」


「白瀬アカリは?」


「ちゃんと笑った」


「しらいさんは?」


「眠い」


「では帰って寝ましょう」


「はい」


 素直に返事をする彼女が、少し可笑しくて、少し愛しかった。


「また帰ってきます」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


 部屋に静けさが戻った。


 今日はノートも一緒に帰っていった。


 ローテーブルには、マグカップとコースターと、右側に置かれたスプーンだけが残っている。


 悠真はその景色を見ながら思った。


 青灰色のノートは、ただのノートではない。


 しらいさんが外へ行き、白瀬アカリとして言葉を選び、言わなかったものを少しだけ連れて帰るためのもの。


 それを全部見せなくてもいい。

 全部隠さなくてもいい。


 読ませてもらう距離。

 読まないでいる距離。


 悠真も、それを少しずつ学ばなければならない。


 好きだから全部知りたい、ではなく。

 好きだから、知らないまま預かる場所も守る。


 そんなふうに思いながら、悠真はしらいさんのマグカップを棚へ戻した。


 ことん。


 音は静かだった。


 でも、ちゃんと部屋に残った。

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