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第92話 言わなかった言葉を置く箱

 青灰色のノートを探すのは、思っていたより難しかった。


 春日悠真は会社帰り、駅前の文具店に寄った。


 普段なら素通りする店だ。

 ボールペンの替え芯や封筒くらいならコンビニで買ってしまう。けれど今日は、何となくコンビニではだめな気がした。


 高価なものはいらない。

 大げさな日記帳でも、鍵付きの秘密ノートでもない。

 仕事用の手帳でもない。


 しらいさんが、取材で言わなかったことを一文だけ書けるもの。


 外へ出さなかった言葉を、なかったことにしないための場所。


 文具店の棚には、思った以上にたくさんのノートが並んでいた。


 黒。

 白。

 紺。

 赤。

 花柄。

 キャラクターもの。

 革風の硬い表紙。

 薄くて軽いリングノート。


 その中から、悠真は一冊を手に取った。


 淡い青灰色の小さなノートだった。


 派手ではない。

 けれど、地味すぎもしない。

 鞄に入るくらいの大きさで、ページは罫線入り。

 表紙には何も書かれていない。


 しらいさんのマグカップの下にあるコースターより少し明るい色。


 悪くない。


 いや、かなりいい。


 悠真はそのノートを手にしたまま、少しだけ迷った。


 これを渡すことは、重くならないだろうか。


 言わなかった言葉を置く場所。

 そう聞くと、少し大げさに聞こえる。


 でも、いま必要なのは大げさな約束ではなく、小さな置き場だ。


 白瀬アカリの言葉が外へ増えていくほど、しらいさんの沈黙も増える。

 その沈黙を全部、春日悠真が受け止めるのは、たぶん違う。


 理沙さんも言っていた。


 春日さんがすべての受け皿になると、彼もあなたも重くなる。


 だから、このノートは悠真が抱えるためのものではない。


 しらいさんが、自分の言葉を自分で置いておける場所。


 必要なときだけ、少し見せてもらう場所。


 そう思うと、手の中のノートが少し軽くなった気がした。


 悠真はレジへ向かった。


    ◇


 その夜、しらいさんは久しぶりに部屋へ来られることになった。


 取材が早めに終わり、翌朝の入りも少し遅い。

 理沙さんからも「一時間半までなら」と許可が出たらしい。


 その“一時間半までなら”という言い方があまりに理沙さんらしくて、悠真は少し笑ってしまった。


 ローテーブルの上を整える。


 青灰色のコースター。

 しらいさんのマグカップ。

 蜂蜜。

 喉飴。

 ティッシュ。

 そして、テーブルの端に置いた青灰色のノート。


 すぐに渡すか、少し話してから渡すかで迷った。


 結局、最初から置いておくことにした。


 隠して差し出すようなものではない。

 この部屋にある新しいものとして、自然に見つけてもらうほうがいい気がした。


 インターフォンが鳴る。


 悠真は玄関へ向かった。


 ドアを開けると、しらいさんが立っていた。


 黒いキャップ。

 薄いマスク。

 ベージュのコート。

 いつもの鞄。


 目元には少し疲れがあった。

 けれど、部屋へ来られたことを隠せないような、小さな安心もあった。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 そのやり取りだけで、しらいさんの肩が少し下がった。


 部屋に入ると、彼女はコートを脱ぎ、いつもの場所へ座った。


 そしてすぐに、ローテーブルの端を見た。


「……増えてる」


 小さく言う。


 悠真はキッチンへ向かいながら答えた。


「はい」


「青灰色」


「はい」


「ノート?」


「ノートです」


「春日くん」


「はい」


「本当に用意したんだ」


「しました」


「早い」


「必要そうだったので」


 しらいさんは、しばらくノートを見つめていた。


 触らない。

 ただ、見ている。


 その表情を見て、悠真はミルクティーを作り始めた。


 蜂蜜は少し多め。

 今日は、たぶん必要だ。


 カップを運ぶと、しらいさんは両手で受け取った。


 そして、青灰色のコースターの上へ置く。


 ことん。


 その音が鳴った瞬間、彼女は目を閉じた。


「久しぶり」


「数日ぶりです」


「数日なのに、久しぶり」


「忙しかったですからね」


「うん」


 彼女はミルクティーを一口飲んだ。


 少しだけ表情が緩む。


「蜂蜜、多め」


「はい」


「分かってる」


「今日はそうかなと」


「うん。正解」


 それから、彼女はようやくノートに手を伸ばした。


 表紙に指先を乗せる。


「これが、言わなかった言葉の置き場所?」


「はい」


「名前は?」


「つけていません」


「タイトルなし?」


「はい」


「それ、いい」


 しらいさんは、少しだけ安心したように言った。


「タイトルがあると、ちゃんと書かなきゃってなる」


「そう思いました」


「日記帳って書いてあったら、毎日書かなきゃってなる」


「はい」


「交換ノートって書いてあったら、青春すぎて困る」


「少し困りますね」


「春日くん、急に学生みたいになるところだった」


「ぎりぎり回避しました」


「えらい」


 軽い会話。


 でも、しらいさんの指はずっとノートの表紙に触れている。


 何でもない一冊のノートを、確かめるように。


    ◇


 悠真は、ペンも一本用意していた。


 黒ではなく、少し柔らかい書き味のゲルインクのペン。

 これも文具店で迷って買った。


 差し出すと、しらいさんは少し笑った。


「ペンまで」


「必要かと思って」


「準備がいい」


「やりすぎでしたか」


「ううん」


 彼女はペンを受け取る。


「ちょうどいい」


 ノートを開く。


 最初のページは、当然真っ白だった。


 その白さを見て、しらいさんが少し固まる。


「真っ白、怖い」


「最初の一文だけでいいです」


「最初の一文って、重い」


「では、どうでもいいことでも」


「たとえば?」


「今日、ミルクティーが熱かった、とか」


「熱くない」


「では、蜂蜜が多めだった、とか」


「それは書ける」


 しらいさんは少し笑った。


 ペン先をページの上に置く。


 でも、すぐには書かなかった。


 悠真は何も言わず、向かいに座って待った。


 急かすものではない。


 これは提出物ではない。

 綺麗な文章を書くためのものでもない。


 しらいさんが、外で言えなかった言葉を、少しだけここに置くためのものだ。


 しばらくして、彼女が書き始めた。


 ゆっくりと。


 小さな文字で。


 書き終えると、ペンを置き、ノートを自分のほうへ少し引いた。


 それから、悠真を見る。


「読む?」


「読んでいいですか」


「うん」


「無理に見せなくていいですよ」


「今日は見せたい」


「分かりました」


 しらいさんはノートをそっと回した。


 最初のページ。


 そこに、こう書かれていた。


『今日、蜂蜜の話をした。でも本当は、ミルクティーの湯気の話をしたかった。』


 昨日の付箋と同じ言葉だった。


 でも、ノートに書かれると少し違って見えた。


 一時的なメモではなく、ちゃんとここに置かれた言葉。


 外には出さなかった。

 けれど、消えなかった言葉。


「読みました」


 悠真が言うと、しらいさんは少しだけ頷いた。


「これ、最初に置きたかった」


「はい」


「付箋に書いたけど、どこか落ち着かなかった」


「はい」


「ノートに書くと、ちゃんと置いた感じがする」


「よかったです」


「出た」


「出ます」


 いつものやり取りのあと、しらいさんは少しだけ目元を緩めた。


「もう一つ書いていい?」


「もちろんです」


「読まないで」


「はい」


「今は」


「分かりました」


 彼女はノートを自分のほうへ戻し、次の行に何かを書いた。


 悠真は見ないように、ミルクティーのカップへ視線を落とす。


 ことんの音が残る部屋で、ペン先が紙をこする小さな音だけが聞こえた。


 それは、思っていたより静かで、思っていたより大事な音だった。


 書き終えると、しらいさんはノートを閉じた。


「これは、まだ読まないで」


「はい」


「でも、ここに置く」


「分かりました」


 彼女はノートをローテーブルの端に置いた。


 青灰色のコースターの近く。

 でも、マグカップとは少し距離を置いて。


「ここ?」


「そこにしますか」


「うん。今日はここ」


「持って帰らなくていいんですか」


「今日は置いていきたい」


 悠真は少しだけ驚いた。


「ここに?」


「うん」


「大事なものでは?」


「大事だから」


 しらいさんは、ノートを見つめたまま言った。


「今日ここに置くと、本当に置けた気がする」


「はい」


「でも、ずっとここに置きっぱなしにするかは分からない」


「はい」


「持って帰る日もあると思う」


「はい」


「春日くんに読ませないページもある」


「もちろんです」


「勝手に読まない?」


「読みません」


「本当に?」


「はい」


「春日くん、そういうところは信用できる」


「そういうところは」


「褒めてる」


「なら受け取ります」


 しらいさんは少し笑った。


    ◇


 しばらく、二人は取材の話をした。


 今日聞かれたこと。

 答えたこと。

 答えなかったこと。

 理沙さんに注意されたこと。


「自然体って言われるの、嬉しいけど怖い」


「はい」


「自然体って、どこまで見せれば自然体なのか分からなくなる」


「はい」


「全部見せることじゃないって、理沙さんに言われた」


「その通りだと思います」


「でも、外の人は、もっと見たいって思うよね」


「思う人もいるでしょうね」


「それが怖い」


「はい」


「でも、全部閉じたら昔に戻る」


「はい」


「だから、選ぶ」


 しらいさんは、理沙さんの言葉を繰り返した。


「選べましたか」


「少し」


「はい」


「蜂蜜は出した。でもスプーン右は出さない」


「はい」


「戻れる場所は話した。でも部屋は出さない」


「はい」


「ことんの音は出さない」


「はい」


「帰っておいでは、絶対出さない」


「はい」


「でも、ノートには置く」


 彼女は青灰色のノートを見た。


「ここには置ける」


「はい」


「これ、かなり大事かも」


「そうですね」


「春日くんに全部話すのとは違う」


「はい」


「でも、一人で飲み込むのとも違う」


「はい」


「ノート、ちょうど真ん中」


 しらいさんはそう言って、少しだけ安心したように笑った。


 ちょうど真ん中。


 それは、今の二人に必要なものだった。


 近すぎず、遠すぎず。

 外でもなく、完全な内側でもない。


 言葉を一度置いて、落ち着かせる場所。


    ◇


 時間は思ったより早く過ぎた。


 理沙さんとの約束の一時間半が近づくと、しらいさんは名残惜しそうにマグカップを見た。


「もう帰らなきゃ」


「はい」


「今日はもっといたかった」


「俺もです」


 素直に言うと、しらいさんは少しだけ目を丸くした。


「春日くん、最近そういうの自然に言う」


「言ったほうがいいかと思って」


「うん」


「言いすぎですか」


「言いすぎじゃない」


 彼女は少しだけ笑った。


「でも、効く」


「ならよかったです」


「出た」


 いつもの言葉。


 それだけで、帰る前の寂しさが少しだけやわらいだ。


 しらいさんはマグカップを洗った。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に戻す音。


 コースターを整える。


 それから、青灰色のノートを見た。


「今日は置いていく」


「はい」


「でも、次来たら持って帰るかも」


「はい」


「読んでいいページは言う」


「はい」


「読まないページは読まない」


「約束します」


 彼女は少しだけ真面目な顔で頷いた。


「ありがとう」


「こちらこそ」


「お礼合戦」


「今日は引き分けで」


「うん」


 玄関で靴を履きながら、しらいさんがふいに言った。


「春日くん」


「はい」


「このノート、帰る場所?」


 悠真は少し考えた。


「はい」


「でも部屋とは違う?」


「違います」


「河川敷とも違う?」


「違います」


「蜂蜜の日とも違う?」


「違います」


「じゃあ何?」


 悠真は、青灰色のノートを見た。


「言葉が帰る場所、だと思います」


 しらいさんは、息を止めたようにこちらを見た。


「春日くん」


「はい」


「帰る前にそれ言うの、かなりずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、持って帰る」


「ノートは置いていくのに?」


「言葉は持って帰る」


 しらいさんはそう言って、少しだけ笑った。


「また来る」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


 部屋に静けさが戻った。


    ◇


 悠真はローテーブルの前に戻った。


 青灰色のコースター。

 白いマグカップがあった場所。

 右側のスプーン。

 そして、青灰色のノート。


 ノートは閉じられている。


 中には、読んでいい一文と、まだ読んではいけない一文がある。


 それを考えると、不思議な気持ちになった。


 秘密を共有しているのではない。


 秘密を預かっている。


 いや、預かるというより、秘密がここで休んでいる。


 そういう感じだった。


 悠真はノートに触れなかった。


 ただ、そこにあることを見ていた。


 白瀬アカリの言葉は、これからも外へ増えていく。

 記事になり、見出しになり、ファンの言葉になっていく。


 そのたびに、しらいさんの中には言わなかった言葉が残るかもしれない。


 でも、それを全部飲み込まなくてもいい。


 ここに置ける。


 言葉が帰る場所。


 悠真は、心の中でその言葉をもう一度繰り返した。


 そして、しらいさんのマグカップを棚に戻すとき、いつもより少しだけ静かに置いた。


 ことん。


 小さな音がした。


 青灰色のノートは、閉じたままそこにあった。

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