第91話 白瀬アカリの言葉が増えるほど、しらいさんの沈黙も増える
白瀬アカリのインタビュー記事は、また一つ増えた。
朝の通勤電車の中で、春日悠真はスマホの画面を見つめていた。
見出しには、柔らかい言葉が並んでいる。
『白瀬アカリが語る、忙しい日々の整え方』
『“戻れる場所”は特別なものではなく、日常の中にある』
『蜂蜜入りの温かい飲み物と、小さな深呼吸』
どれも悪い記事ではなかった。
むしろ、丁寧だった。
記者は白瀬アカリの言葉を乱暴に切り取らず、彼女が話したかったことをきちんと拾おうとしているように見えた。
写真の中の白瀬アカリも、穏やかに笑っていた。
白いブラウス。
淡い色のカーディガン。
強すぎない照明。
少し斜めを向いた横顔。
年末番組の光の中にいた白瀬アカリとは違う。
でも、部屋でミルクティーを飲むしらいさんとも違う。
きちんと整えられた、取材用の白瀬アカリ。
悠真は記事を読み進めた。
『最近は、忙しい日ほど小さな習慣を大事にするようにしています。温かいものを飲む時間だったり、少しだけ自分の気持ちを確認する時間だったり。大きな休みではなくても、そういう時間があると、また前に出られる気がします』
いい言葉だった。
嘘ではない。
白瀬アカリとして、ちゃんと選んだ言葉だ。
外に出していい自然体として、理沙さんと線を引いた上で話した言葉なのだろう。
けれど、悠真はその文章の奥に、書かれていない言葉を見ていた。
蜂蜜の話をした。
でも本当は、ミルクティーの湯気の話をしたかった。
昨夜、しらいさんが写真で送ってきた小さな付箋の一文。
あの文字が、記事の行間に薄く重なって見えた。
記事に書かれている白瀬アカリの言葉は増えている。
でも、そのぶん、書かれていないしらいさんの言葉も増えている。
悠真はスマホを伏せた。
電車はいつもの駅へ近づいていく。
窓の外では、朝の街が淡く流れていた。
◇
昼休み、三崎はまた同じ記事を読んでいた。
「春日、読んだ?」
「何を」
「白瀬アカリの新しいインタビュー」
「ああ。読んだ」
「今回、かなりいいな」
「そうだな」
三崎は弁当を開けながら、スマホをテーブルに置いた。
「蜂蜜の話、ちゃんと小さい習慣の話になってる。蜂蜜キャラに寄せすぎてない」
「お前、本当にそこ気にしてるな」
「気になるだろ。蜂蜜系女優とか言われるの、本人たぶん嫌だぞ」
悠真は思わず少し笑った。
「嫌そうだな」
「だろ。なんか、白瀬アカリってそういう雑なキャラ付けされると困った顔しそう」
「……するかもな」
「今、何か知ってる顔した」
「してない」
「した」
「面倒くさいファンだから、そう見えるだけだ」
「便利すぎる」
三崎は笑いながら唐揚げを口に入れた。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「でもさ」
「うん」
「最近の白瀬アカリの言葉って、かなり丁寧に選んでる感じがする」
悠真は箸を止めた。
「選んでる?」
「うん。前のインタビューみたいに、正解だけ出してる感じではない。ちゃんと本人の温度はある」
「……」
「でも、全部は言ってない感じもある」
胸の奥が静かに鳴った。
三崎は何も知らない。
しらいさんが取材で言わなかったことを、付箋に書いて送ってきたことも知らない。
スプーン右も、青灰色のコースターも、ことんの音も知らない。
それでも、外側から見ているだけで気づく。
全部は言っていない。
「どうしてそう思う」
悠真が聞くと、三崎は少し考えた。
「余白があるんだよな」
「余白」
「うん。言葉としてはちゃんとまとまってる。でも、たぶんこの人の中には、もっと具体的な何かがあるんだろうなって感じる」
悠真は黙って聞いた。
「たとえば、温かい飲み物って言ってるけど、ただ一般論で言ってる感じじゃない。実際にそういう時間を持ってるんだろうなって分かる。でも、具体的に誰とどこでとかは言わない」
「……そうだな」
「そこがいいんだけど、読む側は勝手に想像したくなる」
三崎はペットボトルのお茶を飲んだ。
「それがちょっと危ないなとも思う」
「危ない?」
「うん。余白が魅力だけど、余白って勝手に埋められるだろ。ファンとか記事とかに」
悠真は、しらいさんの付箋を思い出した。
ミルクティーの湯気。
それは外へ出ていない。
けれど、記事を読んだ誰かは、その余白に自分の想像を入れるかもしれない。
温かい部屋。
ひとりの夜。
誰かと過ごす時間。
家族。
恋人。
友人。
何でもあり得る。
そして、そのどれもが、しらいさんの本当とは少しずつ違う。
「三崎」
「何」
「今日も鋭いな」
「最近、褒められすぎて怖い」
「調子に乗るな」
「もう乗ったあと」
「早い」
三崎は笑った。
でも、悠真の胸にはその言葉が残った。
余白が魅力。
でも、勝手に埋められすぎると危ない。
これは、しらいさんに持って帰るべき言葉だった。
◇
午後、しらいさんからメッセージが届いた。
『記事、出た』
悠真はデスクでスマホを開く。
『読みました』
既読。
『どうだった?』
その問いに、悠真は少しだけ迷った。
よかった。
丁寧だった。
線引きできていた。
それは全部本当だ。
でも、きっと彼女が聞きたいのは、それだけではない。
『白瀬アカリとして、きちんと外に出せる言葉になっていたと思います』
送る。
既読。
少し間。
『春日くんには?』
短い問い。
悠真は、指を止めた。
近い人間として、どう見えたか。
それを聞かれている。
『記事の言葉は嘘ではないと思いました』
『でも、言わなかった言葉も見えました』
既読。
しばらく返事が来なかった。
やがて、
『見えた?』
と届く。
『はい』
『ミルクティーの湯気のことです』
既読。
長い沈黙。
仕事中のデスクなのに、悠真はスマホから目を離せなかった。
少しして、
『そこ見えるの、春日くんだけ』
と返ってきた。
悠真は胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
『三崎も記事を読んでいました』
送る。
既読。
『怖い』
『でも聞きたい』
『白瀬アカリの言葉には余白がある、と言っていました』
『その余白が魅力だけど、勝手に埋められすぎると危ないとも』
既読。
今度は、かなり長く返事がなかった。
しらいさんはきっと、画面の向こうでその言葉を受け止めている。
余白。
勝手に埋められる怖さ。
今の彼女にとって、それはかなり近い問題だ。
やがて、ぽつりと届いた。
『三崎さん、本当に外側の番人』
『はい』
『余白、怖い』
『はい』
『でも、余白がないと、また昔みたいになる』
悠真はその文を何度も読んだ。
昔みたいになる。
綺麗な答えだけで固めていた白瀬アカリ。
前向きで、丁寧で、感謝していて、弱音を吐かない人。
余白がなければ、安全かもしれない。
でも、息ができない。
『余白を全部なくす必要はないと思います』
悠真は送った。
『でも、内側に残す場所は必要だと思います』
既読。
『昨日の付箋みたいに?』
『はい』
『言わなかったことを、なかったことにしない場所です』
既読。
少しして、
『今日も、言わなかったことがある』
と届いた。
『聞きます』
悠真はすぐに送った。
既読。
『今日は声で言うと重くなるかも』
『なら、書いてください』
『送っても送らなくてもいいです』
『置くだけでも』
既読。
『うん』
『書く』
◇
その夜、しらいさんは部屋には来られなかった。
取材後の確認と、翌日の撮影準備があるらしい。
けれど、二十一時半ごろ、写真が届いた。
白いカップ。
右側のスプーン。
蜂蜜のスティック。
そして、小さな付箋。
昨日とは違う色の付箋だった。
薄い黄色。
そこに、手書きで一文。
『戻れる場所の話をした。でも本当は、ことんという音の話をしたかった。』
悠真は、画面を見つめたまま動けなかった。
ことん。
マグカップが青灰色のコースターに触れる音。
帰ってきた音。
行ってくる音。
泣く予約の夜にも、年末番組の前にも、何度も二人を支えてきた音。
それは、記事には出ない。
出してはいけない。
でも、なかったことにしてはいけない。
悠真は、ローテーブルの上のマグカップを見た。
今日は鳴らさないと決めていたわけではない。
でも、すぐに鳴らすのは少し違う気がした。
まずは、言葉を受け取る。
『読みました』
送る。
既読。
『置いていい?』
しらいさんから届く。
『はい』
『ここに置いてください』
既読。
少し間。
『置いた』
悠真は、その短い言葉に胸を締めつけられた。
彼女は、部屋に来ていない。
でも、言わなかった言葉をここに置いた。
それは新しい帰り方だった。
◇
通話は短かった。
しらいさんの声は、いつもより少し低かった。
「もしもし」
「春日くん」
「付箋、読みました」
「うん」
「ことんの音ですね」
「うん」
「記事には出せませんね」
「出せない」
「はい」
「でも、本当は話したかった」
「はい」
「戻れる場所って、私の中ではかなり音なんだよね」
しらいさんは、ゆっくり言った。
「場所そのものというより、音」
「はい」
「マグカップを置く音。帰ってきたって分かる音」
「はい」
「でも、そんなこと言ったら、絶対に誰のマグカップですかってなる」
「なりますね」
「だから言わなかった」
「はい」
「でも、言わなかったら、少し寂しかった」
悠真は静かに聞いた。
「だから、付箋に書いた」
「はい」
「書いたら、少しだけ戻ってきた」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
しらいさんは小さく笑った。
でも、その笑いは少しだけ弱かった。
「春日くん」
「はい」
「白瀬アカリの言葉が増えるほど、しらいさんの沈黙も増える気がする」
悠真は、胸の奥が痛くなるのを感じた。
それは、今日ずっと自分も感じていたことだった。
記事が増える。
取材が増える。
白瀬アカリの言葉が世の中に出る。
そのぶん、しらいさんが言えなかった言葉も積もっていく。
「沈黙の置き場所が必要ですね」
悠真は言った。
「沈黙の置き場所」
「はい」
「付箋だと、なくしそう」
「そうですね」
「スマホのメモだと、仕事っぽくなる」
「はい」
「ノートかな」
しらいさんがぽつりと言った。
悠真は、少しだけ目を上げた。
「ノート」
「うん。言わなかったことを書くノート」
「いいと思います」
「でも、重くならない?」
「書き方次第だと思います」
「日記みたいになると重い」
「一文だけでもいいんじゃないですか」
「今日、言わなかったことを一つだけ?」
「はい」
電話の向こうで、しらいさんが少し考えている気配がした。
「それ、いいかも」
「はい」
「でも、自分で買うと、仕事用にしちゃいそう」
「そうなんですか」
「たぶん。ちゃんと書かなきゃってなる」
「では」
悠真は少し考えた。
「俺が用意します」
しらいさんが黙った。
「……春日くんが?」
「はい」
「それ、交換ノートみたいにならない?」
「近いかもしれません」
「急に学生」
「すみません」
「謝らないで」
しらいさんは少し笑った。
「でも、春日くんが用意してくれたら、仕事用じゃなくなるかも」
「はい」
「何色?」
「青灰色ですかね」
「もう決まってる」
「思いつきです」
「嘘」
「少し決めていました」
「ずるい」
その声に、少しだけ明るさが戻った。
「青灰色のノート」
「はい」
「言わなかった言葉を置く場所」
「はい」
「春日くん、読んでいい?」
「しらいさんが読んでほしい分だけ」
「全部は?」
「読ませたいなら」
「読ませたくない日もある」
「その日は読まなくていいです」
「それ、いい」
彼女の声が少しだけ楽になった。
「外に出せなかった言葉を、春日くんに全部背負わせるんじゃなくて」
「はい」
「でも、一人で消さなくてもいい」
「はい」
「ノートに置く」
「そうです」
しらいさんは、小さく息を吐いた。
「それ、ほしい」
「用意します」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「お礼合戦」
「今日は引き分けで」
「うん」
◇
通話を切ったあと、悠真はしばらくローテーブルの前に座っていた。
付箋の写真が、スマホの画面に残っている。
『戻れる場所の話をした。でも本当は、ことんという音の話をしたかった。』
その一文は、たぶん外には出ない。
出すべきではない。
でも、出なかったからといって、存在しなかったことにはならない。
青灰色のノート。
悠真は頭の中で、それを想像した。
高価なものではなくていい。
大げさな鍵付きの日記帳でもない。
仕事用の手帳でもない。
小さくて、軽くて、鞄に入れても邪魔にならないもの。
そこに、しらいさんが一文だけ書く。
今日、言わなかったこと。
外に出せなかった言葉。
でも、なくしたくない言葉。
悠真はマグカップを手に取った。
少しだけ迷ってから、コースターに置く。
ことん。
今日は、鳴らした。
誰にも聞かせるためではない。
ただ、ここにあると確かめるために。
その音が静かな部屋に落ちたとき、悠真は思った。
白瀬アカリの言葉が増えていくなら。
しらいさんの沈黙にも、ちゃんと居場所を作ればいい。




