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第90話 外に出すものと、内側に残すもの

 取材前の控室には、いつもより紙の匂いがあった。


 白瀬アカリ――しらいさんは、テーブルの上に並べられた質問想定の紙を見ながら、紙コップの温かい飲み物に手を添えていた。


 今日は雑誌のロングインタビューが二本。

 それから、ウェブ媒体の撮影付き取材が一本。


 映画、テレビ特番、年末番組。

 それらの反響を受けた取材だった。


 以前なら、質問想定を見た時点で、だいたい答えを作ることができた。


 この作品に参加して感じたこと。

 役を通して学んだこと。

 支えてくれた共演者やスタッフへの感謝。

 今後挑戦したいこと。


 白瀬アカリとして、綺麗に答えられる言葉はいくらでもあった。


 けれど、最近は少し違う。


 質問の中に、踏み込んだものが増えている。


『年末番組での“帰る場所”を思わせる表情が話題になりましたが、ご自身にも戻れる場所はありますか?』


『最近、蜂蜜入りの温かい飲み物を習慣にしていると話されていましたが、いつ頃からですか?』


『白瀬さんにとって、自然体でいられる時間とは?』


『忙しい中で、素の自分を保つために大事にしていることはありますか?』


 どれも、悪い質問ではない。


 むしろ、好意的だ。

 白瀬アカリの言葉や芝居をちゃんと受け取って、もっと知りたいと思ってくれている質問だ。


 だからこそ、難しい。


 答えすぎると、しらいさんの場所が外へ出る。

 隠しすぎると、白瀬アカリの言葉が空っぽになる。


 その間を歩かなければならない。


「アカリ」


 ドアが開き、理沙さんが入ってきた。


 片手にはタブレット。

 もう片方には、今日の媒体ごとの進行表。


「喉は?」


「九割一分です」


「私の評価では九割」


「今日も厳しいですね」


「今日は喋る量が多いもの」


「はい」


 理沙さんはテーブルの向かいに座ると、質問想定の紙に目を落とした。


「見た?」


「はい」


「どう?」


「……難しいです」


「でしょうね」


 あっさり言われて、少しだけ笑いそうになる。


 理沙さんは紙を一枚持ち上げた。


「今日は、ここを確認しておくわ」


「はい」


「外に出していい自然体と、守るべき私生活の線引き」


 しらいさんは、紙コップを持つ指に少し力を入れた。


 昨夜、春日くんとも似た話をした。


 蜂蜜は外にもある。

 スプーン右は内側。

 ことんの音は、本当に必要なときだけ。

 部屋は来られる日に。

 河川敷はしばらく我慢。


 外へ出すものと、内側に残すもの。


 言葉にすれば簡単なのに、実際に取材の場へ立つと、その境目はすぐに揺らぐ。


「まず、蜂蜜」


 理沙さんが言った。


「蜂蜜」


「ええ。もう何度か出しているから、完全に避ける必要はないわ」


「はい」


「ただし、“蜂蜜が好きです”で話を終わらせないこと。そこだけ切り取られると、あなたが気にしている蜂蜜キャラに寄る」


「……はい」


「だから、蜂蜜そのものではなく、温かい飲み物を飲む時間、自分を整える小さな習慣として話す」


 しらいさんは頷いた。


 昨日、三崎さんが言ってくれたことと同じだった。


 白瀬アカリのよさは、蜂蜜が好きなことではなく、小さい習慣をちゃんと大事にしようとしているところ。


 あの言葉は、まだ胸に残っている。


「三崎さんも、同じようなことを言っていました」


 しらいさんが言うと、理沙さんはわずかに眉を上げた。


「春日さんの同僚の?」


「はい」


「また鋭いことを言ったのね」


「はい。蜂蜜そのものをキャラにされるのは違う気がするって」


「その方、外側の温度を見るにはかなり優秀ね」


「春日くんも、外側の番人って言っていました」


「いい表現ね」


 理沙さんは、紙に短く線を引いた。


「外側の番人がそう見ているなら、なおさら答え方は大事よ」


「はい」


「次に、“戻れる場所”について」


 その言葉で、しらいさんの背筋が少しだけ伸びた。


 戻れる場所。


 白瀬アカリの言葉として外へ出た。

 でも、根っこには春日くんの部屋がある。

 青灰色のコースターがある。

 マグカップの音がある。

 河川敷がある。


 けれど、それをそのまま外へ出すことはできない。


「これは、聞かれる可能性が高いわ」


「はい」


「答えていいのは、“仕事の中で自分を整えるために大事にしている時間や習慣がある”というところまで」


「はい」


「“誰かの部屋”は当然だめ」


「言いません」


「“特定の人からの言葉”もだめ」


「はい」


「“帰っておいで”も?」


 理沙さんが先に言う。


 しらいさんは少しだけ息を止めた。


「……だめです」


「ええ。あれは内側」


「はい」


「役作りの話としても、具体的には出さないほうがいい。出すなら、“役の人物に届いた言葉を、どう受け取るかを大事にしました”くらい」


「分かりました」


 理沙さんはタブレットに何かを入力した。


「それから、“自然体”」


「はい」


「最近、あなたに対して使われることが増えている言葉だけれど、これも少し危険」


「危険?」


「自然体という言葉は便利だけれど、見る側が“もっと素を見せてほしい”と解釈しやすい」


 しらいさんは、少しだけ目を伏せた。


 それは分かる気がした。


 自然体でいい。

 素の言葉がいい。

 生活感があるのがいい。


 そう言われるのは嬉しい。

 でも、もっと見せてと言われ続けると、自分の帰る場所まで見られてしまう気がする。


「白瀬アカリとしての自然体は、全部を見せることではない」


 理沙さんは言った。


「はい」


「あなたが無理に完璧な答えだけで固めないこと。少し呼吸すること。そこまでで十分」


「全部を話すことではない」


「そう」


 理沙さんはそこで一度、紙コップに視線を向けた。


「春日さんには、どこまで話しているの?」


 突然の質問だった。


 しらいさんは少し戸惑った。


「春日くんには……言わなかったことを話すことがあります」


「ええ」


「取材で話さなかったこととか」


「それでいいわ」


「いいんですか」


「外で言わなかった言葉を、どこかに置く場所は必要よ」


 その言葉に、胸の奥が少し揺れた。


「ただし」


 理沙さんは続ける。


「春日さんがすべての受け皿になると、彼もあなたも重くなる」


「……はい」


「だから、整理する場所を複数持ちなさい。私に話すこと、春日さんに話すこと、自分だけで持つこと、白瀬アカリとして外へ出すこと」


 しらいさんは、紙コップを見つめた。


 外へ出すもの。

 理沙さんに預けるもの。

 春日くんに置くもの。

 自分の中に残すもの。


 たしかに、全部を春日くんの部屋へ運ぶのは、きっといつか重くなる。


 帰る場所だからこそ、そこに何でも積み上げすぎてはいけないのかもしれない。


「難しいですね」


「難しいわよ」


「最近、そればっかりです」


「仕事も生活も、簡単な段階は過ぎたの」


 理沙さんの言い方は淡々としている。


 でも、冷たくはなかった。


「でも、できない話ではないわ」


「はい」


「今のあなたは、昔より線を引ける」


「昔より?」


「以前は、全部隠すか、全部我慢するかだったでしょう」


 しらいさんは、すぐには返事ができなかった。


 その通りだった。


 弱音を吐く前に、自分でできることを探す。

 ちゃんとしている白瀬アカリでいる。

 前向きな答えを出す。


 昔の自分は、外へ出す言葉を守るために、内側を見ないようにしていた気がする。


 でも今は違う。


 内側を守るために、外へ出す言葉を選びたい。


「理沙さん」


「何?」


「私、外に出す言葉を、前より怖がっている気がします」


「そうね」


「それは悪いことですか」


「悪くないわ」


 理沙さんは即答した。


「怖がらずに何でも出すより、ずっといい」


「はい」


「ただ、怖がりすぎて全部閉じると、白瀬アカリの言葉がまた硬くなる」


「……はい」


「だから、選ぶの」


 その言葉は、すとんと胸に落ちた。


 隠すのでも、さらけ出すのでもない。


 選ぶ。


「選ぶんですね」


「ええ」


「外に出すものと、内側に残すものを」


「そう」


 しらいさんは、ゆっくり頷いた。


「今日、それでやってみます」


「ええ」


「蜂蜜は、小さい習慣として」


「はい」


「戻れる場所は、具体的には言わない」


「はい」


「自然体は、全部を見せることではない」


「はい」


「帰っておいでは、内側」


「その通り」


 理沙さんは少しだけ表情を緩めた。


「そして、取材が終わったら、言わなかったことを抱え込まないこと」


「春日くんに?」


「必要なら。でも全部でなくていい」


「はい」


「私にでもいい。自分のメモでもいい」


「メモ」


 その言葉に、しらいさんは少しだけ引っかかった。


 メモ。


 外へ出さなかった言葉を、どこかに置く。


 春日くんの部屋だけではなく、自分でも持てる場所。


 まだ形にはなっていないが、何か必要な気がした。


    ◇


 取材は、想定通りだった。


 どの媒体も好意的だった。

 笑顔も多く、空気も柔らかい。


 けれど、やはり踏み込んだ質問は来た。


「最近、温かい飲み物に蜂蜜を入れる習慣があるとお話しされていましたよね。かなり反響がありましたが、ご自身ではどう感じていますか?」


 しらいさんは、少しだけ息を整えた。


 蜂蜜そのものへ寄りすぎない。


「まさかそんなに反応していただけるとは思っていなかったので、少し驚いています」


 笑う。


 でも、笑いすぎない。


「ただ、蜂蜜そのものというより、忙しい日の終わりに温かいものを飲んで、少しだけ自分を整える時間が大事なのかなと思っています。私にとっては、その小さな習慣の一つが蜂蜜だったという感じです」


 言えた。


 蜂蜜は外に出した。

 でも、スプーン右は出さなかった。

 春日くんのミルクティーも出さなかった。


 外に出すものと、内側に残すもの。


 選べた気がした。


 次の質問。


「年末番組での“帰る場所”を思わせる表情も話題になりました。白瀬さんにとって、戻れる場所とはどんなものですか?」


 胸が少し鳴った。


 春日くんの部屋。

 青灰色のコースター。

 マグカップの音。

 河川敷。


 一瞬で浮かぶ。


 でも、そのまま出さない。


「私にとっては、特定の場所というより、少し呼吸を整えられる時間や、自分に戻れる感覚に近いかもしれません」


 記者が頷く。


「誰かと話すこともあれば、一人で温かい飲み物を飲むこともあります。大きなものではなくて、日々の中にある小さな戻り方を大事にしたいと思うようになりました」


 嘘ではない。


 でも、全部ではない。


 それでいい。


 しらいさんは、少しだけそう思えた。


    ◇


 取材が終わったあと、控室で理沙さんが短く言った。


「悪くなかったわ」


「本当ですか」


「ええ。蜂蜜に寄りすぎなかった。戻れる場所も、具体的にしすぎていない」


「はい」


「ただ、“誰かと話すこともあれば”のところで少し顔が動いた」


「……出ましたか」


「出たわ」


「春日くんを思い出しました」


「でしょうね」


「すみません」


「謝るほどではない。編集で自然に見える範囲」


 理沙さんはタブレットを閉じた。


「でも、自覚しておきなさい」


「はい」


「外に出す言葉は選べている。次は、顔も選ぶこと」


「顔も」


「ええ。言葉より顔のほうが漏れることがある」


 それは、かなり難しい。


 でも、今日の取材で分かった。


 言葉だけでなく、表情にも境界線がある。


「はい」


「それと」


 理沙さんは少しだけ声を柔らかくした。


「今日は、言わなかったことが多いはずよ」


「……はい」


「抱えすぎないように」


「はい」


「春日さんに全部投げる必要はない。でも、置き場は作りなさい」


 置き場。


 その言葉がまた、胸に残った。


    ◇


 夜、しらいさんから悠真にメッセージが届いた。


『取材終わった』


 悠真はすぐに返信する。


『おつかれさまでした』


『どうでしたか』


 既読。


『外に出すものと、内側に残すもの』


『少し選べた気がする』


 悠真は、ローテーブルの前に座っていた。


 青灰色のコースターの上には、しらいさんのマグカップ。

 その横に、右側へ置いたスプーン。


『よかったです』


『何を外に出しましたか』


 既読。


『蜂蜜は、小さい習慣として』


『戻れる場所は、具体的には言わなかった』


『帰っておいでは、内側』


 悠真は、その三つを見て、静かに頷いた。


『とてもいいと思います』


 送る。


 既読。


『でも、言わなかったことが多かった』


『はい』


『言わなかったことが、少し残ってる』


『置きに来ますか』


 送ってから、少し早かったかもしれないと思った。


 けれど、既読のあとで返ってきたのは、


『今日は行けない』


 だった。


『でも、置きたい』


 悠真は少し考えた。


 部屋に来られない。

 でも、言わなかったことを置きたい。


 電話で話すこともできる。

 けれど、声にすると重くなる言葉もある。


『メモにしてみますか』


 送る。


 既読。


『メモ?』


『取材で言わなかったことを、短く書いておく』


『誰に見せるためでもなく』


『でも、なかったことにしないために』


 既読。


 しばらく返事が来なかった。


 やがて、


『それ、いいかも』


 と届く。


『今日、書いてみる』


 悠真は返信した。


『書いたら、無理に送らなくていいです』


『しらいさんの中に置いておくだけでも』


 既読。


『でも、少しだけ見せたいかも』


『見せたい分だけで』


『うん』


    ◇


 その夜遅く、しらいさんから一枚の写真が届いた。


 ノートではない。

 ホテルか自宅か分からないテーブルの上に置かれた、付箋のような小さな紙。


 そこに、手書きで一文だけ書かれていた。


『蜂蜜の話をした。でも本当は、ミルクティーの湯気の話をしたかった。』


 悠真は、その文字をしばらく見つめた。


 外に出なかった言葉。

 でも、なかったことにならなかった言葉。


 写真の端には、白いカップと、右側のスプーンが少しだけ写っている。


『読みました』


 悠真は送った。


 少し迷ってから、続ける。


『ここに置いていいです』


 既読。


 しばらくして、


『うん』


 とだけ返ってきた。


 さらに少しして、


『少し楽になった』


 悠真は、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。


『よかったです』


『出た』


『出ます』


 短いやり取り。


 でも、その小さな紙は、次の何かの始まりのように見えた。


 言わなかった言葉を置く場所。


 外に出すものと、内側に残すものを選んだあと、それでも残ってしまう言葉を、なかったことにしないための場所。


 悠真はローテーブルの上のマグカップを見た。


 今夜は、ことんの音は鳴らさなかった。


 でも、彼女の言葉は確かにここに届いた。

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