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第89話 三崎、蜂蜜キャラ化を本気で心配する

 昼休みの三崎は、いつもより眉間にしわを寄せていた。


 その顔を見た瞬間、春日悠真は少し嫌な予感がした。


 三崎が昼休みにスマホを見ながら難しい顔をしているときは、だいたい白瀬アカリの記事を読んでいる。

 そして最近、その感想が妙に鋭い。


 ありがたい。

 かなりありがたい。


 けれど、近すぎるところを何も知らずに突いてくるので、心臓にはあまりよくない。


「春日」


「何」


「白瀬アカリ、蜂蜜キャラにされかけてる」


 悠真は弁当の蓋を開ける手を止めた。


「蜂蜜キャラ」


「うん」


「何だそれは」


「俺も何だそれはと思ってる」


 三崎はスマホをこちらへ向けた。


 画面には、SNSの反応をまとめた記事が表示されている。

 そこには、白瀬アカリの最近のインタビューやテレビでの発言を受けて、ファンが蜂蜜入り紅茶や蜂蜜入りホットミルクを真似している投稿が並んでいた。


 それだけなら、微笑ましい。


 けれど、一部の見出しが少し軽すぎた。


『白瀬アカリ=蜂蜜の女神?』

『疲れた夜はアカリ流蜂蜜ドリンク』

『蜂蜜系女優・白瀬アカリの癒やし力』

『白瀬アカリ、次は蜂蜜CM待ったなし?』


 悠真は、思わず何も言えなくなった。


 蜂蜜の女神。


 蜂蜜系女優。


 本人が聞いたら、たぶんかなり微妙な顔をする。

 いや、確実にする。


 少し恥ずかしそうにして、それから「蜂蜜系は嫌」と言う。

 その顔まで簡単に想像できた。


「……盛り上がってるな」


 悠真がようやく言うと、三崎は深く頷いた。


「盛り上がってる。悪意はない。むしろ好意的」


「そうだな」


「でも、ちょっと違わないか?」


 その言葉に、悠真は顔を上げた。


 三崎はいつもの軽い調子ではなく、真面目に画面を見ていた。


「違う?」


「白瀬アカリが言ってた蜂蜜ってさ、たぶんキャラ付けのためじゃないだろ」


「……そうだな」


「忙しい中で、自分を整える小さい習慣って話だったじゃん」


「ああ」


「それが、蜂蜜かわいい、蜂蜜系女優、みたいになるとさ。いや、分かるよ。ファンが楽しく言ってるだけなのは分かる」


 三崎はカフェラテを一口飲み、少しだけ口を尖らせた。


「でも、本人が少し休むために持ってるものを、外から勝手にマスコット化するのは、ちょっと違う気がする」


 悠真は、箸を持ったまま黙った。


 その言葉は、かなり深く刺さった。


 本人が少し休むために持っているもの。


 まさにそうだ。


 蜂蜜入りのミルクティー。

 夜の部屋。

 青灰色のコースター。

 スプーン右。


 白瀬アカリが外で語った「蜂蜜」は、そこまで具体的なものではない。

 それでも、根っこにはしらいさんの休む場所がある。


 それが外で軽く扱われることに、悠真は少しだけざわついていた。


 でも、その感覚を三崎が言葉にした。


「お前、本当に鋭くなったな」


 悠真が言うと、三崎は少しだけ得意げな顔をした。


「だろ」


「調子に乗るな」


「もう乗ってる」


「早いな」


「ファン仲間だからな」


 三崎はそう言って笑ったが、すぐに画面へ視線を戻した。


「でも、これ難しいよな」


「何が」


「ファンが真似するのは嬉しいことだろ。白瀬アカリの言葉が届いてるってことだし」


「そうだな」


「俺も昨日、蜂蜜入りの紅茶飲んだし」


「飲んだのか」


「飲んだ」


「お前もか」


「うまかった」


「感想が雑だな」


「蜂蜜はうまい」


「そこは否定しない」


 三崎は少し笑った。


「でも、真似するのと、本人を蜂蜜キャラにするのは違う気がする」


「……」


「白瀬アカリのよさって、蜂蜜が好きなことじゃなくて、そういう小さい習慣をちゃんと大事にしようとしてるところだと思うんだよな」


 悠真は、胸の奥で何かが静かに鳴るのを感じた。


 この感想は、持って帰らなければならない。


 しらいさんに。


 彼女はきっと、蜂蜜キャラ化を恥ずかしがる。

 少し怖がる。

 でも、三崎のこの言葉を聞いたら、少し救われるかもしれない。


「三崎」


「何」


「その感想、かなりいい」


「今日も褒めるな」


「今日はかなり褒める」


「かなり出た」


「出る」


 三崎は少し照れたように唐揚げを口へ運んだ。


「まあ、俺が言ったところで本人には届かないけどな」


 悠真は、何も言わなかった。


 届く。


 言える範囲で、ちゃんと持って帰れば。


 もちろん、三崎は知らない。

 自分の感想が白瀬アカリ本人に届くなんて、思ってもいない。


 だからこそ、その言葉は外側からの正直なものとして価値があった。


    ◇


 午後、悠真は仕事の合間にしらいさんへメッセージを送った。


『三崎が蜂蜜キャラ化を心配していました』


 送ってから、少しだけ文章が直球すぎたかと思った。


 既読はすぐについた。


 そして、すぐに返ってくる。


『蜂蜜キャラ化』


 それだけ。


 画面の向こうで固まっている気配がした。


『嫌な言い方でしたか』


 悠真が送ると、少し間を置いて返事が来た。


『嫌というか』


『恥ずかしい』


『かなり』


 悠真は思わず口元を押さえた。


『かなりですか』


『かなり』


『蜂蜜系女優は嫌』


 やはり。


 予想通りの返事だった。


『三崎も、そこを心配していました』


『何て?』


 悠真は、昼の三崎の言葉を思い出しながら、できるだけそのまま送った。


『白瀬アカリが言っていた蜂蜜は、キャラ付けのためではないだろう、と』


『忙しい中で、自分を整える小さい習慣として大事にしているものなのに』


『外から勝手にマスコット化するのは少し違う気がする、と』


 既読。


 長い沈黙。


 仕事中のデスクで、悠真はしばらくスマホを伏せられなかった。


 やがて、返信が来た。


『三崎さん』


 それだけ。


 また少し間が空く。


『外側の番人すぎる』


 悠真は静かに笑った。


『本当にそうですね』


『かなり救われた』


『蜂蜜で遊ばれるのが嫌なわけじゃない』


『でも、そこだけキャラみたいにされると、ちょっと置いていかれる感じがあった』


『はい』


『三崎さん、そこ分かってくれたんだ』


 悠真は、画面を見ながら小さく頷いた。


『はい』


『白瀬アカリのよさは、蜂蜜が好きなことではなく』


『小さい習慣をちゃんと大事にしようとしているところだと思う、とも言っていました』


 既読。


 今度はさらに長い沈黙。


 そして、


『それ、今すごくほしかった』


 と届いた。


 悠真は胸の奥が温かくなるのを感じた。


『持って帰れてよかったです』


『春日くん』


『はい』


『三崎さんに直接お礼言えないの、少しもどかしい』


『言ったら大変です』


『うん』


『調子に乗る?』


『かなり』


『じゃあ心の中で』


『それがいいです』


 少しだけ軽い空気が戻る。


 けれど、しらいさんは続けて送ってきた。


『今日、取材でまた蜂蜜聞かれた』


『どう答えましたか』


『温かい飲み物に少し入れると、気持ちが整う気がしますって』


『いいと思います』


『でも、蜂蜜そのものより、その時間が大事ですって足した』


 悠真は、その文を見て静かに息を吐いた。


『とてもいいです』


『白瀬アカリとして、ちゃんと線を引けていると思います』


 既読。


『春日くん』


『はい』


『仕事中にそれはだめ』


『すみません』


『謝るところではある』


『でも、ありがとう』


    ◇


 その日の夜も、しらいさんは部屋には来られなかった。


 ただ、昨日より少し早めに写真が届いた。


 白いカップ。

 蜂蜜のスティック。

 右側のスプーン。


 それから、今日はもう一つ。


 カップの下に、青灰色に近い色の紙ナプキンが敷かれていた。


『スプーン右』


『今日は少し青灰色』


 悠真は、画面を見て微笑んだ。


 外では蜂蜜が広がっている。

 でも、内側ではスプーン右と青灰色が静かに増えていく。


 彼女は彼女なりに、外に出すものと内側に残すものを分けようとしているのだ。


 悠真もすぐに写真を撮った。


 自分のカップ。

 右側のスプーン。

 青灰色のコースター。

 その上のしらいさんのマグカップ。


『こちらもスプーン右』


『青灰色もあります』


 送る。


 既読。


『見た』


『帰った』


 悠真は、ゆっくり返信した。


『おかえりなさい』


 既読。


『ただいま』


 短いやり取り。


 でも、今日はそのあとに通話がつながった。


 しらいさんの声は少し疲れていたが、どこか落ち着いていた。


「もしもし」


「おつかれさまです」


「春日くんも」


「青灰色、増えましたね」


「うん。ちょうど紙ナプキンがあった」


「狙いました?」


「少し」


「いいですね」


「うん。蜂蜜は外にもあるけど、青灰色とスプーン右はまだこっち」


「はい」


「でも、あんまり増やしすぎると複雑になる」


「そうですね」


「合図だらけになったら、逆に疲れる」


「たしかに」


 しらいさんは小さく笑った。


「だから、基本はスプーン右」


「はい」


「青灰色は、あったら嬉しいくらい」


「はい」


「蜂蜜は、外にもある」


「はい」


「ことんの音は、本当に必要なときだけ」


「はい」


「部屋は、来られる日に」


「はい」


「河川敷は、しばらく我慢」


 その言葉だけ、少し寂しそうだった。


 悠真も少し胸が痛む。


「河川敷は逃げません」


「うん」


「いつかまた行きましょう」


「うん」


「本人じゃない地味なお姉さんとして」


 電話の向こうで、しらいさんが少し笑った。


「それ、まだ使える?」


「使えます」


「よかった」


「便利なので」


「春日くんも便利って言うようになった」


「移りました」


「うん」


    ◇


 少し沈黙があった。


 電話越しに、しらいさんが温かい飲み物を飲む気配がする。


「春日くん」


「はい」


「三崎さんの言葉、今日ずっと残ってた」


「蜂蜜の?」


「うん。蜂蜜が好きなことじゃなくて、小さい習慣を大事にしようとしてるところがいいって」


「はい」


「それなら、外に出してもいいのかもって思えた」


「はい」


「蜂蜜そのものをキャラにされるのは、ちょっと恥ずかしいし怖い」


「はい」


「でも、小さい習慣を大事にする白瀬アカリなら、外に出してもいい」


「いいと思います」


「うん」


「それは、しらいさんがちゃんと選んだ言葉なので」


 電話の向こうで、少しだけ息が止まった気配がした。


「春日くん」


「はい」


「今日、ちょっとずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、それもほしかった」


「言えてよかったです」


「出た」


「出ます」


 いつものやり取りに戻る。


 それだけで、声の疲れが少し和らいだように聞こえた。


「外に出していい自然体と、守る私生活」


 しらいさんがぽつりと言った。


「はい」


「それ、これからすごく大事になりそう」


「そうですね」


「理沙さんにも相談してる」


「はい」


「春日くんにも相談する」


「はい」


「三崎さんの感想も、たまにほしい」


「持って帰ります」


「うん」


「でも、三崎には言えません」


「言わないで。調子に乗るから」


「そこは完全に一致ですね」


 二人で笑った。


    ◇


 通話の終わり際、しらいさんは少しだけ声を落とした。


「今日、ことんの音は我慢できそう」


「はい」


「スプーン右で足りた」


「すごいです」


「本当に?」


「本当に」


「じゃあ今日は、ことんなし」


「分かりました」


「でも、寝る前にマグカップ写真だけ見たい」


「送ります」


「ありがとう」


 通話を切ったあと、悠真はローテーブルの写真を撮った。


 しらいさんのマグカップ。

 青灰色のコースター。

 右側のスプーン。

 蜂蜜の瓶。


 音は鳴らさない。


 ただ、そこにあることだけを写す。


『音なしです』


『でも、あります』


 送信。


 既読。


『見た』


『音なしでも帰った』


 悠真は、静かに返信した。


『おかえりなさい』


 既読。


『ただいま』


 その文字を見て、悠真は少しだけ目を閉じた。


 蜂蜜キャラ化。

 外へ広がる自然体。

 守るべき私生活。

 スプーン右。

 音なしのマグカップ。


 少しずつ、二人は線を引く練習をしている。


 近づくための線。

 守るための線。

 そして、帰ってくるための線。


 白瀬アカリが遠くへ行くほど、しらいさんが戻る道を増やす。


 今日も、その道がひとつ整った気がした。

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